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2019.04.04 (Thu)

ヨリックの中山道 007 志村一里塚

板橋を渡った先の右手に「縁切榎」というのがあります。
縁切榎

寛政四年(1792)の序文のある『四神地名録』に、「この辺に近藤なにがしかの下屋敷ありて、大樹の榎街道の上に覆いかゝりて枝葉繁茂す。何時の頃よりか此木を縁切榎と称して嫁入婿入の人は忌嫌ひて此木の下をば通行せずして大ひにまわり道をせると云ふ。世の習ひにてさまざまののぞみも有るにや、木の枝に幾つとなく繪馬をつるして有り。埒もなきことにて幾としか人の邪魔になる惡木なれば、切りてのぞき度もの也」と記されている。
人の迷惑になるこんな悪い木は切ってしまえ!というのです。

昔は左側(板橋の方から見て)にあったのだが枯れて、そのあと二代目もあったのだがそれも枯れたので、反対側に祠を作って二代目の枯れた木の表皮をコンクリートで固めて祀り、三代目を植えたのが今の木なのだという。
この木の利用方法は、表皮を剥ぎ取って細かくして、水か鮭の中に入れて飲ませると別れられるのです。きっと木の皮の需要は多かったのでしょうね。初代がすっかり皮を剥がれて枯死し、二代目を植えてもまた枯れてしまうほど皮を剥ぐ人が絶えなかった。三代目は厳重に囲ってあるようだがどうでしょうか。

昭和30年代に描かれた絵によると上半分が枯れて無くなっていて、目通りあたりに注連縄を張ってあり、絵真板に縁を切らせたい男女の年齢を書いて木の根元に奉納すると不思議に縁が切れるという。名前まで書くといろいろヤバイから、年齢だけで好い、というのは随分考えたものだ。

十代将軍家治(いえはる)に五十宮(いそのみや、閑院宮直仁親王娘)が御降嫁の時と、十二代将軍家慶(いえよし)に樂宮(さざのみや、有栖川宮熾仁親王娘)が御降嫁の時は、この道を避けて根村道を通ったと言うし、文久元年(1861)の皇女和宮(孝明天皇妹)が十四代将軍家茂(いえもち)に御降嫁の時は、やはり縁起を担いでこの榎を薦(こも)で包んで見えないようにしてお通りを願ったという。縁切榎という名前を嫌ったのでした。
皇女和宮は京都・天皇家に育った娘だから、江戸という遠い田舎の武家の頭領である徳川家へ嫁に行くなど…いやいやのこと…だったらしいのだが、徳川家に嫁した後は徳川家存続のために努力したのでした。

縁結び榎というのが千駄ヶ谷にあった。
今の国立競技場東、仙壽院というお寺の境内にあって、お萬榎という名前で知られた。
仙壽院は紀州徳川家の頼宜の建立で、頼宜の母、お萬の方が時々お詣りに来たという。お萬榎は根元の少し上の方で二股に分かれていて、人間が逆立ちしたような形だった。何故縁結びなのかその由来は詳しくは知られていない。
この榎は戦災で焼けて、枯れた根元の株は隣の石屋の庭にあった。
仙壽院の庭は非常に広くて、櫻があり、庭石や泉水を配して、一日眺めていても飽きないので、谷中の日暮里にある「日暮しの里」に対して「新日暮しの里」と呼ばれたのだったが、明治以後庭を切り売りして、ついにはこの榎の株が石屋の庭に納まったのだという。しかしバブル以後、こんな所で石屋の商売が出来るわけでもないだろうし、今捜しに行っても跡形も見あたらないだろう。

縁切榎の先は志村の原で、そこは将軍家の鷹狩り場で、「御拳場 おこぶしば」と呼ばれた。
家康は鷹狩りが好きで、駿府でも江戸でもさかんに鷹狩りをした。三代家光も好きで、鳥見役という職制を作って整備した。ところが五代綱吉は「生類憐れみの令」を出したほどだから自身でもやらなかったのは勿論、鷹狩り関係の職員を全部リストラしてしまった。八代将軍吉宗は鷹狩りが好きなので、享保元年(1716)に鳥見役を復活し、その翌年には間口21間奥行29間(600坪以上!)という鳥見小屋まで新設した。
独裁者の勝手な振舞で役人はたいそう迷惑する。

この志村の原に江戸から三里目の一里塚があります。
志村一里塚西塚志村一里塚東塚

左は志村一里塚西塚。                   右が同じく東塚。

普通一里塚は道の両側にあって、一番多く植えられているのは榎です。杉、松、や竹、稀には果樹を植えてある一里塚もあった。中山道の総計では榎96,松43、栗6、欅3,桜2、竹2,梅2,柊1,桑1,トネリコ1,と榎が圧倒的に多かった。
落語では、一里塚を作ることが決まったとき、御役人が公方様に「何の木を植えましょうか」とお聞きしたところ、ちょっと変わった木を植えたらどうか、という意味で「異な木を植えよ」と仰せになった。御役人は何のことだかわからないので、「は?」、と聞き直すのだが、「異な木を植えよ」と言うばかり。あんまり聞き直すことも出来ないから、みんなで首を集めて相談した結果、「えのき」を植えることにした。こんな落語、誰がしゃべっていたか忘れたが、「イナキヲウエヨ!」と言ったのだけはよく覚えている。

志村の一里塚を出とすぐ中山道は坂上交番の所から左手斜めに入り、国道17からちょっと離れる。
ここから道は下りになって、「清水坂」・「地藏坂」・「隠岐坂」などいろいろの名で呼ばれている坂になる。寛保年間(1741~43)に大善寺の直正和尚が寄付を集めて石を敷いて階段を作った。将軍吉宗が鷹狩りの時大善寺に立ち寄り、境内の清水が清冽であったことから、「清水の藥師と唱えよ」と言ったのでこの辺を清水と言うことになった。藥師の泉
〔江戸名所図会〕には大善寺の本尊について、「本尊藥師如來は聖徳太子の真作にして、境内清泉湧沸す、ひととせ大樹(吉宗のことらしい)この地御遊獵の頃、當寺へ立寄らせ給ひ、此の清泉によりて此の本尊を清水藥師と稱すべき旨、命有り」とある。
大善寺はなくなってしまって境内にあった清水は荒廃したのだが、平成元年頃、板橋区によって右のように整備された。

