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2018.11.13 (Tue)

泉光院の足跡 332 講釋

二日 晴天。入谷村立、辰の刻。谷を下り尾崎村清藏と云ふに宿す。
三日 晴天。尾崎村立、辰の上刻。作州八旗八幡へ詣で納經す。津山城下より十里の山中、因州へ近き所也。御殿南向、小社一宇、眞言寺一ヶ寺、門前在家三軒あり。在の古町と云ふに出づ、此所は常州土浦の飛び地にて陣屋あり。夫より野方村と云ふに行き、勘藏と云ふに宿す。丸法施也、故に一句謝禮す。月に寄せて、
   丸うなるきざしは見へつ三日の月
四日 晴天。 野方村立、辰の刻。道々托鉢。晝過笈頼み置きたる宅へ歸る。平四郎は病氣又々差起こり灸治す、因て其宅へ宿す。川上村清藏と云ふ宅。

これからしばらくの間ずっとこの岡山県の北の方、鳥取県との県境の小さな村の中に埋もれて生活しているようです。梶並八幡宮鳥居
八幡神社にお詣りをした、と書いています。先号で後山・道仙寺へお詣りをしていますから、そこから一番近い八幡さまは梶並八幡神社というのがあるので、多分この梶並八幡神社(右)でしょう。この神社では毎年10月に「頭人祭というちょっと変わった儀式があることで知られているのだが泉光院が来たのは8月だから時期がずれているので儀式の事は知らないだろう。

…在の古町と云ふに出づ、…
古町宿というのは国道373、鳥取から岡山県の北端をかすめて播州佐用宿へでる因幡街道の宿場で、鳥取藩やその支藩の諸侯たちが参勤交代で通った道。本陣・有元家や、(伝)宮本武蔵宅跡などがある町です。
泉光院の言うには、ここは常陸國、土浦の飛び地で、陣屋があると言っていますから、土浦城主の土屋篤直の領地の内だった事が判ります。関東も東の方の城主の領地が何でこんな中国地方にあるの? と思いますが、土屋家は何かいい事をしたのでそのご褒美に徳川家から領地を少し分けて貰ったのでしょう。自分の領地ならば年貢を受け取るために陣屋を置いて、代官がいて、集めた年貢米は大坂でお金に換えて、為替で國元へ送金する、、というような「経済の仕組みが江戸時代にはシッカリ出来上がっていたのでした。

ところで平四郎はまたまた病気が出た。いつもの疝気という奴でしょう。これからしばらくの間平四郎の病気とつきあってやらなくっちゃならないので、しばらくの間こんな山中に滞在します。お灸を据えたりして治療をしているようです、

五日 晴天。川上村立、辰の刻。少しの峠を越へ小村あり。平四郎昨日よりの病気惡しく今日も晝前より休息。田井村龜治と云ふ宅へ宿す。
六日 晴天、田井村立、辰の刻。峠を越へて村あり托鉢、平四郎今日も甚だ様子惡ろし、然れども托鉢稼ぎはつよしつよし。晝時夕立あり、雷少々あり、平四郎八寸作り頼む、依てアワヰ村クマカタ嘉市と云ふ大工の宅へ宿す。
七日 晴天。クマカタ村立、辰の上刻。道々托鉢、道にて切餅出る。大町村と云ふに疝氣灸點者あり、頼みて平四郎灸治す。予が峯中にて知音の三學院と云ふ山伏聞合する所、其後退轉し今は隣寺より預り居る由。又先年奥通りの時同道したる眞壁村瀬三郎と云ふ宅近き由聞きたるを以て尋ね行きたる處相違なし、奥通り二度同道の人也。因て其宅へ宿す。
八日 曇天。今日は滯留せよと云ふ、平四郎病氣未だ平癒なき故に幸として滯留す。是れ奥通りの一得也。
九日 曇天。眞壁村立、辰の下刻。少しの山林を通り在あり、托鉢の處予は先に托鉢せよと云ふに付村端にて待合す。夕方迄來らず、首永々と待居たる所宿ありたるとて來れり、石生村宗助と云ふ宅。
十日 晴天。滯在にて川原村と云ふに方角違ひながら托鉢に行く、五合法施の宅あり、嘉右衛門と云ふ百姓也。餅吸物等出る、今夕は此方へ來り一宿せよと申さる、又奥駈の人あり話しなどす、夕方石生村へ歸る。
奥津渓谷紅葉

岡山県と鳥取県の県境付近の山中で托鉢しながら過ごしております。
平四郎の病気(腹痛のようなものらしいのだが)はなかなか直らないけれども、お灸をやってくれる人も居るようです。

右は奥津渓谷の紅葉。



那岐山1255m


左は那岐山1255m


こんな山中で、泉光院主従はいろんな人の世話になって暮らしているのです。平成時代の日本では考えられませんねぇ。

十一日 晴天。川原村へ行き喜衛門宅へ宿す。
十二日 雨天。貞次郎と云ふが三鳥傳受けたき由願うに付傳受す。種々馳走あり一句、
   内そとも蔭なき月の舍りかな
孝經の講釋致し呉れ候様願うに付、晝過より講釋始める。

