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2017.03.25 (Sat)

泉光院の足跡 220 江戸の住宅事情

廿四日 晴天。今日は愛宕山へ詣で、…

愛宕山は標高26mの小さな山だけれども目立つ山で、家康が征夷大将軍に任ぜられた慶長八年(1603)にこの山の頂上に愛宕神社を建てた。
祭神は、火の神(火産霊命・ほむすびのみこと)、水の神(罔象女命・みずはめのみこと)、山の神(大山祇命・おおやまつみのみこと)で、江戸を災害から守る神様たちだった。
愛宕神社男坂石段
有名なのは左の男坂、約40°、86段の急勾配を讃岐の藩士曲垣(まがき)平九郎が馬に乗って駆け上がり、社前に咲いていた梅の枝を折って三代将軍家光に賞せられた、という話がある。愛宕神社男坂見下ろし

この石段を上から見下ろすと怖いくらいの急傾斜。


愛宕神社女坂

右は女坂。こっちの方は石段が109段で少し傾斜が緩い。
今と違って廻りに高い建物は何もなかったから、房総半島まで見渡せた。
この神社の南側に、大正14年(1925)、JOAKが本放送を開始した愛宕山放送局があった。いまはNHK放送博物館になっている。

JR山手線新橋駅の西側の烏森神社からこの愛宕山の界隈はたいていのサラリーマンには懐かしい場所であろう。
烏森神社
虎ノ門周辺にあるたくさんの「お役所」への通り道、その途中にある大きいビルや小さいビルにはお役所の「出先機関」のわかりにくい入口があって、ようやく捜し当てて、用意の書類を提出しても不機嫌な顔つきのお役人に適当にあしらわれるのがオチである。
民間の会社に勤めていても、お役所とのつながりは避けられないし、このあたりをウロウロした経験はみなさんお持ちだろう。このあたりには小さな飲み屋がたくさんあって、出張の仕事をどうやら終えてここを通れば、ワタクシの様なヒラ社員は、お役人とつるんで利権にありつく様なオイシイ仕事とは縁がなくて、もっぱら身銭を切って悲憤慷慨、苦いお酒を飲んで帰途につくのでした。
それはともかくとして、

夫より神田雉町と云ふに快長院といふ山伏に用事あり尋ね行きたる處、當時小石川と云ふ所へ宿替えし居るゝ由承る、其跡に居る人も山伏の様見へたり、三枚敷きの裏家也。江戸中山伏は皆々此様なる住居也。
長屋外部
神田雉町という町は最近の地図では消えてしまっているけれども、一ツ橋と竹橋の間の所に雉子橋というのがあって、今の共立女子大学のところから水道橋への広い道が雉子橋通りといいますから、快長院という山伏が住んでいた長屋はきっと神田神保町あたりだったのだろう。

江戸の庶民はみな棟割り長屋で間口九尺・奥行二間、右の様な家に住んでいた。
長屋内部九尺二間
その内部は左のよう。

戸を開けて入ると三尺の土間があって、続いて四畳半の畳がある。
土間の所に「へっつい (かまどの事です)」と水桶があって米櫃と漬物桶を置いて、流しがあれば何とか煮炊きが出来る。これで店賃(たなちん=家賃です)は530文程。大工などの出職の日当もほぼ530文程だから、一日の日当で一ヶ月の店賃が払える。蕎麦や汁粉が16文で、銭湯は大人10文で子供は6文。だから仕事さえあれば親子5人が暮らせた。江戸は発展途上の町だから仕事はいくらでもあって、ぶらぶらしていると大家さんが仕事を持ってきてくれた。だから「宵越しの銭は持たねぇ…」でも暮らせたのでした。江戸の長屋井戸と便所
トイレ(むこう)と井戸(手前)は共用で長屋の人たちみんなで維持をする。屎尿は肥料ですから近隣の農家が取りに来て若干の代金(たいていは農作物、大根や菜っ葉である場合が多いのですが)は大家さんの取り分になります。江戸時代は徹底したリサイクルの社会で、ゴミとして捨てる物などはありません。古着でも書き損じの紙でもみんな利用出来るし買い取ってくれる場合もあります。いつも落語で申し訳ないが、屁でも肥やしになる、という社会です。

しばらくぶらぶらして過ごします。
廿五日 同天。滯在。與力郡司俊平と云ふに呼ばれ行く。
廿六日 同天。先日より杜鵑晝夜頻りに鳴くを聞きて、
   時鳥頻りに告ぐる歸郷哉
廿七日 廿八日 無事。滯在。

ホームシックにかかったのでしょうか、泉光院が鳥のことを書くときホトトギスしか出てこないのです。雀が鳴こうが百舌が騒ごうが目白が囀ろうが、すべて子規(これも不如帰もホトトギスです)が鳴いたことにしているようだ。これは古今和歌集の影響が甚大なのです。泉光院は「古今伝授」の出来る資格も持っているようなのです。

廿九日 晴天。晝時より御殿へ上り候様御使あり上る。奥様御上りあり、右に付回國の話申上ふる様仰出され、異事珍物名所等御話申上げ夜に入り御暇下され歸宅。

奥様や御姫様、奥のお女中達に夜になるまで回國のお話を申し上げた。…異事珍物名所…など珍しい話ばかりです。きっと喜んでもらえたことでしょう。何しろ彼女たちは江戸の町ですらほとんど出歩かないのだし、つきあう人の範囲だってごくごく限られている。
ラジオやテレビ、週刊誌、CD、DVDなどと言った物は一切ないのだし、御屋敷に出入りする貸本屋だっていつも同じような本ばかりしか持ってこない。芝居を見に行くといっても浅草あたりまで行かなくちゃならない。泉光院の語る珍しい話は最高の娯楽。夜になるまで離してくれなかった。