清水坂を下ると道はグニャグニャと曲がっていて、国道17号と合流した先の旧道はJR埼京線などレールの下になったので国道17を歩いて橋を渡って対岸へ行きます。
戸田橋荒川
左は荒川にかかる戸田橋で、中山道はこの橋の下流100mほどの所に渡船場があってそこから船で対岸へ渡った。
戸田橋渡船場碑

右が戸田渡船場碑。
この碑は荒川を渡った対岸の川岸にある。

荒川の平時の川幅は約六拾間(約100m)で、水深も四尺(1.2m)ほどだったが、出水すると一丈八尺(5.5m)にもなるので船は出せない。
旅人は水が引くまで滞在するか、江戸へ引き返すか、あるいは千住宿まわりになった。
対岸へ渡ると戸田市で、旧の中山道は所々失われているので国道17を歩くことになります。
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2019.04.01 (Mon)

日記 2019年4月

1日 月 1014hPa 晴 Paoで珈琲。Wagnerサンの栞Wagnerサン書画展チラシPao
ちょうどAmit Wagnerサンご夫妻が来ていらして、色紙に十二支を描いた絵と、漢詩を書いた軸を展示してありました。
写真機を持っていなかったのでその素晴らしい作品をここに載せることが出来ないのが殘念なのだが、近いうちにまたPaoへ行って写真をここに載せたいと思います。
右にご自身で作った(のでしょう)チラシと、栞を載せておきました。
栞は\500でした。

2日 火 1016hPa 晴 Paoで珈琲。Wagner氏の書1
3月31日の「桜咲く春のサロンコンサートin Dolce倉庫」
の写真、プリントをPaoに預け置く。
Amit Wagner 氏の書、写真を写しておく。
右の「勸君莫惜金縷衣 …」も立派だし、左のいろんな言語での「平和」も素晴らしい。
3日 水 Chantillyで珈琲。
図書館で池内紀著『伝綺肖像館』を借りてきた。
池内紀はワタクシの好きな作家です。
風変わりな人のヘンテコな評伝を書いている。
澁澤龍彦、内田百閒、石川淳、井上ひさし、古井由吉、…総勢20人。わずか200ページ程の本にこれだけの人を押し込むので一人当たりほんのわずかのページ数しかない。喫茶店へ入って少しばかりページをめくってみた。たいそう面白そう。

図書館へ行く途中、気になる櫻の木がある。
紅白の桜4月3日紅白の桜枝一つの枝に紅白の花が咲いている。
桜の頃に図書館へ行く道すがらこの花を見るのが楽しい。
そして図書館でNby.サンと言葉を交わすのも楽しい。

4日 木 1017hPa 晴 ワタクシの住んでいる町の自治会で部長と組長の両方を担当することになって、まず第一番にすることが町費の蒐集と住民名簿の確認。かなりの大金を扱うので大変。ブログを書く時間が削られるのが辛い。
5日 金 ● 清明 1013hPa 晴 他人からお金を集める仕事というのはワタクシにはとても辛い仕事。さらに家族構成などプライバシーに関することを聞き出さなくちゃならないのも困る。
さらにワタクシは市内で音楽をやっている人は知っているのだが、町内に住んでいる人は殆ど知らない。
6日 土 1011hPa 晴 町内の人に接する仕事をするなんて初めてのことなのでつらい。
早くこの一年が過ぎ去ることを祈ります。
7日 日 1009hPa 晴 町会費を集めて会計へ持って行った。次の集金は「浜松祭 凧揚げ」の寄付を集めること。町会費と違って任意の寄付なのでどれだけ集まるか?それと緑の羽根の募金。イヤハヤ。
夜のFMラジオでリムスキィ・コルサコフのシェラザードを聞いた。久し振り。
演奏はNHK交響楽団。指揮がトゥガン・ソヒエフという聞き慣れない名前の人。サントリーホール。
近頃のオーケストラの演奏は、弦楽器群がやたらに大勢いる。第1Vn、第2Vnともそれぞれ12人位居て、ヴィオラ、チェロもそれに見合って10人から8人程、コントラバスだって今日数えてみたら6人も居た。それにひきかえ管楽器群はそれぞれ規定の2管編成(勿論これで充分なのだが)。サントリーホールはとても音響の好いホールなので(ピアノのポリーニの演奏を聴きに行ったことがある)、弦楽器群は半分位の人数で充分なのではないだろうか。
そんなこともあって最近ワタクシは大きな交響楽団の演奏会を聴きに行くのがイヤなのです。
8日 月 花まつり 1010hPa 晴
Paoで珈琲。Wagner氏展示会風景s

Wagner氏の書道展風景。

夜、佐藤サンからTelあり。先日のドルチェ倉庫コンサートのことなど長々とお喋り。
この時佐藤サンは指揮をしなかったし、別の人が指揮をしたことでいろいろ心に鬱屈があったのだろう。できれば近いうちに浜リコの練習に行ってお喋りにつきあってあげようか。
9日 火 1012hPa 晴 Paoで珈琲。
少し時間の余裕があったので、ヤマハのInnovation Road というのを見に入りました。
山廃ノーべーション入口白熊

