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2014.08.31 (Sun)

ヨリックの金澤・2014年夏 05

兼六園は名園です。一木一石のたたずまい、曲水の流れ、すべてに風雅の趣。自分の足で歩いて、自分の五感で感じ取りましょう。先ほどの徽軫燈籠から川の流れに沿って上流へと歩を進めます。
雁行橋a
雁行橋。
亀甲の形をした赤戸室石が、雁の空を行くが如く配してあるので雁行橋とも亀甲橋とも言います。
橋というものは本来は人間が川を渡るために作ったものだと思いますが、磨り減るのを怖れて入場料を取るようになってからは人間の渡る事を禁じています。雁行橋b

(右の写真)よく見ると石の真ん中あたりが少しばかりへこんでいるようです。
形あるもの必ず滅す。とは佛教でもよく言われる事ですし、人間の作ったものは必ず壊れるものである事、原発事故を見てもよく判る事です。
諸行無常。すべての現象は移りかわってゆくものであると認識するのが悟りの初歩である、とお釋迦さまも言ってるじゃありませんか。石が磨り減って穴の開くのを怖れて人間が歩くことを禁止するのはどんなもんですかねぇ。
左上の写真、橋の向こうに燈籠が見えています。そのあたりが七福神山(左下)。
七福神山
よく判らないのだが大黒天とか毘沙門天や福禄寿、辨財天など言った石が配してあるのでしょう。
日本の庭園を見るためには、こういったさまざまな見立てを知っていないとダメなんです。きっと丸くて大きいのが大黒サンで、細長いのが福禄寿、だとか、弁天サマは前の方にいらっしゃるのだとか、、いろんな決まりごとがあるのだと思います。

ここから曲水にかかる橋を渡ると、大きな銅像が見えます。日本武尊・銅像
ヤマトタケルの銅像なんですが、この銅像が建てられた理由がワタクシにはさっぱり判らない。建てられたのは明治10年で、西南戦争で死んだ人の魂を祀るという目的だそうなのだが、金澤の兵隊が九州まで出かけて西郷隆盛討伐に荷担したという話は聞いた事がないのです。それよりもワタクシの記憶にしっかり残っているのは、この台座の石組が「三すくみ」になっている、という話。日本武尊・台座

三すくみというのはジャンケンのように、強いのと弱いのとがあって全体としてうまくまとまっているシステム。
左がその台座。
この台座には、ヘビとカエルとナメクジの石が組んであって、ヘビはカエルに勝つけれどもナメクジには負け、ナメクジはヘビに勝ってカエルに負け、カエルはヘビに負けてナメクジに勝つ、というのです。それでこの台座はどんな天変地異があっても絶対に壊れないのだ!と子供の時しっかりと教え込まれたのでした。だが実はどの石がカエルやヘビやナメクジなのだか、いまに至るまで誰も教えてはくれません。この銅像の前に立つたびに、どの石がどの生き物なのだか目を凝らしていているのだが未だに判らぬままです。中国での三すくみは、「螂蛆食蛇、蛇食蛙、蛙食螂蛆、互相食也」となっていて、螂蛆はナメクジではなくてムカデの事だそうです。
根上がり松根上り松・根

銅像の向かいに根上り松の巨木が見えます。見事な大木。

そうして菊櫻というのがこの松の右側の方にあるのですが、初代菊櫻は枯死してしまっていま二代目に代替わりしているので写真は撮ってないのでした。
菊櫻・花弁

左は初代菊櫻の花弁です。
一つの花弁に300枚を超える花びらがついているのです。いまは二代目菊櫻ですが花弁の数の多いことは初代と違うわけではありません。
この花が咲くのは他の櫻よりちょっと遅いので、花見の盛りがすんだ頃に行くのが好いでしょう。

曲水にかかる花見橋。曲水・杜若見頃
杜若の頃が一番の見頃です。
五木寛之氏が朝早くここへ来た時、この杜若の所に人が集まっているのを見て、随分不思議がったことを何かの随筆に書いておりましたが、金澤に長く住んでいる人ならわかることです。
五木寛之氏が驚いたのは、杜若の花が開く時のかすかな音を聞くために人が集まっていたことでした。

躑躅の花が杜若より少し先に咲くので両方同時にというのはちょっと難しい。
花見橋
左は花見橋から見た躑躅。杜若にはまだちょっと早いようですね。

この橋を渡ると成巽閣の裏門に出て、そこから成巽閣に入ります。観光客が成巽閣に入る時は裏門からでしか入る事は出来ません。この建物は13代藩主斉泰が母親の隠居所として建てたのですが、江戸時代末期の大名建築として、豪華と風雅、詳しく見ていくと、日本建築の素晴らしさがよく判ります。成巽閣は別途項を改めて書くことにします。

成巽閣裏門の左へ行けば山崎山で、西麓には芭蕉句碑があります。
山崎山・芭蕉句碑芭蕉句碑・あかあかと


 あかあかと
 日はつれなくも
 秋の風

この句は奥の細道の帰り道、金澤の俳人の誘いでやってきて、犀川の橋の上で詠んだ(異説もありますが)という句です。
他にもこの句を彫った石はあちこちにあるようですが、これはわりに古いもののようです。
この山の裏側(東麓)には氷室の跡があって、冬の間に作って貯蔵しておいた氷を六月朔日(旧暦の)に掘り出して殿様に差し上げるのが「氷室開き」。氷室饅頭
庶民はその日、「氷室まんじゅう」(右の写真)というのを食べるのでした。
新暦では7月1日です。この日1日だけの予約販売。