五月朔日 晴天。 此間内々被仰付置候御祈祷の儀、來る三日吉日に候間御祈禱仰付けらるゝ旨御側用人より手紙來る。
二日 晴天。右御祈禱被仰付候に付供物等入用の品書付差上る。
三日 晴天。去歳の通り牡丹の間といへるにて終日修法相勤める。晝時より御料理被下、奥様御姫様御兩所様御加持差上る。

この霊力ある修験行者が江戸を離れる前にもう一度、佐土原島津家の隆盛発展と殿様である島津忠徹様の武運長久を願って御祈祷をして貰うような口約束があって、それが正式に文書で依頼が来たようだ。午前中は去年と同じ牡丹の間で護摩修法をして、お昼ご飯が出て、午後は奥様と御姫様のご健康を願って加持をしてさし上げる。

泉光院が健在な間は佐土原島津家も安泰でした。
ところがもう今から10年程も前の事になるでしょうか、ワタクシがたまたま東海道草津宿の田中七左衛門本陣(草津宿に今も残る本陣です)へ行ったとき、ここで驚くべきものを発見してしまったのです。
ここで私が発見したのは、天保十年(1839)四月、参勤交代の途次、佐土原城主島津忠徹がここで病気で死んだことです。
享年43歳。野田泉光院が仕えたお殿様です。
草津本陣上段の間

左が草津宿の田中本陣、上段の間。
この部屋で死んだのです。

泉光院が帰国したのは文政元年(1818)の十一月で、歿したのは天保六年(1835)一月、80歳の時でした。もし泉光院がもっともっと長生きして、殿様の無事息災の御祈祷をやっていてくれたらなぁ、などと無理なことを思ったりしたのでした。
田中七左衛門本陣の玄関の間、入ってすぐの左手の壁に、この本陣で起こった主要な出来事の年表が貼りだしてあったのの中にあった、一行の記事をワタクシは目ざとく見つけたのでした。
草津本陣門

右は草津宿、田中七左衛門本陣の門です。もしワタクシのブログをお読みになって、興味を持たれた方がございましたら、草津宿を通りかかった折にはこの門を入って、玄関の間へ入ってすぐ左の壁の上部をご覧になって下さい。
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2017.03.22 (Wed)

泉光院の足跡 219 殿様に拝謁

ワタクシが佐土原藩上屋敷跡へ行った時の様子は、No.138 佐土原藩上屋敷 の項にかなり詳しく書いてありますので、ここでは江戸切絵図の内「高輪邊繪圖」の佐土原藩邸付近を入れておきます。ワタクシの通った道は、JR田町駅からNEC本社の手前を左折して、慶応義塾大学の門前に出てから北の方に東京タワーが見えるのでそちらの方へ少し行ってから「綱の手引き坂」というのを上りました。地図には当時の殿様、島津淡路守の名前と丸に十の字の家紋(これは薩摩島津家と同じです)が入っています。
江戸地図島津屋敷a

十三日 晴天、此度三虚空藏御代参に付、四つ時御守札御近習衆へ差上げる、後刻御目見得被仰付御沙汰有之屋敷中御見舞に廻る、晝時父子共に御前へ罷出る様仰せ出され、直ちに上る。御座に召され其の後刻の儀は恐れあれば不記。御料理等下され暮時下殿す。

朝一番に総務部(のような所)へ行って、無事三虚空蔵へ御代参を済ませた事を、戴いてきた御札を添えて報告した。あとで殿様からお召しがあるだろうから、ということで、その間に御屋敷中ご挨拶に廻った。
お昼に、親子揃って殿様の前に出るようにと連絡があった。殿様、島津忠徹から、…ご苦労であった…というようなお言葉があっただろう。殿様と一緒にお食事を頂いて夕方まで土産話などを殿様に聞かせました。殿様に日本中の珍しい話を聞かせる事の出来る人は泉光院をおいて他にはありません。

十四日 晴天。予が家来仙衛門並に百姓鐵藏と云ふ者着の祝儀として音物進上、晝時西御殿と云ふより父子共に罷り上る様御使有之直ちに上る。暮時下殿す。

次の日には御隠居様からお召しがありました。西御殿というのは隠居した人が入る場所ですから、隠居した先の殿様、島津忠持さまからお呼びがかかって、これも多分食事をしながら夕方まで土産話をしました。
(水戸黄門という人も西山莊に引っ込んだのは隠居してからのようですね)、

十五日 晴天。奥州鹽竈(塩釜)日本第一安産の御守奥様御方へ差上げる。御座へ罷出る。
塩釜神社安産犬お守り

翌日は今の殿様、島津忠徹の奥方様からのお召しです。
塩釜神社で頂いてきた「安産御守」を奥方様に差し上げました。
右は塩釜神社の安産犬のお守。
まさか泉光院はこんなものを買ってきたわけではないだろうし、江戸時代には大体こんなものは売ってはいなかっただろう。犬のお産は軽い、というのでこういう御守が出来たのです。奈良の中宮寺(法隆寺のお隣)にも安産の御守としてカワイイ犬のお守を出していたように思います。