入ったすぐのホールに大きな白熊親子が出迎えてくれます。これがなかなか面白い。

ヤマハイノベーション入口ガイド


明治20年の創業以来のヤマハの歴史を一堂に集めた展示、という趣き。

18号館全部を使った大きな会場で、楽器やオーディオなどヤマハの誇る製品がズラリと!
近いうちにゆっくり見に行きましょう。かけそば4月9日
歸りに椿姫観音にお詣りをしてからちっちゃな蕎麦屋でかけそばを食べた。
10日 水 1007hPa 雨→曇 寒い一日 Paoで珈琲。
凧の寄付集めで苦労をする。
11日 木 1010hPa 晴 凧揚げの寄付や、緑の羽根寄付集金、、その他町内の仕事。
12日 金 1013hPa 曇 Paoで珈琲。Wagner氏と母親が来ている。えり子サンは英語が自由に話せるので私を呼んで紹介してくれる。Wagner氏と少し喋る。どうも外人と話をするのは苦手。
どうやら自分の組の分の集金は終わって、他の組の集金を待つ。
このところブログを書く暇が全くない。
13日 土 1018hPa 曇→晴 Paoで珈琲。先日以来のWagner氏の写真集、一通り出来たので、えり子サンにチェックして貰い、Wagner 氏の紹介文など書いて貰う。
14日 日 1016hPa 晴→曇・夜雨 町内の集金仕事、一通り終わる。
15日 月 1014hPa 晴 凧揚げ会寄付など町内会長に届けた。スッキリした。
Paoで珈琲。塩崎サンも来て、お菓子を頂く。フェリーチェ・コンサートのことなど少々お喋り。
16日 火 1016hPa 晴
Paoで珈琲。Wagner氏書画展の写真集、紹介文抜きのをWagner氏用として2部作ってえり子サンに渡す。
図書館でNby.サンからチラシ2枚。リコフェス第24回20190623イタリアバロックの宝石箱


写真撮影を頼まれる。
毎年のことでOK。







今朝早くからテレビでパリ・ノートルダム寺院火災の報道。
激しい炎を上げて燃えている。尖塔が崩れ落ちる。
フランスのこんなに大きな寺院は石で出来ているものと思い込んでいたのだが、とてもよく燃えている。
ノートルダム大寺院東側尖塔
写真はノートルダム寺院東側。この尖塔が付け根の所から燃えて折れて倒れて・・・、何とも悲惨な有様。テレビで詳細に映した。
所詮人の造ったものはいずれなくなるものなのだ。
諸行無常、色は匂えど散りぬるを吾が世誰そ常ならむ、
この世のすべては移ろい変わる。

右は西側入口。
ノートルダム寺院西側入口

余分なことなのだが、フランソワ・ラブレー著『ガルガンチュワとパンタグリュエル、第一之書ガルガンチュワ物語』からこのノートル・ダム大寺院の記事をちょっとだけ引用しておきます。訳者は渡邊一夫。白水社刊。訳文そのままにしておきました。
ガルガンチュワという巨人族の男がこの塔の上に腰をかけたことから、今はパリ(Paris)と呼ばれているこの町のことなどいろいろ。
第十七章  ガルガンチュワがパリ市民に披露目の挨拶をしたこと、並びにノートル・ダム大寺院の大釣鐘を取去つたこと
 …かういふわけで皆がうるさいほどにガルガンチュワにつきまとったので、彼は已むなくノートル・ダム大寺院の塔の上に腰を下ろして一息つかねばならなくなった。そこへ落着くとそのまはりの多勢の人が囲んでしまったので、彼は音吐朗々と、かう言つた。
 ――この野郎共は、こゝで披露目(ひろめ)の挨拶なり御款待(もてなし)の禮返しなりをしろといふのだな。それも御尤だらう。一つ酒代を下してつかはさうか。だが、こいつはたゞ巫山戯(ふざけ)る【par rys】だけにして置くとせう。
 そこでにこにこしながら、見事なその股袋(ブラケット)をはづして、その一物を宙に抜出し、勢劇しく人々めがけて金色(こんじき)の雨を降らしたので、その爲に溺れ死んだ者の数は、女子供を除いて《マタイ傳のもじり》貳拾六萬四百拾八人であつた。
 これらの連中のうちの何人かは、脚が早いお陰でこの小便の洪水から逃れ出て、汗をだらだら、咳をこんこん、唾をぺつぺつと吐きながら、息も切れぎれになつて大學の丘《=聖ジュヌヴィエーヴの丘のこと、いまは「パンテオン」が建っている》の頂上へ辿り着いたが、ある者はっかんかんに怒り、ある者は笑いこけながら【par rys】、神も佛もあるものかと喚き立て、呪詛の聲を上げ始めた。
 「おつぺけぺえのすつぽいぽい( Carymary,carymara)だ! やれ聖女マミカ 《 Saincte Mamyca → Saincte Mamye → m'amie つまり情婦》樣、冗談ごと【par rys】からすっかり濡れ鼠にされてしまったわい」と。かういふ理由(いはれ)から、それ以來この町はパリ【Paris】と名附けられたわけだが、以前にはリュセース( Leucece )と呼ばれてゐたのであって、…

4月16日朝日新聞夕刊、ノートルダム大聖堂炎上の様子。
ノートルダム大聖堂炎上m

17日 水 1014hPa 雨/曇 町費の残り4軒分を会計氏宅へ届ける。これで当分集金業務はない。スッキリ。
夜遅くになって〔リュートの奇士様のブログ〕でギヨーム・ド・マショーGuillaume de Machaoud 作曲、ノートルダム・ミサ全曲を聴かせて頂いた。実に好い演奏でした。
18日 木 1014hPa 晴 きれいに晴れたので東海道筋へ。三つ編みの草4月18日

三つ編みの草が少し増えていました。
真ん中あたりがかなりたくさん三つ編みにされています。
右側の黒いのは写真を写しているワタクシの影のようだ。左はまだ編まれていないのだがもう少し前まで花が咲いていたからでしょう。10日程経ったらまた見に行きましょう。

19日 金 ○ 1013hPa 晴 Paoで珈琲。
Amit Wagner氏が来ていた。えり子サンから「書画展」の写真集を渡した。アリガトウゴザイマス。
満月なので物干し場へ出てみた。薄雲がかかっていてボンヤリとした満月。
20日 土 穀雨
21日 日
22日 月
23日 火
24日 水
25日 木
26日 金
27日 土 第53回古楽器演奏会 13:00~ 日本福音ルーテル教会
28日 日
29日 月 昭和の日
30日 火 退位禮正殿の儀
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2019.03.28 (Thu)

