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2016.11.05 (Sat)

泉光院の足跡 189 松島

六日 晴天。ナゲ子村立、辰の刻。岩出山と云ふ一萬石の城下を通る。追手東向、町少し、夫より高清水と云ふ驛に出て一宿す。
七日 晴天。高清水驛立、辰の刻。佐沼と云ふ驛を通り豐摩と云ふ驛迄七里、此所に仙臺外城衆中の陣屋あり。高塀あり、町あり、下に大川あり渡船あり、當所より津輕へ百里程ありと云ふ、殘暑は強し又此所へ立皈る場所なれば津輕の奥迄は行かず、…

岩出山の城を居城としていたのはまだ若かったころの伊達政宗で、その後仙台に現在の城を築いてそこへ移った後は、八男(四男?)の宗泰が入り、以後はその子孫があとを継いだ。右は藩校「有備館」。藩校としては早くから建てられたものだと言われています。岩出山有備館雪景

高清水から佐沼を通り、…豐摩…は、今の表記では「登米」ですが、発音にはいろいろ問題があって、Wikipedeiaのご厄介になったので、そのことを付け加えておきます。

この辺りははるか昔には遠山(とおやま)村と呼ばれていた場所なのだが、いつの頃からか(とよま)村と略され、江戸時代には登米村、明治になって登米町と当字をされるようになった。
2005年(平成17年)の大合併で登米町とその周辺の町村をまとめて登米市とした時、市の呼称を、とめ市としたのでした。だから昔の登米町は、登米市登米町=とめ市とよま町と呼ぶことになった。近ごろオリンピックのボート会場騒ぎで登米市が新聞、テレビに出てくるようになって、登米市がクローズアップされたのだが、ワタクシは泉光院の時代のことを書いているので、泉光院の使ったままの豐摩の音をいかして登米=とよま、にしておきましょう。
登米臥牛城跡
右は登米城址。
北上川の西岸で、仙台藩の重臣大内氏の居城だった所です。
登米武家屋敷通り


そして左は武家屋敷の並んでいる町。

泉光院の書いているように、…高塀あり、町あり、大川あり、…の通り、右のような立派な蔵造りの町屋などもあり、近ごろテレビでもお目にかかっているように北上川河口付近にはボートの競技場も作れるほどの大川もありました。
登米蔵造り町屋







登米水沢県庁記念館
左は、明治の頃、一時は水澤縣というのが置かれた時の水澤縣廳の庁舎跡です。
このあたりは滅多に行けない場所ですからつい画像を幾つか載せてしまいました。

そしてここまで来て、先号で書いておいたように、ここから津軽の恐山まで行こうかどうしようか迷った揚句、津軽はここから100里もあるし、…殘暑は強し、又此所へ立皈る場所なれば、…と思って津軽行きは止めたのでした。

…横山不動と云ふに詣納經、寺一ヶ寺、本堂南向、仁王門庭に泉水あり、當所は奥州の靈山にて多くの參詣あり、因て籠り堂とて諸人の籠る堂あり、當寺住持は佐土原大安寺弟子、ヤギシヤノ村産れの人にて種々昔話等あり、今晩は一宿せよと申さるゝに付一宿す。且つ又醫師一人居合す、此人俳人にて即興等あり、歌仙一枚す。別に記す、後に又一句す、
   草臥れは花野に捨てし旅路哉
八日 晴天。横山立、辰の刻。石の巻と云ふ奥州第一の港に出づ、久木屋と云ふに宿す。
横山不動

