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2018.05.20 (Sun)

泉光院の足跡 307 多武峰

八日 朝少々雨。吉野立、辰の刻。細越と云ふ峠を越ゆる・多武の峰談峰大明神へ詣納經す。本社南向、美甚せる宮也。大織冠鎌足の御廟也。女人法界の地也。諸堂諸社多し、寺中多數あり、奇麗の地也。夕方三輪金屋へ歸り茂平宅へ宿す。

大峯山寺から下るとき、奥千本・上千本・中千本・下千本と、一目千本の櫻木の下を通ります。この吉野の地にこんなにたくさんの櫻の木が植えられたのはひとえに役小角のおかげです。彼は山上ヶ岳で感得した藏王權現を櫻の木に刻んだという伝承から、神木として保護され、修行者たちばかりではなく、ここを訪れた都の皇族・貴族たちも植樹をしたり獻木をしたりして、三萬本を超えるという吉野の櫻があるのです。
吉野山櫻2
春になると、麓の方から順に標高差によって咲き登っていきます。

左は中千本あたりから上千本あたりを眺めた満開の櫻。

…これはこれはとばかり花の吉野山…

という歌があったような気がする。


平安時代には金峯山詣でが流行して、白河上皇や藤原道長を始め多くの人が參詣に来ました。
また金峯山寺が擁した多数の僧兵を頼りに、兄源頼朝に追われた義経は、愛人の静御前と一緒にここへ逃げ込みましたし、後醍醐天皇もやはりここへ逃げ込んで、南朝を開いたのだが京都へ戻ることなく南朝は亡んでしまった。
西行庵西行像吉野水分神社
歌人西行はこの地に隠棲して、その場所はいまでも[西行庵]として残っていますし、豊臣秀吉は徳川家康や前田利家など多くの家臣を引き連れて豪華な花見を催しましたし、松尾芭蕉も西行を慕ってここへやって来ました。

いろんな事を順序もなく書きつらねましたが、吉野山はこのように昔も今も大勢の人を惹きつけました。

右は西行と西行庵です。

泉光院は櫻井へ向かって下山しました。途中には談山神社、聖林寺、そして阿倍文殊院などがあります。
談山神社森
談山(たんざん)神社は大化改新の中心人物、藤原鎌足を祀る宮です。
中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我氏から国政を奪還するために、645年、多武峰(とうのみね)の山中で談合をしたのでした。それがこの山。
談山神社の名前もこの時の談合をした山だから付けられた名前です。
クーデターは成功し、のちに天智・天武大王の時代となります。この時の功績によって天智大王は、中臣鎌足に「藤原」の姓と「大織冠」という冠位を与えたのでした。大織冠という冠位は、大化改新の時に決めた冠位十二階の最高の位であり、しかもこの冠位をもらったのは藤原鎌足一人だけしか居ないので、「大織冠」といえば鎌足のことをさすのです。以後、藤原氏一族は、源・平・藤・橘四姓の貴族のトップとなり、平安時代には天皇家と密接な縁戚関係を結んで権勢を振るうようになりました。
談山神社本堂
談山神社十三重塔下





談山神社の本殿と十三重塔。
こんな山中に泉光院も書いているように、
…美甚せる宮也。大織冠鎌足の御廟也。女人法界の地也。諸堂多し寺中多數あり、奇麗の地也。…です。この神社も、神社と名乗るようになったのは明治になってからで、江戸時代までは大明神、神佛混淆でした。
本堂の中に入ってウロウロ見ていたら、「藤原氏姓一覧」というような紙が置いてあって、藤原氏の末裔一族の姓が記載されているのです。全部で975の姓が載っているその一覧表。実にたくさんの姓が記載されているので、ひょっとしてワタクシの姓も?と思って捜したのですが、ワタクシの住所録の7割の姓は載っているのにワタクシの姓はありませんでした。それにしても藤原氏の末裔を名乗る姓が1000近くもあるというのは驚きでした。

談山神社も中世から近世にかけてはやはり兵力を蓄えていて、いまでも境内の一部には殆ど城壁と言ってもいいような石垣があって、中世の山城の一面も見せていました。
談山神社東大門談山神社下乗2

東大門です。はるか昔の佛寺の名残のような門ですから、神社としてはこんな門は不要!という事でしょうか。
談山神社石佛
門の近くは石垣というより「城壁」ですね、これは。
談山神社下乗1

下乘と彫った石があります。石佛も立っています談山神社へ来たら是非このような場所もしっかり見ておきましょう。


談山神社から櫻井へ下りる途中に聖林寺があります。聖林寺十一面観音

泉光院はこのすぐ脇を通っている筈なのだが立ち寄った気配はありません。というのも、聖林寺の十一面觀音がいまのように有名になったのは明治になってからのことで、明治政府が神佛分離・廃佛棄釋であったため、、もともとは大神(おおみわ)神社の神宮寺である大御輪寺(だいごりんじ)にあったこの佛像が廃棄されるという運命だったのを見かねた聖林寺の住職が引き取ってここに納め、フェノロサがこの佛像を見て激賞し、和辻哲郎が驥尾に付して賞めて、さらに國寶になったので急に有名になりました。
いまは本堂から奥に長い廊下を登りつめた所にある宝物館のガラスケースの中に入っているので、写真に写すと天井の蛍光灯がガラスに反射してまともには写りません。
右の写真は「飛鳥園」という有名な佛像写真を写している小川光三氏の写真です。著作権については、このブログでワタクシはお金を得る事もなく、このブログを見て下さる方もごくわずかであろうと思いますのでとりあえずは無視しておきます。
飛鳥園の写真は、ワタクシが初めて奈良へ行った時から、ワタクシの定宿である日吉館の3軒ほど右隣(春日神社寄り)に飛鳥園のお店があってウインドウに飾ってあったのをいろいろ見ているし、土門拳の佛像写真よりもよっぽど親しみがあるので、ワタクシがこのブログに入れている奈良の佛像で非常によく出来ているのの多くは飛鳥園撮影のものであることをここに白状しておきます。聖林寺屋根