ヨリックの中山道 006 板橋宿

巣鴨庚申塚のあったあたりから脇道に入ると、染井墓地やお寺が幾つかあって、それぞれ有名人のお墓などがあるのだが、それは本稿の目的ではないので先に進みましょう。

巣鴨庚申塚の四つ辻を出とすぐ、最後の一本になった《都電・荒川線》というチンチン電車が走っていて、「庚申塚」という駅がある。南千住の三ノ輪橋から王子を通って早稲田までの電車です。その踏切を渡ると庚申塚商店街という名前に変わるのだが、地藏通り商店街にくらべてこちらの方は人通りもまばら、みなさんチンチン電車に乗ってどこかへ行ってしまう。その商店街を通り過ぎて明治通りの交差点を渡ると北区滝野川。
滝野川村は文政年間(つまり野田泉光院の時代)には、家數118軒。村の北は王子村と接していて、その境を石神井川が流れている。この川は急流で、水の音が四方に響いてまるで滝のようだ、というので滝の川と呼ばれた。

ちょっと道草をしましょう。石神井(しゃくじい)川の渓谷美のこと。
石神井城三宝寺池氷川明神
石神井川は石神井村(いま練馬区)の三宝寺池などを水源として、練馬村を経て板橋宿の裏手の氷川明神の崖下を流れ、板橋宿内で中山道を横切り滝野川村の北を流れて豊島区(いま北区)で隅田川に合流する。
右は江戸名所図会に描かれた三宝寺池・辨財天・氷川明神付近の風景。

大分前の話だが、NHKのアナウンサー室町澄子サンは「東京ぶらり旅」という番組を作って自分の担当の時あちらこちらを取材しながら歩いてその話をしているのだが、石神井川のことを話しているときはずいぶん楽しそうだった。
石神井川不動瀧

左は王子不動滝付近。
不動滝は難病治療のために遠近からおおぜいの男女が集まってきて滝に打たれる。
男は褌一貫、女は浴衣を着て髪を手拭いで包んで滝に打たれる。
王子には滝の他にも、春の櫻、夏の涼風、秋の紅葉、といった楽しみがあって、飛鳥山・王子稲荷・王子權現など名所の数々もあり、当時の一大観光地でしたから当然のことながら料理屋もありました。扇屋玉子焼
江戸切絵図には…此辺料理屋多し…とか、…茶屋多し…と注記がしてあって、扇屋、海老屋といった有名料理屋の名前も見える。扇屋は今でも繁盛しています。ワタクシも王子へ歩きに行ったときには扇屋へ入って名物の卵焼を食べました。右、扇屋の卵焼き。

元へ戻って中山道です。
まず木曽海道六十九次の絵を見ましょう。
板橋の驛木曽街道渓斎英泉保永堂

渓斎英泉 木曽街道 板橋之驛(保永堂・竹内版)
画面中央に石碑が立っているのは宿の入口近くの庚申塚。左端に白く見える柱は「棒鼻」と呼ばれる宿場入口を示す標識。後ろに見える森はどうやら加賀・前田家の下屋敷に造られた庭園のⅠ部らしい。今の板橋3.4丁目のほぼ北半分と加賀1.2丁目を占める18,000坪の広大な面積の庭。
板橋宿は上宿・中宿・下宿(平尾宿)に分かれていて、メインは中宿だった。

板橋は中山道最初の宿場。日本橋から二里半ほどの距離です。これから江戸時代の雰囲気を感じて戴くために、『中山道宿村大概帳』による戸数、人数、隣り宿までの駄賃なども一緒に書いておきましょう。日本橋のところでは書かなかったので、まず日本橋・板橋間の賃銭。
【荷物一駄・乗掛人共94文、輕尻馬一疋61文、人足47文】

これからも出てくるので用語の解説。
荷物一駄 一匹の馬につけられる荷物の目方は四十貫(3.75kg×40)=150kg これを本馬という。
乗掛 馬に人が乗って同時に荷物もつける場合。荷物は二十貫(75kg)まで。賃銭は本馬と同じ。
輕尻(からじり) 荷物なしで人間が乗る場合。だが荷物は五貫目までは許された。
人足 荷物を担ぐ人の賃銭。五貫目ー約18,5kg。それ以上の場合は目方に応じて増やす。
馬や人足の賃銭は正徳元年(1711)に定められた「お定め賃銭」で、これが基準となって、その後の物価騰貴に伴い何割かずつ増加していった。

では板橋から次の蕨まで。
『板橋』 板橋→蕨 二里十町
村高 1087石8斗6升6合
宿内往還 21町9間
宿の町並 15町19間
宿内人別2448人(男1053人 女1395人) 
宿内惣家數573軒(本陣1 脇本陣2 旅籠54)
人馬賃銭            本馬    輕尻    人足
      正徳元年(1711)   89文    58文    44文
      弘化元年(1844)   133文    84文    63文

この人馬賃銭表を見て驚いたのは、1711年から1844年迄133年の間に物価上昇が140%~150%程だったことです。ワタクシが6つの子供であった昭和15年(1940)から平成31年(2019)のわずか80年程の間の物価の変動は実に怖ろしい程のものです。お祭の時に貰う飴買錢(お祭りの期間のお小遣い)は10錢。これで3日間遊んだのでした。無謀な戦争で負けて、そのあとの猛烈なインフレーション、人口の増加、生活の近代化、…そりゃぁいっぱい理由はあるでしょう。だが5錢で買えたお饅頭が100円もするんですよ。

『江戸名所図会 巻之四 板橋駅』
板橋駅江戸名所図会
図会の説明に。
中仙道の首(かしら)にして日本橋より二里あり。往來の行客常に絡繹(らくえき)たり。東海道は川々の差支へ多しとて、近世は諸侯を始め往來繁ければ、傳舎(はたごや)酒舗(さかや)軒端を連ね繁盛の地也。驛舎の中程を流るゝ石神井川に架する小橋あり。板橋の名ここに発(おこ)るとぞ。
とあります。
この絵に描かれている板橋は太鼓橋の形で、長さ9間(16.2m)、幅3間(5.4m)だった。