三鳥伝というのはワタクシはよくは知らないのですが、勅撰和歌集である古今和歌集の解釈で、三木(さんもく)、三鳥、に関する秘伝を師から弟子に切紙に記して伝授することを指します。泉光院はたぶん細川幽斎の系列で古今伝授を受けていたのでしょうから、師として弟子に伝授することは出来るのでしょう。
水前寺成趣園a
右の写真は九州熊本の水前寺公園です。右に見えている茅葺きの茶室は「古今伝授の間」。
この建物はもと京都御所にあって、後陽成天皇の弟、桂宮智仁親王が細川藤孝(幽斎)から古今集の秘事口伝を受けた場所で、建物はのちに長岡、大坂を経てこの水前寺成趣園(現在の水前寺公園)に移築されたのです。
野田泉光院のご先祖は九州出水市付近の野田庄の人でしたから、案外こんな場所で古今伝授を受けていたのかも知れない。
この時代、詩歌に親しむ人にとって、古今伝授を受ける事はたいそう有難いことでしょうが、時代が下るにつれて価値は下がって安っぽくなってしまったでしょう。

…孝經の講釋致し呉れ候様願うに付…講釈を始めた。
孝経は昔の日本では人気がありました。ワタクシなんぞもいつ覚えたのか判らないけれども冒頭のあたりはかなり子供の時からそらんじていたのでした。
孝経は、孔子が曾子に「孝」について述べた、という形式をとっていて、親を愛する心=孝は、徳の根本であり、すべての人の行動原理であると説きます。
 「身体髪膚 受之父母 不敢毀傷 孝之始也 (しんたいはっぷ これをふぼにうく あえてきしょうせざるは こうのはじめなり)」。始めの方の有名な句です。
ワタクシがこの句を覚えたときには既に父母は死んでしまっていたので孝行をしたくても出来なかったのでした。

十三日 晴天。滯留。晝過迄に孝經講釋相濟み、直ちに大學の講釋始むる。
十四日 雨天。終日講釋、折柄待宵。大雨。
   待宵や其甲斐もなく雨の音
十五日 曇天。滯留。宿の倅富衛門病氣にて今日は休講、折柄名月、講釋は大學なるに因り一句、
   名月や雲と散りゆく不審紙
病氣に取紛れ朝飯を晝時に出したり。アア

孝経の講釋をたった半日で済ませてしまった。きっと始めの一句とそれに続く、「立身行道 揚名於後世 以顯父母 孝之終也」、…立身出世をして父母にそれを知らせる事が孝行の最終目的である。…というあたりまで喋ってそれでお終いにしたのではないだろうか。ここの部分は、いわば「仰げば尊し」につながっていくのです。
名月ヨリック

十四日は宵待月だったが大雨でお月サンは見えなかった。
明くる十五日、八月の十五夜。名月です。
以前ワタクシが写しておいた名月の写真。
何ですか、これ。



引き続き「大學」の講義です。

冒頭はこんな句で始まります。
「大學之道 在明明徳 在親民 在止於至善 (大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を新たにするに在り、至善に止まるに在り。)」
こんなのを泉光院はどんな風に講釈したのだろうか。ワタクシの推測ではありますが、お終いの方に「修身斉家治国平天下」というような句があって、これなら何とか話をまとめる事ができるだろうと思います。ワタクシは孔子というとこの句を思い出すのです。

十六日 半天。隣家に三郎兵衛と云ふ豪家あり、茶の湯教へ呉れ候様申すに付。彼の方へ行き薄茶の点前教ふ。夜に入り喜兵衛方へ歸る。
十七日 晴天。今日も滯在。茶の湯稽古終日。種々馳走。藁巻前望むに付射て見せる。
十八日 晴天。富衛門病氣全快せり。先日より誦みの大學講釋始める。近所の者共は勿論、醫師、出家等迄數十人恰も大坂阿彌陀ヶ池の説法の席の如く集れり。講釋中場にても多葉粉(=煙草)を吸ふやら、足を延ばして坐り居るもあり、後には庭までも男女老若押しまぜ集つたり集つたりさてさて面白かりき、乍然(しかしながら)田舎もの物知らず不作法なることなり。夜に入り和平と云ふ宅より鮨並に味醂酒等贈らる。
茶の湯道具

泉光院は頼まれれば何でも教えます。お濃茶でもお薄でもそれなりの形で見せてくれるのです。

また泉光院は武芸も達者で、若侍たちに居合の形を教えもするし、弓は天流という流儀の師範格です。右の方に巻藁を置きました。これを的にして弓を射る形をやって見せたのでした。
弓道矢を射る
弓道巻藁


ここで四書五経などの講釋を始めたのは、川原村の喜衛門サンの息子の富衛門の願いによるものだったのだが、彼が病気になって休講している間、隣家三郎兵衛サンから茶の湯を教えて欲しいといわれたり、弓術を披露して欲しいといわれて、藁を巻いて的にした物に向かって射てみせたりしていたのだが、富衛門の病気が治ったのでまた講義を始めた。
まさに文武両道の泉光院です。

