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2018.02.24 (Sat)

泉光院の足跡 289 光明真言

奥の院の方へ向かいます。高野山一の橋
右の写真、一の橋を渡ると、両側は大きな杉林の中に20万を超えるという墓石群がぎっしりと詰まっています。
ここから2km(18丁)の一番奥の所に弘法大師の御廟があって、10世紀頃、ここに弘法大師がいて、諸佛の集会所になっている、という奇妙な信仰が生まれて、皇族・貴族の參詣が盛んになったのです。
鎌倉時代になるとここに墓地を作るのが大名の間に流行して、江戸時代になると大名のお墓は殆ど全部ここに揃っているといってもいい有様になってしまいました。
高野山奥の院参道
徳川幕府は、特に外様大名の財力消耗を計るためにもここに大きなお墓を作るようにさせたとも言われているのです。
徳川御三家はもちろん、仙台伊達、加賀前田、薩摩島津、長州毛利、陸奥南部、筑前黒田、といった雄藩、戦国大名の武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、石田三成、真田幸村、少し下って浅野内匠頭、井伊掃部頭直弼、etc. さらには初代市川團十郎といった超有名人のお墓が全部あるのです。
右は加賀前田家の墓所。高野山前田家の墓



ワタクシは金澤生まれなので加賀前田サンというとちょっと近親感があるのでつい写真を写しておいたのでした。

墓石は五輪塔の形式です。左の絵を参照。
五輪塔


上から空輪(団子)、風輪(半月)、火輪(三角)、水輪(球形)、地輪(四角)という順になっています。
高野山奥の橋
お墓を見ながら歩いているうちに一番奥の御廟橋(左の写真)の向こうに燈籠堂が見えてきました。

右が燈籠堂の裏から見た御廟の門。この門の奥に三間四面、檜皮葺。宝形造りの御廟があるのです。
高野山奥の院燈籠堂御廟


燈籠堂の周囲にはたくさんの人が寄進した燈籠がいっぱいぶら下がっていて、地下にはこれも寄進した御札のようなものがぎっしりと詰まっています(キチンと番号順に並んでいて、お金を納めた人の名前が書いてあります)。なにしろお金の要るお寺であって、ワタクシのような貧乏人にはまったく無縁のお寺のようでした。

もとへ戻りましょう。ちょっと目立たない所にあるので誰も行かないのだが、高野山大学の隣のような場所に金剛三昧院というお寺があります。
高野山金剛三昧院多寶塔
北條政子が夫源頼朝の菩提のために建てたお寺です。
左の多寶塔は石山寺の多寶塔に次ぐ2番目に古いもので國寶指定。とても安定感のある立派な多寶塔です。これは忘れずに見ておきましょう。中には運慶作と伝える木造五智如來坐像も安置してあるというのですがこれは見ることができませんでした。

高野山は女人禁制のお寺だったので、それが解禁になる明治五年(1872)は女性の入山を厳しく取り締まっていて、女人堂というお堂の所までしか入れなかったのでした。
右が女人堂。高野山女人堂

ここへ行くには高野山ロープウエイに乗って終点から女人道を歩くといいのです。でもここにはあまり重要でない佛像しか置いてないし、御札などお土産物を買うだけの場所になっています。

泉光院は、…予回國諸山一見するに高野に似たる所もなし。日本第一の靈場也。…と書いているのはまことにその通りで、寺域の広大なことや、膨大な墓石などちょっと外には例がない場所になってしまっているようです。
高野山金剛峯寺はとても大きいお寺ですので、なるべく自分で隅々までシッカリ見ることをおすすめします。
…高野山一句、 あゝ不思議ヲンアボキアと呼子鳥 …と相変わらず下手な句を作っているのだが、このヲンアボキアという言葉は真言密教でよく唱えている「光明真言」という呪文のようなものです。今でもお葬式の時など聞くことが出来るから知っている人もいるでしょう。
光明真言

オン アボキャア ベイロシャノゥ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラハリタヤ ウン 
と梵語のままで唱えるのですが、大雑把な意味は、
「オーン 宇宙に充満する大日如來よ 我らに知恵と慈悲と光明を差し伸べ給え フーン」というような意味らしいです。
今でも四国八十八ヶ所巡礼の人は、般若心経と一緒に唱えます。
関係のない人はこんなものは覚えない方がヨロシイかと思います。こういうおまじないのような言葉は、その道の人には重要なのかも知れないが、普通の人には無意味な言葉ですから。
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2018.02.20 (Tue)

泉光院の足跡 288 西行櫻

6年2ヶ月にわたる長い旅で欠かさずに日記を書き続けた泉光院。
だが5月の2日、この日だけ日記が書いてないのです。一体何があったのでしょう。
【二日】←この日は記載なし。
几帳面な泉光院には珍しく!!!

三日 曇天 昨日立ち寄りし宅へ行きたるに、他出に付隣家へ尋ねたる所押付け歸らん休息せよと申さるゝに付滯留托鉢す。理右衛門と云ふ宅別宅に隠居新宅あり、此内に宿す。
四日 晴天。今日も滯在して洗濯する。
五日 晴天。節句也今日迄は休息せよと懇ろに云ふ故に滯留す。平四郎は襦袢等調へたり。肥前島原大社參り親子三人連れの者又々同宿す。節句一句、
   家々の富は幟に知られけり

五月五日は端午の節句。奈良時代から今に続く節句です。鯉幟
中国黄河上流の龍門の瀧をたくさんのお魚が登ろうと試みたのだが、鯉だけが登りきって龍になった。
それで龍門の瀧を登ることを「登龍門」といい、鯉の瀧登りは立身出世の象徴となった。
昔は旧暦五月五日というと梅雨のさなかで、雨の降る日に鯉を上げて男児の出世を願うという、武家で始まった行事ですが、江戸時代には庶民の家でも鯉幟を上げるようになった。
姿はその頃から「江戸っ子は皐月(さつき)の鯉の吹き流し」という諺のように、口だけが大きくてお腹はカラッポ、と今と同じような形になっていたようだ。そしてお金持ちの家は立派な大きいのを立てたことが泉光院の下手な句でもよくわかります。