成巽閣裏門の所を右に行くと金澤神社で、その前を降りていくと金澤という地名が生まれた泉、「金城靈澤」に出ます。

金城靈澤
芋掘り藤五郎という貧乏な男が山科(金沢市南部の山)で自然薯を掘って暮らしていました。男のもとに大和国から…わこ…という娘が砂金の袋を持って嫁いできました。男は、こんな物いくらでも落ちている、というのです。金の値打ちを知らなかったのです。金城靈澤・泉
芋はいつもこの泉で洗っているのだが、泉の砂の中に砂金が混じっているのです。
わこに教えられて砂金を取り、男は金持ちになりました。その泉はいまも綺麗な水をたたえては居りますが、昔のように砂金は出てきません。
金城靈澤・扁額

この建物は、大工をしていたワタクシの祖父が昭和初期に建てたものだと聞いております。
扁額に「金城靈澤」と書いてあります。
昔はこの泉を「金洗いの澤、かねあらいのさわ」と言っていたのだが、前田利家がここを領地にしたとき、それまで尾山と呼んでいたこの地名を、この泉にまつわる伝説を聞いて、金澤と改めたのだそうです。

ここに出口があるので一旦兼六園を離れましょう。
向かい側には石川県立美術館があって、その右側に陸軍第九師団の師団長官舎跡が県立美術館の別館になっていて休憩も出来るようになっています。氷室まんじゅうの写真はこの師団長官舎跡の一室で写したものです。右の坂道をずっと降りていけば最近有名になった金澤21世紀美術館。
石川県立美術館の左隣には加賀藩家老であった本多家の藏品館、その左隣が石川県立歴史博物館、その横に石川県立能楽堂、その向かいが成巽閣の正門と石川県立伝統産業工芸館、などなど、美術館・博物館がいっぱい並んでおります。
成巽閣・なまこ塀
成巽閣の正門の方へ向かいましょう。
堂々としたナマコ塀が並んでおります。
左突き当たりまで行くと正門です。
成巽閣・正面入口





金澤城内には藩主の住居は一つもありません。この成巽閣が唯一江戸時代の大名屋敷の面影を残す建物です。
前田家十二代藩主齊廣の夫人眞龍院は江戸本郷の邸(現在の東大の場所)に住んでいたのだが、夫の死後、金澤城二の丸に移り住んでいた。十三代藩主齊泰は、この母の隠居所としてこの建物を建てて、金澤城の東南方向に当たるので巽(たつみ)御殿と名付け、後に唐詩の一句、…成於巽而徳風備矣…から採って成巽閣とした。
この建物は廃藩後だんだん縮小されてついには三分の一程になってしまったのだが、それでもなお宏壮且つ優美な姿を見せてくれます。始めて写した写真

右の写真は、ワタクシが始めて写真機というものを買ったとき、この成巽閣の正門の中で撮影会というのがあったのでその時に写した写真です。
ワタクシにとっては貴重な記念写真ですのであしからず。
成巽閣のことは、《ヨリックの散歩道 金澤035 兼六園3》の項でかなり詳しく書いてしまったので、今回の兼六園はここでお終いにしましょう。

帰り道はもう一度公園の中へ入って、桂坂口から白鳥路、お城の周囲の堀だった道へ出て、ホテルKKRへ戻りました。左の上がが金澤城の三の丸から新丸にかけての領域で、右側は加賀藩家老職の奥村家邸や細工所などがあったのだが現在は裁判所が入っている。
白鳥路
きれいに整備されているのでお散歩道に好適です。いろいろの銅像や彫刻なども入っているので公園の延長のような雰囲気です。

白鳥路・三文豪

右がそんな銅像の一つで、金澤の生んだ三人の文豪。左から室生犀星、泉鏡花、徳田秋聲。
泉鏡花についてはちょっと書きたいこともありますので、何れ項を改めましょう。

ホテルKKRへ戻ったのは8時ですから、2時間半程の朝のお散歩でした。
KKR食堂から大手堀

窓から眼前に大手堀が見えます。
お城の石垣や堀を眺めながらの食事はとても気持ちがいいし、ここの食事はかなり「金沢風」料理なので、バイキングとは言えワタクシにとっては少しばかり懐かしい朝食。
そして近江町市場へ行って昨日のうちに頭に刻み込んでおいたお店に行って、「どぜうの蒲焼」や「金時草」や、ふぐとふぐの卵巣の粕漬、ニシンの糠漬、「へた紫茄子」等々の食材を買い込んだのでした。

どぜう・蒲焼
河豚とその卵巣・粕漬


左がどぜう(ドジョウ 泥鰌)の蒲焼、
右の上がふぐ(河豚)、下がふぐの卵巣の粕漬。
ふぐの卵巣はそのまま食べれば猛毒なのではありますが、3年程塩漬けにしておけば毒は抜けるので、その後粕漬けにするのです。
お墓参りに行きました。
大乗寺・参道入口
左は曹洞宗・大乗寺の参道入口。左側に屋根が見えますが、ワタクシの祖母はこの家から嫁に来たのでした。
柴木家・お墓


右がお墓。参道入口から100mほど登って左の石段を登った所にあります。

これで「2014年夏」の項を終わりにします。
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2014.08.09 (Sat)