この家は村の庄屋さんのような大きな家です。こういうイベントのあるときは家を村人に開放するのでみなさん集まって聞きに来るのです。部屋に入りきれない人は庭先にむしろを敷いて座っている。そうして「大學」の講釋を浪花節か落語でも聞くような気持ちでタバコをのんだり足を投げ出したりして聞いているようだ。でも中には知識を吸収しようとして聞いている人も少数ではあろうが居ただろうし、そういう人はいずれ政治システムが変わって、(もうあと50年ほどすると明治という時代になるのです)民衆の発言力が高まってきたとき、新しい文化を担う核となり、急速に日本が先進国の仲間になって行く下地になるのです。

十九日 晴天。今日迄に講釋仕舞ひ、夕方より酒屋和平と云ふ宅へ行く。別れに一句、前あり略す、
   雁は來る吾れは別れの袖ひぢぬ
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2018.11.05 (Mon)

泉光院の足跡 331 美作國

十七日 晴天。セキニシ村立、辰の刻。八幡へ詣で納經す。林田の城下也。御殿、舞殿あり、南向、山の手也。大神門あり、門前家あり、社務一軒あり。夫より又山中へ入込み三里にて夜に入る、船村と云ふに庵あり宿す。半途に涼しき宅あり立寄る。主人一句と望むに付書付ける。
   たたずめば今身に知るや初嵐
十八日 晴天。船村を立ち一の宮へ詣で納經す。平地松林の内、中社北東向。伊和神社とあり、道々托鉢。笈頼み置きし市場村惣兵衛と云ふ宅へ宿す。
伊和神社本殿
姫路を出てから多分揖保川を遡るように今の国道29(姫路から鳥取へ出る道)を北に辿って、建部将堅の城下町である林田町の八幡さまへ詣でて、さらに北へ行き播磨國一の宮である伊和神社(右)で詣納經。

伊和神社は正式には伊和坐大名持御魂(いわにいますおおはもちみたま)神社といいます。よく読んでみると(つまり眼光紙背に徹するように読めば)伊和一族の祖先であるオオナムチ(=大穴牟遅=オオクニヌシ)の魂をお祀りしてある場所ですよ、と読めるのです。先号で載せておいた石の寶殿を造った部族の祖先を祀った場所ではないかとワタクシは思っているのです。

十九日 晴天。市場村立、辰の刻。五丁計り行き染川内と云ふ谷に入り托鉢、作衛門と云ふ宅へ宿す。
二十日 晴天。神燈諸式書寫頼みに付滯留。種々馳走あり。

泊めてもらった作衛門サン宅で、神道に関する書籍か何かのコピーを頼まれてしまって、一日滞在して仕事をした。その代わりご馳走になった。

ところで、林田の城下、建部政堅は大名とはいえ禄高一萬石。一番小さい大名です。仮にお米の値段を1kg\400として勘定してみると、一石で7万円、一萬石では7億円。これで殿様は自分の家族や親類縁者、、家臣の給料や領地の保全、ほかの大名との交際費、参勤交代に要する旅費、etc.そんなもの一切を賄わなくちゃならないのです。やりくりが大変ですねぇ。

これから先、泉光院は今の名前で言えば岡山県。広島県と過ぎて、しまなみ海道のあたりで愛媛県に渡って、それから佐多岬のあたりから速吸瀬戸と呼ばれた豊予海峡を船で渡って大分県へ入り、見残していた国東半島を廻って、ようやく宮崎、泉光院の故郷へと戻ることになります。まだかなりありますね。ゆっくり行きましょう。

廿一日 晴天。染川内村立、辰の刻。三方村と云ふ村多く托鉢ありと平四郎聞き出し行きたる所、谷合の中に川あり、双方に家あれど、爰に一軒、かしこに二軒、これ托鉢する場所にあらず、大いにだまされたる也。因て福地村へ行き、安二郎と云ふ宅に宿す。晝時隣村に火事ありて騒げり。
廿二日 晴天。福地村立、巳の刻。平四郎は撞木を拵へたり。三方町と云ふへ行く、夫より峠を越へ難きに付、片野と云ふ村嘉藏と云ふに宿す。
廿三日 晴天。片野村立、辰の刻。一里半の峠を越へ水谷村と云ふに下る。人家六七軒あり。一軒に立寄る。主人云ふ様、今日は當所五ヶ村祈念にて踊りあり、因て一軒の家に居らず、托鉢又宿もなしと云ふ因て未だ晝にならざれども其宅に宿し洗濯す、亦四郎兵衛と云ふ宅。晝過大夕立大雷あり、今晩庚申也。

平四郎はお金を貯めるのが好きなようです。あるときはお腹が痛くっても我慢して托鉢に行きましたし、泉光院が宿で日記の清書などをしていると、…今に登山の案内料や宿賃を払わなくっちゃならんのだから、托鉢をしてお金を貯めておかないと困るだよ!…と文句をつけるのです。
あるときは○×村でお米が高価なようだ、という噂話を聞いて、安そうな村でお米を一俵仕入れてそれを担いで、その○×村へ持ってきて売ろうとしたらかえって安くって、くたびれ儲けをしちゃった、というような笑っちゃいそうなことをよくやっているのです。
今度も、三方村では托鉢をすると沢山貰えるそうだ、というような話を聞き込んできて来たのです。その三方村というのは、揖保川(揖保乃糸という素麺の産地を流れる川)のずっと上流、もう少しで日本海側との分水嶺となるような谷合です。家があっちに一軒、こっちに二軒、ばらばらで、これでは托鉢の効率が悪い。こんな山中での托鉢は諦めて山中をウロウロしております。宍粟(しそう)郡という兵庫県中部と鳥取県が境を接するあたりです