泉光院が前にここ、江戸屋敷へ来たのは文化十三年(1年前)でした。
この時にはまず二月廿一日に若殿様、島津忠徹の結婚式があって、お祝いの宴会など賑やかでしたし、三月四日には奥様から御雛飾りの拝見を許されたのでした。
その後、七日・八日と、…御兩所御武運長久…の御祈祷をして、その翌日、島津忠徹殿の、…殿様御儀御奉書に付七つ時御登城、今日御家督首尾克く相濟ませられ、…という具合に、江戸幕府に対して佐土原島津家の家督相続が忠持殿から忠徹殿に替わった事を報告して正式に承認されたのでした。

それから一年以上経ってこの江戸屋敷に戻ってきた泉光院は、殿様からも御隠居様からも、さらには奥方様からも、単に藩お抱えの山伏、という立場であるよりも藩の重要人物として遇せられたのでした。

十六日 晴天。谷山伴次と云へる知音より伊呂波鮓と云へるを贈らる。又立山貞八郎と云へる方呼ばれ行き夜に入り歸る。

鮓というと昔は、馴鮓(なれずし)とか、押し鮨とか、いたみやすい魚を上手に長持ちさせて食べる手段だったのだが、江戸文化の華開くこの文化文政時代になると、いまの「寿司」、つまり江戸湾で捕れた魚を生きのいい内に握ってすぐ食べる、「にぎり寿司」が人気を呼ぶようになりました。いまも東京には「伊呂波寿司」を名乗るお寿司屋さんは山ほどあるのだが、谷山さんから貰ったお鮨はどんなお鮨だったのだろうか。きっと有名なお寿司屋さんだったのでしょうね。

文化文政期になると外食が盛んになって贅沢な食事が好まれる様になった。いまも残る山谷の八百善をはじめ、平清、浮瀬(うかむせ)、百川(ももかわ)といった有名料理屋が店を開き、番付が発表されて人気をあおり、競ってそんなお店で料理を楽しみました。
八百善広重江戸高名会亭
左は廣重版画で、料亭「八百善」で食事をしている人びとの絵。八百善は今でも商売をしているし、テレビドラマにも登場する事があります。百川というお店も、古今亭志ん生や圓生と言ったといった落語家が落語「百川」で面白く聞かせてくれます。

十七日 晴天。二代目長泉院を本所分地御屋敷へ當時同家野田恰と云へるが詰合ふ故見舞に遣はす。予は増上寺内東照宮御祭禮に付御靈屋拝禮に詣づ、御靈屋日光御殿に同じ、美盡せり。御殿東向。一ヶ年に今日一日諸人參詣を免せりと云ふ。
十八日 晴天。無事。
十九日 晴天。晝時大雨に成る。野田恰見舞に見へたり。
芝増上寺東照宮

野田恰(あたか)という人も國元から江戸へ来ていて、本所にある佐土原藩中屋敷の方に行っているらしいので、息子を挨拶にやって、自分は芝増上寺の境内に中にある東照宮へお詣りに行った。右がその東照宮ですが、泉光院の時代のは先の空襲で廃墟になって、この写真の建物は新しいものです。泉光院がお詣りに行った時代の東照宮は、日光の東照宮と同様、…美盡せり。…の情況だったらしい。

この時代の増上寺は徳川家の菩提寺で大伽藍です。江戸の名所と言えば一番に名前があがるほどの名所でした。
芝増上寺錦絵
左は錦絵に描かれた増上寺風景。
手前の赤い建物は山門で、その二階にたくさん人が上がっている。この楼上から望む江戸の町並、品川沖に浮かぶ白帆、その向こうにかすむ房総半島、そういうのが手近な「観光」でもありました。
芝増上寺本堂
右は巨大な増上寺本堂。

野田恰氏は翌々日に来てくれた。
きっと積もる話もあっただろう。

廿日 晴天。家老小川帯刀殿と云へるが歸國に付首途酒等進ず。
廿一日 曇天。薩摩太守様御歸國に付拝禮に出る。夕方大雨、貞八郎殿國元へ届けの紙包み一つ頼む。帯刀殿御方へは日記四冊御頼み申す。初夜前御殿より父子共に只今御用被仰出候に付御目見得被仰付、予は印籠、倅へは腰下多葉粉遣置、其々御手づから被下御禮申上げ下宿。
廿二日 雨天。御隠居様御歸國、卯の半刻御出立、御玄関前栗石へ御暇乞いに禮拝す。
廿三日 曇天。御殿へ御隠居様首尾能御發駕被遊候御祝儀御近習迄申上る。

参勤交代の時期が近い様だ。本家筋に当たる薩摩島津家の当主島津齊興さまのご帰国のお見送りに出ます。佐土原島津家の御屋敷と薩摩島津家の御屋敷はご近所なのです。

佐土原島津家の御隠居、忠持様もご帰国になるので、一緒に帰国する家老小川帯刀殿に今までに書いた日記四冊を國元に届けて貰うために託したり、貞八郎殿には自分のお寺や親戚へのお土産物の包みを託したりしました。
御隠居様の御出立に際しては朝早くで雨が降っていたのだが…御玄関前栗石…の所で拝禮をしたのです。

泉光院も近いうちに回國の旅に出るのでお殿様から印籠を、倅二代長泉院には腰に下げるタバコ入れを、それぞれ…おてづから…下され、恐縮の至り。
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2017.03.19 (Sun)

