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2019.01.18 (Fri)

日記 2019年1月

1日 火 元日 1026hPa 晴年賀賀春
ワタクシのブログを見て下さる方々に謹んで申し上げます。
  あけましておめでとうございます。
  本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
花札猪L

千歳5個



お正月のお菓子です。
 「千歳」


ご近所の神社佛閣へ初詣。みんなワタクシの家から100m程の所にあります。
神明神社三組町元日
左、神明神社。お伊勢サンの出張所です。

秋葉神社社殿内部

鴨江観音社殿元旦
右、秋葉神社社殿内部。
秋葉山に住む秋葉天狗の浜松市内セカンドハウス。
秋葉天狗は火伏が専門。毎年お祭の日に御札を貰って台所に貼りつけておきます。

左下は鴨江山鴨江寺(こうこうざんかもえじ)。
このお寺には信濃善光寺の觀音菩薩もしばらくの間御逗留されたこともある由緒あるお寺のようだ。ここでは無料で甘酒が振る舞われるのです。

夜はウイーンフィルハーモニカのニューイヤーコンサートを聞くのが毎年の習慣。
今年の指揮者はC.ティーレマンという人。ここ数年の中ではいちばん面白くない指揮者でした。
殆どお終いの、天体の音楽あたりまで来てようやく楽団員と呼吸が合ったのか、聞ける程の音楽になってきた。ワルツを3拍子で棒を振るなんて以ての外。1小節1拍で振らないとウインナワルツのリズムにはならないのです。でもお終いの「美しく碧きドナウ」は楽団員が勝手に演奏するのでいい音楽になりました。この音楽はワタクシが中学2年で初めて「混声合唱」を歌った記念すべき音楽。…♪ その昔のあるとき 黄金色のボートに 艶なる姫君を見た日もあろう… というような歌詞でこの音楽を歌うので、音楽が好きになったのでした。
夜中になって、NHK BS1テレビで「駅ピアノ」という番組。いろんな人がピアノを勝手に弾いている。マルタ島空港,ロスアンジェルス、チェコ・プラハなど各地の駅ピアノ。とてもいい番組です。
2日 水 1024hPa 晴 箱根駅伝。東海大学往路2位。この学校は亡息がいた学校なのでこの成績ならば天国か地獄かで喜んでいるだろう。
かなり上等のに肉を買っておいたのでスキヤキをしてワインを飲んだ。あとで餅を入れて食べた。
3日 木 1026hPa 快晴
箱根駅伝、復路が1位で総合で優勝。亡息は天国で喜んでいるだろう。いつも…ボクの学校…と言っていた大學が初めて優勝したのだから。
NHKテレビでニューイヤーオペラコンサートを見る。よく知っているオペラの有名なアリアばかりだから見ていても楽しい。魔笛、セビリアの理髪師、トスカ、ドン・ジョバンニ、フィガロの結婚、アイーダ、カルメン、ボエーム、リナルド、蝶々夫人、トゥーランドット、こうもり・・・各幽界オーケストラ20190119チラシ
上枝サンから「楽友会オーケストラ浜松」のキップを送って戴いた。3枚も!!!
有難うございます。
曲目は、團伊玖磨「祝典行進曲」、チャイコフスキー「胡桃割人形」
 
4日 金 1026hPa 晴
Chantilly天井のヤモリ大写し
図書館へ行く。

Chantillyで珈琲。天井近くに守宮のようなものがずっと住みついている。
昨年12月21日の日記に喫茶室にいるのを写しておいたのだが、今日はそれを拡大しておきました。

麹を300g買って甘酒を作る。

5日 土 1018hPa 晴 NHK FMでピアノ音楽特集。ショパンの時代のフォルテピアノでショパンの音楽を一杯聴かせてくれた。第1回(フォルテピアノ)ショパンコンクールで日本人の男性が2位になった。
6日 日 小寒 ●朔 1020hPa 曇 部分日蝕。雲の間からわずかに欠けた太陽が見えた。最大でも40%程度の日蝕だから見た目にはつまらない。
7日 月 七草 人日 2022hPa 快晴
Pao入口2019年1月花
 Paoで珈琲。右は入口の階段。
ここを上がって左へ入る。エレベーターもあるのだが、階段の方が気持ちがいい。
えり子サンにお餅を3個。
ゴーフレットを貰った。
FMでハイドンのピアノソナタを聞く。
ハイドンのソナタは大好きなのだがなかなか聞く機会はない。今夜のようにたっぷり聞くことが出来ると嬉しい。