廿四日 夕立天。水谷(みずや)村立、辰の下刻。二里下り托鉢、上野村と云ふに行き兵衛門と云ふに宿す、丸法施也。平四郎は別宅。
廿五日 晴天。當村托鉢、又鐵山あり一見に行く、夕方歸りて大雨、又兵衛門方へ泊まる。
廿六日 晴天。上野村立、巳の刻。朝飯遅く平四郎何やら用事とて待たせたり。又此所より方角違ひなれども托鉢に行かんとて行きたり。立歸りサイキと云ふ村へ行く、五丁計りにて一宿す、猶衛門と云ふ宅。
廿七日 晴天。サイキ村立、辰の上刻。道々托鉢、サイキ上村と云ふに行く、此所より峠あり、因て未だ未(ひつじ)の刻ならざれども一宿す、津和衛門と云ふ宅。
廿八日 晴天。佐伯上村立、辰の上刻。若坂と云ふ峠を越す、谷合に上鍋村と云ふがあり、六次郎と云ふに宿す。
廿九日 晴天。上鍋村立、辰の刻。千種町とて山中谷合に在町あり、其名によりて一句、
   ことわりや千種の花の町ならび
西千種村四郎兵衛と云ふに宿す。

なにしろ毎日毎日こんな調子で神社佛閣何もない山中を托鉢しながら歩いているのだが、それでも不思議と泊めてくれる家がありまして、泊まった村と泊めてくれた家の名を書き留めているのです。

八月一日 晴天。西千種村立、辰の刻。西山手の峠を越へ入谷村と云ふに行く、此峠は播州作州の國境也。此入谷村より五十丁に吉野郡後山とて神變菩薩開基の峯あり、登山す。本尊藏王權現、八合目に三間四面の堂あり、東向、少し東に高さ數十丈の大石あり、其下に神變菩薩堂あり、其石上に上れば、硯石と云ふの後には馬乘馬場とおて大石の間に廿間計り幅三間計りの平地あり、外に行場所々にある由、案内なくては行かれず延引す。座主は麓にあり、道仙寺と云ふ、古義眞言地、納經印此寺より出づ。此峯六七の二タ月日々參詣あり、勿論七月多し、此峯先年備前小島五流と公事ありて小島負けたりと云ふ。夕方麓村へ歸り政衛門と云ふ宅に宿す。

播州(兵庫県)から作州(美作・みまさか=岡山県東部)の方に来ました。ここにある後山(うしろやま)は役行者が開いたという山です。
道仙寺本堂道仙寺神變菩薩石像



この山は今でも女人禁制を守っているそうで、左が八合目にある道仙寺本堂。
登山道には右の写真のような蔵王權現の石像(これは文化六年に建てられたというから、泉光院がここへ来る数年前です)があったり、山伏の修行するような行場があるようだ。泉光院が来た時には既に山開きの時期は過ぎていたらしいから、案内の者は居ないので登山は諦めて、麓のお寺で納經印を出して貰ったのでした。

…此峯先年小島五流と公事ありて…というのは、今の倉敷市の南の方の鷲羽山という瀬戸内海に面した、鷲羽山頂上展望
今は有名な観光地になっている鷲羽山(わしゅうざん)にいた小島五流という山伏グループとここの間でもめ事があって、公事(=裁判)の結果こっちの方が勝った、という事らしいのだが、もめ事が何であったかというようなことが書いてないので判らない。どうせ利権に関する事柄であって、当事者にとっては大問題であろうが、泉光院のようなよそ者に捕ってはどうでもいい事です。右は鷲羽山頂上からの展望です。いい景色ですねぇ。
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2018.11.03 (Sat)

日記 2018年11月

1日 木 1016hPa 晴 図書館からメールで返却期限を過ぎたのがあると連絡あり。
2日 金 1020hPa 晴 図書館へ行く。Nob.サンから手作り林檎ジャムを戴く(右)。Nobサン林檎ジャム
有難うございます。
Paoで珈琲。
3日 土 文化の日 1020hPa 曇
江戸時代の事を多く書いているので「旧暦読本」というのを買った。\2160
旧暦読本
暦についての知識がいっぱい入っている。