泉光院の足跡 218 江戸着

いよいよ泉光院は江戸へ入ります。

十二日 曇天。國分寺立、辰の刻。直ちに市川と云ふ驛に出づ、大川あり船渡る、川上は坂東太郎也。二筋に分れ北は銚子に落ち、南は即ち此川也。水源は信州淺間ヶ嶽、下野中禪寺華嚴の瀧下也。
利根川流路の変遷
左が利根川の流路変遷図。
薄青ぼかしが中世のころ関東平野を流れていた川。
徳川家康がここに来た時は江戸はまだ低湿地で、河川の氾濫もしょっちゅう発生していた。
利根川の水を、いまの様に銚子の方に落とすにはずっと上流の方で流路を切り替えなくちゃならない。その工事が始まったのは元和七年(1621)からで、膨大な予算と33年の年月をかけて、上の方に赤字で書いてある場所で工事をして、渡良瀬川と利根川本流を銚子の方に流し、旧利根川を江戸川として江戸の方に残しました。青色実線で書いてある川がその工事で完成した、ほぼ現在の流路です。
この工事のおかげで関東平野の水運が飛躍的に便利になり、銚子の港に集まった物資を江戸まで一日で結ぶ「高速水路」ができたのでした。
泉光院は市川で江戸川を渡って、…川上は坂東太郎也…と書いているのは、今の茨城県古河市の少し南の方で江戸川と利根川が分流している事を聞いて書いているのだと思います。

…西河岸に公儀よりの番所あり、手形改め無しに入る。江戸日本橋まで三里。…
日本橋朝之景広重
市川から、いまの道路でいえば国道14号だろうが、江戸川を渡船で小岩の方に渡ったところに関所があったのだが、手形改めもなくてすんなり江戸へ入りました。
亀戸・両国・浅草橋ときて日本橋です。

廣重版画、東海道五十三次之内 日本橋 朝之景

五街道の起点である日本橋を南側の木戸から正面に見た図。
橋のたもと左側に高札場があって、幕府の出した法令や政策、庶民の守るべき道徳などを書いた高札が張り出されている。
右側、犬が二匹いるあたりは罪人の晒し場ですが今は居ない様だ。ここで晒される犯罪者は軽犯罪に属する人で、たとえば心中のし損ないとか、女犯の僧とか、そう言ったのが見せしめのためにこの人通りの多い場所に晒し者になったのでした。
橋の向こう側には日本一威勢のいい魚河岸があったり、商家が軒を連ねていたり、倉庫がびっしり建ち並んでいたりしていました。魚を仕入れてきた若い衆も急いで町内へ戻って商売をしなくちゃならない。橋の上をちょうど大名行列の先頭が渡りかかっている。日本橋の朝は忙しいようだ。

木曽街道六十九次の内 渓斎英泉版画、木曽街道續ノ壹 日本橋雪之曙
日本橋雪之景木曽海道英泉
日本橋の北側の方です。
東の空に陽が昇る。
雪はいま止んだばかりで傘を閉じているご婦人もいるようだが、中程下の開いている傘に「竹内」と書いてあるのはこの版画の出版元である保永堂、(竹内孫八)の出版であることの表示です。
刊行の途中で出版元が錦樹堂伊勢屋利兵衛(通称 伊勢利)に替わると「池仲 伊勢利」となり、さらに錦橋堂山田屋庄次郎に替わると「中橋 山庄版」と替わります。
日本橋の下流左手に土藏が軒を連ねていますね。遠くに江戸橋が見えていますがその向こうの方にまで土藏が建ち並んでいます。
江戸の下町は急速に人口が膨らんだ町なので、九尺二間(間口・奥行)といったコバ板葺きの長屋が密集していて火災が頻発していたのだが、振袖火事と呼ばれた明暦の大火(明暦三年1657 一月十八日~二十日)があまりにも猛烈で、これを機に江戸幕府は都市の大改造に着手しました。道路の拡幅、広小路や火除地の設置、屋根の瓦葺や土藏の推賞といった火災に強い町作りです。それでこういう風景ができたのでしょう。
日本橋明治初年

右の写真は明治初年の頃の日本橋。
廣重や英泉の版画とかわりませんね。

ワタクシが初めて東京という町へ行ったのは昭和27年(1952)だった。その頃の日本橋。
日本橋昭和27年
堂々とした立派な橋です。
橋の真ん中には日本國の道路の元点である「道路元標」が埋め込んでありました。
ちゃんと「日本國道路元標」と書いてあります。日本橋道路元標
(現在は摩耗をおそれて橋のたもとに飾ってあるようです。無理もないですよね。昭和27年の写真では車の数なんてごくわずかしか見えませんけれども、平成の10年頃、この道路元標の写真を写しに行った時には実にたくさんの車が走っていて、道路の両側の信号が赤になって車の途切れた一瞬を狙って、命がけでシャッターを押したのでした。)