六日 晴天。赤貝村立、辰の刻。森村久右衛門と云ふに宿す。
七日 大雨天。據なく滯留す。
八日 晴天。森村立、辰の刻。國分寺へ詣で納經す。門前松並木少々あり。本堂南向、六間四面、寺一ヶ寺、門なし、鐘樓一つあり。夫より中三谷村と云ふに行き貞右衛門と云ふに宿す。

紀伊國分寺跡です。手前に見えるのは金堂の礎石。向こうに見えるのは再建した講堂。JR和歌山線下井坂駅で下車、300mほど北へ向かって川を渡ると松並木があって、八光山國分寺醫王院というのになります。紀伊国分寺
ここの所が泉光院の詣納経した国分寺で、これを中心に200m四方くらいに聖武天皇の発願した國分寺があるわけです。
発掘の結果、南門、中門、金堂、講堂が一直線に並んで、金堂と講堂の間の東に經藏、西に塔があったことが判明しています。
ほぼ大阪の四天王寺と同じような伽藍配置です。
そして元慶三年(879)に火災があって焼けてしまいました。

九日 晴天。三谷村立、辰の上刻。北篠村理八と云ふに宿す。
十日 晴天。滯在。近村托鉢す。飯米拵へする。大工の宅故に寄せて一句、
   涼しさやゆみの館のたくみ哉
十一日 雨天。滯在。平四郎は町人程あり飯米とて昨日より荒麥を精げたり。
十二日 晴天。今日迄滯在して西國巡禮札所粉河寺へ詣納經。本堂十五間四面、南向、諸堂多し。童男形とて子供の像あり。此像寺中の池内より出現の形也。是れ當山の本尊千手觀音也と云ふ。寺中多し、天台宗也。二王門、中門、四天王、門前町數多し、地は少し谷合也、寂々たる地也。
粉河寺本堂

右が粉河寺本堂。
清少納言が枕草子に、…寺は石山・粉河・滋賀…と書いているように、古くから名刹として知られています。
そして今も西國觀音札所第三番として巡礼の人が絶えません。


粉河寺童男形
左が泉光院の言う童男形の像が置かれている童男堂です。
國寶の『粉河寺縁起絵巻』によると、2つの説話があって、まず第1話は、那珂郡に住む大伴孔子古(くじこ)という獵師が不思議な光を見て、佛堂を建てて佛像を納めて功徳を、都願っていた時、ひとりの童子が現れて、千手觀音を彫りあげて姿を消したという、粉河寺創建の物語です。
第2話は、河内国の長者の娘が異常に太るという奇病に罹って心配していると、ひとりの童子が現れて、娘の病を治して粉河に住することを伝えて去ったので、長者がお礼のために粉河へ訪れたところ、千手觀音の手に娘がお礼にと渡した贈り物が吊されていたので、長者はこの千手觀音が童子の姿となって娘を救ってくれたことを知り、長者一族うちそろって佛門に帰依する、というお話。
ここまで読んでみると、泉光院が…子供の像あり、…是れ本尊の千手觀音也と云ふ…と書いてあるのが判るのです。

十三日 晴天。平四郎紙帳を仕立て晝時北條村立、高野山の方へ船渡りで行く、此川吉野川の下也。夫より大洲峠と云ふに掛かる、一里あり、峠の茶屋へ泊る。和歌山の老人同宿す。
十四日 晴天。峠茶屋立、辰の上刻。山を越へ谷に下り高野山西坂元に花坂と云ふ宿あり。此所に笈頼み置き高野山へ登る、五十丁、諸人知るところなれば略す。寺數七千軒。予回國諸山一見するに高野に似たる所もなし。日本第一の靈場也。高野山一句、
   あゝ不思議ヲンアボキアと呼子鳥

紀ノ川を船で渡って、紀ノ川の南岸、麻生津峠というのを越えて、高野町の花坂の宿屋に荷物を下ろして高野山に登った。例によって…諸人知る所なれば…と以下省略してしまっていますが、ここもワタクシめが蛇足を付け加えておきましょう。

およそ1200年前、真言密教の靈場として開かれた高野山は、1000m前後の山々に囲まれた山上の盆地にあります。ここに朝廷から認められてお寺を造ったのは洋行帰りの弘法大師空海でした。高野山空海入唐
彼は延暦二十三年(804)、右の絵のような遣唐使船に乗り込んで、中国南部の福州という所に漂着して、それから唐の都長安まで行って、青龍寺というお寺で密教というのを勉強したのでしたが、師が死んでしまったのでわずか2年で帰国してしまいます。本当は20年滞在予定の留学生(るがくしょう)として出発したのに、です。

密教の教義など詳しいことはワタクシにはとうてい知ることの出来ないものではありますが、お釈迦様が死んでから1200年も経ったころですし、お釈迦様の言葉が西パキスタン・アフガニスタン・トルキスタン・チベット・中国…、といろんな国の言葉に翻訳されながら伝わるのですから、空海が勉強してきた「佛教」なるものはお釈迦様の語った言葉とはかなり違ったものになってしまっているのです。大日如來というのが釋迦を超える宇宙の本質的なブッダとして存在し、数億という数の「佛」がこの宇宙の中に充満しているのだし、「即身成佛」といって誰でも簡単に(といってしまっては問題もあるのだろうが)佛になれるということになってしまった。そのことはまた別の所で触れるとして、まず高野山に登ってみましょう。

バスで行くと金剛峯寺の大門前に着きます。
高野山大門

ここは高野山開山以来の表玄関で、ここから山内に入ります。
少し坂を下るようにして行くと、道のわきに「町石 ちょういし」というのが所々に立っています。


高野山町石道

麓の方にある慈尊院から根本大塔までの180町と、根本大塔から奥の院までの36町の間に、1町(約109m)ごとに立っています。高さは3mほどで、右の写真のように全体が五輪の卒塔婆形式になっています。