ヨリックの金澤・2014年夏 04

黄門橋を渡って下へ降りるとすぐ噴水に出ます。噴水
この噴水の高さは3.5mで、霞ヶ池を水源としているのでほぼ霞ヶ池の水面に近い高さまで上がるわけです。日本で一番古い噴水です。
金澤城二の丸の殿様の居室前にも噴水が上がっていたそうで、それは文久元年(1861)に拵えたのだが、兼六園のこの噴水はその試作品だというのです。
この噴水の成功で、今度は百間堀という深い堀を隔てた向こう岸にあるお城に噴水を作る自信がついたのでしょう。
ルイ14世がヴェルサイユ宮殿に作らせた噴水も昔はやはり水源との自然の水位差を利用したものですから、ヴェルサイユの噴水がお手本なのでしょうか。
亡息の噴水
左の絵は亡息が多分高校生の頃に描いたらしい油絵です。
死んでからようやく額縁に入れてもらった油絵。いまワタクシがパソコンを叩いている場所の斜め前方にかかっております。改めてこれを見ながら叩いているのです。

この噴水の向かい側に、いまは兼六亭という名前の茶屋があります。昔は松濤亭といいました。
松濤亭

室生犀星の出世作となった小説『性に眼覺める頃』の舞台は松濤亭の娘お玉と、少年表棹影(おもて・とうえい)との結ばれる事のなかった恋の物語です。

お玉は茶屋の経営者柿田虎吉の養女釧(たま)で、表棹影は犀星の友人、ともに実在の人物です。
右の写真は昔の兼六園の写真からとった公園前の茶屋で、松濤亭と言っていた茶屋。
左が建て替えられて名前も兼六亭となっている茶屋。
兼六亭

小説のお終いの方を少しばかりのせておきます。

小説では「私と同い年」となっているが、犀星より二つ年下の明治24年生まれの表は「立派な美しく巧みな歌」を書いていた。中央で発行されている有名な雑誌『新聲』に詩が載ったのは犀星より早かったし、17歳で『文庫』に小説「作男の政」が入選する程の天才少年だった。犀星は金澤地方裁判所で働きながら詩作に励んでいたのだが、「私と交際したいという手紙をよこしてから三日目に、この見ず知らずの友は、私の寺を訪ねにやってきた」のが彼との出会いだった。

金澤の西町(ホテルKKRに近い、貯金局のある町)に住んでいた表は、「藤棚のある小綺麗な、噴水の池が窓から眺められる…」松濤亭のお玉さんと仲良くしていた。お玉さんも「非常に表を愛していた」。そのお玉さんのところへ「私」もよく表に連れられて行った。
ある日、表から、当時不治の病であった胸の病にやられたらしい事を告げられる。日に日に病は悪化し、「お玉さんと君と友達になってくれたまへな。僕のかわりにね。」と言い残して、秋も半ば過ぎにこの友は死んだ。
性に眼覺める頃

「表の棺が出る時、お玉さんが近所の人混みの間に…ひっそりとただ一人で見送って…」いたのが何ともいじらしかった。
しばらくたって、「私」は公園のお玉さんの所へ行った。赤い襷がよく冴えたお玉さんが「私この頃変な咳をしますの」と言うのです。冬のやってくる前、再びお玉さんを訪ねたのだが、加減を悪くして寝込んでいたお玉さんには会えず、「やはり表のように、とても永くないような気がした」私は「…沈んだ心になって、公園の坂を下りていった。」

右は『性に眼覺める頃』の初版本の箱(左)と表紙(右)。

昭和の初め頃までは、胸の病、つまり結核にかかるとこの小説のように「もう永くはない命」でした。
両親の結婚写真

ちょっと汚れた写真で恐縮ですが、右はワタクシの兩親の結婚記念写真です。
私の母も私を産んでまもなくこの病にかかって、私を抱く事もなく乳を飲ます事もなく、離されて、山の中の実家で死んだ。だからこういう小説を読んでいるとやはりそれらの事がワタクシの心を切なくするのです。私がこのブログに http://azasosori.blog.fc2.com/ と名前をつけたのも、白山の麓、河内村(かわちむら)字(あざ)下折(そそり)といういまはもう廃村になってしまったような集落、私の母の実家があった小さな集落の記憶のためなのでした。

噴水と松濤亭の場所を離れて少し登れば兼六園の中でも一番有名な場所である、徽軫燈籠と虹橋
徽軫(ことじ)燈籠と虹橋のある霞ヶ池の畔に出ます。


朝6時前に入ったおかげで全く人のいない写真を写す事が出来るのですが、この橋の上はいつも人でいっぱいです。
沢山の人と一緒にに愉しむという楽しみ方もあるでしょうが、この120,000㎡という宏大なお庭がワタクシ一人のためにあるのだ!と言う思いで眺めるのも亦悪くはないでしょう。
徽軫燈籠と幼ヨリック

右の写真は幼児のワタクシが父親の膝の上で、徽軫燈籠のそばにいる場面です。いまこの場所は嚴重に進入禁止とされておりますからそういう意味では貴重な写真と言えるでしょう。
私の父親は兵隊にとられて中国に戦争に行き、そのうち体を壊して除隊になったのだが、金澤へは戻らず、舞鶴あたりの工場で働いていたようだがワタクシの知らないうちに死んでしまった。父親がたまたま金澤へ帰ってきた時に2歳か3歳の私を連れて兼六園へ来て、徽軫燈籠の下でこの写真を写したのが最後の金澤なのだろうか。だからワタクシは父や母の歳の何倍も生きながらえているのだと思っているのです。叔父も満州で学校の教師をしていたのだが、終戦とともにロシア軍に徴集されて極寒の地で森林伐採などの作業をしながら餓死したのだと復員した人から聞かされました。戦争というものは、巻き込まれてしまえば人を殺すか殺されるか、の結果を生ずるだけです。これを書いている今日、8月6日は広島上空で原爆が炸裂して沢山の人が死んだ日でもあります。
唐崎の松・雪吊り