右の写真、道の真ん中に見えているのが道路元標。日本橋道路元標と照明燈

そして照明灯の下にいる麒麟(という伝説上の動物)。
日本橋麒麟








日本橋自動車道路の下

左は高速道路というのが日本橋の上にできて、見るも憐れな日本橋の現状です。



日本橋人物東海道広重

廣重版画にも日本橋の橋の下を描いたものがあるのでそれを載せておきましょう。日本橋南詰東側にあった河岸に女が二人降り立った所。




泉光院は市川で大川を渡って、番所では手形改めもないのでそのまま三里で日本橋へ着きました。


江戸地図日本橋から島津屋敷



右の地図、文政十一戊子年、日本橋の書店須原屋茂兵衛発行の江戸図。
とても美しい地図です。

一番左上、御城とあるのはもちろん江戸城で、それを取り囲む堀は内堀。それで日本橋はどこかというと、一番上右隅っこで、そこから東海道が南の方(図では下のほう)に向かっています。ほかの道路よりほんのちょっとだけ幅広く描いてあるようです。
右中程、海の上の方に葵の御紋のある広い土地が、濱御殿、いまは浜離宮庭園になっている場所。画面左中から濱御殿までの堀が外堀。
外堀通りに沿って「虎の御門」とか、山下御門、数寄屋橋御門、というのが開いていて、外堀の内側、、つまり江戸城の周辺には親藩・譜代大名などの屋敷が入っていて、外堀の外側には外様大名や小大名の屋敷があった。この時代の地図はとてもよく出来ていて、大名や旗本の屋敷は全部名前が入っています。そして上屋敷には赤丸の中に家紋が入っていて、その赤丸紋の所に門があるのです。中屋敷には黒四角■のマークが、下屋敷には黒丸●のマークがありそこが門です。例えば濱御殿の左の黒四角■の御屋敷は松平肥後守殿の中屋敷、そのお隣の赤御紋の御屋敷は松平陸奥守殿の上屋敷、というわけです。
よくテレビドラマなどで大名屋敷の門のところに表札が貼ってありますがあれはウソで、大名屋敷の門には絶対に!表札は貼ってありません。もっと詳細なのに「切絵図」というのがありますが、それを見れば玄関の位置までわかります。
汐留シオサイト
松平陸奥守・松平肥後守のこの広い御屋敷跡はいまどうなっているかと言いますと、少し前までは日本国有鉄道の汐留貨物駅だったのだが、JRになってから売りに出されて「汐留シオサイト」という新しい町になりました。右がその汐留シオサイト。右端に森が見えていますがそれが濱御殿であった浜離宮公園。昔の大名屋敷というものがどんなに広大な土地を持っていたかこの写真一つでもよく判ります。

泉光院に戻りましょう。
日本橋から、中央通りといいますか、丸善と高島屋の間の道、松屋・三越・松坂屋といったデパートの建ち並ぶ道を歩いて、新橋駅下のガードをくぐって増上寺の近くまで来ました。すると…芝将監殿橋…という所で三人のお侍が待っていました。

…晝時芝将監殿橋と云ふにて、國元より江戸詰の兒玉助五郎、籾木善藏、江藤利衞門と云ふに出合ふ。江藤氏直ちに屋敷に歸り一番小屋へ通達す。又國元より二代長泉院永々對面せざる故安否伺ひとして先日より着し居る由、右知らせたり。因て伊勢屋茂兵衛と云ふ知音あれば此宅にて出合ふ。伊集院氏、與力俊平と云へるも直ちに迎ひに見へたり。久しぶりにて一献、不思議に父子對面すれば一句、
   めぐり合ふも命なりけり風車
晝過三田小山の屋敷へ着く。御隠居様御待兼遊ばさるとて、直ちに伊集院氏より泉光院只今着の御届け仰せ上げられる。
江戸地図島津屋敷周辺
右の地図はさっきの地図の右下の方、少し拡大しました。
一番左下に丸に十の字の佐土原島津家の家紋が見えます。この御屋敷に泉光院はしばらく滞在することになります。

この地図で、北から南に一番右の広い道路が東海道、金杉川を渡りますがその橋は金杉橋で、その左の橋が将監橋、さらに左が赤羽橋で赤羽橋の上に見える寺社が芝の増上寺です。

國元から参勤交代で来て江戸詰になっている三人のお侍サンという人たちは、広い意味で、泉光院の部下だった人たちだっただろうと思います。山伏であると同時に佐土原藩では棒術の師範役でしたから。前もって江戸屋敷に到着の日時を連絡してあったのでしょう、ちゃんと将監橋の所まで出迎えていて、江藤サンはすぐさま御屋敷に走って帰って、「泉光院さまご到着ぅ~」と伝えました。将監橋現在
右は現在の将監橋のありさま。江戸時代には将監殿橋と呼んでいた由緒ある橋も、首都高速道路の下になって気息奄々と名残をとどめているに過ぎない(でも橋が残っていて、「しょうげんはし」と名札が読み取れるだけでも、泉光院の足跡を追っかけているワタクシとしては実に有難い事ではありますが)。
二代目長泉院というのは泉光院の息子(長男)です。泉光院は、現役の時には長泉院と名乗っていたのだが、自分が殿様の許可を得て隠居して、息子に家督を譲った時に長泉院の名前も譲ったのでした。息子も父親の顔を長いこと見ていないのでここまで対面のためにやってきたのです。
江戸屋敷の近くに伊勢屋茂兵衛という知人の宅があるので、そこで旅の衣を脱ぎ捨てて、まず…一献…盃を傾け、…種々馳走…もありました。
三井倶楽部西側入口
左の写真は佐土原藩上屋敷のあった場所に建っている「三井倶楽部」の入口付近とプレート。
三井倶楽部プレート






下は三井倶楽部正面。
三井倶楽部正面
三井倶楽部正面前景
右の小路を入った所に多分佐土原藩の長屋らしい建物が見えていました。
三井倶楽部佐土原藩長屋

三井財閥は明治になってからこの土地を手に入れて、一族の社交のために立派な建物を建てて「三井倶楽部」としたのでしたが、敷地の一隅に佐土原藩邸の名残をとどめる長屋を残したのかも知れません。

泉光院は四月十二日にここへ入ってから五月七日に出立するまで一ヶ月近くをここで過ごす事になります。
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2017.03.18 (Sat)

日記 2017年3月

1日 水 1023hPa 曇 ワルツで珈琲豆。いつもと同じ。
2日 木 1015hPa→1011hPa 雨。無事。
3日 金Paoのお雛様
1012hPa 快晴。
いつも行くカフェ、Paoで紅茶。
右はPaoのお雛様。カワイイですねぇ。
クルマで使うカード