そしてその先に根本大塔というのがあります。
おびただしい高野山の伽藍の中心的な堂塔の一つで、空海が生きていた頃に計画され、死後50年程経って完成しました。

高野山根本大堂
数度の火災を経て、いま建っているのはワタクシの生まれた頃に建てられたごく新しいものです。
多寶塔と同じような形をしているのだが、ここでは根本大塔と言っていて、胎蔵界大日如來を中心に据えていて、国家の基柱、密教の根本思想を表現しているのだそうです。大きい塔なので、写真に写すと歪んでしまっていけませんね。


高野山不動堂



根本大塔からちょっと石段を降りたところに、高野山に現存する建物では一番古い國寶の「不動堂」があります。
佛殿というよりも貴人の書院、といったおもむきの建物で目立たないのでこの前でたたずむ人は居りません。

高野山西行櫻
この不動堂のすぐ近くに西行櫻がありまして、以前のは文化年間、つまり泉光院がここへ来た頃にはあったのでしたが枯れてしまって、左の写真のは見た通りの若木でこれが二代目西行櫻になりました。
左端にちょっとだけ屋根が見えているのが根本大堂で櫻の木の向こうに見える建物はいまは大会堂(たいえどう)と呼ばれている蓮華定院。西行はここで
「高野の籠りたりける頃、草の庵に花の散り積みければ、
   散る花の庵の上を吹くならば 風入るまじく巡りかこはん  」
と、一首残しています。西行は32歳の頃の久安五年(1149)、落雷で焼失した大塔・金堂・灌頂院の復興のために勧進聖として招かれて高野山へ入って、晩年、伊勢に移住するまでの30年程の間、高野山を中心に活躍しているのです。
蓮華定院は鳥羽天皇の皇女で五辻齋院頌子(うたこ)内親王が鳥羽院の供養のために建てた建物で、もとは別の場所にあったのだがここに移築することになって、西行が建築奉行として工事に携わっていて、この建物の隣の三昧堂で工事の指揮をとっていたようだからその時にでもこの櫻を植えたのだろうか。
西行はもと佐藤義清といって宮廷警備の武士として鳥羽院に勤務していて、その頃藤原公重から和歌を習い、その叔父の藤原實能の家人となっていたのです。そして實能の妹璋子(しょうし)が鳥羽天皇の後宮に入り、女御から中宮へとすすみ、その間に皇子を生んで、それが5歳で崇徳天皇として即位してからは國母となり、天治元年(1124)には女院となって待賢門院と号していました。西行はこの待賢門院に対して終生変わることのないある強い感情(われわれ下々ならば戀?)を抱いていたようです。そういうこともあって、鳥羽天皇と待賢門院の娘である頌子サンから建物の移築を頼まれたのなら喜んで応じたのでしょう。

旅行業者が募集している高野山観光ツアーに参加すると、色鮮やかな根本大塔を見て、総本山金剛峯寺大主殿という大きな建物の中に導き入れられて、大広間で出されたお茶を飲んでお菓子を食べて、目の前に下がっている二枚の大きな「金剛界曼荼羅」と「胎蔵界曼荼羅」に就いての長々しいお説教を僧侶から(全く意味は判りませんが)聞かされて、それからずっとたくさんの五輪塔型墓石を眺めながら奥の院まで歩いて行って、そこには今も生きている弘法大師(現に毎日僧侶がお食事を運んで弘法大師に召し上がって戴いてるのです)に手を合わせて、その夜は山内に数多くある(70何ヶ寺かあるらしい)塔頭の一つに泊まって精進料理を食べる、というのが今の高野山慣行詣での風景です。
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2018.02.18 (Sun)

日記 2018年2月

1日 木 曇→雨 1025hPa 昨夜仕込んだ甘酒はとても甘く出来た。
サラミソーセージを囓りながらブランデーを飲むのが若い時からの楽しみの一つだった。今もそのようにして酔っ払いながら音楽を聴いている。(音楽を聴きながらブログも書いている)
2日 金 1020hPa 曇 先月末ころ何回も味噌作りに精を出したのがたたったようで、右肩が痛い。タク整形外科へ行ったのだが2時間も待たされて晝過ぎにもなりそうなので治療は諦める事にした。だが痛い。
3日 土 節分 1018hPa 晴紅白だるま饅頭
シャトレーゼというケーキ屋で「苺×生クリーム」というケーキの宣伝広告が新聞折込みで入っていて、このケーキ屋さんは以前よく買いに行っていた店なので行った。「紅白だるま饅頭」という変なものもあったのでそれも買った(右)。
4日 日 立春 1016hPa 春の氣立つ、つまり寒さのピークであってこれからわずかずつ春に向かって季節がすすむ。
侘助1ワタクシの家の玄関先に一本だけ花の咲く木が植えてあるのだがそれがこの侘助。
春ですよ、と咲いているようだ、

立春にこだわったわけではないのだがお餅を搗いた。朝6時からはじめて、 8時頃には後片付けもすっかり済んだ。3時頃少し切り出して食べた。とても柔らかくて美味しい。
明日はさっそくお雑煮。