徽軫燈籠の対岸に見えるこの唐崎の松も有名です。
13代藩主齊泰(なりやす)が琵琶湖畔の唐崎の松から種を取り寄せて実生から育てた黒松。
毎年11月1日に園内の松の雪吊作業を始めるのだが、この木を第一番に始めて、その模様がテレビで中継される。北陸に冬の訪れを告げる行事です。

雪吊作業

ちょっと長くなりそうなのでもう1回金澤の項を追加する事にして今回はここまでにします。
13:18  |  金澤  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2014.08.01 (Fri)

ヨリックの金澤・2014年夏 03

6時45分までに開いている門から入ればタダで兼六園に入れる、とホテルのフロントサンは言うのだが、ワタクシの年齢だったらいつでもタダなんだし、お金を払ったとしても\310なんです。むしろ開いている門を捜す方が難しい。
桂坂口
石川門の所から一番近い兼六園の入口は左の「桂坂口」。
奥の方に料金所が見えますね。まだ窓が閉まっているようだ。そしてその上を上がった所にある門はしっかり閉じている。
右の方へ行くと茶屋などが沢山並んでいて、そちらへ行けば入れる場所があるかも知れないと思って歩き出した。意外に開いている門が見当たらない。
兼六亭へ上がる坂の上の門も閉まっているし松濤坂の門も閉まっている。やっとその向こうの三芳庵と夕顔亭の間の隙間から入る事が出来た。(右の写真)
三芳庵茶屋
この三芳庵も今は単なる茶屋であって、昔の三芳庵は栄螺(さざえ)山の麓にあって優雅な料亭だったのだがいつの間にか取り壊されてしまって今はその影もない。

料亭三芳庵・入口

左は10年以上も前に写しておいた三芳庵の入口と、
右は部屋の中から庭を見た所。三芳庵別荘内部から外を見る

ここは、兼六園が市民に一般公開された明治七年から料理屋として営業していたのでした。

以前に書いた事ですが、三芳庵での室生犀星と芥川龍之介の事をちょっと再録しておきましょう。

大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災で室生犀星は金澤へ疎開しました。大正14年1月に東京へ帰るまでの間、犀星は金澤へ多くの詩人や作家を招いていますが、芥川龍之介もその一人です。芥川が犀星と金澤へきっと行くと約束をして、実行したのは大正13年5月15日。

駅に迎えに出た犀星に、芥川は、夜中に話をする男がいて眠れなかった、といって、目をしょぼつかせながら汽車から降りてきた。手には小さい四角なトランクを一個だけ下げていた。
犀星は芥川を三芳庵別荘に案内しました。
三芳庵水亭・瓢池・翠瀧


上の三芳庵の場所からちょっと山を下った、瓢池のほとりにあります。三芳庵水亭ともいいました。真ん中ちょっと右寄りに見える瀧は翠瀧。
若葉に覆われた薄暗い座敷に通ると、普段人を入れない冷たい空気が肌を刺し、芥川は何度もくしゃみをしました。
芥川はずいぶん感激したようで、友人の小穴隆一に宛てて絵葉書4枚に次のように書いて送っています。翠瀧
 「僕いま犀星先生の世話にて兼六公園の中の三よしと申す茶屋に居り、豪奢を極め居り候、十五畳の座敷、十畳の次の間、八畳の茶の間、六畳の女中部屋、四畳半の茶室、台所、湯殿、……全部僕のものになり居り候へばそれだけでも甚だ僭上の所、屋を繞って老扶疎(ふそ)、樹間に瓢池を臨み、茶室の外には瀧のある次第、風流おん察し下され度候」
それでもまだ足りなくて絵葉書2枚に医者で画家で俳人の下島空也老人に宛てて、
「……十五畳の座敷、十畳の次の間、八畳の…」とくり返し宣伝した揚句、「紅殻塗りの欄干によれば瀧あり、新緑の間に落つ、老鶯処々、久しぶりにて俗腸を洗い申候」と書き送りました。

三芳庵水亭から見ると翠瀧はこんな風に見えるようです。

その日の夜には寺町にある料亭「鍔甚(つばじん)」で川魚料理を食べた。
鍔甚・玄関鍔甚・夏座敷


鍔甚の玄関と夏座敷。
お座敷向こうの縁側から眺めた風景は眼下に犀川が流れ、正面に金澤城と兼六園の森が、その向こうに卯辰山から戸室山・醫王山にいたる山並が望めます。
この時の事を犀星は小説『杏っ子』の中で、 《二人は寺町の鍔甚という料理屋で、飯を食った》 《小さな鮎が膳の上に出て、食べるに食べられぬ可憐(いじらし)さ》
と書いている。
西の茶屋街

犀星はその席に、西の廓から藝者を三人よんだ。妓たちは二人の間に小さい膝を割り込ませ両脇に寄り添った。左は西の廓の今の様子。ここは犀星が幼時を過ごした雨寶院というお寺の近くで、小説の中にも折々登場する廓です。かって西の廓には笛と太鼓の名手という藝者さんがいて、お互いに相手に一歩も譲らぬ気迫で笛と太鼓の名演を披露したのがNHKテレビで紹介されたり、五木寛之の小説に中にも登場したりしています。
芥川龍之介・小穴隆一二科展