右、遠くに見えている屋根が聖林寺の屋根。
聖林寺山門

左が山門。

十一面觀音立像の横顔(左)と、手先(右)です。
聖林寺十一面観音横顔
聖林寺十一面観音右手先

廃棄処分にならずにこうしてご尊顔を拝することが出来るのはありがたいことです。



九日 晴天。草臥れたれば休息滯在。金剛袋仕立てする。近所より心太(こころぶと)贈らる。

三輪村金屋の茂平サン宅で泊まっていて、一日のんびりした。
金剛袋って金剛杖を入れる袋だろうか?心太
季節は新暦に治せば7月11日。晴天であればそろそろ暑い。ご近所の人がトコロテンを持ってきてくれた。暑気払いには格好の食べ物です。一人で食べていてもしょうがないもので、こういうものはやっぱりみんなで輪になって、泉光院の回國修行中のさまざまな出来事を面白可笑しく聞くのがいい。江戸時代でもトコロテンを食べていたのだ。
ワタクシの子供の時、金澤ではトコロテンのことを「こころぶと」と言っていたし、文字で書くと先は「心太」と書いていた。心太もこころぶともトコロテンも語源ははっきりしませんでした。
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2018.05.13 (Sun)

泉光院の足跡 306 吉野山

室生村と山一つ隔てた隣はもう伊賀國です。いまも紅葉の名所である赤目四十八滝の方へ行きます。

三日 晴天。今日は先祖正忌日也回向し呉れ候様にと二軒より申すに付行きて讀經す。夫故に巳の刻出立伊賀國アメ嶽と云ふに赴く。室生山より三里、瀧口村と云ふにて茶漬施行に逢ふ。夫より大いなる峠を越へ、赤目瀧村赤目不動と云ふに詣納經す。此赤目瀧と云ふを俗呼してアメタキと云ふ。寺一ヶ寺、本堂三間四面、南向、村は人家八間計り、札所なれども諸人參詣する所にあらず、因て道も一切知れざる所也。夫より谷を一里下り柏原村油屋半兵衛と云ふ宅に宿す。
赤目四十八滝不動滝
四十八滝というのは「たくさんある」という意味で、実際はもっとたくさんあるのだそうです。
右はその中でも一番大きな「不動瀧」。
赤目不動というのが延寿院というお寺に祀ってあって、そこへ行ったのです。これも役行者ゆかりのお不動さんらしい。

五色不動というのがあって、目白・目黒・目赤・目青・目黄のお不動さんです。

江戸にはこの五色不動が全部揃っているのだが、地名として残るほど有名なのは目白と目黒。
この五色は、青春・朱夏・白秋・玄(=黒)冬と季節にあてはめたり、青龍・朱雀・白虎・玄武(武=亀)とか、青=東、赤=南、白=西、黒=北、黄色は中央、というほういにもあてはめたりします。

泉光院の時代には赤目四十八滝はいま程有名な観光地ではなかったようで、道が判りにくかったようです。それからもとの伊勢街道、いまの国道165へ戻って吉野山を目指します。

四日 晴天。柏原村立、辰の刻。伊勢街道片賀村と云ふに出で、元の灰原(榛原でしょう)へ歸り、宇田村の方へ赴き、松本屋と云ふに初夜着一宿す。
五日 晴天。宇田村立、辰の上刻。吉野山辻村氏宅着、晝過藏王へ詣納經す。本堂南向、十二間四面、諸人知る處なれば記さず。
金峯山寺蔵王堂遠望
櫻の名所吉野山は修験道の拠点。泉光院は何度も来ています。辻村氏宅は定宿なんでしょう。
藏王というのは金峯山寺。
今だと近鉄吉野駅で下車して(ロープウエイには乗らないで)七曲がり坂を登りつめるとそのあたりが「下千本」。
黒門をくぐって10分程、茶店や土産物店の並ぶ道を歩けば仁王門と蔵王堂です。
吉野山桜1
本堂である蔵王堂は、高さ34m、横幅・奥行きとも36m。奈良東大寺に次ぐ大きな建造物です。
いま建っているこの建物は、天正九年(1592)に豊臣家の寄進で建てられたと言います。いいこともしたようだ。

8世紀初め頃だろうか、役行者はこの吉野の山で蔵王権現を感得してその像を刻み、山上ヶ岳(1719m)の山頂に大峯山寺を建て、そこはちょっと遠いので、吉野山に金峯山寺を建てた。以後、ここは山岳修行、修験道の霊地となります。

10世紀から11世紀にかけて、山岳・海洋信仰が基底にあって、外国から伝来した新しい宗教である佛教、なかでも「真言秘密」の教えである密教や、中国の古い宗教から発展した道教・陰陽道といった多様な信仰を取り入れ、神佛習合思想で成立したのが修験道であり、修行者は修行に際しては山を駈け野に伏すので「山伏」と言われた。
大峯曼荼羅圖