板橋現在板橋入口道標


板橋は現在はコンクリート橋になりました。欄干など木製の趣を見せて、「板橋風」に作りました。
江戸時代の太鼓橋ではなくて平面です。
車社会の現在、太鼓橋では不便でしょうが、趣はありません。
右は橋のたもとに設置してある道標。
「距日本橋二里二十五町三十三間」と記されています。

江戸から中山道へ旅立つ人は自分の家からまずこの板橋宿へ来ました。見送る人も板橋宿まで来てここで別れの酒を酌み交わすのでしたし、旅から戻った人もここで出迎えるのでした。
そのためここには酒楼あり茶店あり、…傳舎酒舗…が軒を連ねて繁盛したのです。
『図会』では、…所々に花魁(うかれめ)店前にならび、紅粉(こうふん)を粧(よそお)ふて花簪(かんざし)をさしつらねて美艶をかざる。格子のうち、ゆきかふ旅客は歩(あゆみ)をとどめてあれをこれをと興ずるも多し。…とあります。板橋宿では「飯盛女」の名目で150人まで許可されていたのだがもっと多かったようだし、実態は遊女と変わりないのでした。『守貞漫稿』では「江戸の四口、各娼家あり。品川を第一とし、内藤新宿を第二とし、千住を三、板橋を四とす。是妓品を云也。」と説明し、板橋は最下位だった。そのためだろうか、旅から帰った人を出迎えに行く連中も、「板橋と聞いて迎ひは二人減り」と川柳にうたわれた程だった。このような妓女の数は品川では500人をこえていたようだし、新宿もそれに次いでいたらしいのだが、最近の品川はすっかりビジネス街になってしまって、こういう女性は減ったようですね(それともワタクシが老齢になってしまったため?)。

宿内人別のところで、2448人(男1053人、女1395人)と女が350人程多いのだが、そのうちかなりの部分が「飯盛女」のようです。新宿の資料はないのだが、品川ではやはり女の数が350人程男よりも多いのでした。
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2019.03.25 (Mon)

日記 2019年3月

1日 金 1014hPa 晴Dolce倉庫春のサロンコンサートチラシ
Paoで珈琲。
フェリーチェ合奏団コンサート、塩崎サンから来テネ~ということで、えり子サンが前回と同じく送迎をしてあげましょうと言って戴いた。有難うございます。
3月31日午後2時からのコンサート。
車をやめたのでドルチェ倉庫はとても遠くになってしまったのだが、えり子サンとご一緒出来るので嬉しい。
曲は里紗チャンのオーボエでアルビノーニの協奏曲op9-2、 バッハのヴァイオリン協奏曲BWV1043、その他

2日 土 1018hPa 晴 無事。
3日 日 1016hPa 雨 無事。
4日 月 1009hPa 雨→晴 Paoで珈琲。
サンヨネで真昆布一枚とカツオ粉とイワシ粉を買い、林屋で麹300g買う。これは甘酒用。
5日 火 1011hPa 晴
Paoで珈琲。成城石井でお酒を買う。 LEJAY Créme de cassis de Dijon
6日 水 啓蟄 1006hPa 一日雨。無事
7日 木 ● 1008hPa 晴 クリーニングに出しておいた冬物のシャツやズボンを受取り。
Chantillyで珈琲。
「一太郎」がバージョンアップで買いなさいと言う広告が届いた。一太郎広告
パソコンというものが世の中に出始めた頃からずっと一太郎で字を書いている。他のワープロソフトを使ったことがないのでよく判らないんだが、ワタクシのように舊漢字舊かなづかひで文を書くことが多い人間にとって一太郎は便利なソフト。
8日 金 1020hPa 晴 Paoで珈琲。
Paoで珈琲20190308

9日 土 1021hPa 晴 無事
10日 日 1012hPa 雨 無事。
11日 月 1005hPa 晴 Paoで珈琲。さば寿司島根県
デパートでさば寿司を買った(右)。
鯖もお米も島根県産。美味しかった。
12日 火 1008hPa 晴 ビックカメラでワインの半額セールがあった。貧乏人根性で値段の高いのを買ってきた。
13日 水 1008hPa 晴 Paoで珈琲。「日本陸軍のアジア空襲」
(竹内康人著)という本を借りてくる。叔父三郎が終戦後満州でロシア軍の捕虜になって、挙句の果てに奉天のあたりの荒野で餓死したので、戦中戦後の満州のことがわかるものはどんなものでも読んでみたい。
14日 木 2014hPa 晴 Chantillyで珈琲。
53回古楽器演奏会チラシ

図書館でNby.サンに逢ったのでコンサート情報をきいたら、ちょうど昨日刷り上がったチラシを持ってきてくれた。
4月27日(土)、いつもより1時間早くなったので間違えないように。そしていつものように写真もお願い、ということ。曲はクヴァンツ:トリオソナタC-dur サンマルティーニ:2つのリコーダーのためのソナタ第2番F-dur その他。


15日 金 1017hPa 晴 Paoで珈琲。
珠美サンから先日(ホワイトデー用)に送ったマロングラッセが気に入って戴いたようで丁寧なお礼のメールが届いた。
16日 土 1015hPa 曇→晴 無事。今日は家の外へ一歩も出なかった。
17日 日 1020hPa 晴 お散歩は東海道東若林あたりまで。三つ編みの草3月17日
三つ編みの草はまだほんの少しばかり。右の方3つばかり編んであった。
花が落ちでまだ日も浅いので葉ッパはまだ固さが残っているのだろう。もう1週間か2週間程後に行ってみよう。
18日 月 1020hPa 晴 Paoで珈琲。えり子サンに31日のドルチェ倉庫コンサート、待ち合わせ時間の打ち合わせ、1時ちょっと過ぎに送迎デッキ。
甘酒用に麹を300g。夕方作る。
19日 火 1019hPa 晴 Paoで珈琲。
19日 火 1018hPa 晴 今朝のラジオニュース、金澤の菊川町小学校が今年3月で廃校になるという。子供の数が減ったため、というのが理由。
この小学校は犀川のほとりにあった。そしてワタクシは菊川町小学校の卒業生。
かの室生犀星という詩人の一番最初の詩集、『叙情小曲集』にこんな詩があります。
    犀川
  うつくしき川は流れたり室生犀星詩碑         
  そのほとりに我は住みぬ
  春は春、なつはなつの
  花つける堤に坐りて
  こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ
  いまもその川のながれ
  美しき微風ととも
  蒼き波たたへたり