5日 月 1017hPa 晴 肩の痛いのが取れないので以前行った事のある須川整形外科へ行った。レントゲンを診た医者の言う事には、首の骨が良くないので、肩の痛みはそれが原因であるというご託宣。じっくりしっかり治さないと良くない!のだそうだ。
お雑煮は美味しかった。昨年夏、敦賀の昆布屋で大量の昆布を買っておいたので贅沢に昆布を使う。
6日 火 1020hPa 晴 図書館へ行って捜してもらったら戦前、伊藤整訳の「ユリシーズ」が地下倉庫にあるらしいことが判明した。誤訳が多いと悪評が高いのだがあの時代に翻訳をやろうとしただけでも勇気があります。伊藤整はワタクシの大好きな作家ですからこれも読んでみようと思います。
7日 水 1020hPa 晴 昨夜遅くからパソコンの具合が変になった。今朝、いつものようにネットにつなごうと思ったのに、スタートキーを押しても動かない!散々苦労をしたらようやくスタートキーではなくて別の所から動かしてネットに接続できた。だがこれは正規の動作ではない。
gemサンに助けて~!とメールをして教えを乞いました。
そうしてどうやらスタートキーからの操作でネット接続や電源のon,offができるようになりました。ありがとうございました。
でもまだ本当の意味で完全に回復したわけではないように思われえるので、近いうちにもう少し教えて戴きたいと思っております。その折にはどうぞよろしくお願いいたします。
8日 木 1021hPa 晴 肩の痛いのは治らないのだが腕や肩は使わなくては生きていけないのでガマンして動かしている。
9日 金 1022hPa 晴 リハビリに行く。鍼を打って(わずかの)電流を流して10分ほど。そのあとマッサージ。楽になる。
10日 土 1022hPa 晴→曇 図書館へ行ったら「電子図書」というのを開設したというキャンペーンをしていた。早速IDとパスワードをいただいた。だがまだあまり本は入っていないようだ。
11日 日 建国記念の日 1011hPa 晴
12日 月 建国記念の日振替休日 1014hPa 晴 無為に過ごしてしまった。
13日 火 1019hPa 晴 Paoで珈琲。お雛様が飾ってありました。Paoのお雛様
Paoで貰ったお菓子2月13日
えり子サンからお菓子を少し戴いた。
左、フィリピンのバナナ菓子と、「ほんの気持ちです」と書いてあるお菓子。
右、雛祭り人形。

14日 水 1030hPa 晴 ワルツで珈琲豆を買う。いつもの通り。
15日 木 1017hPa 曇 Gemサンからチョコレートを送っていただきました(右の写真)。Gemサンチョコ
Hotel Okura のトリュフチョコ。ありがとうございます。

16日 金 ● 旧暦(戊戌年)元日 1018hPa 晴
明日またお餅を搗く予定。餅搗き器を出して点検整備、お米も水に浸けておく。
甘酒用の麹も300g買ってきた。
泉光院287をブログに載せてホッとしてブランデーを飲みながらGemサンチョコを舐めている。至福のひととき。
FMラジオでフォーレのRequiem 。演奏はNHK交響楽団。
この音楽は金澤合唱団で演奏したことがあってたいそう懐かしい。木戸サマのテノール、ヨーコチャンのソプラノで定期演奏会にのせたことがある。歌詞はラテン語で、ワタクシがカタカナ語に翻訳!してみんなにそのカタカナ語で歌ってもらった。
17日 土 1013hPa 晴 朝8時頃からお餅を搗きはじめて10時頃には終わった。明日朝はお雑煮を食べる。
夕方7時頃から甘酒を作り始めて8時頃には終わった。明日朝には甘酒も出来ている。
一太郎2018年版
注文しておいた「一太郎2018年版Premiumバージョンアップ版」が届いた。
ワタクシと一太郎の付き合いは長いのです。ワープロというものに一太郎の入っているものを会社の予算で買ったのはワタクシが「係長」というものになってから暫くたってからのこと。それ以来ワードもエクセルも使ったことはないのです。
18日 日 1021hPa 晴 昨日入手した一太郎をFujitsuのパソコンにインストールした。
無事に入ったようだ。しばらくそっちのパソコンで使い心地のチェックをしてみるつもりです。
花子も手裏剣も詠太も入れてしまった。
19日 月 雨水 1024hPa 晴 Paoで珈琲。

Gemサンベトナムお菓子
20日 火 1021hPa 晴 Gemサンからベトナムの春節(旧暦のお正月にあたる)に食べるお菓子を戴いた。(右のお菓子)中味を少し出したのも写真に入れておいた。ショウガはとても辛いから食べる時は少しずつちぎって食べないと、と注意してくれた。
21日 水 1016hPa 曇→晴
Paoへ行きました。チェスをしている人が居たのでしばらく見ているうちに昔横山サンと遊んでいたことを思い出してかなりわかるような気がした。3月5日に小葉松サン(というチェスを教えている人)が本を持ってきてくれるということになった。Paoでお食事2月21日
お料理を作る人が来て、えり子サンがワタクシに席を作ってくれて、思いがけずお食事を戴くことになりました。
前後のいきさつは全くわからないままに美味しいものを食べさせていただいたので今日は何と素敵で幸運な日。
コンビニで一太郎の代金\15390を支払う。
22日 木 1017hPa 晴 中古品を売っているお店で腕時計を約\1000で買った。ストップウオッチ、タイマー、アラームなどの機能がついている。暗い所で見えるようにライトも点く。
23日 金 1019hPa 晴 Paoで珈琲。
24日 土 1020hPa 晴 Chantillyで珈琲。
25日 日
26日 月
27日 火
28日 水
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2018.02.16 (Fri)

泉光院の足跡 287 淡島明神

廿三日 雨天。據なく滯在。仁王一部。晝時より一の宮伊太祁曽明神と云ふに詣納經す。少名彦命也。城下より三里東、中社丑寅向、少々山あり。夕方有合村へ歸り一宿す。宿の女房うわ成の様に眼するどく、鼻筋頬高く、眉の上に般若皺あり、其聲うなり聲也。因て一句、
   びつくりす雨のあしたの雉の聲

伊太祈曽神社正面
前号で日前宮を紀伊國一の宮と書きましたが、伊太祁曽神社も紀伊國一の宮でした。
左が伊太祁曽神社。

この神社はもともとは日前宮のあった場所に鎮座していたのだったが、垂仁天皇、日本書紀の編纂された時代の頃に追い出されて、和銅六年(713)に今の地に引っ越したのだというのです。祭神の五十猛命(いそたけるのみこと)は素戔嗚尊(スサノオ)の子供ですから出雲系の神様です。日前宮の祭神は前に書いておいたように日像鏡・日矛鏡で、この鏡はアマテラスが岩戸に隠れた時に彼女を誘い出すために作られた鏡です。ということは、出雲系の神様とアマテラス系の神様の勢力争いの結果が反映されたのだというわけですね。