金剛峯寺蔵王堂秘佛金剛藏王権現








蔵王堂の本尊、藏王権現です。
とても怖い顔をした像が三体。釋迦・觀音・彌勒の三佛が一つになって、權(仮の姿で)現れる、というのが蔵王権現です。

そして右は大峯曼荼羅圖。
藏王権現を中心に、役行者や吉野の諸神を配列したものです。
一番上の方の大峯には寶珠があってそれを八代童子が取り囲み、右に天川辨財天、左に川上地蔵を配してあります。
中央の藏王権現を囲む吉野の神々は、上段右・左に、金精明神と牛頭天王、その下は役行者と八王子神、その下は子守明神と勝手明神、一番下の段の右・左に佐抛(さなげ)明神と天満明神(一番下中央は不明)、といった具合に吉野の神様が勢揃いしています。
大峯山全図

左は大峯山全図。

下右から始まる吉野側から蛇行する登山道は、修験道の厳しい修行のための難所をいくつか経てから山上ヶ岳の大峯山寺へ至る道程が描かれています。



大峯覗き修行
右が[西の覗き]と言われる行場。
大峯山絶壁




こんな絶壁の一番高い所から身をのりだして、呪文を唱えながら心身を鍛えるのです。
後の人が命綱を持って支えてくれている事は判っていてもこれはとても怖いことらしいです。

15歳になった男の子はこれが通過儀礼でした。 先達が横にいて、…親の言うことを聞くか?…、…ハイ、キキマス、キキマス、!…とか、大人だったら、…浮気をしちゃいかんぞ!…、…ハイ、モウイタシマセン、カンニンシテクダサイ!…というようなことを真剣に叫んでいるのです。

六日 晝時小雨。吉野立、辰の刻。洞川の方へ赴き、鳥栖鳳閣寺と云ふに詣で納經す。當山は中興大峰開山理源大師の寺、廟所は寺より辰巳に當り山中三丁の山上にあり、大師堂寺の前にあり、自作の尊像を安置す。庭に柴燈、護摩壇あり。夫より洞川龍泉寺へ詣納經す。本尊彌勒菩薩、女人法界の地也。洞川定宿藤七方へ行く、平四郎は天の川へ詣づ。先例の通り蕎麦切馳走あり。謝禮出し候へども日本回國とあれば一錢も不請。
大峰女人結界石柱
吉野の、奥の千本からさらに奥の方へと行きます。
右の方に「從是女人結界」という石碑が見えています。この向こうへは女性の入山を禁じているのです。

ここから下へ降りると洞川(どろがわ)で、そこから南の方、尾根道が「奥駈道」。山伏の世界になります。
吉野と、熊野三山を結ぶ大峯奥駈道は修験者にとって必須・最高の行です。泉光院もここへ来て、今までの峯入り修行のことを回想しています。

七日 曇天。洞川立、辰の上刻。山上へ登る。納經は宿坊小松院也。當山は秘所故委細は記さず。小松院に坊入す。山上本堂は十間に八間、藏王權現神變菩薩を安置す。奥の院小笹は未だ山の口あかざるを以て登らず。今日は神變菩薩正忌日に付登山す。山中宿坊より衆僧法會あり、其時に登山す。爰に不思議成る事あり、予登山は此間にて卅六度也。是れは大越家法印の滿數互具の六根にて六々三十六度の數也。然る處今度登山すれば三十七度也。是又不思議に都合せり、三十七尊の數也.熊野詣での數は奥駈十七度の處今度を合せて十八界也。旁々珍ら敷事と我ながら感嘆す。奉納一句、
   涼しさや無漏の風吹く夏の峯
夕方下山し、吉野安太夫へ宿す。

洞川(どろがわ)は聖地山上ヶ岳1719mの西麓の谷合にあります。今は洞川温泉などというものもありますが、山上ヶ岳登山の古くからの根拠地でした。前日、泉光院は吉野、金峯山寺から奥駈道を南下して、「女人結界」の碑の所から一旦洞川へ下って、鳳閣寺や龍泉寺へ詣納經しましたし、平四郎は初めてここへ来たのですから「天の川」、つまり今でいう天河大辨財天社へも行ったようです。
龍泉寺

左が龍泉寺。
修行をする人はこのお寺の境内にある池で水垢離をして、役行者が祀ったという八大龍王に山中修行の無事を祈禱してから入峯(にゅうぶ)するのがしきたりです。


天河大辨天社鳥居サラスヴァティー1

右は天河大辨財天社の鳥居。右はヒンドゥー教のサラスヴァティの像。

辨天さまがインドではサラスヴァティーという女神であることは、「No.227江ノ島」の項で詳しく書いておきましたからそれも参照してみて下さい。
サラスヴァティー白黒
サラスヴァティ2

サラスヴァティーの像をいくつか入れておきました。
日本の辨天さまは琵琶を弾いておりますが、こっちの方は四手で、ヴィーナという楽器を弾いております。



江ノ島辨天様琵琶

江ノ島の辨天さまの像も再掲しておきました。






大峯山寺山上本堂内部

大峯山寺本堂

大峯山寺(左)とその内部(右)。
…當所は秘所故委細を記さず…ですからこの程度にしておきましょう。


大峯山寺戸開式

大峯山寺では5月3日に戸開式(右)を行い、9月22日に戸閉式を行います。この間だけ修験者の修行の場となります。
泉光院はこの山上ヶ岳登山は今度が37回目。大峯奥駈修行は、この前熊野三山へ行っているのでそれを含めて今度で18回目だと言っているようです。
大峰山戸開式山伏法螺吹
これだけ何度もここへ来ているので、泉光院は「大先達」という地位になっているのです。
戸開式の時、山伏の法螺吹きです。

泉光院は大峯山寺まで来たのでここで下山して、奈良・京都・大阪へと歩を進め、いよいよ帰国となります。

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2018.05.12 (Sat)