右は犀川のほとりに立つ犀星の詩碑。

室生犀星の生家雨寶院は犀川の少し下流にあり、ワタクシの小学校は少し上流のほうにありました。菊川町小学校卒業写真75

これがワタクシの小学校卒業写真。先生方と六年二組の全員50人が写っています。
ワタクシは上から2番目の列の左から6番目の白い上着を着た子供。各学年とも3組あったから単純に計算すれば全校生徒は900人程いたことになる。それが何と! 現在の在校生が30人余?!そんなにも子供の数が減ってしまったのか!
20日 水 1016hPa 晴 Chantillyで珈琲。
21日 木 ○ 春分 1015hPa 雨 図書館へ行ったらNby.サンから、…ポーランドへ行った渥美クンが現地で死んだ…と聞かされた。ハンカチ渥美クン浜リコ餞別
彼は浜名リコーダーアンサンブルでは非常に上手なリコーダー吹きだったし、クリエートリコーダーアンサンブルという所にも入っていて、昨年(2018年)9月27日に写真の打ち合わせで南部公民館で照乃サンに会った時にも練習に来ていた。ポーランドへは3年程の予定で出かけるということだったのだが、半年にもならないうちに死んでしまった。何が起こったのだろうか。
何か事件に巻き込まれたのかも知れない。ポーランド語で書かれた連絡があったらしいのだが、詳しく読める人がいない。
右は渥美クンからお餞別に貰ったハンカチ。これが唯一の記念品。
22日 金 1009hPa 晴 風強し。買い物にも行かず人にも会わず、淋しい一日。
23日 土 1012hPa 曇→晴 ご近所の櫻が満開。春ですねぇ。中山町の櫻
加藤周一の詩に「さくら横ちょう」という詩があって、中田喜直と別宮貞夫が曲をつけています。
…春の宵、櫻が咲くと、花ばかりさくら横ちょう。…
ワタクシはこの歌が好きで、櫻を見た日にはこの歌をよく聴きます。
…想い出す恋の昨日、君はもうここにはいないと
 あゝ いつも花の女王 ほほえんだ夢のふるさと…
お終いの方のフレーズ、 …会い見るの時はなかろう 「その後どう」「しばらくねぇ」と言ったってはじまらないと 心得て 花でも見よう… このあたりのメロディがわりに好きなのだが自分では声を出さないで歌手の歌っているのを聞くのでした。
24日 日 復活祭 1017hPa 晴 1014hPa ラジオでベートーヴェンの6番交響曲を聴く。ワタクシが金澤交響楽団に入れて貰った始めの頃の演奏会で演奏した懐かしい曲。第2楽章でフルートのソロが美しいのだが入ったばかりの頃はまだ下手くそだった。いま思い出しても恥ずかしい。 
25日 月 1017hPa 晴→曇 Chatraisèeというようなお店でケーキを買ってきて食べた。
26日 火 1015hPa 曇→晴 Chantillyで珈琲。
図書館で『日本名所風俗図会4 江戸の巻Ⅱ 角川書店昭和55年刊』を借りる。これには「江戸名所図会」全巻、序から始まって全七巻収録されている。これだけの本を貸出してくれるのは有難い。
麹300g。甘酒用。夕方仕込んでおいたので明朝には出来上がる。
27日 水 1015hPa 晴三つ編みの草3月27日
三つ編みの草、その後を見に行きました。
左側の方にまだ花が咲いているので、右側に少し編んでありました。4月に入ってからまた見に行きましょう。
28日 木 1013hPa 晴 無事。
29日 金 1014hPa 晴 久し振りにワルツへ行って珈琲豆、いつもの通りキリマンジャロを買う。
30日 土 1012hPa 曇 Chantillyで珈琲。

31日 日 1013hPa 晴 桜咲く春のサロンコンサート in Dorce倉庫Ⅸ
Dolce倉庫ⅨソレッラDolce倉庫Ⅸ里紗アルビノーニ


満員の盛況でした。
左は La Sorella のコーラス。
右は 里紗チャンのオーボエソロでアルビノーニ、オーボエ協奏曲op.9-2

塩崎サンのアンコールはヘンデルのOmbla mai fu
ドルチェ倉庫まで往復えり子サンの車のお世話になりました。有難うございました。
 
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2019.03.22 (Fri)

ヨリックの中山道 005 とげぬき地藏

本郷三丁目の信号を右(東)に曲がった二軒目に藤村の羊羹があるのは前回の記事でしたが、そのまま進めば池之端から不忍池、上野恩賜公園で、東京国立博物館、国立科学博物館、東京都美術館、東京文化会館、その他いっぱいワタクシが通った施設があったり、多くの人との思い出があったりして懐かしいのだが、それはひとまず置いといて、…

中山道、国道17号を北へ進めば右手ずっと今は東京大学の敷地ですが、昔は加賀藩上屋敷だった。東京大学の入口に「赤門」(國重要文化財)があります。
加賀藩は外様大名の中では最大の百二万二千石という膨大な収入のある藩なので、大坂豊臣家と西国大名などと結託して出来たての徳川政権を攻めるとなれば徳川政権の瓦解もありうるので、徳川家は加賀前田家との融和工作をしたようです。
前田家上屋敷赤門
右は赤門。
これは十一代将軍徳川家斉の二十一女溶(やす)姫が前田家に嫁したときに前田家が作った門です。
将軍家斉は正室一人の他に16人の側室(実際はもっと多いようだ)に産ませた子供は男子26人、女子27人にものぼった。男子はどこかの大名に養子として配給し、女子は大名の男の子の嫁に無理矢理押しつけた。
こんな事はこの時ばかりではなくて、加賀藩ではもっと早い時代にも徳川家の娘を嫁に貰っています。前にもちょっと書いたことですが簡単に復習をしておきましょう。
徳川家康が天下を取って江戸幕府を作ったとき、豊臣秀吉と仲のよかった前田利家(初代藩主)は、加賀藩の領地を安堵する(つまり取り上げられないようにする)ために利家の正室であるお松サン(芳春院)を人質として江戸へ渡し、交換条件として徳川家二代将軍秀忠の娘、数え年わずか3歳のお珠チャンを、その時7歳だった利常クンのお嫁サンに迎えることにしたのです。お珠チャンが最初の子供を産んだのが15歳の時、それから24歳で死ぬまでの間に8人の子供を産みました。年子の連続です。お珠サンが死んで加賀藩では天徳院という戒名をつけて、天徳院というお寺を建てたのでした。