4日 日 1019hPa 曇 Nob.サンから浜リコの忘年会へのお誘い。12月19日水曜日。
お仲間に入れて下さい。
5日 月 1019hPa 晴 倉式珈琲で珈琲(右)。倉式珈琲で珈琲
6日 火 1018hPa 雨 Paoで珈琲。
7日 水 立冬 1019hPa 晴 Chantillyで珈琲。
図書館で「五木寛之全紀行第5巻」を借りた。
五木寛之氏はワタクシとほぼ同年代であって、内灘闘争時代の金澤の事もご存知であり、ワタクシの通勤の道筋に寛之氏の奥方が住んでいたお家があり、通った喫茶店や古本屋なども重複していた事など、近親感を感じる点がいくつかあるのです。
8日 木 ● 1020hPa 晴 図書館へ行く。Nby.サンに浜リコ忘年会出席を伝える。会場は遠州病院近くの豆腐料理屋。
9日 金 1020hPa→1018hPa 曇→雷雨→晴 寒冷前線通過の典型的なお天気。
海谷眼科の診察日。前回の診察から1年1ヶ月ぶり。受付で恭子サンがいつもの通り素敵な笑顔で迎えてくれる。…久し振りで逢えましたネエ…と笑う。
診察の結果、左眼がかなり悪くなっていた。「後発白内障」だということで、レーザー手術をする事になった。レーザー手術と聞いて吃驚したのだが大したことはなかった。
白内障手術をしたあと、2年位で挿入したレンズの後ろに水晶体上皮細胞が増殖して混濁が発生して視力を低下させることがあるのだそうで、レンズの後ろの袋をレーザーで切開して除去する手術、との事。レーザー光線を30発ほどあてて手術は終わった。
左眼はかなり明るくなり、視力も元に戻ったようだ。
次回診察は12月14日(金)8:00の予約。
海谷眼科からPaoは近いので、Paoで珈琲。一昨日塩崎サンがPaoへ来て写真を受け取ったそうで、その時手作りケーキを2個置いてくれたのを、えり子サンから受け取る。有難うございます。歸りは雷雨だった。
餅米をみね子サン宅で買い、麹を林屋で買って帰って甘酒を造る。明朝には出来上がる。
Antiche Danze ed Arie をCDで第1、2、3組曲まで全曲聴いた。
10日 土 1018hPa 晴 無事
11日 日 1019hPa 晴 無事
12日 月 1016hPa 曇→晴 永らく高血圧治療薬であるディオバンを吞んでいなかったのでK内科医へ行く。7月2日に定期検診に行ったままだったらしくて、その時の診断データーを貰った。以前のデーターと大差はないのだが、「腎機能」と「高血圧」の2点が要注意。総合判定は異常なし。
13日 火 1014hPa 晴 Chantillyで珈琲。
14日 水 1014hPa 曇/晴 鴨江珈琲で珈琲。浜松市の水道事業民営化反対署名簿を受取る。Paoのえり子サンから℡で依頼された。金曜日に届ける予定。
15日 木 1017hPa 晴Chantillyでドライカレー
Chantillyでドライカレーを食べる(右)。外食をするのは珍しい事です。
昼寝をしようと思ったら、ラジオでベートーヴェンの9番交響曲が始まってしまった。思わず聞いてしまって寝そびれてしまった。
16日 金 1022hPa 晴 Paoで珈琲。署名簿をお渡しした。えり子サン、咳がひどくって苦しそう。早く治りますように。
ワルツで珈琲豆を買う。キリマンジャロAAを200gとモカ・マタリを100g。いずれも20%増量で。
17日 土 1018hPa 晴サロンへようこそチラシ20181117土s
静岡文化芸術大学でレクチャー&コンサート「貴族の愛したバロック音楽」がありました。
はじめに静岡文化芸術大学の上山典子准教授からバロック音楽についてのレクチャーがあって、
サロン青島由佳フラウトトラヴェルソサロン櫻井茂ガンバサロン戸崎廣乃チェンバロ


フラウト・トラヴェルソの青島由佳(左)、
ヴィオラ・ダ・ガンバの櫻井 茂(中)、
チェンバロの戸崎廣乃(右)、  このお三方の演奏、サロンチェンバロ
曲目は、
J.M.ルクレール : ソナタ ニ長調 Op.2/8
A.ロッティ : ソナタ
G.Ph.テレマン : トリオソナタ ロ短調 TWV42:h4
J.モレル : シャコンヌ
とても素晴らしい演奏でした。右はそのとき使ったチェンバロ。
楽器紹介でも、チェンバロではバッハの「ゴルトベルク変奏曲」のアリアだったり、アンコールでもバッハのカンタータ中の「主よ人の望みの喜びよ」といった耳になじむ音楽でした。
聴衆のなかには浜松のガンバ奏者(の殆ど全部)も集まっていたりして、盛会でした
18日 日
19日 月
20日 火
21日 水
22日 木 小雪
23日 金 ○ 勤労感謝の日
24日 土
25日 日
26日 月
27日 火
28日 水
29日 木
30日 金
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2018.10.29 (Mon)