横山不動は日本三不動尊の一つに数えられる(らしい)不動尊のようです。
そしてこのお寺で日向佐土原ゆかりの人に出会ったのです。このお寺の住持が佐土原の大安寺(たしか泉光院のお寺、安宮寺よりも大きいお寺)に居た男だった。
キチンと数えていたら泉光院が故郷佐土原を出てから旅先で佐土原ゆかりの人に出会ったのはこれで13人目。佐土原という町は、今でもそうですが昔も(城下町とはいえ)小さな町だった。ところが佐土原出身者というのが意外に全国に散らばっていて、東北のこんな片田舎の町にも居たんですね。
そうして、幕藩体制というものが、従来はとても閉鎖的な社会であるように思われていたのだが、それは武家社会だけのことで、町人や職業人(大工とか医者とか、その他さまざま)は案外各地に散らばっていたような記録が見受けられるのです。

そして泉光院はなぜか芭蕉が訪れた平泉も中尊寺も行かずにそのまま石巻へと南下してしまいました。

九日 晴天。石の巻立、辰の上刻。金華山へ赴く、石の巻より寅卯の方十里にあり、山の出崎也。野を越へ、山を越へ、海邊磯邊峠大小十五あり、夕方愛川と云ふ村へ着き、宿を求めて一宿す。
十日 雨天。島へ渡り得ず、據なく滯在。金華山付近地図
金華山









金華山の写真と、石巻→金華山、の地図を載せました。左上が石巻で右下が金華山。
石巻から牡鹿(おしか)半島の先端まで来た先にある島です。風越峠→折浜→桃浦→大越峠→萩浜→子積峠→etc. まことに泉光院の言うとおり峠と浜とを交互に越えてようやく鮎川浜(泉光院は愛川と書いていますが)へ夕方着いたのだが、翌日は雨で島へは…渡り得ず、…

十一日 晴天。朝早々より金華山へ渡る。海上一里。此方の山に鐘あり。渡る人は此鐘を撞く、さすれば島の方より向ひ船來る也。海際より寺迄五丁登る、寺一ヶ寺、天台宗、辨天宮、龍王宮あり納經。奥の院廻り船賃山役錢迄に一人前百五十文出る。寺より八丁登り龍王權現宮あり。少し下り水晶石と云ふがあり、廻り六七間、高さ二丈計りの六角石にて水晶に非ず常の石也。夫より濱の方へ下る、奇石等所々にあり、名所數多き故に略す。晝過寺へ歸る。風惡しく大波故に歸船出來ず、據なく寺へ一宿す。奉納一句、
   秋來ぬとこがね花咲く御山哉
   砂の上岩もこがねの花野哉
金華山黄金山信者鳥居鹿

金華山へ渡る時はこちら側で鐘を撞くと迎えの船が来る。鐘が合図だったんですね。船の賃料込みで入山料が150文。昔は寺だったのだが明治以降は神社にさせられて、黄金山神社となっている。
また宮本先生のお話を聞きましょう。

 …おいでになった方はおわかりになると思いますが、実に立派なお宮があります。あれだけ立派なお宮を、そりゃ伊達家が少しお金を出したということもあるだろうが、ずっと今まで維持して、今日まで続いてきたことを考えてみると、誰かがこれを支持する人がいなければ、あの離れたところであんな立派なお宮や坊が今まで残るはずがない。それだけならまだわかるが、金華山というのは鹿がすごいほどいる。猿もいるんです。自由自在にとびまわっている。あの鹿の餌だけでも大変だと思うんです。今なら観光客が行くから、そういう所があったからって不思議はないんです。しかしこの時期に立派なお宮や寺があり、餌を食べる動物がいた。これはどこかで食料を補わなければこれだけ生きられないはずだ。そういうものを出す人がおったということですね。
 あんな僻地の島に文化が残存していくというのは、そこへ詣る人たちが、どうそれを支持したかということにあったと思います。単に搾取ということではなく、出羽三山のときと同じように、このように高い金を払って詣る人がおるところに私は興味を覚えるのです。…