8日 火 1020hPa 晴 東海道筋へお散歩。
三つ編みの前の水仙
右の写真は水仙なのだが、花が枯れて3月頃になるとこの葉ッパが綺麗に三つ編みになるのです。まず三つ編みになる前の写真を載せておきます。
9日 水 1020hPa 晴 弘乃サンに楽友会コンサートのキップ1枚をお渡ししてきた。
10日 木 1022hPa 曇 Chantillyで珈琲。
Codex ChaintillyCD
Chantillyというのはいつも行く喫茶店の名前なのだが、フランスはパリの北東部にある都市の名前でもあって、14世紀頃にはここに宮廷があって、ギヨーム・ド・マショーやギヨーム・デュファイといった大作曲家も登場した。
だがこのCDはそんな大作曲家のではなくて、シャンティイの宮廷に残されていた「シャンティイ写本」の中の数曲を男声合唱で歌っているもの。Chantillyの恵美子サンに聞いてもらったのだが、あまり面白い音楽ではないので迷惑だったかも知れない。
11日 金 1021hPa 晴 Paoで珈琲。
12日 土 1021hPa 曇 冬枯れの浜松城公園をお散歩。写真機にメモリカードが入っていなかったので写真は撮れなかった。
13日 日 1020hPaa 晴 無事
14日 月 成人の日 1023hPa 晴(一日中一点の雲もない快晴)
トンカツ専門店へ行ってトンカツを食べました。実にオイシイ。
15日 火 1022hPa 曇 無事
16日 水 1021hPa 晴 水曜日はこのあたりの商店街、ほとんど全部休業になる。予定していたものが買えなかったりする。
17日 木 1020hPa 晴 いつも行く後藤酒店に新酒粕入荷と張り紙があったので1kg買って半分程をNbyサンにあげた。あとで食べてみたらお酒を搾り取るだけ搾り取って、カスカスになった酒粕だった。
スニーカーを買いに行きました。これからできるだけスニーカーでお散歩に行きましょう。
18日 金 1021hPa 晴 Paoで珈琲。
今日はワタクシの85歳!の誕生日。HappyBirthday塩崎恵子 
Paoで恵子サンとえり子サンが Birthdayを祝ってくれました。右は恵子サンに頂いた手作りお菓子。
HappyBirthday乾珠美
珠美サンからは左の絵葉書に、
HappyBirthday乾珠美裏

Happy Birthday !! を入れて今日着くように送って頂いた。
絵葉書の絵は、Albert Moore の
Midsummer (真夏)という絵。ラッセル・コート美術館蔵。
HappyBirthdayワインとケーキ

右はワタクシがワタクシのために用意したワイン。ボルドーのBARON La Verriere 赤。ワインを飲んでケーキを食べていいBirthdayでした。
Paoで恵子サンからフェリーチェ合奏団の現況を聞きました。
近いうちに佐藤サンのお宅へ行ってみなくっちゃ、と思いました。
FaceBookのワタクシのタイムラインに原浩二サンと、恵子サン・えり子サンからHappy Birthday の書き込みを頂きました。有難うございます。
19日 土 1021hPa 晴
楽友会オーケストラ浜松第15回定期演奏会です。会場はアクトシティ浜松中ホール。 
楽友会オーケストラ20190119コンサート


第1部
祝典行進曲 團伊玖磨曲 この音楽は今上天皇・皇后両陛下のご成婚を記念して昭和34年(1959)に作曲された吹奏楽編成の曲。
早春賦 中田章曲 吉丸一昌詞 大正2年(1913) 春は名のみの風の寒さや…
春の小川 岡野貞一曲 高野辰之詞 明治45年(1912) 春の小川は さらさら行くよ…
主よ人の望みの喜びよ J.S.Bach BWV147 楽友会オーケストラ20190119プログラム表紙
オペレッタ《美しきガラテア》序曲 F.von Suppe
第2部
バレエ《胡桃割人形》抜粋 P.I.Tchaikovsky

このオーケストラ、以前に聞いたときよりもずいぶんいい音を出すようになった。楽しんで聞くことが出来る。
上枝サン、有難うございました。
いつもキップを戴いてばかりいて、時にはずいぶん酷評をしたこともありましたが、今日の演奏はヨカッタですよ。
20日 日 大寒 1014hPa 曇→晴
松韻亭でお茶。松韻亭1月20日お茶
松韻亭というのは浜松市立の茶室ですが、いろいろの行事にも使えるお座敷もあったりして、以前,和服の講座の時にワタクシも和服美女の写真を写しに通ったこともありました。
抹茶とお菓子で\400ですから、お散歩で浜松城公園を歩いているとき一服することもあるのです。