泉光院の足跡 330 姫路

十四日 晴天。盆故に滞在して朝より托鉢に出る。晝より大夕立、歸り休息す。新亡の宅あり餅煮しめ等出る。
十五日 曇天。滯在。托鉢に出る。晝過歸り休息。二王一部。精霊會一句、
   魂祭り□々々と唱へけり
十六日 晴天。高砂立、辰の刻。夫より石の寶殿へ詣づ。大石山を掘り抜き、竪三間横幅二間四面、宮の形也。仰向になりて上に扉あり、下は掘抜きの池也。本と石と宮との間四尺計り。前に宮ありしが、此間燒失し今假殿也。夫より姫路城下へ出づ。本街道半道計り行き右の方宍粟郡と云ふに行きセキ西村と云ふに宿す。此邊聖霊送りとて、長さ二間計りの松明を軒別山の手に持ち上がり燈し下る也。魂送りを見て一句、
   長らへし身の仕合せや魂送り

奇妙なことに十四日の項を二日続けて書いているのです。先号{329 高砂}で、播州海岸尾上や高砂の天神や明神などへ詣納経しながら名松を見て歩いたのがお盆の十四日ですから、どこかで日を間違えたようだ。今は新聞、ラジオにテレビにスマホ・・・、ありとあらゆるものにカレンダーや日付や時刻が表示されているけれども、泉光院の時代はそうではなかった。暦だって大の月。小の月などが書いてあるだけです。

石の寶殿という所へ行きました。ワタクシは全く知らなかったのでちょっと詳しく書いておきます。
場所は高砂市生石(おおしこ)という所の宝殿山麓にある生石神社。ここはずいぶん昔から知られていました。
生石神社播州名所縦覧図会
播磨國風土記には作り石があり、形は家のようで、聖徳太子の時代に物部大連守屋が作った、と書いている。万葉集にも、…はりまなるしずのいわや…、
とうたわれているという。右は番州名所巡覧圖會の挿絵。

御神体の石は立方体の岩で、正面の最大幅は6.45m、奥行7m近く、最高部分の高さは7mという巨大な岩です。
祭神は大己貴(オオナムチ)命(=大国主命)と少名彦名(スクナヒコナ)命、ともに出雲神話に登場する神様たちです。
神社の縁起によるとこの二人の神様が協力して一夜のうちに作り上げたのだといいます。
上の絵の詞書には「高さ四方ともにおよそ三丈ばかり、めぐりに清水あり。すなはちこの寶殿を神としてまつるなり」というような記述があるらしい。
生石神社石の寶殿全景
左が「石の寶殿」。
凝灰岩の山からこんな形のものを掘りだして、それが宮殿の形を横に倒したようになっているのです。
生石神社石の寶殿拝殿








右が拝殿。こんなのが下から三棟あって、これは三番目、一番上の拝殿です。どれも通り抜けることが出来る様になっていて、通り抜けた先に左の場所で御神体である石の寶殿と対面するようになっている。
生石神社石の寶殿前

泉光院が来た時には火事で拝殿が焼けて、仮殿が建っていたようでした。

これの使用目的、用途などは謎のままですが、制作技術から推測して、7世紀頃に作られたとされています。
不思議な物だから古来いろんな人が絵に描いている。
生石神社石の寶殿司馬江漢
生石神社石の寶殿シーボルト

左は司馬江漢。

右はシーボルト。


生石神社石の寶殿スケッチ
こちらは作者不明のスケッチ。
横倒しの形ではなくて、本来ちゃんと建っていたらこんな姿であろう、という推測図。
こんなのが水の上に浮いているように見えるので、神社の案内には「力いっぱい押して下さい」と描いてあるのが笑える。

伝説によれば、お二方の神様が地上に降りてきたとき、天女が一夜のうちに御屋敷を造ってさし上げようと思ったのだが、何かトラブルがあって、出来上がる前に夜が明けてしまったので、未完成のまま天女は天へ戻ってしまった、というのです。だがこれは単なる伝説に過ぎないようです。
ワタクシの空想に過ぎないのですが、播磨國風土記を作成した時代に、出雲國あたりから力のある部族、おそらくは播磨國風土記の中で活躍する伊和の一族がやって来て、墳墓か何かの目的で作り始めたのだが、その後何かの原因、つまりもっと力のある部族がやって来て(例えばアマテラス系の部族)が「海道東征」などと言って、先住民族を追っ払った、というような事件が発生したので、伊和の一族は作り掛けのまま仕方なく諏訪の方に逃げていったのかも知れない、とワタクシは思っているのです。
古事記の中つ巻、神武東征を見ましょう。高千穂あたりから伊波礼毘古(イワレビコ)という男がきて九州東海岸、速吸門(はやすいのせと)から瀬戸内海を東に進み、明石海峡から浪速渡(大阪)へ上陸しようとしたのだが失敗して、紀伊半島を南に廻って熊野からようやく大和國橿原へ進んで天皇となって、神武天皇と称したのが日本の天皇のはじまり、ということになっているとワタクシは思っているのだが、この時、石の寶殿といわれているこの奇妙な建造物が作りかけのまま放棄されてしまった、と思っているのです。
姫路城全景

泉光院は姫路の城下へ出ました。
左は姫路城。
二の丸あたりから見た天守閣と付属の櫓。立派な御城ですねぇ。


ワタクシは世界遺産研究の会のツアーで見物に行ったので、学芸員という人がつきっきりで案内してくれたのでした。
櫻門橋を渡って櫻門をくぐると城内に入ります。ずっと進んで石段を上って右に曲がると「菱の門」で、入ると広場になります。
姫路城いの門遠景姫路城三国堀