赤門は通称で、正式には「加賀屋敷御守殿門」といいます。
加賀藩第十三代藩主前田齋泰の正室として溶姫サマは文政十年(1827)十一月二十七日、15歳でこの門を入りました。彼女の後には幕府の役人10人、医者2人、お女中74人が従いました。
財政がたまらないから嫁サンだけで結構です、あとの人は要りません、などとはとても言えない。
この赤門は建築様式が定められていて、朱を塗ることが許されるので幕府指定どおりに建てた。万一火災などで焼けたりすると再建は許されないので、前田家では「加賀鳶」と呼ばれた消防隊を組織して門を守らせた。この加賀鳶の伝統が今も金澤にはシッカリ残っていて、毎年正月の出初式の時、雪の降る犀川の河原で梯子登りの妙技を見せてくれるのです。
三四郎池秋
赤門から中へ入ってみましょう。咎められることはありませんから安心して構内を歩きまわることが出来ます。だが東京大学の構内というのはかなり広くて、初めて入ったワタクシには場所の見当がつかない。時々建物の間から安田講堂の時計台が見えたりするから大体の見当が付く程度。
ずっと右手の方へ行った所にある「三四郎池」があった。校舎の並んでいるあたりとは違ったステキな風景になります。

何とか一廻りしてまた赤門の所から国道17号へ出た頃には疲労困憊、きっとこのあたりにはいい喫茶店があるだろう、と思ったのがちょっと甘くって、暗くてちっちゃな喫茶店だったが入ってしまった。多分、聞いてみればあそこは某先生がいつも座る場所だ、とか、何野誰兵衛のお気に入り、だとか、曰く因縁はあるのかも知れないが、その時のワタクシはただ熱い珈琲が飲みたいと、それだけの思いだった。いい音楽も鳴っていなかったし、美しい絵も飾ってないし、珍しい本なども置いてなかったし、何よりも美人マダムもいなかったし、つまらない喫茶店だった。

中山道は東大前を北に進みます。農学部のある場所は水戸殿下屋敷の跡。
農学部前交差点が本郷追分(右)中山道日光御成道交差点
ここの《追分》は「右へ行けば駒込通り王子通、岩槻道、日光かい道なり。左、板橋かい道なり」で、中山道は左へ入ります。そしてここの所に一里塚跡の碑が立っている。
『岐岨』には「追分 一りつか右斗(ばかり)榎一」と書いてあって、この絵図の出来た宝暦六年(1756)には左側の榎はなくなっていたようだし、右の榎も明和三年(1766)には焼けて無くなって、その跡に残った塞大神の碑も今は根津神社の境内に移されてしまった。

中山道を少し進むと左に圓乘寺があります。ここは八百屋お七のお墓のあるお寺。
お七稲荷圓乘寺
八百屋お七は江戸本郷の八百屋の娘。恋人に逢いたい一心で放火事件を起こして、捕まって鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられた。八百屋お七の墓圓乘寺

左は圓乘寺境内にあるお七稲荷。
右は同じく圓乘寺にあるお七のお墓。

お七が火あぶりになったのは天和三年(1683)三月二十九日。
この事件は井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられ、さらには歌舞伎や人形浄瑠璃、落語などの題材になって江戸では有名人になりました。
恋人の名は井原西鶴では吉三郎で、歳は十六、お七も同じく十六。若い恋人同士、今と違ってこっそりしのび会うのは難しかったのでしょうか。
お七のお墓は三基立っていて、真ん中の大きいのはお寺の住職が「妙榮禪定尼」と書いて建てたお墓で、右側には歌舞伎俳優の岩井半四郎が、お七を演じて好評だったので文化年間百三十回忌の供養として建てた。左側のは近所の人たちが昭和25年(1950)に二百七十回忌の供養として建てた。

江戸時代の刑罰について書いておきましょう。火炙(ひあぶり)の刑は放火犯に限られていました。
叱 (シカリ 小言を言われるだけ)
急度叱 (キットシカリ 強く叱られる)
過料 (罰金刑 一貫文~五貫文)
手鎖 (テジョウ 30~100日間手錠をかけられる、外から見えぬように懐中で両手を組んで鉄製の鎖をかけて封印する。時々町奉行所へ行って封印の確認を受ける。商売をすることは差し支えない)
敲 (タタキ 伝馬町牢屋の門前で箒尻という道具で背中を50回叩かれる。重敲は100回)
晒 (サラシ 日本橋南詰東側の晒場で三日間柱に縛られて坐らせられる)鈴ヶ森刑場跡
追放 (一番軽いのは所払いといって住んでいた町から追い出される。隣町に住むのは構わない、
 江戸払いは江戸十里四方のほか、京大坂などに住めない軽追放、その他中追放、重追放などいろいろある)
闕所 (ケッショ 家屋敷・財産没収)
遠島 (伊豆七島の一つに追放)
下死人。死罪、獄門、鋸挽、磔(これが最高刑で、江戸引き回しの上鈴ヶ森か小塚原で磔柱に縛り付けて槍で刺し三日間そのまま晒す)など、いろんな刑罰があった。
右が鈴ヶ森刑場跡です。