泉光院の払った150文の中には鹿や猿の餌代もあったということですね。
芭蕉は石巻から登米へ向かっているのですが、その途中、石巻の湊の日和山から遙かに見渡して、…(大伴家持が万葉集巻18で)こがね花咲く、と詠んで天皇に奉ったという金花山(金華山)を海上遠くに望見できる、…と書いているのだが、その山に登ってもそこからは金華山は見えない、と芭蕉研究家が書いているのを読んでしまった。大伴家持が、黄金花咲く、と詠んで天皇に奉ったのは、その時代、奥州で金が発見されて、奈良の大佛に金メッキをするための金を中国から輸入しなくてすんだことを喜んだ長歌につけた反歌であって、金華山から金が産出されたのではありません。

泉光院は石巻から松島湾を見渡す富山(とみやま)観音へ来て、
…富山觀音と云ふに詣で納經。當山は松島浦一見の絶景地、松島より北に當り高山也。當寺の庭より眺望すれば松島三里の入海島々眼下に見ゆ、松島の景は富山にありと云ふは疑ひなき事也。一句、
   松島を懐にして霧の海   …
松島

右は松島風景です。誰かが
   松島やアア松島や松島や  
という句を作ったとかで有名ですが、ここはやはり芭蕉翁に登場して戴きましょうか。芭蕉はこの地を中国の名所に擬していて、かなりたくさん書いていますから。芭蕉の原文を書いて、訳文を簡単に入れておきます。

…抑ことふりにたれど、松嶋は扶桑第一の好風にして、凡そ洞庭・西湖を恥じず。…
既に言い古されていることだが、松島は日本一風景のいい所であり、中国の名勝である洞庭湖や西湖と較べても恥ずかしくないほどだ。
…東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。…
東南の方向から湾内に水を入れたようになっていて、湾の中は三里もあり、中国の浙江のように満々と水を湛えている。
…嶋々の數を盡して欷(そばだ)つものは天を指し、ふすものは波に匍匐(はらば)ふ。…
島の数は限りなく多くて、聳え立っているものは天を指さしているようだし、低い島は波の上に腹ばいになっているかのようだ。
松島横長






…あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。…
二重に重なっているものもあり三重に畳まれたようなのもある。左の方に分断されているかと思えば、右の島と続いているものもある。
…負へるあり抱けるあり、兒孫愛すがごとし。…
小さな島をおんぶしているようなのもあれば、抱いているようなのもあり、まるで子や孫を慈しんでいるかのようだ。
…松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹きたはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。…
松の緑は冴えて、枝葉は潮風に吹かれてたわめられている。その姿は、自然にそうなったのであろうが、いかにも人がほどよい形に折れ曲げたようにも見える。
…其氣色、窅然(ようぜん)として、美人の顔(かんばせ)を粧ふ。…
それらの風情には、憂愁の色を深くたたえた趣があり、美人(ここでは西施をさしているのです)の化粧顔にもたとえられようか。
…千早振神のむかし、大山ずみ(大山祇)のなせるわざにや。…
神代の昔、山の神である大山祇命がなされた仕業なのであろうか、(千早振る=ちはやぶる、は神様の枕詞。大山祇命は、木花咲耶姫・コノハナサクヤヒメの父君です)
…造化の天工、いずれの人か筆をふるひ、詞を盡さむ。…
天地万物を造られた神様の働きは、いかに技をふるっても、うまく描くこともうまく言い表すこともできるものではない。

芭蕉翁は塩釜の港から舟に乗って島の間をめぐり、瑞巌寺の方へ行っています。
前に書いておいたように、芭蕉は象潟を見て、「象潟や雨に西施がねぶの花」の句を作って、美女が愁いに沈んでいるような美しさであり、ここ松島では美女が姚然と笑っているような美しさである、と両方の風景を対比させているのでしょう。

洞庭湖は中国湖南省にある大きな湖で、「瀟湘八景」で知られています。西湖十景も前には全部書かなかったので、ここで両方書いておきましょう。

瀟湘八景
【 平沙落雁・遠浦帰帆・山市晴嵐・江天暮雪・洞庭秋月・瀟湘夜雨・煙寺晩鐘・漁村夕照 】
西湖十景
【 断橋残雪・平湖秋月・三潭印月・花港觀魚・曲院風荷・蘇堤春暁・南屏晩鐘・雷峰夕照・柳浪聞鶯・双峰挿雲 】