そのあとでワルツへ行って珈琲豆(いつもの通りキリマンジャロ)を200g買って、IRINO酒店で信州真田の里の甘酒「白の舞」(アルコール分はない)と酒粕を1kg買った。
明日朝、またお餅を搗くために準備をした。
21日 月 ○望  1015hPa 晴 寒餅を搗く。
寒餅搗き始め寒餅搗き上がり

左、搗き始め。

右、搗き上がり


餅搗き機で搗くので簡単に出来上がる。
明日の午前中には切って食べることが出来る。
22日 火
23日 水
24日 木
25日 金
26日 土
27日 日
28日 月
29日 火
30日 水
31日 木
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2019.01.14 (Mon)

泉光院の足跡 342 鞆の浦

九月十六日の日記の続きです。

…千光寺等所々社寺へ詣づ。當所より豐後へ渡海の船方々聞合はすれども當分有合はせず、因て瀬戸田の瀬戸へ便船貰ひ渡る。夕方セツタへ上る、波の浦屋と云ふに宿す。

泉光院は尾道から九州豊後へ渡る船便を捜すのだがすぐには見つからないので、とりあえず因島から生口島へ渡る船を見つけて瀬戸田へ行きますが、ワタクシたちはここで少し道草をしましょう。
福山城を見てから明王院、鞆の浦、と名所巡りをしてから泉光院の後を追ってしまなみ海道の橋を渡って生口島で泉光院と出会うことにします。

JR福山駅北口を出ると目の前に福山城があります。この御城は、徳川家が幕府を江戸に開いて。「江戸時代」という制度(というか時代というか)が二代将軍秀忠によって整備されて行く過程の中で生まれた(ちょっと大げさな言い方ですが)ような気がします。福山城筋鐵御門
徳川家は、権力を確実にしてゆくために、豊臣家につながる勢力(西軍方の大名家)の領土の削減や配置がえ、人質の要求、と言ったことをやったわけですが、その一つとして、福島正則を信州川中島へ移封したあと、秀忠と血縁の近かった水野勝成を大和郡山からここへ持ってきて10万石を与え、 西の方に睨みをきかせるようにしたのです。
その時、京都伏見にあった御城を廃城にして、その遺構を水野家に与えここに移築したのでした。
福山城伏見櫓
移築した建物の主なものは、右の写真の筋鐵(すじがね)御門の他、伏見櫓(左の写真)、月見櫓、御湯殿などで、それらは國重文指定になっているようです。御城の石などは瀬戸内海の島から運んでおります。
五層の大きな天守閣は昭和20年8月の空襲で焼失しましたが、福山市制50周年記念事業で昭和41年に復元されました。
それはJR福山駅のすぐ前から望むことが出来ます。

この福山城のすぐ近くに広島県帙歴史博物館というの(右の写真)があって福山市のすぐ西を流れる芦田川のほとりにあった「草戸千軒町」の遺跡を復元して、当時の庶民生活を実物大!に再現した、実に珍しい博物館です。草戸千軒
草戸千軒町は、平安時代から江戸時代、つまり古代から近世までの800年間、明王院の門前町として、また芦田川河口の港町として久しく栄えた庶民の大集落だったのです。
だが河口近くでは上流から流れ来る土砂でだんだん河床が高くなって、大雨のたびに洪水に見舞われるようになり、寛文十三年(1673)の大洪水では町屋が全滅して、以後再びここには集落が見られることはなかったのでした。
草戸千軒町遺跡芦田川中州
左の写真は芦田川の中州にある草戸千軒町の遺跡。
昭和になって川の改修工事が行われるようになって、ようやく二百数十年の眠りから目覚めて掘り出されたのでした。
だから「東洋のボンベイ」というふうに言われて学術的な調査もはじまり、この博物館も作られたのです。
博物館の展示は、なにしろ当時の町並を実物大に再現してあって、木々ばかりではなく、雑草も茂り、トンボや蟬も(あるいはゴキブリも?)いて、魚屋の店先にはその日捕れた魚が籠の中に跳ねていたりする、まるでタイムスリップして中世の世界に飛び込んできたような風景に出会うことが出来る、まことに珍しい博物館です。だからワタクシがここへ来たときも、中学生の団体が(勉強のために)来ていたようです。
こういう施設をちゃんと維持管理するのは、やはり優れた学芸員がいてこそなんだろうと思いました。
現在この施設は、この河川が一級河川に昇格して、国土交通省の管轄になり、この中州の掘削計画と洪水調節、さらには工業用水確保などの名目で河口堰が作られるということになり、この遺跡は永久に水没することになったようです。
ワタクシはこの地へしばらく訪れていないのだが、その後、いまの自民党政権になってどうなっているのだろうか。
明王院本堂と五重塔