日記 2018年5月

1日 火 1014hPa 晴 先日の18世紀アンサンブルコンサートの時に写した写真のSDカードを図書館でNob.サンから受け取りました。NobサンMixedFruits
そのとき右のレーズンいろいろも一緒に頂きました。いつも有難うございます。飴やチョコレートやこのレーズンのようなものが手元にあると、ブログを書いていて疲れたときなどこれがあるとウレシイ。
明日、横浜でムジコンの練習を一緒にしたことのある陽子サンが楽器博その他を見に来るので、駐車場やランチの場所など確認をしてきました。久しぶり、一緒にランチを楽しみましょう。
2日 水 1008hPa 曇→雨

亡息の友人の佐々木陽子サン夫妻が浜松来訪。佐々木夫妻楽器博
亡息が学校に在学中から古楽器のアンサンブル、Musica Conchertino 略してムジコンのメンバーでもあった人たちです。亡息はムジコンでヴァイオリンを弾いていたのでした。
浜松市立楽器博物館、濱松城、その他の旅行です。
ムジコンの人たちには息子が死んで、葬式や三回忌に来て頂いたこともあって、しばらくの間ワタクシも息子の代わりにリコーダーを持って横浜まで練習に行ったり、地区の音楽祭に出演したことも逢ったのでした。
GODIVAのチョコレート(右)を頂きました。有難うございます。佐々木陽子GODIVAチョコ
亡息は、女の子にプレゼントをするときは必ずGODIV|Aのチョコレートであったし、お土産に持って行くときには必ず浜松名物うなぎパイだったので、その事が想い出されます。
Hotel Concord で軽く食事をしてから濱松城を案内してそこでサヨナラしました。舘山寺のオルゴール博物館などを見てから、明日は奥山半僧坊方広寺その他を見てからお帰りのことだそうです。

3日 木 憲法記念日 1002hPa 雨→曇 三組町凧印道路敷石
浜松祭始まる。雨が止んだので凧揚げも御殿屋台も出るでしょう。右はワタクシの町の凧の絵柄(歩道の敷石)。
町内に秋葉神社があるので、秋葉天狗の羽団扇のデザイン。
GWになるとNHK FM の番組は怠慢になってしまって、いつもなら名曲を聴かせてくれる時間帯も(ワタクシにとっては)つまらない音楽ばかりになってしまう。
で、横にいくつかCDを置いて聴くことにしました。
Les Amours de Ronsard 詩人ロンサールの愛の歌
Musik der Fugger-zeit フッガー家の音楽(主に恋愛歌集)
Ay ! Amour 17世紀スペインの愛の歌
フランス・ドイツ・スペインの愛の歌ばかりです。お酒を飲みながらこのような歌を聴いて、泉光院の足跡を追っかけているのです。
七森サマのブログを見ていましたら5月がとても美しい季節に見えてきました。そういえばシューマンだったかの歌にも、…Im wunder shonen monat Mai ! …限りなく美しい五月に…というのがありましたね。旋律だけは覚えていて、つい鼻歌を歌ってしまった。
4日 金 みどりの日 1007hPa 晴佐鳴湖アンテナ水濁る
お散歩で佐鳴湖北岸。西岸の山の上にアンテナが見える。今日の水の色は茶色く濁っている。昨夜の雨の所為だろうか。
ワルツで珈琲豆、モカを240g。
5日 土 こどもの日 立夏 1016hPa 晴 無事。
6日 日 1013hPa 晴→曇 レコードカタログを作るつもりでB5の厚手上質紙を買う。
7日 月 1010hPa 雨一日中
無事。
8日 火 1006hPa 曇 三つ編みの草を見に行ったのだが昨年程綺麗には仕上がっていないまま枯れていた。ちょっと残念。
三つ編みの草枯れて
9日 水 1009hPa 晴 無事。
10日 木 1016hPa 晴
お散歩を珍しく東の方へ向かって歩いた。颯颯松野口町
野口町の「颯颯松=ざざんざの松」を久し振りに見ました。


颯颯松足利義教
「濱松」という地名は、その昔、室町将軍足利義教が、いまの野口町あたりの松林の下で酒を飲みながら(左の図)♪濱松の音はざざんざぁ~♪と謡った、ということが伝えられてからこの地が「濱松」と名付けられたのだそうで、ワタクシも濱松の土地に住むようになってから一番先に野口町のこのお宅の松(右上)がその松の生き残りだと市役所で聞いて見に行ったのでした。
その後、市役所の方でも個人のお宅の松の木ではマズイと思ったらしくて、近くの野口公園、さらには東小学校校庭、と転々と場所を変えたのだが、最近になって野口町の近くの八幡宮の境内に移植されて、石碑や案内板も立てられて、♪濱松の音はざざんざぁ~♪という標識も立てられて認知されるようになりました。
颯颯松八幡宮