本日を以てクルマに乗るのを止めました。ワタクシも既に後期高齢者です。自動車整備会社を経営している沼津の知人から購入したクルマを今日引き取りに来て貰ったのでした。

左はクルマで使っていたカードの類。上から、
JAFの会員証。何かトラブルがあった時、JAFに来て貰ってタスケテェーという時に使う。
その次がETC card で、高速自動車道をスッと通り抜けるための料金引落し用カード。
一番下はガソリン代引落しカード。
全部有効期限内です。すぐ捨てる予定ですが、念のためにカード番号は消しておきました。
あと、運転免許証というものもクルマの運転の必需品ですが、これはワタクシの身分を警察が証明してくれるものなので、当分は捨てないでおきます。平成30年2月まで有効なんですから。
できれば今年の末、もう一度試験を受けて免許の更新をすればワタクシ86歳まで身分証明をしてくれる。そしてその頃までにはワタクシの寿命も尽きている事でありましょう。   
4日 土 1017hPa 晴。Paoで珈琲。
クルマをやめるとなると、生活必需品の入手方法を考えなくちゃならない。
灯油=(有)マルイ伊藤商店。浜松市中区城北3-1-5 ℡ 053-471-1331 定休日:土日祝
食料品=おうちコープ
の2つは確認、連絡済み。
5日 日 啓蟄 1015hPa 曇 Nob.サンから久坂サンのグループの譜面台の蝶ネジISO蝶ネジM5L12mm
を買いたいとの連絡あり、現品を確認したら、ISOネジで、M5・12mmの蝶ネジ。明日にでも「ねぢきん」のお店へ行って買ってきましょう。
6日 月 1013hPa 曇→晴 Paoで珈琲。
「ねぢきん」で蝶ボルト、M5、L=12mmなどを買う。Nob.サン→久坂サンの依頼。L=12mm の蝶ボルト、在庫が9本しかなかった。残りjはL=10mmのものを買う。久坂サンは10日に来るのでその時に逢いましょう。
味噌つくりの準備。麴を買いに行く。 
7日 火 1012hPa 晴 今年4回目の味噌造り。来年夏分までできる。
賀茂真淵記念館へ行って今年の講座、予定表を貰ってくる。面白そうな講座がありました。
商工会議所の3Fを覗いたらhironoサンの姿が見えました。久しぶり。わずかな時間だったけれども話をしてきました。ずっとワタクシのブログを読んでいて下さるそうでウレシイ。
8日 水 1013hPa 晴 
Paoで塩崎サンほかのコンサートがあったのだが失礼した。
久しぶりに浜リコ練習に行く。6月の「リコーダー・フェスティバル」にワタクシは出演しないのだが練習には入れて貰う。
バッハ:「音楽の捧げもの」から6声のリチェルカーレ。これはとても難しい曲でした。
ヘンデル:オラトリオ「ソロモン」からシバの女王の入場行進。
そのほかイギリスのルネサンス時代の曲などいくつか。ワタクシはこれらの音楽が大好きです。
9日 木 1013hPa 晴 無事。
10日 金 1012hPa 晴 hiroサンからメールを頂いた。ありがとうございます。
11日 土 1015hPa 晴 珠美サンからメール、
由美画廊へのお誘いでした。杉浦健司作陶展。由美画廊杉浦健司作陶展
初めて教えて貰ったのだが、左の白いのは酸化炎で焼いたもので、右の黒い方が還元炎。
見終わってからメイワンの谷島屋へ行ってワタクシはニコリの最新号を買って、その後お茶をしに行ったのだが今日はいいお天気でどこもいっぱいの人。
今日は珠美サンにご馳走になった。有り難うございました。
12日 日 ◯ 1016hPa 晴 無事。
13日 月 1016hPa 曇 久しぶり、Paoで紅茶を頂く。久坂サンフルーツチョコ
14日 火 1014hPa Nobサンからの依頼で久坂サンのリコーダーグループ(立川?)の譜面台ネジを6日に買ってきて、渡して貰ったそのお礼ということで、今日南図書館へいってNobサンからフルーツチョコレートを戴いた。「機会があれば東京での演奏会にお運びいたければうれしい」と添えてありました。その機会、があればいいですね。色とりどりのチョコレートでウレシイ。
15日 水 1009hPa 晴 「おうちCOOP」の第1回配達を受け取る。定期的に取るものを決めておけば便利。
Paoで珈琲。
16日 木 1014hPa 晴 CO-OPのお店でたくさん買い物をして、次にワルツへ行っていつもの通りの珈琲豆をいつもの量だけ買い、バスに乗って由美画廊へ立ち寄りました。気がついたら買い物袋は持っていたのだが、私物を入れてある頭陀袋をバスの中に置き忘れたらしい!なんという事。バス会社へtelを入れて確認したら、忘れ物係に届けてあって保管されているとの事。ホッとしました。たいした物が入っているわけではないのだがそれでもねぇ。由美画廊のAkh.サンにまで心配をかけてしまった。忘れ物を受け取りに行って、無事戻ったお祝いにお酒など買いました。だがバスの中に忘れ物をしてくるとは何とした事。これから気をつけましょう、ハイ!
中部電力の広告で、「カテエネ」というのに登録すると使用電力量などをメールで連絡をしてくれるというサービスがある、というのでパソコンで登録をしておいた。
17日 金 1017hPa 晴 Paoで珈琲。矢島屋で中公新書「応仁の乱」を買う。ワタクシは応仁の乱のことを何も知らないのです。京都の人は応仁の乱を、…この前の戦争の時…と言うそうです。誰と誰が何のために争い、結果がどうなったのか一通り読んでおきます。
18日 土 1018hPa 晴
昨日から春のお彼岸。ワタクシの家の近くの鴨江觀音へ行きました。
鴨江観音春彼岸本堂鴨江観音春彼岸水かけ地蔵