中国の詩人 蘇東坡は、「飲湖上初晴後雨」の中で、西湖の景観の美しさを、西施を引き合いに出して、「欲若把西湖比西施 淡粧濃抹総相宜 (西湖と西施をくらべようとすれば、西湖は晴雨に拘わらず、西施は化粧の濃さによらず、どちらも美しい)」と言っているので、こんな事も芭蕉は心に留めておいて、『おくのほそ道』を推敲するときに、晴れた松島と雨の象潟とを対比させるように、西施を引き合いに出してこの部分をまとめたのだろうと思います。
浙江は杭州市の近くを流れる大河で、河口がラッパ状に広がっているので春秋の大潮の時の満潮で、海の水が大逆流をすることで知られています。この前中国へ行ったとき、バスの中から浙江の流れを一生懸命眺めていたのだが、波静かに蕩々と流れているばかりだった。あたりまえですね。年2回しか発生しない現象だから、たまたま行って見られるわけがない。
雷峰塔の上から雨の降っている西湖を眺めたのだが、晴雨にかかわらず美しい、と1200年も昔の詩人が言っているのだから大いに満足して見て来たのでした。
西湖蘇堤と天竺南峰の山々西湖夜明け白堤と孤山

左は西湖・蘇堤と天竺南峰の山々。
右は西湖・白堤と弧山の夜明け。
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2012.01.01 (Sun)

日記 2012年1月

1日(日)
今年の干支は辰。龍圖を見ましょう。
これは金澤・兼六園の東南隅にある金城霊澤にある龍圖です。
金城霊澤・天井龍圖
懸額に金城霊澤と書いてありますが、
別名「金洗いの澤」といい、遙か昔、
王朝時代に、いもほり藤五郎という
男が芋を掘っていたところ砂金が
出てきて、この泉で洗った、という
のが伝説です。同じような伝説は
日本各地にあって、浜松の鴨江觀音
でもそういう伝承が伝えられています。
だがそのような伝承が地名になった
のは金澤だけのようです。

金城霊澤・水面

詳しいことはまもなく 金澤・兼六園 の
中で書きますが、天井には龍が描かれて
います。
子供の頃、ここで手を叩くと龍が咆える、
という言い伝えを聞いて恐ろしかったものです。

今思えば天井の周囲が傾斜していて、
ホーンのような役目をしているので、
手を叩けばその振動が天井と下の水面と反響しあって響くのでしょう。
この建物は大工をしていた私の祖父が昭和初期、多分ワタクシが生まれる
少し前に立てたものだと伝え聞いております。
賀春
このブログを見ていただいている方に、改めて
元旦東天7時20分

あけまして
おめでとう
ございます


私の住んでいる場所の日の出は午前6時55分ほどですが、雲があって、
太陽の姿は見えませんでした。この写真は7時20分くらいの東天です。
肉眼では僅かに木の間に太陽はあるのだが、写真にはうまく写りませんねぇ。


2日(月)
龍圖の2番目は清酒「手取川」の瓶ラベルの龍です。
清酒「手取川」
日本酒を飲む時、私は出来るだけ加賀の白山の
麓から流れ出る手取川の水で醸したお酒を買う
ようにしています。
白山市の酒屋で作っている「天狗舞」という
お酒が好きでよく買うのだが、今度は白山市の
別の酒屋で作っているこの「手取川」の龍が
眼に入ったので買ってしまった。
瓶の丁度真ん中あたりに金色の龍の頭があるのが
見えるでしょうか。