左が八幡宮に移植された、説明によると、
[五代目」に当たる、颯颯松です。

ようやく[濱松]の地名の元となった松の木も安住の地を得たという思いでしょうか。
保永堂版濱松冬枯れの圖

左は保永堂版。廣重の「東海道五十三次之内、濱松」です。
右端に見える松林が将軍足利義教の酒宴をした松林で、お城の位置や伝承で野口町のあたりの松がそれだ、ということになっていたのでした。
11日 金 1018hPa 晴 浜松駅から南の方へ歩いて行って、馬込川と覚しき川にぶつかって川下へ下るようにしたら対岸へ渡る橋がなかなかなくて、随分遠回りしてしまった。12000歩も歩いてしまった。
12日 土  1015hpa 晴 図書館へ行ってNewtonという雑誌のバックナンバーを数冊借りてくる。「世界一美しい数式」とか「マルチバース宇宙論」といった内容。しばらくこんな世界から離れていたので面白い。
13日 日 1016hPa 曇→雨 甘酒を造るつもりで餅米を一升買ってきた。明日麹を買ってきてつくる予定。
14日 月 1008hPa 晴 しばらく前からパソコンの動きが悪くなっていたのだが、Winz…というのでチェックしたら、何と!内部の各所でエラーが二千数百ヶ所もあるというご託宣で、その修復のために、先日、指定の会社に\5179を支払うためにコンビニへ行ったのでした。そして今日、一日がかりで修復を始めたのだがワタクシは文字の入力は割りに早いのだがパソコンソフトの扱いは苦手でどうやら何とかなったのは深夜を過ぎて日付が翌日に先あった頃だった。
15日 火 ● 1011hPa 晴 昨日の晩仕込んだ甘酒は甘く出来た。ウレシイ。
TOYOTA社の車、新車宣伝のパンフが送られてきて、来社すれば粗品呈上とあった。免許証を返上してしまっているのでワルイナとは思ったのだけれども車を見に行って、案内の美女の笑顔につい車を賞めて、粗品を貰ってきた。中味は右の赤黒ボールペンとシャープが一緒になったもの。lexasボールペン
試用してみた結果は大変宜しい。
ボールペンの下の絵は、マウスパッドに使っている『鳥獣戯画』。ずっと前上野の国立博物館で鳥獣戯画の展覧会があったときたまたま売っていたので買ったもの。
Chantilly花5月15日
図書館でNobサンに逢ってから、Chantillyで珈琲。
左、Chantillyに飾ってあった花。

塩崎サンからメールがあって、Paoのえり子サンがGWに中国へ旅行に行ったのだが、…中国でひどい喉風邪を貰って帰って来たそうで、えり子サンはclinicに行ってきてお店は閉めて休みたいという連絡があったとのこと。ワタクシにもしばらく行かない方がいいよ、というメール。
これも塩崎サンからの連絡。栄光教会のコンサートは7月6日(金)19時開演。その前はPaoのサロンコンサートが6月30日(水)という連絡。
昨夜、パソコンソフトの修復で苦心惨憺したおかげで、今夜はゆっくり音楽を聴いている。
Claude le Jeune の、[春]という曲集。左はCDのジャケットの一部。
ルジュヌCDジャケット部分ルジュヌあなたの前で呆然となる楽譜
右は「あなたの前で呆然となる。身体は震え、、我を忘れ、顔色も変わってしまう。どうしてそうなるのだろう?何故なのだろう。教えておくれ、お願いだ。・・・」という曲の楽譜。16世紀のフランスの作曲家です。
16日 水 1010hPa 晴 久し振りで浜リコの練習に行きました。リコフェス第23回20180603
6月3日(日)に第23回リコーダーフェスティバルが「なゆたホール」で開催されるので、いまは最後の追い込みの練習です。
浜リコの出し物は、モーツアルト作曲、歌劇「羊飼いの王様 序曲」と、ヘンデルの合奏協奏曲op.6の中のどれかのようだ。お茶の時佐藤サンも出てきた。
ワタクシは写真撮影と、終了後の「飲み会」に出席すること。お酒を飲みながらミナサンの楽しそうな顔を撮るのも楽しい仕事の内です。
17日 木 1010hPa 曇/晴 今日のお散歩は東海道を歩いていたのだが、妙にゴタゴタ歩いて20.000歩以上も歩いてしまった。疲れた。
18日 金 1006hPa 晴
塩崎サンにメールをして、えり子サンの様子を訊ねたら、今日はお店を開ける・・・らしいと言うことなので午後Paoへ行きました。
中国で貰ってきた風邪は随分大変だったようで、少しばかりやつれているように見受けられた。えり子サンは7月28日に浜松商工会議所で「起業家セミナー」の講師になる予定なのだが、経歴を見て驚いたことに、中国の大學で日本語教師として勤務していたことがあって、それ以前は東京の高校で英語教師をしていたのです。とても素敵な女性です。
鳩サブレ鎌倉豊島屋
いまもPaoで英語セミナーを開いているようですが、ワタクシは英語はからきし駄目なのでそちらの方には近づかないことにしているのです。鳩サブレを貰ってきました。鎌倉といえば鳩サブレ。豊島屋です。


19日 土 1005hPa 曇→晴和田史恵誕生日メール5月18日
昨日、Face-bookで横浜のリコーダーアンサンブルRioの「Fumieサンの誕生日を祝いましょう」とあったのでメールをし、返事があった。(右)
第20回リコフェス水戸黄門役

2015年6月のリコーダーフェスティバルに横浜のアンサンブルRioが浜松まで来て出演して、第20回リコフェス打ち上げ史恵サン
その時ワタクシがなぜか水戸黄門役をやることになって左の写真のような扮装で登場して、Fumieサンが…この紋所が目に入らぬか!…と印籠を掲げた場面。
そして夜の打ち上げの時にはFumieサンたちと仲良くお酒を飲んでいたのでした。(向かって右がFumieサン)
昨年の4月、「第49回古楽器演奏会」の時たまたまFumieサンが来ていて、…ご老公様=ワタクシ…と再会したのでした。
ちょっと昔のことを想い出して懐かしかったのでここに入れておきました。