左が本堂、右は水掛け地蔵。この由来はわからないのだが、長い竹柄杓に水を汲んでお地蔵さんの頭から水を掛ける。
鴨江観音春彼岸ペット観音鴨江観音春彼岸露店

左が今年から新設されるペット用のお墓のようだ。観音菩薩立像とその前に不動明王、周囲に四天王を配した立派な墓地の様だ。前に立ててある小さな卒塔婆はここに初めて葬られるペットの名前を書いた卒塔婆らしい。右は境内で店を張る露店。境内と近くの道路合わせても50店ほどだろうか。亡息がまだ子供だった頃は境内からはみ出した露店がずっとJR浜松駅前に向かう道路の片側に長く長く伸びていて、その中には飴細工を上手に作るオジサンや運命を鑑定してくれるオバサンなどもいて面白い處だった。
19日 日 1019hPa 晴 無事
20日 月 春分 1018hPa 晴 えり子サンからtel。
21日 火 火 1009hPa 雨 Paoで珈琲。
22日 水 1010hPa 晴 Paoで珈琲。塩崎サンも来る。福田のドルチェ倉庫コンサート、バスの時刻表を持ってきてくれる。クルマがないのでバスが頼り。浜リコは休む。
23日 木 1016hPa 晴/曇 えり子サンのご招待でイタリア料理、イル マルカンポというお店。小さくて綺麗なお店。
イタリア料理肉と魚えり子サン左はホタルイカと菜の花のパスタ。
イルマルカンポ菜の花ホタルイカ
右、ワタクシは肉料理、えり子サンはお魚料理。
とても綺麗に作ってありました。
フルコースで頂きました。
とても綺麗に作ってあって美味しかったですよ、ありがとうございました。

24日 金 1017hPa 晴 Paoで珈琲。
25日 土 1018hPa 曇 Paoで紅茶。
26日 日 1016hPa 曇 
フェリーチェ合奏団の春のコンサート、「桜咲く春のサロンコンサート in DOLCE倉庫 Ⅶ」です。
桜咲くフェリーチェファゴット
プログラム
Mozart : ディヴェルティメントBdur
Kv.137
Vivaldi : ファゴット協奏曲 Bdur 夜
           Rv.501
ファゴットソロ 和田義之
桜咲くフェリーチェ合唱
Bach : 和声とインヴェンションの試    み よりフーガ BWV878
Bach : 組曲3番より アリア
Mozart : ヴェスペレ Kv339 より
     Laudate Dominum
Mozart : アヴェ ヴェルム コルプス
Kv.618
アンコールは、Bach の 「主よ人の望みの喜びよ」でした。
27日 月
28日 火 ●
29日 水
30日 木
31日 金
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2017.03.13 (Mon)

泉光院の足跡 217 鹿野山

五日 雨天。據なく滯在。仁王一部。主人は廿四五歳の人にて猛勇者と見へたり。此間迄百姓にてありしが、越中守御領に成り足輕の様召使はる。因て急に刀の差し様、抜き様、其外棒執手等心掛け居るも、此邊百姓計りなれば一人も知るものなしと云ふ。居合刀ある故に御稽古候哉御見せ候へとて一見す、二尺五寸計りあり。予居ながら稻妻の如く抜き見せたれば、恐れ入り何卒抜き様教へ呉れ間敷きや、只今は斯様々々とて武術の話しあり。因て刀の差し様抜き様、居合手形少々教へたり。夜に入り棒の手形教ゆ、近所の若者三四人集まれり。
六日 同天。右仕事もあり無理に滯留勸めに付終日右の稽古。
七日 晴天。今日は平四郎存じ寄りにて滯留と云ふ。晝少々托鉢に出たり。仁王一部。

松平越中守は、百姓の若い者の中から力のありそうなのを集めて急ごしらえの兵隊を組織したらしい。居合女
ここの主人宗兵衛サンも、刀を貰ってはみたもののちゃんと教育して貰わないものだから扱い方がわからない。泉光院は佐土原藩では山伏であると同時に武術(特に棒術)の指南役でもあるので、まず居合の型をやってみせた。居合男
…稲妻の如く…刀を抜いたり元の鞘に収めて見せたりすればたいていの素人はビックリしてしまう。そしてこの家に三泊して、近所のにわか足軽たちも集めて教えてやるのです。
結局は鎖国を解いて開国となるので、この若者たちのにわか武術は役に立たないまま明治になってしまった。

百首村を発って、神野寺(しんやじ)へ行きます。

八日 曇天。百首村立、卯の半刻。鹿野山と云ふは上總第一の高山也、此方へ詣づ。麓より三里上る。房州上下總眼下に見渡す、晝時詣で納經す。本尊藥師、軍荼利、本堂九間四面、彫物彩色盡し、金具皆金滅き(金メッキ)、柱、垂木極朱、二王門並に諸堂多し、寺三ヶ寺、門前町旅籠屋、茶屋等多く、堂の東と西とにあり、今日誕生會に付老若男女參詣多し、晝過大雨。夫より山中三里下り長石村庄兵衛と云ふ宅に宿す。佛生會興歌一首、カノウと云ふ名によりて
   何事も思ふ願ひのカノウ山 釋迦も此世で生れ玉へば