芦田川の西岸に明王院があります。
この写真の五重塔も、その隣の本堂も國寶。

この五重塔の頂に立つ相輪に、「一文勧進の小資を積み五重塔婆の大功をなす」と銘があり、この塔が庶民の寄進した浄財で建てられたことが記されています。
明王院五重塔

国宝に指定されている五重塔は全国に19あるのですが、この塔はその中でも古さの点では5番目で、室町初期の代表的な建造物です。この塔は、その姿が美しいばかりではなく、その内部も極彩色の壁画や、不動明王と愛染明王を左右に従えた大日如來がとても見事です。



明王院五重塔内部
左は五重塔内部。
中央が大日如來。
向かって右は不動明王で、左が愛染明王。
明王院本堂


右は本堂。
五間四面、朱塗りの、これも綺麗な建物ですねぇ。



明王院の所から南に下ると鞆の浦です。

ここは「埋立、架橋問題」というのが話題になっていたことがありましたね。その後どうなったでしょうか。
鞆の浦仙酔島

國名勝指定になっている「鞆公園」の風景。
向こうに見える島が仙酔島といって、天上を舞っていた仙人が、あまりに美しい風景に酔いしれて、臥して島になったという地名起源の伝説があります。
皇后島、辨天島、その他大小の島を連ねた海上公園です。
鞆の浦対潮楼風景
これらの島々が最も美しく眺められるのが(この写真を写している醫王寺の下にある)福禪寺の客殿「対潮楼」です。右の写真が対潮楼の部屋で、正面に見事な風景が拡がります。
この部屋は、徳川将軍の交代時に、親善を目的として訪日した朝鮮通信使の宿所に充てられた場所です。
今では鞆の浦観光では必ず立ち寄って、ここの和尚さんの説明を伺うのです。赤い絨毯の所に坐って和尚さんの御話を聞いたのでしたが、ほとんど忘れてしまった。鞆の浦福禅寺対潮楼
左が福禪寺。


鞆の浦常夜灯この港は瀬戸内海のほぼ真ん中あたり、紀伊水道と関門海峡の中間なので、潮流の分岐・合流点なので良港でした。左の大きな常夜灯はこの港のシンボルです。

鞆の浦狭い道
だが歴史のある町はどこでもそうであるように、町は狭く、観光客がゾロゾロ歩くには風情があっていいのだが(左の写真)、自動車がすれ違うにはちょっと狭すぎるようで、市民生活には不便なようです。
だから道路を拡幅したり、大きな橋を架けたりして、、近代的都市に改造したいというのは偽らざる市民の願いなんでしょう。それで「埋立・架橋問題」というので賛成・反対の運動が起こって町はゆれているのです。
21:59  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2019.01.11 (Fri)

泉光院の足跡 341 淨土寺

…淨土寺へ詣で納經す。此寺は頼朝坊回國中供養の寺とて回國の者の札所也。…
などと書いておりますけれども、このお寺は足利義満の関係の深いお寺のようで、源頼朝のことは判らず仕舞いでした。
浄土寺入口
浄土寺は一番低い所にあって、JR山陽本線のガードをくぐるとすぐ入口があります。
左の写真がその入口あたりで、いろんな碑などが立っているのが面白い。
泉光院は、尾道では数あるお寺の中でここだけちょっと丁寧に書いているので、ワタクシもシッカリ見てきました。

淨土寺多寶塔
ここの本堂と多寶塔は国宝です。このお寺は室町時代、14世紀にすっかり焼けてしまったのだが、当時の尾道は港町で、経済的に豊かだったので直ちに復興工事が行われ、、しかも後に国宝や重要文化財になるような堂宇が出来たのでした。
淨土寺本堂と多寶塔