有合村太十郎宅へ戻って泊めてもらうのだが、その家の女房、うわ成(=うわなり)のように怖い顔をしている。
うわなり
うわなりというのは【嫐=(女男女)】という字を書いて、歌舞伎十八番の一つ、元禄十二年(1699)、初代市川團十郎が演じたという芝居の題名でして、芝居そのものは今は演じられる事はないようですが、一人の男に二人の女の嫉妬にからむ芝居のようです。右がその時の市川團十郎の姿で、きっとこのような怖い顔をした女として舞台に登場したのでしょう。
謡曲「葵上」では…六條の御息所(みやすどころ)の御身にてうわなりの御振舞…という文言も出てきたりして、男と女の間には「嫉妬」という感情が出る事もありますよね。。
辞書の用例として「人の怨霊をうわなりとは中古より云ふ言葉也」というのがありました。また前妻が後妻に嫉妬し、後妻を痛めつけるのを「うわなり打ち」ともいうようです。
【嬲 =男女男】という字もありまして、両方とも「なぶる」というような意味です。覚えていてもあまり使うチャンスのない字ですね。
泊めてもらった家の奥さんが、たとえ美貌ではなかったとしても失礼ですよ。
雉の鳴き声も鳥類の中ではあまり美声とは言えませんが、奥さんの声まで雉にたとえて俳句に詠み込むなんてあんまりです。

廿四日 半天。有合村立、辰の刻。又城下へ出る。御城又々一見、嘉多浦と云ふ方へ赴く。木の脇村と云ふに行き金助と云ふに宿す。
廿五日 曇天。金助宅に笈頼み置き、嘉多の淡島明神又大川浦と云ふに詣づ。往來四里、此の大川浦と云ふは、圓光大師土州へ流罪の後召返されたる時着船の地也。大師着し玉ひし宅は阿闍梨孫三郎と云ふ宅、今に繁盛の家也。門前にあり。報恩講寺と云ふに納經す。本堂南向樓門上に鐘、下に四天王、折柄開帳故に尊像を拝す、坐像高さ三尺計り、自身の作と云ふ、當村家數多し。夫より嘉多浦淡島明神へ詣納經す。本社東向、舞殿あり、小社也。向ふに蓬ヶ島十丁計りにあり、便船なき故に渡を得ず殘念。此の嘉多浦は家數千軒餘もあらん、大坂より江戸通ひの船潮掛かりの場所也。夕方木の脇村へ歸り一宿す。

加太湾へ行きました。ここは都の人が葛城山脈に沿って「あわしま街道」を下ってはじめて海に出会う眺めのいい所です。報恩講寺
報恩講寺は円光大師法然上人が罪を許されて土佐からの帰途、海上で遭難してここに流れ着いて、一ヶ月程滞在している間に、自像を櫻の木に彫刻して村人に与え、村人は堂を建ててその像を祀ったのが始まり、という由緒あるお寺です。
写真の樓門には今も四天王の像、上には梵鐘、本堂には法然上人自刻の坐像があるという、泉光院の言うとおりのお寺です。
10月21日の報恩講や、11月22日の法然上人着船大会式には多くの参詣者が集まります。

海岸沿いにある淡島神社は「アワシマさん」として親しまれていて、医薬の祖神である少名彦名神を祀っていて、いろんな病気を治してくれる。特に婦人の病気平癒・安産・子育てなどに霊験あらたか、だそうです。
淡島神社雛人形淡島神社雛流し船




ここでは毎年3月3日の雛祭りの日にたくさんの雛人形を白木の船に乗せて沖に流す神事が行われる事で知られています。
お雛様に願い事を書いて船に乗せて、遠く沖の方へ流すのです。船の向こうの方に見えている島が友ヶ島です。
泉光院は「蓬ヶ島」と書いていますが、この島はかって神功皇后が三韓征伐の帰りに嵐に出会って、船の苫を海に投げ、その流れのままに船を進めたところこの島に着いたという。紀淡海峡を通る船の避難場所だったのだろう。
神功皇后という人は実在が定かではないのだが、三韓征伐の帰途、日本中あちこちに漂着したと伝える場所があって、しかもその時に妊娠していて応神天皇を産んだという説話もあったりする不思議な人です。泉光院も山形あたりの海岸で日記に書いています。
友ヶ島a
右が大川峠から見た友ヶ島。神島・虎島など4つの島の総称が友ヶ島です。
7世紀頃、役小角(えんのおづぬ)が葛城山に行場をひらく以前。この島に修験道の靈場を開いたので、泉光院としては是非行かなくっちゃと思っていた場所なのだが、ここへ渡る船が見つからなくてたいそう残念がっている。今だと加太港から南海汽船で25分で着きます。江戸時代末期、、黒船の襲来とともに紀伊水道第一の要所として重視され、砲台など築かれましたし、その後の戦争の時には要塞が作られて、島は立ち入り禁止となりました。今もその跡が残っています。

泉光院は引き続き和歌山付近のお寺を廻ります。

廿六日 雨天。據なく滯在。終日休息。
廿七日 晴天。木の脇村立、辰の刻。一の宮の方へ赴く、道々托鉢、堺田村善四郎と云ふ千人宿を尋ね行き一宿す。
廿八日 晴天。堺田村立、辰の刻。一の宮麓園部村久兵衛と云ふに宿す。
廿九日 晴天。四方霧の天、春の如し。園部村立、辰の刻。直ちに一の宮へ詣納經す。少々杉山あり、平地、小社南向、鳥居前在家少々あり。南叡山と云ふに詣づ。日本三叡山の一と云ふ、五間四面の本堂あり。寺一ヶ寺天台宗、大同寺と云ふ、詣納經す。夫より法花寺と云ふに詣づ。石段を上ること一丁餘、二王門あり、本堂觀音七間四面、外に日蓮堂、題目堂、寺二ヶ寺、神變菩薩開基の地とあり。又トラン尼の廟所と云ふもあり。其外行者の古跡山中にあり。野川村于八と云ふに宿す。