久し振りにエピファニーでランチ。牛肉のステーキがとても美味しかった。
20日 日 1010hPa 曇→晴 図書館へ行ったら図書館で不要になった本を「除籍済」として置いてあった。50册程あった中で、「清水、産寧坂」という表題の本が目に付いて、目次を見たら、金沢近江町市場、安曇野まで、といった短編があった。著者は加堂秀三というワタクシの知らない人だったが、近頃の小説をまったく読まなくなったのでたまには小説でも読もうかと思い、それを貰って、倉式珈琲で珈琲(今日はコロンビア)を飲みながら読み出したのだが、中味はかなりエロっぽい小説だった。
21日 月 小満 1014hPa 晴 いつも麹を買う店で麹を300g買って、店の中を見回したら納豆菌というのを売っていた.。30gで\900。高いもんだネと店の主人に話したら、豆1kgに納豆菌は「耳かき一杯」くらいでいいのだそうだ。ちょっと勉強して納豆もワタクシが作るようにしましょう。そのうちお酒も・・・と空想している。
22日 火
23日 水
24日 木
25日 金
26日 土
27日 日
28日 月
29日 火 ○
30日 水
31日 木
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2018.05.09 (Wed)

泉光院の足跡 305 室生寺

…夫より室生寺と云ふに詣づ。大師一の弟子眞雅僧正の寺也。女人の高野山と云ふ所也。初瀬山より五里山中也。大いなる峠を越へ室生山村と云ふに行く。夜に入る故に市太郎と云ふに宿す。
二日 晴天。當村托鉢の所三合施行の家あり、札遣はしたる所女房臨産月にて、奥州鹽釜護符あるまじくやと申さるゝに付一包遣はす。今日は滯在にて奥の院並に龍穴一見せまじくやと主人申すに付別業へ一宿し室生山殘らず詣づ、本堂南向、伽藍多し、奥の院寺より山中八丁登る、堂一宇南向、是れ大師堂也。脇に自然石の五百羅漢あり、石の五重の塔を立てたる下に大師護摩の岩屋あり。そより下りて川上五丁に善女龍王の宮あり。夫より五丁山中へ登り龍穴と云ふがあり、谷川の向ふの岩穴なれば川越し故に行かれず、岸の此方より拝す。又三丁計り上に天照大神御出現石とて大石二つあり、其間に穴あり。夫より門前に歸り宿す。主人源十郎と云ふは寺の代官役、村の庄屋を勤る人也。此の人により當山の靈寶籾塔と云ふを見る、高さ二寸三分計りの木作の寶篋印塔也。塔の内籾を一粒宛入れてあり、加持堂の天井の上にあり、何者の作とも知れず、傳手を求めて寺へ願ひ出れば金子百匹にて其籾出る由承る。右様の事共にて謝禮一句す、
   籾塔の光りを増すや夏の月

ワタクシは都合3回、室生寺に行きました。
最初は N0.295 法隆寺・西院伽藍 の項で書いたように、ハタチになった冬、勤め先の冬休み全部を奈良・日吉館で泊まって、大晦日が法隆寺、元日が室生寺でした。二度目は桜井市の親切なタクシー運転手サンのおかげで丸一日、貸切状態で普通の人の知らないような場所まで案内して頂きました。三度目は世界遺産研究の会のツアーで、バスガイドの貞子サンの案内の通りに歩いていました。

さてその一回目。1950年代というと戦後の復興がようやく緒につき始めた頃で、観光などという言葉はどこを探しても見当たらない時代でした。
室生寺へ行くには、例えば奈良からJR桜井線、桜井駅下車。近鉄大阪線に乗り換えて室生口大野駅下車。そこからもしバスがあればバスに乗って、室生川に沿った道をさかのぼることになります。
その頃は、バスは有るには有るのだが、午前に2本、午後3本。バス停の時刻表では午前の最初が出た後で、その次が2時間待ち。これでは歩くしかありません。
室生寺の手前に大野寺の磨崖佛がありますからそれを先に見ておきましょう。
大野寺本堂
右、大野寺の本堂です。この写真は本堂前の枝垂櫻ですが、元旦なので葉も花もない冬枯れ櫻でした(2度目に行ったときは秋だったから咲いていなかった!)。
このお寺の境内から室生川の対岸岩壁にある磨崖佛を拝することが出来ます。
この磨崖佛は高さ14mの彌勒菩薩だというのだが風化していておぼろげながら佛像が彫ってあるのだな、とわかる程度です。
大野寺磨崖佛河原
左、磨崖佛。
まだ若かったから、河原へ下りて写したのでした。

大野寺磨崖佛小屋

いまだと大野寺の境内、本堂前にこの磨崖佛を見るための小屋が造ってありまして、こうなるとここから見るのが正しい!などというつまらぬ迷信が生まれます。右がその小屋から見た磨崖佛。
大野寺枝垂櫻大野寺枝垂櫻満開

3度目は春まだ早いのでやはり枝垂櫻は咲いておりませんでした。右はガイドブックから頂いた「満開の大野寺枝垂櫻」。
綺麗ですねぇ。(左と右、殆ど同じ場所からの写真のようです)


一回目の続きです。室生寺の近くへ来たのは殆ど昼頃だった。室生寺入口橋

朱塗りの橋を渡ると「別格本山女人高野室生寺」と彫った石柱が見える。
大きなお寺らしいので拝観の前に食事をしようと、この橋の手前に食事処がないか捜した。
3軒程茶屋らしいのがあるのだがいずれも戸が閉まっている。商売をしている様子は見えない。そのうちの大きそうな店に入って食事を頼んだのでしたが、「今日は休み」とつれない返事。
ワタクシもここで何かを食べておかないと夜までエサ無しの情況なので、「お正月だからお餅くらいはあるでしょう。お餅を焼いて海苔をクルッと巻いてお醤油をつけたものでもいいのですが、…」と頼んでみた。しばらく経って渋々持ってきたのは何と! かなり大きな丸餅をコンガリ焼いて、茶筒の様な缶に入った味付け海苔(4cm×8cmほどに切ってあるアレ)を持ってきて、「こんなものでいいですか?」だった。
食文化の違いです。ここは関西でした。餅と云えば丸餅です。ワタクシの脳裏にあったのは、四角に切った切り餅がポチャッとなるくらいに焼いて、お餅より少し大きめの焼き海苔を裏表に貼りつけたのを空想していたのでした。