左が本堂とその向こうに多寶塔。右が多寶塔。
淨土寺庭園

方丈へ入れていただき、庭園を見ました。
左奥に茅葺きの屋根だけが見えています。これは露滴庵(國重文)という茶室ですが、豊臣秀吉が桃山城内に建てた茶室「燕庵」を移したものだそうです。どういう縁で誰がここへ持ってきたものかわかりません。
本尊の十一面觀音像など佛像は写真に写すことは出来ませんでしたが、足利尊氏の肖像画と書いたものがありました。淨土寺足利義満肖像
建武の頃(1336)、新田義貞と足利尊氏が戦って、尊氏は九州へ敗走し、体勢を立て直して再び京都を奪回するために上洛するとき、ここへお詣りをして、本尊の前で十一面觀音讃仰の和歌三十三首を奉納して、見事湊川で楠木正成の軍を破ったのでした。南北朝時代の始まりです。
この年から50年、日本には南朝と北朝と、それぞれ天皇がいたのでした。
戦前の歴史教科書では、新田義貞とか楠木正成は忠臣であって、足利尊氏は大逆臣であると教えられていたのですが、時代が変わると人間の評価も変わるものです。
淨土寺秋葉燈籠
このお寺の出口で面白いものを発見してしまった。
右の写真、秋葉燈籠です。右面に「常夜灯」、左面に「秋葉大權現」とあります。秋葉大權現は、遠江國(静岡県西部)の北の方にある秋葉山(866m)に住んでいた秋葉三尺坊という天狗ですが、この天狗はたいそう霊力のある天狗で、主に火難鎮護を担当するということで、江戸時代中期の正徳元年(1711)には中御門天皇から「正一位」を下賜されています。
江戸時代には秋葉講が組織されて全国から秋葉詣でのツアーもあったようで、そのコースには「秋葉燈籠」が寄進されて、常夜灯として秋葉詣での人のための道しるべとなっていました。東海道筋や中馬街道、中山道あたりには千を越す秋葉燈籠があることは知られているのだが、広島県にまで秋葉燈籠がある事を知って全く驚いたのです。思わず写真を撮ってしまったのでした。
この燈籠、向こう側の面には「文化七庚午年二月吉日」と彫ってありますから、泉光院がここへ来たときにはすでにこの燈籠はあったのでした。
泉光院も秋葉山には登っていて(泉光院の足跡 No.253 秋葉山)、詳しく書いておきましたから再掲はしませんが、当時の旅人は道端の燈籠などを頼りに歩いていたのかも知れない。
秋葉神社浜松三組町

ワタクシの家のある浜松市は秋葉山の近くなので、秋葉天狗ゆかりの場所はいろいろあります。ワタクシの家から70mほどの所に秋葉天狗の眷属である加納坊(叶坊とも書きました)という天狗の住んでいた秋葉宮の里宮(今は秋葉神社と言います。右)があります。毎年1月28日の祭礼の日には火伏鎮護の御札を販売するので、浜松市民のみなさんそれを求めるために朝から晩までひっきりなしに人の列が出来ます。ワタクシの家の前もゾロゾロたくさんの人が通りますし、家の前にはトウモロコシ焼きや焼き蕎麦屋などの屋台が店を張るのです。

近くで見つけた秋葉山関係の写真などを幾つか載せておきましょう。
秋葉大鳥居ビオラ田町昭和17年
左は浜松市がアメリカ軍の空襲で焼け野原になる前の写真で、浜松市中心部の田町にあった秋葉路最初の鳥居。昭和17年に写されたものです。現在は鳥居はなくなって、左側には大きなマンション、右側には大銀行の支店になっています。
この道を直進すれば秋葉山の麓になります。


舞阪西町常夜灯秋葉津島

こちらは浜名湖東岸、舞阪西町の船着き場跡の近くにある秋葉燈籠。東海道を西の方から来て浜名湖を船で渡って最初に見る秋葉燈籠です。秋葉山への道を示しているのです。
蒲神明宮秋葉燈籠

右は蒲神明宮の境内にある秋葉燈籠。
鞘堂の中に燈籠が入っています。



秋葉山道道標浜北貴布祢
左は今の浜松市浜北区貴布祢にある道標。
「秋葉山道」と書いてあります。

秋葉燈籠磐田文政8年
天竜川左岸にある秋葉燈籠。燈籠はこの鞘堂というお堂の中に入っています。文政8年。
この燈籠の所から天龍川を渡って、そこから(東海道を離れて)姫街道から北へ、秋葉山に行きます。