紀伊國一の宮は先に書いたように日前・國懸宮と伊太祁曽神社ですから、園部村の伊達神社あたりを間違って一の宮にしてしまったのかも知れないし、昔はこの近くに國府があったので、一の宮を称していたのかも知れない。いずれにしろワタクシにとってあまり馴染みのない場所なので深く追求しないでおきます。

いろんなお寺へ行っていますが、南叡山大同寺は京都比叡山の伝教大師が開いたお寺だというので南方にある叡山という意味でしょう。
法花寺は本慧寺の誤りらしくて、役小角(=神變菩薩)開基のお寺で、そこには役小角の母親を祀る「墓の谷 ハカンタン」というのがあるそうで、それをトラン尼(都藍尼)の墓としたのかも知れない。トラン尼に類する女性はあちこちの山にいたようで、女人禁制の山に登る事でそのために石や大木に変えられてしまう、という説話があるのです。佛法と仙術を修めて吉野山に居たといいます。
多少名前が違いますが白山や立山にもそういう女性の説話が残っています。

そこから先、紀ノ川の右岸(北側)、葛城山脈の麓にある根来寺、紀伊國分寺、粉河寺、へ参詣してから高野山に登りに行く事になります。

五月一日 晴天。八旗村立、辰の刻。根來寺へ詣納經す。□□上人の畫像印施に出る、本寺南向、平地、多寶塔大日を安置す。此堂先年信長の兵火に殘れり、奥の院開山の廟所あり、廻り十間石段あり、天子の陵の如し、岩穴あり、深さ三間計り、夫より錐もみの不動東八丁にあり、谷合の六角堂り。諸堂此所にもあり。境内東西八丁四方計り、古への寺數知れず、今皆荒れ地となれり。何れも堂は南向也。今に寺殘れる所は廿間計りか、靈山也。日も西山に落つる故に門前町を通り抜けて赤貝村と云ふに行き、長四郎と云ふに宿す。

現在の根来寺はもともとは高野山にあった大伝宝院を中心とする伽藍で、覺鑁(かくばん)上人が大治五年(1130)に鳥羽上皇の勅願で高野山に開いたお寺です。根来寺多宝塔
覺鑁は高野山内で真言密教に新しい考えを持ち込んだので新義派と呼ばれ、金剛峯寺を中心とする古義派と内部抗争が絶えず、殺人事件が起こるほどすさまじい争いになった。そして13世紀になると大伝法院などが焼かれたのでそこを離れて現在地に移転したのでした。
戦国時代には、一万人ともいわれる僧兵集団がいて、卓越した技術を持った鉄砲隊がいたのだが、天正十三年(1585)の豊臣秀吉の根来攻めで負けて、左の写真の大塔と大伝法院を除く殆どが焼失してしまった。
この塔は明応五年(1496)の建立で、高さ40m、多寶塔としては最大・最古のもので国宝指定になっています。
本文中に□□隣っているのは紙の虫食いで読みにくいのだろうが、覺鑁上人の事でしょう。大門や大伝法院が再建されたのは泉光院がここへ来た後の事だから、その頃はかなり淋しいお寺だっただろう。
本堂から少し東に離れた所に不動堂があって、錐鑽(きりもみ)不動、別名、身代わり不動といいますが、これは秘佛で、今は初会式の時だけ御開帳だということです。
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2018.02.09 (Fri)

泉光院の足跡 286 二十五菩薩来迎會式

十一日 晴天。夕方雨に成る。今日は滯在して托鉢せよと申さるゝに付、瀬川村托鉢、此村にて蜜蜂の家内分けと云ふを見る。蜂數千の内に旦那蜂と云ふがあり、是れ一匹也。此蜂二匹となれば家内分けする也と云ふ。此の旦那蜂の行く方へ數千の随蜂付き添ひ行く也。旦那蜂の留まりたる所へ鞠の如く集まる。密橋の分封
一匹も脇へは行かず、其集まりの内、旦那蜂を箱に入るれば皆々直ちに箱の内に入る也。其家内分けの時、随身の蜂誤て元の巣へ立歸れば友蜂共喰い殺す由也。虫類にても主人を大切にす、況や人間に於いてをや。夕方頭左衛門方へ歸り宿す。

蜜蜂の分封を見ました。
旦那蜂を女王蜂、随蜂を働き蜂と言い直せば何も付け加えることはありません。
右が分封の様子。

十二日 雨天。據なく滯留す。扨又明十三日より十五日迄二夜三日間、雲雀山得生寺と云ふに、大和國當麻寺の通り廿五菩薩練供養の由聞く、因て幸なれば參詣せんと思ひしに雨故一句、
   涼しさよ情けの雨は濡る哉
十三日 晴天。西千田村立、辰の刻。星野村と云ふに行き藤五郎と云ふに宿す。今日瀧川村と云ふへ托鉢に行く、天口と云ふ俳人宅へ見舞ふ、折節江州石山開帳參りの由にて留守也。因て一句殘し置く、
   一聲も聞かで名殘や時鳥
留守居より一句先生の句とて送らる。俳名天口と云ふはノムと云ふ字也、先生は酒が好物なれば斯く改められたりと留守居の話し也、夕方藤五郎宅へ歸る。