室生寺が「女人高野」と言われるようになったのはずいぶん後の時代、江戸時代、元禄十一年(1698)のことです。中世の室生寺は奈良・興福寺の末寺で、弘法大師空海の弟子の一人(泉光院は眞雅とかいています)が入山して、真言密教のお寺としての性格が強まっていくのですが、興福寺の力が衰える江戸時代になると、将軍綱吉の母、桂昌院の命令で興福寺から分離独立し、桂昌院の帰依もあって「女人高野」の地位が確立したのです。高野山は女人禁制でしたから、女の人は高野山の代わりにここへ参詣したのでした。
室生寺山門
築地塀に沿って歩いて仁王門をくぐって左に折れると鎧坂という石段です。室生寺金堂鎧坂石段

息を切らさないように登りましょう。
この写真は、土門拳という写真家がちょうどその頃写真集『室生寺』という素晴らしい本を出版していましたので、それをお借りしました。ワタクシの写した中にも殆ど同じ構図(ここではこれ以外の構図はありませんです)がありますが、当時のワタクシの感動をも含めて土門先生の写真をお借り致しました。


登り切った所が金堂です。
室生寺金堂

こちらが金堂。


室生寺金堂内部諸尊
左が金堂内部の諸尊。
須弥壇正面ひときわ背の高いのが釋迦如來立像、向かって右に藥師如來立像・地蔵部册立像。左には文殊菩薩と十一面觀音が並び、その前方に十二神将が一列に並んでいる。
なかなか素晴らしい。

佛像全部をしっかりのせておきたいのだがそうもいかないので、十一面觀音とそのの頭部だけを載せておきます。
室生寺十一面観音立像
室生寺十一面観音横顔

ふっくらとした顔、唇に残る朱色が美しい。


右、一回目の時の金堂を五重塔へ行く途中から写した写真。室生寺金堂白黒

その頃のワタクシの仕事は、泉川教授の実験の補助のようなのがメインだったのだが、適当にサボって、写真現像用の暗室に籠もってこの写真を四切という大きなサイズで引延ばしをやって、ウマクイッタと記念すべき一枚。
この場所からさらに石段を登りつめれば五重塔があるのです。
金堂と五重塔が室生寺では最古の建物で、奈良時代末期から平安時代初期の建築。

たくさんの石段を登って五重塔へ行きます。
室生寺五重塔台風の被害
平成10年9月、台風7号が襲ってきて、高さ50mの大杉が倒れてこの塔を直撃しました。
優美な檜皮葺の塔は無惨な姿になったのだが、この檜皮葺の弱さがかえって衝撃を吸収して、塔の心柱は歪むことなく立っていたのでした。室生寺五重塔下から
また、室生山には当時そろそろ確保が難しくなってきたヒノキが豊富にあったので、1200年を経た創建当時の古材に新材を補充して再び美しい姿になりました。





右、下から見た五重の塔。



室生寺五重塔上から

左、上からの五重の塔。

修理後の五重の塔です。
高さは16.2mと、野外に建っている五重塔としては最小のものです。でも古来多くの人がその姿の美しさを讃えてきました。だからこの塔が傷んだとき多くの人たちからの寄進が集まり、1年9ヶ月という短期間で修復出来たのでした。


…奥の院寺より山中八丁登る、堂一宇南向、是大師堂也。脇に自然石の羅漢あり、石の五重塔を立てたる下に大師護摩の岩屋あり。…
室生寺奥の院参道
五重塔の脇からさらに奥へ右のような道を辿って入ると奥の院になります。室生寺奥の院参道石佛

賽の河原とか無明谷、覗き、などといった難所を越えると弘法大師御影堂、いわゆる奥の院があるのです。


…夫より下りて川上五丁に善女龍王の宮あり、夫より五丁山中へ上り龍穴と云ふがあり、谷川の向ふの岩穴なれば川越し故に行かれず、岸の此方より拝す。又三丁計り上に天照大神御出現石とて大石二つあり、其間に穴あり。夫より門前に歸り宿す。

室生龍穴神社

一旦室生寺を出て、室生川に沿って1kmほど遡ると龍穴神社というのがあります。
ここは弘仁八年(817)が最初で朝廷による雨乞いが行われていました。
室生龍穴

右が神社の後ろにある龍穴という穴。
瀧があったりして直接にはここへ行けないので泉光院は対岸から拝んだ。
ここに住む善女龍王というのは降雨を司る水の女神なんだそうです。


室生龍穴付近の瀧
左、龍穴付近の瀧。
このあたりは多雨地帯であり、室生火山帯に属しているので、このような洞穴があったり、雨乞い信仰があったりするのでしょう


室生天の岩戸の磐

右が天照大神御出現の天の岩戸で、この二つの大石の間から御出現になった、と伝えられているのです。
文明開化の現在ではこのような伝承も殆ど忘れ去られているのですが、江戸時代にはさまざまな伝承が人々の間に伝えられていたのでした。

ところで泉光院は、室生寺門前で泊めてもらった家の奥さんが臨月なので、奥州鹽釜神社で貰ってきた安産御札を渡していますね。ほかでも泊めてもらった家の奥さんが臨月やそれに近いときは渡しているので随分たくさん貰ってきたようです。
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2018.05.06 (Sun)