池田宿秋葉燈籠磐田市池田宿の秋葉燈籠。側面には秋葉山の文字が。

池田宿秋葉燈籠文字
秋葉神社浜北小松鳥居と鞘堂

浜北小松秋葉神社。右隅に秋葉燈籠の鞘堂が見えている。

いちいち書きませんが、浜松市とその周辺には今もたくさん残っております。
20:20  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2019.01.08 (Tue)

泉光院の足跡 340 尾道

もとの三原市まで戻って、こんどは海岸べりを東へ歩きます。やがて「海の見える坂の町」尾道です。そして映画ロケと文学とお寺の町です。志賀直哉は「暗夜行路」でこんな事を書いています。
…六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、又一つ、それが遠くから帰ってくる…
尾道ケーブルカー
尾道を歩くにはまず千光寺山に登りましょう。
ロープウエイもありますよ。
尾道文学のこみち碑

「文学のこみち」(の碑です 右)というのが始まります。

さきの志賀直哉をはじめ、林芙美子や、尾道を愛した文人墨客の碑が次々と現れます。
古い方からいくと、松尾芭蕉・十返舎一九・緒方洪庵・徳富蘇峰・金田一京助・巌谷小波(さざなみ)・正岡子規・吉井勇・柳原白蓮…尾道坂のある町
もっといっぱいあるのだがこれくらいにして止めておきます。
右が「文学のこみち」。こんな小径を…手に手をとりあい…歩くのは楽しいでしょう。
「暗夜行路」や「放浪記」の一節などを刻んだ巨石の間を通って眼下の瀬戸内の島々の風景を眺めるのは楽しいものですよ。
左上の写真、ロープウエイの下にある巨石に掘られているのは林芙美子の「放浪記」。
…海が見える。海が見える。五年ぶりに見た尾道の海はなつかしい。…
そして蒸気機関車が真っ黒な煤をだしてさしかかり、赤い千光寺の塔(と書いていますがほんとうは塔ではなくて本堂の建物の屋根だと思います)の見えるのが富美子にはとても懐かしい風景だったのでしょう。

千光寺本堂
千光寺石

左がその千光寺の赤い本堂で、右がてっぺんに丸い石を乗っけた巨岩。この岩は「玉の石」といいます。
昔、この岩の頂上に光を放つ宝玉があって、夜ごと海上を照らしていたのだそうです。ある時異国人が来て、その石を自分に売れというのです。寺僧はこれは売る物ではないと断りました。異国人は、その光を放つ石は高価な宝石なのだが、寺僧がそのことを知らないのを幸、夜中にこっそり奪い去ったのでした。
今は只の石を載せてあるだけで、その下には直径15cmの穴があって、そこに宝玉が埋まっていたのだと寺伝は伝えているそうです。このお寺の名前を「大寶山千光寺」というのはそういう言い伝えがあるのです。夜になるとこの石をライトアップするのだそうです。
天寧寺三重塔

千光寺から下の方へ降りて行きます。天寧寺の三重塔の屋根が見え始めます。

天寧寺三重塔相輪
天寧寺は千光寺山の中腹にあって、千光寺から下りて行くので塔の先端、相輪を真横に見ることが出来るのです。
これはとても楽しいことで、他にはこういう風に見ることの出来るお寺は滅多にありません。
昔は大きいお寺だったらしいのですが、いつの頃か雷火に見舞われて、この塔だけが残ったのでした。
もともとは五重塔だったのだが、元禄五年(1692)に上の二重を撤去して三重塔に改造して現在に到っているとのことでした。


天寧寺三重塔一層目

右は塔の一番下の部分です。
木組みの様子がわかるように写真を写しておきました。
堂々とした立派な塔でした。

泉光院は先に浄土寺へ詣納經をしてから、
…千光寺等所々寺社へ詣づ。…でしたが、ワタクシは世界遺産研究の会の団体ツアーで行ったので、バスが千光寺の上の駐車場で停めてそこから下へ降りたので、浄土寺は最後になりました。
次回に浄土寺へ行くことにします。
21:33  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2019.01.04 (Fri)

泉光院の足跡 330 佛通寺

十二日 晴天。嘉市村立、辰の上刻。野原、山道を半道行く、谷合双方大石山、其間に佛通寺あり、曹洞禪寺、納經す。本堂東向、佛通寺は燒失に付只今普請中也。寺中八九ヶ寺、門前村はなし、半道計り下の在所少々あり、此所谷川流る。一里に一の宮あり、社主は宮より半道脇に住す。納經印形受く。日も西山に落つる故、本市村又兵衛と云ふに庄屋指圖にて宿す。