そして正面遠くに「いの門」が、右手には大きな「三国堀」が見えてきます。
姫路城いの門
いの門からから入りましょう。
左がいの門。

姫路城の大天守へ到る道は迷路のようになっています。
道は両側が石垣になっていて狭い道です。

門には、い、ろ、は、に、……ち、り、ぬ、るの門、とひらがなの名前の門と、水の門と名付けられた一から六の門があります。両側には、イ、ロ、ハ、ニ、……チ、リ…とカタカナで名付けられた櫓および渡櫓がびっしりと並んでいます。
姫路城はの門前

右は、「ろの門」から「はの門」への道で、ずっと進んで突き当たりの左に「はの門」があるのですが、途中の土塀には銃眼、○や△、□の穴が開けられていて、侵入してくる敵軍には鉄砲の弾で狙い撃ちされる仕掛けです。

姫路城鉄砲を撃つ


こうして沢山の門をくぐり抜けてようやく大天守を真上に見上げる広場、「備前丸」の着いてもそこから大天守に攻め込むのはかなり大変です。難攻不落といわれた姫路城です。だが実際に戦争に使われた事は一度もないのでした。

天守閣は四つの櫓で構成されています。
東小天守、西小天守、乾(北西)小天守と大天守。
姫路城大天守内部心柱

大天守は外観は5層のように見えるのだが、入ってみると、地下一階、地上六階になっているのです。
右は三階の大広間。
左と右、東西に二本の「心柱」が見えています。この柱で巨大な天守閣を支えているのです。

外へ出ましょう。
備前丸の広場から備前門を通って、「りの門」、「ぬの門」とくぐります。
姫路城るの門大天守側姫路城るの門埋門

左は「るの門」の入口、石垣の間をくぐり抜けるように降りて行きます。右が「るの門」を出た所。
厳重極まりない構造ですね。

ここを出ると元の三国堀の広場へ出うるのだが、その途中に「お菊の井戸」というのがあります。
姫路城お菊の井戸
怪談噺「播州皿屋敷」のお菊さんが責め殺されて投げ込まれた、という井戸です。
拝領の十枚揃いのお皿の一枚を壊したという罪で、殺されたのです。
…一まぁい、二まぁい、三まぁい…と数えて、九まぁい、という所でお終いになる。夜な夜なお菊さんの恨み声が響く…という怪談噺です。江戸へ行けば「番町皿屋敷」となって歌舞伎で演ぜられる有名なお話。

姫路城には「西の丸」という一画があります。姫路城化粧櫓内部

徳川家康の孫娘千姫は、桑名藩主本多忠政の嫡男本多本多忠刻お結婚して、本多家が播州姫路に移封となった時、夫と一緒にしばらくここに住んでいたので、その記念のため、千姫が歌留多とりをしているお人形が飾ってあります。

俗謡に
…吉田(今の豊橋市)通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖で…というのがあります。この唄の主が千姫である、などというのは全くのデタラメであって、実在の千姫という人は、美貌で、頭がよくて素敵な女性だったようです。
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2018.10.17 (Wed)

泉光院の足跡 329 高砂

平敦盛の首塚へお詣りをした泉光院は次に人麻呂山月照寺とその中にあった柿本人丸の宮へ行きました。人丸の宮はこれも明治維新の神佛分離で柿本神社にされてしまった。
山陽電鉄「人丸駅」で降りるとすぐ北に天文科学館があって、そこは東経135°の日本標準子午線通過地点ですから記念の塔が作ってあります。その奥に柿本神社と人麻呂山月照寺が並んでいるのです。
柿本神社日時計
左、柿本神社の前。日時計が据えてあって正午になると日時計の真ん中の棒の影がちょうど真北に向くわけです。

ワタクシの子供がまだ小学生だった頃に住んでいた家は東経137°42'57"ほどの所にありました。それで子供の夏休み研究に、自宅の緯度・経度を測定する、ということをやったのです。
日時計を庭に拵えて、ラジオの正午の時報の時に棒の影が真北からどれだけずれているか?ということで経度を、、夜中の北極星の角度を測って緯度を、測定するのです。
夏休みの宿題としては親の関与がはっきりしているにもかかわらずちょっとだけ評価されたようだった。だが実は誤差の方がかなり大きくて、単にこんな方法でも緯度・経度は測れるよ、ということを子供に教えるだけの事だった。
月照寺柿本太夫祠堂碑亀
江戸時代中頃の享保八年(1723)に朝廷は柿本一千年祭にあたり、石見國とここ播磨國の月照寺・人丸社に「正一位柿本大明神」(正一位の大明神と言うことはつまり柿本人麻呂を最高位の神様にしたと言うことです)の神位をあたえました。
右は「播州明石浦柿本太夫祠堂碑」というもので、亀の背に乗った大きな碑です。林大學頭春齋が作った長い文章を一息で読めば亀が動く、という言い伝えがあるのだが、難しくて長い文章だから一息では読める人はいないから、亀が動いたという記録はない。松尾芭蕉も元禄元年にここへ来て明石夜泊七句を作った。「たこつぼやはかなきゆめをなつのつき」という何の事やら判らない句碑も建っている。
松江月照寺壽藏碑
参考のために石見國(松江)月照寺の亀の背に乗った壽藏碑というのを左に載せておきます。ここのはとても大きくて、亀の首はワタクシの肩のあたりまであります。碑の文字はとても読めませんでした。
この亀を見たのは、出雲大社から伯耆大山、三朝温泉、三徳山三佛寺投入堂と廻る途中、松江のホテルで泊まることにしたので、松江の町も一日かけて歩きまわったので、ラフカディオ・ハーンの住居跡や松江城、宍道湖、嫁ヶ島に夕日の落ちる様などゆっくり見ることが出来ましたし、松江・月照寺は茶人であった七代松平不昧公の墓所でもあり、お茶室でのんびりお茶を戴くという贅沢も味わう事が出来たのでした。ラフカディオ・ハーンは何かの随筆に、夜になるとこの亀が町中をうろつくという伝説を聞いて怖ろしいと思った、と書いています。
月照寺山門と天文科学館