この時来た三人の藝者の中にシャッポ(藝者の源氏名)という蠶(かいこ)のように白い肌をしたほ繊身(ほそみ)の妓がいて、芥川はちょっと顔を見たあと、しばしば目をこらして見返しては うむ とうなるように溜息をついていた。
シャッポは、「今いただいたばかりですけど、聴いていいでしょうか」といって白檀の香を焚き、
「小説をお書きになる あくたがわりゅうのすけ さんでしょう。」と名前を言い当てた。
芥川はすっかり照れて、金澤って、遊ぶのにいいなぁ、と犀星に言った。
彼女たちがすっかり気に入った芥川は、「僕の宿へ行こう」と三人を三芳庵へ伴った。芥川は厠へ立ったあと、長い髪を白哲の額に垂らして「わぁ」と言って妓たちをおどかした。妓たちが怯えて悲鳴を上げるほど異常な形相だった。
右の繪は小穴隆一が大正12年、二科展に出展した芥川龍之介の肖像画です。金澤へ来るⅠ年前の肖像。竜之介はこのあと昭和2年7月24日、致死量のベロナールを飲んで自殺した。

室生犀星は芥川の来遊を、『泥雀の歌』、『続女ひと』、『杏っ子』などの小説に書き、シャッポたちを主人公にして『べにの世界』を書きました。

シャッポは本名を野澤かほるといい、当時19歳だった。中田の天狗面
その後「天狗」肉屋に落籍(ひか)されて、三人の子供を産み、胸を病んで、昭和7年、27歳という若さで死んだ。
このシリーズ01でも天狗牛肉店のお面は載せたのだが別のアングルの写真をのせておきましょう。

芥川はシャッポという情緒のない名前をつけた者に憤慨し、天狗屋という牛肉屋の金持ち旦那がいる事にさらに憤慨した。シャッポは芥川から来た手紙を表装して床の間に掛け、芥川が死んだ時、最初に芥川に逢った時にしたように香を焚いて冥福を祈ったという。

三芳庵の横には古ぼけた木戸がありました(左)。勿論今はありません。
三芳庵横の木戸・現在はない
新保千代子・石川近代文学館前
長らく石川近代文学館長を勤められておりました新保千代子さん(右の方)は、

…「三芳庵別荘横のこの木戸の内側には、金澤城に通じる抜け穴がある」となぜか長い間信じてきた。
一日意を決して木戸を排して入って行った。瀧の上へ出た。スミレを摘んで帰ったきり、夢が消えた。人生には押してはならない木戸がある。…
と何かに書いています。
人生には、開けてはならない箱とか扉とか、あるにはあるのですが、だからといって夢の消えるのを怖れるあまり、一歩も踏み出さずに一生を終えるのもつまらない。
時には木戸を押して新しい一歩を踏み出してみましょう。
たとえそれが長い間大切にしまっておいた夢をこわすものであったとしても。

今はない三芳庵跡に立つと前が栄螺(さざえ)山。道は頂上に向かってサザエの殻のようにネジネジになっているのでついた名前です。栄螺山頂上・唐傘
霞ヶ池を掘った土を積み上げて出来た山です。頂上には唐傘が立っているので子供の頃はこの山をカラカサ山と言っていました。ワタクシが子供の頃は兼六園には今のように観光客が押し寄せるという時代ではないので、子供たちはこの傘の端にぶら下がって、足で地面を蹴って傘を回すのです。ギィギィと音を立てて廻るのがたいへん面白くてこういうことをして日の暮れるまで遊び呆けていたのでした。
霞ヶ池俯瞰

兼六園の名前の由來は、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六勝を兼備しているからです。

この栄螺山頂上から霞ヶ池を俯瞰したのが左。
ちょっと目をつむって200年ほどタイムスリップしてみましょう。広い野原に大勢の人が鍬で土を掘り起こして、それを畚に入れて天秤棒で運んで、池を作り山を築いています。パワーショベルもブルドーザーもないのですから、全部「人力」です。
黄門橋

いま歩いていると、もともとここにはこんな山や池があったと思いがちですが、前田の殿様はお金持ちですから、公共事業として作庭工事をやって大勢の人を雇用して賃金を支払ったのでした。

栄螺山を登った時と反対の道から下ると黄門橋です。このあたりはいわば裏通りにあたる場所で、深山幽谷の趣。
「幽邃」にあたる場所です。
黄門という地位は中納言に対してつけられた呼び名で、水戸光圀サンも中納言だったから水戸黄門ですが、加賀の殿様も中納言だったから加賀黄門なのだが、この人は自分のお城に閉じこもったきりでウロウロ全国を廻らなかったからてれびドラマにはならなかったようですね。  次回に水泉と眺望を楽しむ事にして今回はここまで。
21:28  |  金澤  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2014.07.28 (Mon)

ヨリックの金澤・2014年夏 02

ホテルKKRで目が覚めて窓の外を見るとホテルの部屋から金澤城
右のような風景。木が生えているだけのようですが、木々の間に屋根が見えます。この屋根は全部金澤城の建物。ホテルは金澤城大手門のすぐ前に建っているのです。ホテルの敷地は前田美作守屋敷の跡地で、明治維新後は国有地として召し上げられたのですから、国家公務員用のホテルが建っているわけです。
今日は朝飯前にお城と兼六園を見物に行きましょう。
大手門入口大手門枡形