佛通寺はとても大きなお寺でした。ワタクシは世界遺産研究の会のツアーでこのお寺へお詣りをしに行ったのでした。佛通寺地藏堂
このお寺は、泉光院も書いているように永享年間(15世紀)と寛政七年(1795 泉光院がここへ来る24年前)の2度の大火で創建当初の建物の殆どが失われてしまって、ちょっと離れた高い所にある地藏堂をわずかに残すだけとなってしまった。
右がその地蔵堂で、石段を上った高い所にある。

右の写真は地蔵堂。
普通は見せてくれないのだが、世界遺産研究の会で行くので、事前に話がついているからすみずみまで見せてくれます。
佛通寺地藏堂須弥壇と地藏
左は地蔵堂の内部。
重文の須彌壇と、木像の地藏菩薩坐像が鎮座していました。

一番先にここを見てから、下へ降りて川沿いに歩いて佛通寺の本堂の方へ行きます。
佛通寺の橋


この橋を渡って本堂(禅寺ですから本堂とは言わないのかも知れない)の方へ行きます。


佛通寺橋を渡る


左のようにゾロゾロと橋を渡りました。
橋に屋根がついているのはお寺としては当然のことなので、目新しいことではありませんが、識らないひとは随分珍しがるのです。ワタクシも最初のうちは珍しく思ったのでしたが、禅寺ではよくあるスタイルの橋です。これから寺社詣でをしようと思う人は、こういう橋があるのは当然のことと思って何気ない顔をして渡りましょう。
渡ったすぐの所に大きく枝を広げた松があります。
佛通寺の松と伽藍
左の写真、鐘樓の所に、横に長々と大きく枝を広げている松の木、地を這う龍のように仕立てられた松です。これで全体の半分程、とても大きな松の木です。向こうに見える建物は佛殿。このお寺では最も重要な建物です。お釋迦さまと、両脇に文殊、普賢の両菩薩がいます。
佛通寺佛殿釋迦

右、佛殿の内部。
真ん中に釋迦如來。
向かって右に獅子に乗っている文殊菩薩。
左が象に乗っている普賢菩薩。

文殊は知恵を司る菩薩であり、普賢は理性を司る菩薩。
どちらも人間には欠くことの出来ない性質のものです。
ついでに天井の龍も入れておきましょうか。

佛通寺佛殿天井の龍
写真写りの悪い龍でして、ちょうど真ん中あたりに小さな丸い「眼」が二つ並んでいるあたりが龍の頭だと思って下さい。右下の黄色いのは佛像の頭上を覆う天蓋です。
佛通寺方丈龍図



右は方丈の襖絵。これも大きな龍です。
このお寺は龍の好きなお寺でした。
泉光院がここへ来たときには、…佛通寺は燒失に付只今普請中…だったのでしたが、ワタクシは泉光院に代わってすっかり見て来ました。

十三日 晴天。本市村立、辰の下刻。直ちに一宮へ詣づ、大川の上、杉林の内、小社一宇西北向、夫より川を渡り中国街道へ出で、三里にしてヒナウチ村要助と云ふに宿す。此所は藝州の内也。此村より藝州國分寺へ詣で日歸りの積り也。
十四日 晴天。日名内村立、辰の上刻。四里半に國分寺あり、晝時詣で納經す。本堂七間四面、南向、眞言宗也。直ちに引き返し暮時日名内へ歸る。

佛通寺を出た泉光院は安藝國分寺へ向かいます。
佛通寺は山中にあったので、一旦旧山陽道へ出て、今の東広島市の方へ行きました。日名内村は今でも三原市の西の端にありますし、このあたりは旧山陽道の中でも一番山深い所です。ヒナウチ村の要助サンの家から東広島市西条の山中にある安藝國分寺まではほんとうに片道四里は充分にありそうですが、日帰りで行くことに決めました。
というのは、尾道まで戻ってそこから今の「しまなみ海道」の所から船で四国へ渡るつもりなんです。
西条のあたりは400~600mの丘陵山地に囲まれた大きな盆地で、九州太宰府に通じる山陽道の驛として栄えた場所であり、古代には國府も置かれ、広島県最大の規模をもつ三つ城古墳もあり、政治・文化の中心地でした。安藝國分寺門