泉光院の足跡 304 長谷寺

…夫より八木村國分寺へ詣る筈の處、夜に入りたる故に直ちに三輪山金屋茂平次と云ふ入峰の時の定宿へ行く、初夜時一宿す。

ここで國分寺というのが出てきたので確か大和の國分寺は東大寺ではなかったかな?とチェックを入れたら、東大寺は総国分寺で、大和國分寺というのが近鉄大和八木駅の近くにあった。
泉光院は吉野山の帰りに、安倍文殊堂から大神神社へ行く途中に立ち寄っているのでその時に書くことにします。
山の辺の道
夜になったので、若いときから修行のために大峰山へ行く時の定宿である茂平次宅へ行って泊めてもらった。金屋村というのは、山の辺の道の一番南の方、にあって、ここには「金屋の石佛」というのがあります。
山の辺の道、左の写真の右下石標には「山邊道」とあります。
山の辺の道金屋の石佛建物

右の小さなお堂の中に、二体の石佛が入っています。
金屋の石佛
格子の隙間から写したのが左の写真。
釋迦如來と彌勒佛だというのだがどっちがどっちだかワタクシにはよく判らなかった。金屋の石佛石棺

縁の下に「石棺」がある、と案内板には書いてあったので、穴の中も写しておいたけれども、奥のほうに何か白いものが見えるだけで、それが石棺なのかどうかそれも判りませんでした。

山の辺の道。南は三輪山の裾からずっと北へ上がって奈良盆地の東側の山裾から天理あたりまでをいまは山の辺の道、と言っているけれども、その昔はさらに北の平城宮の北の平城山(ならやま)に続く道が山の辺の道であり、「古事記」、「日本書紀」に記されていることから、日本最古の「道」なのでした。

「平城山 ならやま」という歌があります。北見志保子さんの歌集『柏樹』に、奈良旅行の記憶として、磐之媛平城坂上陵を詠んだ歌七首のうち二首に平井康三郎さんが曲をつけました。
磐之媛は仁徳天皇の妻だった、とも言われているようですが、仁徳天皇は浮気をしたようですし、仁徳陵とされているのは大阪堺の百舌鳥大仙陵と比定されているらしいので磐之媛陵とはずいぶん離れています。
北見志保子さんの思いと磐之媛とを重ねて歌った歌でしょうか。
とても美しい歌です。

   ひと恋うは悲しきものと平城山に もとおり来つつたえ難かりき
   古(いにしえ)も夫(つま)に恋つつ越えしとう 平城山の路に涙おとしぬ

楽譜も入れておきます。
平城山楽譜手書き
ここに載せるために慌てて書いたので見にくいです。

ワタクシが高校生だったころ、
文化祭などで女の子はこの歌を歌っていました。
近頃は身振り手振りに尻振りで騒がしい歌を歌うのが流行らしいけれども、、やはりワタクシには若いときによく聴いたり歌ったりしたこのような静かで人の心に染み入るような歌の方が好きです。

廿六日 曇天 金屋滯在洗濯する。夕立あり、近所慈恩寺と云ふ村へ雷落ち、家の棟を破りたり。爐内に落ちしも人に障りは無かりしなり。
廿七日 晴天。夕立あり、滯在休息す。
廿八日 曇天。平四郎少々不快に付今日も滯在。
廿九日 雨天。今日も同じく病気にて滯在。
六月一日 曇天。平四郎病氣平癒に付三輪山巳の刻立、西國札所初瀬山へ詣納經す。廻廊あり、二王門より上ること三丁、本堂八間四面、前に舞臺あり、京清水の如し、南向、寺並に寮數二千軒計りあり。京都智積院と同じ、新義眞言也。門前茶屋旅籠屋多し。…

7月初旬です。雷の落ちる時期になった。金屋から東に大和川の上流初瀬川を少し遡ったところに慈恩寺という村があって、そこで落雷があったようだけれども人には被害がなくてヨカッタ。慈恩寺というのがその近くにないのか捜してみたのだが見当たらない。泉光院も詣ったとは書いてない。
平四郎がまたまた病気になったけれども今度は軽症で済んだようだ。
長谷寺入口
長谷(はせ)寺です。初瀬(はせ)川の北岸にあって、初瀬(はせ)山の中腹に建っています。
左の参道を行くと二王門が見えてきて、それをくぐると本堂に向かって長い登廊が3回屈曲しながらつながって、400段(399段が正しい!というガイドブックがありました)の石段を登っていきます。
長谷寺階段下から

長谷寺は西国觀音札所第8番。本尊は十一面觀音です。


長谷寺階段上から

長い長い階段を上りましょう。

長谷寺階段の屋根

右は上から見下ろした階段。
左は階段の屋根。

このお寺へ来ると階段ばかりなのでつい写してしまう。



長谷寺本堂大悲閣
長谷寺本堂舞台

本堂は大悲閣。
京都の清水寺と同じように掛造りの舞台になっているのです。


長谷寺本尊十一面観音

右、本尊十一面觀音。
長谷寺ボタン

長谷寺はボタンの名所でもあります。7000株のボタンが咲くのだそうです。


.長谷寺大悲閣と階段の屋根長谷寺境内


泉光院は、…夫より室生山と云ふに詣づ、…ですが長くなりそうなので次回に回します。

前号No.303 岡寺 の項で山田寺の建物や廻廊がかなり正確に復元されている写真を入れておいたのですが、「全集日本の古寺 14 飛鳥・南大和の古寺」に遺跡の出土情況のわかる写真と文があったので少しだけ入れておきます。
山田寺伽藍遺跡
左、山田寺遺跡全景




下左、廻廊部材出土情況、
下右、廻廊屋根瓦出土情況。
山田寺廻廊部材山田寺廻廊屋根瓦出土


14:37  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑
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