このお酒を飲んでみて思ったのだが、なんだか
辰年を当て込んで急拵えで龍圖ラベルを
貼り付けた、という感じは否めませんでした。
やっぱり慣れ親しんだ味の方がいいもんです。
昨年暮れに大きな雄の鱈を一匹(ほぼ\8,000)
で買って、大きな白子が取れたので、そのまま
酢でしめて食べたり、お汁にしたりして食べたのだがそれでもまだたくさん
余ったので、初めての試みで天麩羅にしてみた。こうすれば保存食になると
思ったのだがとても美味しくて結局全部食べてしまった。
身の方は刺身にしたり煮たりしたのだが、これも少し天麩羅にした。意外に
美味しかった。

3日(火)
いいお天気です。
佐鳴湖・陽の輝き
佐鳴湖西岸へ行きました。
いいお天気なので湖面が
輝いています。
いろんな鳥がいるのですが
私はさっぱり判らないので
双眼鏡を持っている人に
聞いてみました。
  あれはオオバンという
  鳥だ。嘴が赤いので
  判る。
といいました。

4日(水)無事

5日(木)徳川家康・肖像画部分
浜松市美術館で開催中の展覧会
「徳川家康と浜松」を見に行く。
いずれ「迷い道」の全国版を
書く時のスタート地点を浜松と
するつもりなので、家康サンに
ついて敬意を払っておかなくちゃ
ならないだろうと思うのです。


6日(金) 無事。車で浜名湖を回ったついでに、
国民宿舎「かんざんじ荘」でぜんざいを食べた。やはりワタクシは小豆の
ツブツブが見えるぜんざいよりも、漉餡のトロリとしたオシルコの方がいい。

7日(土) なんと美味しそうな!!!
珈琲の香り
  磐田市香りの博物館  
  「珈琲の香り展」
を見てきたのです。
右の写真はこの展覧会のチラシの一部を
ひろったものです。
コーヒーの木と綺麗なカップ



左は事務所の方にお許しを得て、展示品の一部を載せますが、
コーヒーの木と綺麗なコーヒーカップ。
a href="http://blog-imgs-43.fc2.com/a/z/a/azasosori/2012010714590819e.jpg" target="_blank">珈琲とケーキ

そして右はカフェで頂いたケーキと珈琲です。
ケーキは「モカ何とか」で、珈琲はコロンビア。
私は酸味系の珈琲が好きなんで、いつもモカか
キリマンジャロばかり買っていたのだが、
酸味・苦味は淹れ方で大きく違ってくるものだと
教えられた。コロンビアは美味しかった。

8日(日)無事。昨日、今日とバロメーターの値が1032mbarを指している。快晴が続く。
9日(月)成人の日 浜松市立博物館。「城絵図展」を見に行く。今日が最終日。
10日(火)無事
11日(水)無事
12日(木)無事
13日(金)無事
14日(土)無事
15日(日)無事
16日(月)無事
17日(火) 朝、みぞれが降ったようだ。この辺では珍しい。
18日(水) 浜名リコーダーアンサンブル吹き初め My birthday
誕生日A誕生日ケーキ


浜リコ練習後のケーキ。
19日(木)無事
20日(金)NOBUYOさんから平野美術館の無料券を頂いたので家を出たのだが、
平野美術館の隣が亡息の、そしてワタクシのヴァイオリンの先生で、
ご無沙汰していることを思い出してしまった。で、手土産を用意して松下初恵先生の
お宅へ行き、結局上がり込んでしまって長々とお喋りをした。
先生はいまも少しばかりヴァイオリンを教えているのです。
21日(土)今日は平野美術館へ行きました。「めでたづくし・吉祥文様の起源」
めでたづくし・チラシ雲龍圖
チラシと雲龍図です。
牡丹、梅、松、日の出、
富士山、七福神、
といったお目出度い
絵がいっぱい。