JR巣鴨駅の手前のところに六義園(りくぎえん)があるので廻ってみました。最初入口がわからなくて結局周囲を一廻りしてしまった。おかげで草臥れる程広い庭園だということがよく判った。
六義園池
元禄八年(1695)、柳沢吉保が五代将軍綱吉から別荘として拝領した土地で、吉保が七年がかりで手を入れて完成したお庭で、今は東京都の管理になっている。
受付へ行ったら門番のオジイサンが「60歳以上は無料ですよ」と言ってくれて、ろくに証明書も見ないで通してくれた。その時ワタクシは60歳を少し過ぎた程度の歳だったのだが、そんなに老けて見えたのだろうか、情けない。
池を掘ってその土を積んで山を築いたのだろうが、池は広いし山も高い。でも京都の嵯峨や東山、北山などと違って借景ということが出来ないので、今のように周囲にビルがたくさん建つと情けない風景になる。出来た当時は多分本当の富士山も見えたのだろうが、今は目を伏せて池の周りを見わたしたときだけ立派な庭に見える。

JR山手線を巣鴨橋で渡るとすぐ左手に「染井吉野」の碑が見える。昔は巣鴨から駒込一帯を染井村といった。「ソメイヨシノ」という櫻は「エドヒガン」と「オオシマザクラ」の交雑種で、江戸時代中期頃に染井村の植木職人たちによって作られた園芸品種のようです。ソメイヨシノはアッという間に日本中に広まった。
ソメイヨシノ1ソメイヨシノ2

綺麗ですねぇ。これを書いている今は3月21日。東京でも今日開花宣言が出ました。24日あたり上野恩賜公園では花見の人で雑踏するでしょう。
地藏通り商店街
その先の道は地藏通り商店街、通称は「おばあちゃんの原宿」。この道が中山道です。(右の写真)
この商店街の雑踏はすごいのです。ほとんどが「とげぬき地藏」へ行く年配のご婦人ばかり。
その前に、この通りへ入ったすぐのところのお寺が真性寺。

真性寺の地藏赤いヨダレカケ
門を入ると左手に笠をかぶって赤いよだれかけをしたお地蔵さんがあります。
「すがも町左にぢざう有。是江戸入口々々にある六ぢざう也」(諸國道中袖鏡・天保十年)という江戸六地蔵の第三番目で、元禄四年(1691)建立のもの。境内右手には「しら露もこぼれぬ萩のうねり哉」と彫った寛政五年(1793)建立の芭蕉句碑もあります。

人間は死ぬと、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道のいずれかに行くことになっている。その六道のそれぞれに居て人を救済し導くのが六道地藏で、宿場や町の入口、墓地の入口などに多く立てられています。
江戸六地蔵は次の通りでした。

第一番 東海道 品川区 品川寺(ホンセンジ)
第二番 甲州道中 新宿区 大宋寺
瀧三番 中山道 豊島区 真性寺
第四番 日光道中 台東区 東禪寺
第五番 千葉街道 江東区 霊岩寺
第六番 (現在はなし) 江東区 永代寺

地藏通り商店街、という名前はこのお地蔵さんでつけられた名前ではなくて、もう少し先へ行った所にある「髙岩寺」。俗に「とげぬき地藏」による名前です。
「おばあちゃんの原宿」と呼ばれている理由も、髙岩寺にお詣りに行くおばあちゃんの雑踏が凄いのでつけられたのでした。    とげぬき地藏  
右が髙岩寺の入口付近。
病人がここのお地蔵さんの絵姿を飲むか、患部に貼るかすれば、あたかも「とげ」が抜けたように治る、というのでついた名前です。
だが今は門を入った左側に「洗い觀音」というのが立っていて、こっちのほうに人気があります。(左の写真)

髙岩寺とげぬき地藏淨行菩薩
自分の身体の具合の悪い所と同じ場所を水で濡らしたタオルで觀音様を洗ってあげるのです。
長い行列がついていて、鎖で道を作り、行列を折り返して管理をしています。
ワタクシはちょうどその頃、瞼にものもらい、というか、そんな小さなおできのような物ができていたので、その行列について、觀音様の目の当たりをタオルで洗いました。その御利益があったらしくって、浜松へ帰ってからいつの間にか治ってしまっていたのでした。
中山道をいっぱいにする程の雑踏ができるのも霊験あらたか、御利益があるからなのでしょう。
信者は、日本国中はおろか、海外にまで広まっているらしい。
毎月四のつく日、4日、14日、24日が縁日なのでその日はすごいのだそうです。
庚申塚石標巣鴨

やがて右手に巣鴨の庚申塚、ここまでくると人通りは途絶えて静かになります。
右は入口に立っている石標。「仲仙道庚申塚 猿田彦大神庚申堂」と書いてあります。

庚申塚というのは道の分岐点などに設けられた塚や碑のことですが、天孫降臨の時に道案内をした猿田彦にあやかって旅人の道中安全祈願をこめる、という意味もあるのです。
中国、道教の教えによると、人間の身体の中には三尸(サンシ)という虫がいて、60日ごとにまわってくる庚申(かのえさる)の夜、人間が寝ているうちに体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の悪行を告げ口し、寿命を縮められる、といったことが信じられていた。だからこの日には村中の人が集まって徹夜で飲んだり食べたりした。野田泉光院も旅の途中で庚申待ちをする村人に混じって一緒に徹夜をしていた。江戸時代はどこでもやっていたことです。この石標の奥には庚申塚と庚申堂があったのでしょう。
庚申塚にはいろいろの像が立てられていました。大日、阿彌陀、藥師、地蔵、不動、山王、帝釈天、觀音、青面金剛、猿田彦大神、道祖神、仁王、閻魔、一猿二猿三猿、…。
文字だけの場合もあります。庚申塔供養二世安樂、青面金剛、青面王、塞神(さえのかみ)、…。

滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の中に巣鴨の庚申塚を舞台にした場面があります。
犬川壯助が惡人に捕えられているところを犬塚信乃らに救われるのもここの場所です。

いずれ信濃国へ入るといろいろお目にかかれると思いますのでその時に絵などを載せましょう。
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