もとへ戻って明石の月照寺ですが、このお寺の門(右)は、もと明石城の門で、明治維新後に民間に払い下げられたのがここに納まっています。右後ろの大きな塔は天文科学館の塔です。


明石城坤櫓巽櫓
左はいま残っている明石城の櫓。
左=坤(こん・ひつじさる・南西)櫓
右=巽(そん・たつみ・南東)櫓
この二つの櫓が長い塀でつながっていて遠くから見るととても見事な御城に見えます。本丸、二の丸、三の丸、西廓といった主要な建物はすべて明治維新後に取り払われてしまった。
明石城付近のことは、No.091 大坂 の項で詳しいのでそちらも参照して下さい。

十四日 二子村立、辰の刻。二見村と云ふに行く、大夕立あり。夫より別府村と云ふに行く、天神の宮あり、社内に手枕の松とて名木あり、幹七尺廻り計りにて直ちに横になり。節あり、龍の蟠るに似たり。十間四方に横たはり二重の枝あり。夫より尾上の天神へ詣づ、松林の内西向大社也。大門仁王を安置す。巣籠もりの松とて社内に名木あり。夫より尾上明神へ詣で納經す。藥師堂西向、相生の松今三代目と云ふ、若松也。然れども女男松枝分かれる。尾上の鐘、口差渡し二尺五寸、高さ三尺、龍頭は片頭也。尾の方に筒あり、。廻り八寸、長さ一尺一寸、無銘、ラホツ(螺髪)なし、筋もなし、縁に唐草模様あり。此處松の古木は庵室内にあり、夫より高砂明神へ詣づ、大社也、納經す。御殿西向、當所にも相生の松あり。此の松は根元より双方へ分かる・女男松は尾上に同じ、夜に入る故に吉田屋と云ふ廻船問屋へ宿す。尾上にて一句、
   鐘の音に尾上は霧のこぼれけり
      高砂
   初嵐音高砂の朝ぼらけ

播磨國の海岸は名松で一杯です。名松を見て歩きましょう。
住吉神社手枕の松三代目
泉光院が間違えて「天神の宮」と書いている住吉神社にある「手枕の松」(右)は現在三代目だと言っている松です。泉光院が見たのは二代目だったのだろうか。

泉光院は、太い幹のすぐ上の方で横になっているありさまは、龍が蟠って(わだかまって)いるように見える、と書いている。


次が尾上(おのえ)の天神。
清宮天神社菅公お手植えの松

今の名前は濱宮天神社です。
…巣籠もりの松とて社内に名木あり…と書いています。
左がその天神社。
右手前に張り出している松がその名松でしょう。
天神社は菅原道真公をお祀りしている社です。この松は道真公お手植えの松と言われている松ですが、泉光院の言っている巣籠もりの松と全く同じ物かどうか確認は取れていないのですが、多分同じだろうと思います。

そして尾上明神。これも今は尾上神社と改名されていますが、ここには有名な「相生の松」があるのです。
尾上神社尾上の松四代目b

相生(あいおい)の松、というのは、一株の松の根っこの所で黒松(男松)と赤松(女松)がくっついているものです。
泉光院は、…相生の松今三代目と云ふ、若松也、…と書いています。右がその相生の松です。左に見えている立札には「相生の松 四代目」と書いてあるらしいので、泉光院の時代には三代目だったものが今では四代目に代替わりをしたのかも知れない。

尾上神社梵鐘b
左は「尾上の鐘」。
この鐘は朝鮮渡来の梵鐘で、國重文。表面には如來坐像や優美な飛天の姿などが鑄出されているそうで、立派な物のようです。


高砂神社相生の松五代目b

お終いが高砂神社。ここにも謡曲「高砂」で謡われる有名な高砂の松がある。
これは現在は五代目。

 ♪高砂や この浦舟に帆を上げて
  この浦舟に帆を上げて
  月もろともに出汐の
  波の淡路の島影や
  遠く鳴尾の沖過ぎて
  はや住之江に着きにけり
  はや住之江に着きにけり♪

20:43  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
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