得生寺というお寺へ来ました。このお寺で奈良の当麻寺と同じような二十五菩薩の練供養があるというので、それを是非見ようと思うのです。
その前に、有名な人なのだろうか、天口先生という俳人を訪ねたら、先生は滋賀県の石山寺のご開帳を見物に行っていて不在、とのこと。…先生のお声を聞く事が出來ず殘念…、というような句を置いたら、留守居の門人だろうか、先生作という句を一句書いてくれた。門人の言うには、先生はお酒が大好きなので、「吞」という字を分解して、「天口」という俳名にしたとの事。

十四日 晴天。朝飯後より有田郡糸鹿村雲雀山得生寺と云ふ中將姫の寺へ詣納經す。中將姫始めて捨てられし地は麓より十五丁計り山の絶頂也。今五輪石高さ三尺計り、外に小さき石地藏安置せり。一間四方の石段あり、石燈籠あり、雲雀山大権現とあり、後に居住の地は今の得生寺也。寶物等開帳あり。本堂南向、七間四面、浄土宗、中尊彌陀、前に姫の木像高さ三尺計り、晝時より練供養始まる、寺の玄関より本堂迄の間金折りに十二三間の廻廊を掛けたり。樂屋にて簫、篳篥(しょう、ひちりき)等の音樂を奏す、廿五の菩薩次第に行列あり持物銘々あり、中程に輿を舁く、是れ彌陀か釋迦也。入堂の上菩薩段に登す、衆僧法事あり、相濟み又練りかへす、後に大衆施餓鬼あり。練供養の式紀州當麻寺の通り也。役者は十二三計りの子供也。肌着は鬱金染筒袖、手はめりやす、輪光寶冠黄金色、佛面天衣錦袖前垂の如きは皆錦にて、さながら菩薩の装束の如し。先づ一番に地藏の如きが右に錫杖左に寶珠を持てり、殊勝の法事也。一句、
   あゝ尊と我も心の練供養
得生寺

右が得生寺。ここは中将姫ゆかりのお寺です。
時は平安時代、中将姫は、天正十九年(747)、今の奈良市帯解あたりに住んでいた右大臣藤原豊成お娘として生まれました。
琴が上手だったので天皇に可愛がられたのだが、7歳のとき実母が死んで、その後継母のいじめにあって、姫が13歳の時に家臣の伊藤春時に命じてこの雲雀山の地に捨てさせたのでした。だが春時は姫の崇高な人柄にうたれて殺すに忍びず姫に仕えて養育したのでしたが、春時は病で死んで、姫は春時のために淨土經一千巻を写経して菩提を弔っていたのでした。たまたまその3年後、父である藤原豊成がこの地に来て、娘の中将姫に再会し、都に連れ帰ったのでした。
中将姫坐像
左、中将姫の(尼僧になった時の)像です。

都へ戻った中将姫はその後発心して當麻寺を訪れ、尼になる決心をするのですが、それからあとのことは泉光院が奈良へ行って當麻寺を訪れたときに書くとして、泉光院も見たという得生寺の練供養のことをまず書いておきましょう。


得生寺練り供養
中将姫の命日にあたる四月十四日(今の新暦では月遅れで5月)に、有田市糸我町の得生寺では極楽浄土から二十五菩薩がお迎えに来たという伝説を再現して、右のような「二十五菩薩来迎会式」が行われるのです。
錫杖を持った地蔵菩薩を先頭に、頭部に光輪を背負った菩薩像そのままの扮装をした小学生の女の子がお練りをするのです。泉光院の時代と同じ光景を今でも見ることが出来るのです。

「嫁をとるなら糸我の会式、婿が欲しけりゃ千田の祭」といわれて、かわいい女の子がお練りに出るので、お嫁さんをこの中から見つければいいのです。
近くの千田の須佐神社で十月十四日に行われる喧嘩祭ではきっと元気な若者を見つける事が出来るでしょう。

泉光院は托鉢しながら和歌山市の方へ向かっています。日記本文は省略しまして概要を、…
…辨當持たずに行きたればひだるしひだるし,兩村皆々商人なれば茶も出でず、…
とか、權兵衛宅で泊まった時は、
…大雨。據なく滯在。家内中或る者の嘘八百の話しを面白がるを聞きて、…と何事もなく歩いています。大雨が降れば働いている人も居ませんから、平四郎の「廻国武勇談」をご近所の人が集まってきて楽しんで聞いている。泉光院は…嘘八百…と悪口を言っているけれども、今みたいに新聞ラジオにテレビに携帯、映画にパチンコ何でもありの時代ではありません。平四郎の面白可笑しい廻国談は落語を聞いているようで楽しいのです。聴衆は拍手を送ったに違いありません。

十八日 晴天。ハシカミ村立、辰の刻。峠を越へ濱中と云ふ村へ行く。長保寺と云ふ天臺宗紀州公御菩提所御靈屋あり、樓門二王を安置す。石段一丁上る。釋迦堂南向、七間四面、多寶塔、外に堂二宇、寺中七八軒境内山林廣し。夫より南谷に入り笈頼み置き托鉢す。今晩は一宿せよと云ふに付宿す。善助と云ふ宅。
頂保寺本堂牡丹

右、長保寺の本堂(釋迦堂)です。このお寺は古いお寺で、紀州が紀伊徳川家の領分となって、初代藩主徳川頼宜がここを菩提寺としたのでそれからずっと繁栄した。樓門、釋迦堂、多宝塔など國寶です。
長保寺二王

左が樓門の二王のうち吽形。
長保寺多宝塔

そして右が多宝塔。



十九日 晴天。南谷立、辰の上刻。大崎と云ふ港へ托鉢に行く、北原と云ふに笈頼み置き行く、夕方歸り其宅へ宿す。
二十日 晴天。北原村立、辰の刻。今日も道々托鉢、一里計り行き下村彦四郎と云ふへ夕方宿す。當村善根宿なき所也.。