平野美術館は
いい絵をたくさん
持っているんですねぇ。

22日(日)無事
23日(月)旧暦一月一日 無事
24日(火) 無事
25日(水) 浜リコ練習、バード、バッハなど。
26日(木) 無事
27日(金) 無事
28日(土) 秋葉神社・管粥祭。1月28日は浜松中の正月飾りやお札などを
納めて焼く、左義長のような行事と、管粥神事といって、五穀の作柄を占う
神事が行われます。私の家のすぐ近くで、浜松中の人が集まってくるので
一日中人の波が絶えません。焼トウモロコシや大判焼、イカのみりん焼、
いろんなものを売る屋台がびっしり道を塞いでおります。私の家の前では
焼きそば売りの屋台でした。
秋葉神社・人混み秋葉神社・竈
神社の前の人混み(左)、
そして神社の前では
筒粥神事を行うための竈
(右)がしつらえて
あります。

午後4時になると
神主さんが4人出てきて
♪かけまくもかしこみ
かしこみ♪祝詞をあげます。
イザナギ・イザナミの命
(みこと)から始まって天地八百万の神々にお願いをして今年の五穀の
作柄を占って貰うわけです。
秋葉神社・祝詞をあげる秋葉神社・管粥









厳かに祝詞をあげ、煮えたぎったお釜の中に、五穀(米・粟・稗・黍・豆)
を入れて、竹の筒を束にしたものも一緒に入れて、その筒の中に何が
どれだけ入ったかによって今年の作柄を占うようです。秋葉神社・2012年作柄
今年は右のような結果が出ました。


29日(日) 無事
30日(月) 無事
31日(火) 無事
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2011.05.27 (Fri)

南大門

春日大社前のバス停で降りて北の方を見ると遙か彼方に東大寺南大門が見えてきます。
路の左側にはお土産物屋が並んでいます。お店が途切れるあたり、最後のお土産屋は
「森漬物店」といいまして、ここの奈良漬は有名ですが、買うのは後回しにしておいて、
まず南大門へ急ぎましょう。
nandaimon.jpg

南大門の建築様式はそれ以前の古代建築に比べて全く異なった建築様式に拠っている
ことにその大きな特徴があります。
日本の古建築は、二階、三階を作る時、柱を各階ごとに別に立てます。所がここは何と
20メートルに及ぶ長大な柱が立っているのです。写真を見ると屋根が二重になって
いるのだが、下の屋根はこの柱の中程に作られた、さしかけの庇屋根に過ぎないのです。
日本の建築の軒の出は一般に深く、その深い軒で、大屋根、庇屋根の重量を支えるために、
組物(斗拱とも呼ばれる)を使います。

普通は柱の上に柱の直径と同じ程度の「大斗」を置き、その上に肘木が乗り、
さらに斗(ます)、肘木、斗、と積み重ねて屋根の加重を受ける支点を前方に出す
方法が採られます。
ところがここでは肘木は柱に挿し込まれて、大斗の上には乗っていません。

このような肘木を挿肘木と言います。他にもいろいろな違った点が見られ、
このような様式を「大佛様(だいぶつよう)」といいます。

千香ずくに連れ、南大門はその巨大な姿を見せてくれます。屋根を見る時には、
まさに「仰ぎ見る」という姿勢になってしまいます。

南大門の両脇にいる、通称では仁王サンと呼んでいる金剛力士を見ましょう。
二体並んで寺門を守るので仁王(二王)といい、大きなお寺なら殆ど門の両脇で
悪をなす者の入場を拒絶していますからなじみ深いですね。
10:15  |  未分類  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2011.05.27 (Fri)

東大寺

東大寺は平城京の東山麓に奈良時代に建立された官立の寺院です。
その寺院には本尊として巨大な『盧舎那佛』が祀られ、周囲には数多くの堂社が
立ち並んで、荘厳な景観を作っています。

秋の日の大佛殿
daibutsudenaki.jpg


東大寺へお詣りに行きましょう。

南大門から入って大佛殿で盧舎那佛に対面し、大佛殿を出たら東側の石段を登って、
鐘楼を左に見て進み、法華堂、二月堂、の順で廻ることにしましょう。

ではまず南大門をくぐりましょうか。
09:44  |  未分類  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
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