まずお城入口。段を上ると巨石を組んだ壁にぶつかります。右の写真のように直角に曲がった所に大手門がありました。この構造は枡形といってどこのお城でもこういう造り方になっています。真っ直ぐに城内へ入る事が出来ない構造になっているのです。お城の銃眼
石の壁の上には櫓があって、もし敵が攻めてきた場合は銃眼が並んでいて鉄砲の弾が飛び出します。だがこのお城を作ってからは一度も戦争はなかったのでした。

大手門から城内へ入ると下の写真のように広々としております。
城内へ入る
ここの所には土蔵とか台所とか、人が暮らすに必要な施設があったのだろうと思います。お城には大勢の従業員が暮らしているのですから。





もう少し行くと菱櫓が眼前に迫ります。菱櫓


菱櫓と言われるのは建物の平面が直角ではなくて、100°と80°、つまりわずかではありますが菱形になっているからです。
こうしておくと窓から覗いた時に、西側の窓からは大手門が正面に、北側の窓からは石川門が正面に、つまりお城の防御に重要な場所であるこの二つの門の有様がはっきり見えるかららしいのです。
右の写真は大手門側から見た菱櫓。
菱櫓と五十間長屋


そしてこれは石川門方面から見た菱櫓と五十間長屋。
ちょっと判りづらいので説明をしておきます。
一番右が河北門の一部で、先ほどの写真の場所(新丸といいました)からちょっと上がって河北門を通り抜けると三の丸の広場。正面右のちょっと高いのが菱櫓でそれに続いて五十間長屋、左の森が本丸附壇と本丸のあった場所、現在は建物はありません。
菱櫓北側の窓からは真っ直ぐにこの場所の後ろにある石川門が望めるのです。

ちょっと歴史を振り返りましょう。
中世、室町時代、加賀では一向宗の信徒が結束して足利幕府の守護であった富樫政親を高尾城に攻め滅ぼして自殺させ、ここで独立国を作りました。長享二年(1488)のことです。一向一揆と言われました。京都本願寺から、本尊、開山御影、御伝、名號、佛像などが送られてきて、上の写真左の森のあたりに金澤御坊というお寺を建ててそこを政治の拠点にしたのでした。それからほぼ100年、「百姓の持ちたる國」として独立国家を作っていたのです。
天正八年(1580),佐久間盛政らの軍が金澤御坊を攻め取り、尾山城と改め、一向宗の作った國は滅びました。
天正十一年(1583) 羽柴秀吉が尾山城を手に入れてこれを前田利家に与え、利家は四月に入城した。ここから金澤城の歴史が始まります。

金澤城はしょっちゅう落雷や火災に逢っていて、江戸時代に作った建造物で今に残っているのは石垣の他には石川門と三十間長屋くらいのものです。
石垣はかなり丁寧に作ったようで、お城の周りじゅう立派に残っています。
石垣のサンプルが展示してありました。

野面積み
左のは野面積み(のづらづみ)。
石を加工しないでそのまま積み上げます。
うまく積めばとても堅固な石垣になります。

打込み接ぎ次のが打込み接ぎ(うちこみはぎ)。
外側に出る面を叩いて平らに加工しました。
遠目には綺麗に見えます。
急勾配の石垣を組めるので高石垣にはこの方法が多用されました。

切込み接ぎこれが切込み接ぎ(きりこみはぎ)。
石同士が接する面すべてを削り上げてピッタリあわせます。石垣の芸術品です。
だが水はけが悪いので、内側土壌の排水をしっかりやらないと内側から膨れてきて壊れる。

石川門あたりをよく見ましょう。
石川門

百間堀に架かる橋上から見た石川門。
この門はお城の裏門(搦手)です。

金沢大学がお城の中にあった頃は大学の正門でした。
入ってみましょう。

石川門・枡形
入口の門は小さい高麗門ですが、中へ入ると枡形はかなり広く(左の写真)、突き当たりの石垣は切込み接ぎ、左側の石垣は打込み接ぎになっています。
元々は文禄元年(1592)にこの門を作った時は全面が左の打込み接ぎだったのだが、宝暦九年(1759)、金澤城下で空前絶後といわれる大火があって、そのとき城内の建物百二と土蔵十九が焼けました。
石川門の再建が出来たのは焼けてから28年目の天明七年(1787)でした。正面の石垣はこの再建の時に作ったもので、前田家としては左側の石垣も同じようにしたかったのだが、幕府ににらまれるのを恐れて古いままにしておいたのだと伝えられています。
大手門もこの時の火事で焼けたのだが結局は再建しないまま明治維新を迎えてしまったのでした。
石川門・枡形から
左は石川門左側の二層の櫓。この櫓も菱櫓となっていて、内部は殺風景な建物だという事です。窓を閉めると真っ暗闇。
石川門・門扉石川門・扉の構造<>


右は枡形から右を見た所にある門ですが、非常に堅固に作ってあって、厚い鉄板を鋲で打ち付けてあるので容易には壊れないようです。また屋根瓦も鉛板で葺いてあって、いざ戦争!という時には溶かして鉄砲の弾丸にするという工夫がしてあったそうです。
明治4年になると金澤城は明治新政府の所轄になって、陸軍省のもとで不要の殿閣や倉庫はすべて破壊され、明治6年には歩兵第7連隊が、明治29年になると第九師団司令部、第六旅団司令部が置かれたのでしたが、昭和20年には日本軍隊はいなくなり、代わりにアメリカ進駐軍がやってきました。敗戦処理が終わってアメリカ軍も居なくなると今度はここに金沢大学が入る事になり、大学事務局と、法文学部、教育学部がもと兵舎を教室に改造した建物で授業が始まったのでした。
大学のグランドになった
左の写真は旧三の丸の場所が金沢大学のグランドになった風景。
真ん中に見えているのが石川門です。