このあたり、善根宿をしてくれる家が少ないらしくて泊めて貰うのに苦労しています。

廿一日 晴天。下村立、辰の上刻。峠を越へ鹽津と云ふ百軒計りの廻船村へ行き托鉢、嘉七と云ふ宅にて晝食の施行あり。此人少し學問ある人にて儒神佛の話しに隙入り七つ前になる、鹽津と云ふ處は善根宿なき所故脇村へ行き、又峠を越へ一村あり、宿求むる所、當所は皆々一向宗にて善根宿なしと云ふに付、庄屋へ宿貰ひに行きたるに、辻番小屋へ宿遣はす様聞き候故に又々八丁計り山道を行き、藤代と云ふ巡禮街道へ出たり。是れ又善根宿なく、木賃宿へ行きたるに旅籠ならば宿は借さじと云ふ、方々聞き合はす所宿なし、漸く木賃に宿す。最早初夜也。月讀屋と云ふ宅。
廿二日 晴天。州崎村立、辰の上刻。二番札所紀三井寺へ詣納經す。二王門より石段を登ること三丁、本堂南向、八間四面、諸堂多し、本堂に舞台あり、西海を眼下に見る、又和歌の浦半道の外に見ゆる絶景の地也。夫より船にて大川を渡り和歌の浦へ行く、今明光の浦と云ふ玉津島明神へ詣納經す。本社南向、石山の内にあり、小社也。…
紀三井寺楼門
西国三十三番觀音札所第二番、護國院金剛寶寺です。
境内に、清浄水・楊柳水・吉祥水という三つの井戸があるので三井寺です。名水百選にもなっています。

近江の三井寺と区別するために【紀】の字を付け加えているのです。石段を登って左の写真の樓門をくぐるとそれからまた231段の石段が続きます。紀三井寺多宝塔櫻

右は多宝塔。櫻の美しいお寺です。


ここから見下ろせば右手に和歌浦、眼下に片男波という波穏やかな入江の浜。古くから風光明媚な地として有名です。
♪若の浦に潮満ち来れば潟をなみ 蘆辺をさして鶴鳴き渡る♪ という万葉歌人山部赤人の時代から、聖武天皇がここへ来て仮宮を建てて「明光浦 あかのうら」と呼び、江戸時代までは絶景の地として有名でした。

…片男波は西十丁計り外に海あり此處也と云ふ。奉納一句、
   和歌の浦や陸は卯つ木の片男波
夫より東照宮へ詣づ。花表より石段を上がる事一丁、美しき宮建也。西向、寺中多し、夫より五百羅漢へ詣づ、夫より和歌山城下へ出る。御城東向、平城、内廓の内少々高し、町數多く東北に堀あり、家中は御城より南にあり、城下を過ぎ日前明神と云ふへ詣納經す、天照大神也。日も西山に落ちる故に有合村太十郎と云ふに宿す。此村善根宿なき所、因て無理を云ひ宿る。
和歌の浦片男波

左が片男波。
実は「片男波」で検索をかけると出てくるのは「1200mにも及ぶ人工の砂浜の海水浴場」とか「潮干狩に快適」としか出てきませんし、玉津島明神も潮の干満で陸と続いたり離れたりする島の所にあった神社だったのでしたが、今は陸続きになってしまって泉光院の時代とはおよそかけ離れた光景になっているようです。
左がようやく見つけた少しばかり古い時代の片男波の浜辺の写真です。

和歌山城下へ入りました。右が1958年に新築した和歌山城の天守閣。和歌山城天守閣

関ヶ原の戦(慶長五年1600 )の後、戦功によって浅野幸長(よしなが)が紀伊國主として入城して本格的に増築を始めて、大天守・小天守・角櫓・多聞櫓など御城の形を整えた。その後元和五年(1619)に徳川頼宣が入って徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)の一つとなった。
天守閣は弘化三年(1846)に落雷で炎上してしまって、当時幕府としては天守閣の再建を認めない方針だったのだが、御三家ということで特別に許可されて嘉永三年(1850)にほぼ旧型通りの新天守が落成した。ところがそれから100年ほどたった昭和20年(1945)、空襲でまた全焼して、先に書いたように昭和33年に鉄筋コンクリで作り上げたので、右の写真のようにまだ焼けないで残っている。
和歌山へワタクシは一度だけ仕事で行った事はあるのだが、なぜかここでワタクシは名所旧跡銘菓といったものを何一つ見ていないのです。ワタクシは会社の出張で北海道から九州までかなりいろいろ行っていて、お仕事の方は何とかギリギリ報告書を書く程度のことをした後は、時間の許す限り名所旧跡を訪ね、オイシイお菓子を捜し、その蓄積が今こうしてブログを書くのに大いに役立っているのだが、ここ和歌山ではお仕事も名所旧跡もお菓子も、何一つ記憶にないのが不思議。
和歌山東照宮
日光の東照宮は御存知のように徳川家康を祀った社ですが、幕府のご威光を恐れて大名の方々は自分の御城の近くに東照宮を建てました。日本中で東照宮を名乗るお宮は50ばかりもあって、彫刻彩色それぞれ綺麗に作ってあります。左が和歌山東照宮。
和歌山は徳川御三家のうちですから大きくて立派ですね。

…城下を過ぎ日前明神と云ふへ…お詣りをしています。
ここは紀伊國一の宮で、広い境内の奥、左に日前(ひのくま)神社と右に國懸(くにかかす)神社とが一つの敷地の中に並んでいる。両方一括して日前宮(にちぜんぐう)と呼んでいる。
日前神社拝殿國懸神社


左が日前神社の拝殿。              右が國懸神社の本殿。

…天照大神也。…と書いているのは御神体が日前神社の方が「日像鏡 ひがたのかがみ」、國懸神社の方は「日矛鏡 ひほこのかがみ」・両方とも鏡で、アマテラスの時代は鏡や劍が権威の象徴だった名残でもあるのでしょうか。
この神社の近くには紀伊風土記の丘というのがあって、前方後円墳や方形周溝墓など600ばかり、いろんな古墳の見学ができるようになっている。次に行く伊太祁曽明神とあわせて新羅からの渡来人の場所だったのかもしれない。
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