ここの國分寺は南大門・中門・金堂・講堂が一直線上に並び、七重塔もあったと推定されています。
泉光院がここへ来た時は眞言宗の小さなお寺が安藝國分寺の跡地にひっそりと建っていたものと思われます(右の写真)。

十五日 晴天。日名内村立、辰の刻。中國街道を上り藝州家老の城下三原町を晝時通る。三萬石の城地には甚だ宜し。半分は海にあり、追手(大手のこと)北向、角樓小なれども四十八あり。此地より尾の道と云ふに三里、芳和村喜三次と云ふに宿す。こゝよりは尾の道へ一里。
十六日 晴天。芳和村立、辰の刻。直ちに尾の道へ出で淨光寺へ詣で納經す。此寺は頼朝坊回國中(なか)供養の寺とて回國の者の札所也。因て納經す。千光寺等所々社寺へ詣づ。當所より豊後へ渡海の船方々聞合すれども當分有合はせず、因て瀬戸田の瀬戸へ便船貰ひ渡る。夕方セツタへ上る、波の浦屋と云ふに宿す。

泉光院の予定では、三原城下を通って尾道へ出て、ここから瀬戸内海を船で豊後國(大分県)へ渡ってそこから日向国佐土原へと帰国する、というつもりでした。で、尾道で便船を捜すのだが、なかなかありません。仕方なしに一旦四国へ渡ってから考えようということにしました。
泉光院が船を待つ間、ワタクシはここらで少々道草をしましょう。

三原城の本丸のあった所をぶち抜いて、JR山陽本線と山陽新幹線の駅が出来ています。
そしてこのあたりはすっかり埋めたてられてしまって、市役所やデパート、つまり三原市の中心街になっています。三原城絵図
16世紀の室町時代には、ここに小早川家が毛利家を助けて浮城(海城)お作って海軍を置いたのでした。泉光院の書いているように、半分は海の中にあって、陸の城郭と軍港の両方を備えた名城で、江戸時代は浅野家の家老が管理する城となっていた。 右が三原城の絵図面です。
今は新幹線北口から出ると直ぐに「三原城天臺跡」へ行く階段があります。そこへ登って北の方を見ると少しは昔の風景に出会うかも知れない。南の方は埋めたてられ開発されて、(どこにでもあるような)近代的都市の風景が拡がるばかりですから。

尾道は海岸べりの道を東の方へ行くのですが、ちょっと道草をして、西の方、竹原、という町へ行きます。
この町は山陽道から離れているのだが、平安時代後期に京都・下鴨神社の荘園が置かれ、江戸時代は大規模な塩田が開発されて年間20,000tという大量の塩で経済的にも豊かだったし、高い文化を持っていたので、今でも町全体が観光地となっているのです。歩いてみましょう。
松阪家住宅外観

左は松阪家で、製塩業者の住宅。
豪商の暮らしを見ることが出来ます。

右は紺屋を営んでいた賴(らい)家住宅外観。
左下は内部。頼家住宅外観


頼家住宅内部


この家を建てたのは賴惟清(らい・ただすが)という人です。
この人は生涯に3つの夢を持っていました。
それは、子供を學者にすること、富士山を見ること、家を建てること、の3つだったのです。
それで、惟清はこの3つを生きているうちに果たしました。3人の子供は春水、春風、杏坪(きょうへい)といって、「三賴」と呼ばれる程の俊才だったので、商家の子供だったのに広島藩に認められて武士身分の儒学者になりました。春水の子供の山陽は後に江戸で学んで京都で塾を開き。「日本外史」 を著し、その尊皇思想は当時の青年たちに大きな影響を及ぼしたのです。賴山陽という名前はワタクシの子供の頃でも知らぬ人のいない程の大學者でした。
竹原町並を見下ろす
このあたりの町並全部が1082年に「重要伝統的建築物群保存地区」に指定され、町並保存センターというのが設置されています。江戸時代と違うのは道路の面がアスファルトで舗装されている、と言うくらいでしょうか。
左、高い所から見下ろしましょう。コンクリのビルディングやマンションや大規模スーパーやネオン広告も見あたりません。照蓮寺、西方寺、長生寺、地藏院、といったお寺や、竹原書院といった学問所などいろいろ並んでいて、お散歩しているだけでも楽しい所です。だがそれだけではなくて、家の各部のデザイン(菱格子や塗籠めの虫籠窓)などにも興味を持つとたいそう面白い場所なんです。あえて道草をする所以です。
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