工学部は以前からあった金澤高等工業學校の、医学部と薬学部は金澤醫科大學の、そして理学部は第四高等學校の校舎がそれぞれ使われました。それぞれバラバラの場所でした。
ワタクシは昭和27年から工学部に勤務する事になったので、家から小立野の坂を上がって医学部の前を通過してさらに遠くまで歩きました。
ワタクシは勤務先には内緒で、教育学部音楽科の佐々木教授、対位法の授業をコッソリ聴講するために週一回自分の仕事場を抜け出して兼六園を通過し、石川門から大学構内に入って授業を聞き、またコッソリ戻ったのでした。

もう一つ江戸時代の建物で残っているのが三十間長屋。
三十間長屋
二の丸から本丸に上がる途中にある堅固な建物で、切込み接ぎの土台の上に幅三間、長さ二十六間余(約47m)、二階建てで、腰の部分はなまこ壁、屋根は鉛瓦になっている。
用途は倉庫で、鉄砲倉と呼ばれていたらしいのだが、金沢大学が入ってから書庫として使っていたらしい。その後修理をして昭和32年には重要文化財に指定されました。
本丸へ登る

この三十間長屋の場所から振り向くと右の写真。本丸への登り口です。
今は深い森に包まれ、ここに天守閣があったとは見えません。作っても建てても落雷で炎上し、大火で焼失し、天守閣を作るのを諦めたのです。
天守閣のあったあたり、本丸の一番高い場所まで上がってみました。

左、眼下遠くの方に見えるのが菱櫓で、こちらの方にのびている建物が五十間長屋。
本丸から二の丸を望見
その左側の空き地が二の丸です。ここの所に藩主の居室があったり、お城の財政などを預かる管理事務所があったのでしょう。

城内ではまだ新しく何か建物を建てるべく工事をしているようでした。そんなものをつくるのはつまらないからよせ!と内心は思っていたのでしたが、観光客を集めるためにはやはりゴチャゴチャと賑やかにいっぱい建物があった方がいいのかも知れません。

朝早く、人の来ぬ間にひとまわり急ぎ足で見物してきました。細部や注意点などについては何れ又機会があれば書きましょう。
兼六園はほんとうは有料なのですが、6時45分までに開いている門を見つけて入れば無料だという事です。7時少し前になると料金所の係員が出勤してきて入場料徴収という課せられたお仕事を始めるのですから。

ここで次に兼六園に入るのですが、その前にちょっとワタクシ事のお知らせを一つ。

日記7月27日の項に書いた事ですが古本屋「百寿堂」主人が企画した「一箱古書店」にワタクシが出品する予定の本をここでも紹介させて下さい。
お店の名前は「ヨリック書房」とでもするつもりです。

奈良の寺 全21冊 1975年岩波書店刊第1刷 
 1. 法隆寺 西院伽藍         2. 法隆寺 東院伽藍と西院諸堂
 3. 法隆寺 金堂釈迦三尊       4. 法隆寺 五重塔の塑像
 5. 法隆寺 夢殿観音と百済観音    6. 法隆寺 玉虫厨子と橘夫人厨子
 7. 法隆寺 小金銅仏         8. 法隆寺 金堂壁画
 9. 薬師寺 金堂薬師三尊と聖観音  10. 薬師寺 東塔
11. 興福寺 八部衆と十大弟子    12. 興福寺 東金堂の諸像
13. 興福寺 北円堂と戒壇院の諸像  14. 東大寺 大仏と大仏殿
15. 東大寺 法華堂の乾漆像     16. 東大寺 法華堂と戒壇院の塑像
17. 東大寺 南大門と二王      18. 唐招提寺 金堂と講堂
19. 唐招提寺 金堂の仏像      
20. 唐招提寺 鑑真像と木彫群
21. 西大寺 舎利塔 十二天

大和の古寺 全7冊 1981年岩波書店刊第1刷大和の古寺4新薬師寺他

1. 中宮寺 法輪寺 法起寺      
2. 当麻寺
3. 元興寺 元興寺極楽院 般若寺 十輪院
4, 新薬師寺 白毫寺 海龍王寺 大安寺
5. 秋篠寺 法華寺 円城寺 不退寺
6. 室生寺
7. 浄瑠璃寺 岩船寺 海住山寺

岩波書店では「奈良六大寺大観」という超豪華なシリーズを出版しましたが、これはその廉価版シリーズといえるでしょうか。
本のサイズはA4より大きいので表紙の一部を入れました。


ユリシーズ  James Joyce 著
          丸谷才一・永川玲二・高松雄一共訳 集英社刊
         Ⅰ Ⅱ Ⅲ の3冊本
この3冊に 「ユリシーズのダブリン」という写真集(+原文・訳文 少々)というのをあわせてセットとして出します。柳瀬尚紀編著 松永学写真 河出書房新社刊
ユリシーズのダブリン・内容
ユリシーズ本文の中にに登場する街や建物や橋や塔、そういったものの写真が満載ですから難解を以て知られたユリシーズの理解に幾分か役に立つ事でしょう。写真は写真集の真ん中あたり、第11挿話シレーヌの最後のページと第12挿話キュクロープスの冒頭。