鹿野山(352m)は、低い山ばっかりの房総半島の中では最高峰に近い山。その山上近くに鹿野山琳聖院神野寺がある。そして今日は四月八日、お釈迦様の誕生日という事になっていて、花祭り、誕生佛に甘茶をかける日です。
新野寺
左が神野寺の本堂。
今でこそこのあたりは東京から近くて低い山ばかりだからゴルフ場や牧場がいっぱいあって賑やかだろうが昔は麓の村から10kmや15kmほどは歩かなくちゃならない場所でした。
それでもお釈迦様の誕生日になると麓の村から老若男女がおおぜい參詣に来ていました。
釈迦誕生佛東大寺
ワタクシも子供の頃、近くの慶覺寺というお寺で花祭りがあって、本堂の前に釈迦誕生佛が出て,子供たちは甘茶をかけて、甘茶を飲んで、そればかりではなくてお団子のようなものを貰うのが楽しみでした。右の佛像は東大寺の国宝ですが、慶覺寺でも高さ20cmほどのこれとよく似た佛像が出ていたのでした。
誕生佛というのは、お釈迦様が摩耶夫人の脇の下から生まれて、そしてすぐ右手を挙げ、左手を下げて、三歩歩いて「天上天下唯我独尊」と宣言したその姿を形にしたものです。お釈迦様の誕生を祝って天から龍が舞い降りてきて香水を注いだ、という故事から灌佛會(かんぶつえ)というのが行われるのでした。東大寺では天平勝宝四年四月の大佛開眼の頃から続いている行事です。

九日 晴天。長石村立、辰の刻。一里に高倉と云ふ坂東札所あり詣納經す。小松の内本堂十間四面、荒木作りの堂、階段の處破風なし、ガンギ石計り、柱は二間毎に立つ、眞中に少しの佛間あり、本尊藥師一體、床の高さ一丈計り、廻りに縁なし。夫より永藤村清左衛門と云ふに宿す。

高倉觀音の名で知られる高藏寺。
坂東觀音札所第三十番です。
30番高蔵寺本堂

本堂はちょっと変わった建物で、重層入母屋造りで高床式。この床がとても高い(約1.9m)のと、構造柱が88本もあって、鉋で削ってなくて斧で削ったままの2m近い太いのや細いのまでいろいろ。建築に古色のある点で、西国・坂東・秩父百觀音の随一と称している。
高蔵寺望み叶う観音
誰が作ったのかわからないが境内には右のような「望み叶う觀音」というとても可愛らしい観音様がいらっしゃる。世の中そんなに甘いものではないと知りながら、それでもこんなカワイイ像があるとつい拝んで、願い事の一つか二つを頭の中に思い浮かべてしまう。

十日 晴天。永藤村立、辰の刻。國分寺へ詣納經す。本堂三間四面。藥師如來、二王門、寺一ヶ寺、門前人家なし。…
上総国分寺七重塔礎石

右は市原市惣社にある上總國分寺の七重塔中心礎石。市原市の中心部、市役所の近くです。泉光院が来た時にはもちろん何もなくて、正徳六年(1716)に建てた清浄院というのがあって、そこにお詣りをしたようだ。

…夫より八旗へ赴く。二里海邊に出で八幡に詣納經す。本社極朱大社、西向、別當寺一ヶ寺、此邊町多し、當處少し先より下總の國佐倉領と成る。此所より江戸街道は西に當れり。今日坂東札所千葉寺へ詣る筈の處、彼の邊宿なき處と聞く、因て當所小田坪と云ふ所に宿す。

飯香岡八幡宮拝殿
海岸近くまで出てきました。
市原市八旗八幡にある八幡さま、飯香岡八幡宮です。重文指定のお社です。
この付近の海岸線はすっかり埋めたてられて、石油タンクと火力発電所と石油関連化学工場が林立(というか乱立)している。
江戸時代の面影は全くありません。

十一日 晴天。小田坪立、辰の刻。直ちに坂東札所千葉寺へ詣納經す。只今燒失故假り堂、…
29番千葉寺境内

左が坂東觀音札所第二十九番の千葉寺の山門。
千葉氏の菩提寺だった。




…夫より八旗八幡へ詣納經。本社南向、拝殿に不動一體、前に護摩壇一面。二王門あり、本通りに町あり。扨此八幡境内に少しの松山あり、諸人入る事を禁ず。此所古へ將門(平将門です)八陣を布し置かれたりと云ふ。先年常州水戸黄門公御社參にて禁制を破り、無理に入り玉ふ時恠(あや)しき事どもあり、因て今諸人一人も入らず。夫より國分寺へ詣納經す。本堂八間四面、南向、樓門あり二王を安置す、日も西山に落つる故に籠り堂へ宿す。飯は本坊振舞あり。門前茶屋あり。(恠=怪の俗字)
葛飾八幡宮
こちらは葛飾八幡宮です。
書いていてもどんどん江戸が近くなってくるのがわかる。葛飾というと、いまは東京都の中に入っているけれども、江戸川のすぐ東が葛飾だった。

鳥居の前の一画に「八幡の藪不知・やわたのやぶしらず」という森が今でもわずかに残っているのだが、ここは天慶の乱(938年の頃)のとき、平貞盛が八文遁甲の陣を布いた場所だと言い、貞盛が平将門に敗れてから、この地に祟りが残っているのだそうです。そこでまた水戸黄門の登場ですが、「そんな祟りなんてあるわけがない」と禁を犯して入ったところ、白髪の老人が現れて「禁を破って入るとは何事か!汝は貴人である故に罪は許すが、以後禁を破ってはならぬ!」 という話が伝わっているのです。
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