奥天龍ろまん紀行 全6巻  新葉社刊奥天龍ろまん紀行巻四表紙
巻一 一億年の旅 南アルプス       
巻二 百谷百俗 天龍川
巻三 神々のかよい路 東山道
巻四 馬千匹、賑わう 伊那街道
巻五 炎乱れ舞う 秋葉道
巻六 素顔のジパング 飯田線

巻五の表紙です。

これを書きながら、もう一つ、
よく飛ぶ紙飛行機 vol.1~vol.5の5冊も出そうかと思っています。
よく飛ぶ紙飛行機・表紙
本に印刷してあるパーツを切り抜いて貼り合わせて作る紙飛行機です。
1冊あたり10機ほどの紙飛行機が入っていますから全部で50機の紙飛行機が作れます。
一つも切り抜いてない、完本です。飛行機好きのオジサンに好適です。


興味のある方は、8月2日(土)・3日(日)の両日、浜松市中区中沢町の古本屋「百寿堂」のお店の前で、
「ヨリック書房」の名前で出ております。
是非お立ち寄り下さい。
場所は二俣街道、(国道152の1本東の道、ヤマハ工場の裏側の通り)中沢郵便局の隣です。ワタクシにメールをされる方は yorick@royal.ocn.ne.jp 宛にご一報下さい。
21:11  |  金澤  |  TB(1)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2014.07.25 (Fri)

ヨリックの金澤・2014年夏 01

お盆で金澤へ行きました。毎年の事ではありますが、書き留めておきたい事もあるので、泉光院にはちょっとお休みをして頂くことにします。

金澤へ行くのは、亡息の盂蘭盆法要が7月14日に西福寺で執り行われるのに行くのと、そのついでに野田山墓地にあるお墓のお参りをするのと、そのついでに知友に会ったり懐かしい場所を散歩したり、といったワタクシの楽しみを少しばかりするためです。
7月14、15の両日のヨリックの行動記録です。
西福寺・本堂
右が西福寺。金沢駅から徒歩5分程の所にあります。
ワタクシがこのお寺へ行くようになったのは、ここの(先代)住職である三輪谷訫サンが金澤合唱團の指導者であり、金澤合唱團が金澤随一の面白い合唱團だった事でした。この合唱團で歌った経験がその後随分役立ったと思っております。
私が金澤を離れて浜松に住むようになっても、金澤へ行った時には西福寺へ立ち寄り、息子がまだ小さかった頃はお寺の廊下などを走り回って遊んでいたし、長じてもこのお寺に親しみを感じていたようでした。私の家のお墓は野田山の中腹(この山には前田の殿様や室生犀星のお墓などがあります)の大乗寺墓地にあるのですが、息子は、その墓地は金沢駅から遠いので、私が死んだら西福寺へ入れてもらってやる、などと言っていたのでした。その息子が私より先に死んでしまったのでやむを得ずこのお寺に入れる事にしました。
西福寺・内陣阿彌陀如来
西福寺の内陣です。厨子の中には本尊阿彌陀。
そしてこの阿彌陀様の真下の地下に納骨堂が作ってあるのです。西福寺・納骨堂
亡息法名

右が納骨堂と法名。
「深寛院釋定勝」
平成十一年二月八日




先代住職 訫(まこと この字はJISにはありません)の奥様は車椅子の生活ですがまだ健在で、ワタクシが行くと昔々の思い出話が出来るので喜んで迎えてくれるのです。毎年ワタクシは先代住職が好きだったというメロンをお供えに持って行き、お寺では芝寿司のお弁当を用意している。法事は2時からなので、荷物を置きにホテルKKRへ行った。入った途端、花嫁衣装が目に飛び込んできた。花嫁衣装・KKR

見事な着物。綺麗ですねぇ。このホテルでは結婚式場も持っているのでその宣伝のためでしょう。こういう着物は自前で作るものではないでしょうから、ここで結婚式を挙げてこの着物を着てみたい!!!という女の人はいるでしょうねぇ。

お寺へ戻る前に、近江町市場で買物の下見をしておいた。
ドジョウの蒲焼。売っている店の場所を確認して、明朝何時から焼き始めるか聞き(すぐ売り切れるのです、9時でした)、キンジソウという野菜と、ヘタ紫茄子を売っている店をチェックして新鮮そうなのを置いてある店を見つけておいた。
金時草ヘタ紫茄子


この野菜は金澤でないと買えないのです。
キンジソウはおひたしに、茄子は糠漬けに、
それぞれ絶妙な美味しさ。
ドジョウを焼くドジョウの蒲焼

左はドジョウを焼いている所。右は買って帰ってから写した写真。

西福寺へ戻ってお弁当を食べ、盂蘭盆会に出ました。
佛説觀無量壽經。
いまお經を読むのは現住職の恩(めぐむ)チャン。その息子である若院と、下寺の伴僧3人が唱和する。ワタクシが始めて西福寺へ行った頃は恩さんはまだ小学生だったから、もう60歳を過ぎていてもワタクシから見れば「めぐむチャン」なのだ。めぐむチャンの声は父親の訫さんほど良くはない。むしろ息子の若院のほうが祖父に似た好い声をしている。

武蔵ヶ辻のデパート「エムザ」の地下で哲子サンや陽子チャンやmoguサンに送るお菓子を調達してホテルに置き、永年の友人である吉野サン宅へ行く。
出世地蔵尊
途中、「出世地蔵尊」という怪しげなものを見たり、
黒門前緑地・高峰家庭園

金澤城黒門前の金沢地方検察庁検事正官舎敷地に最近移築した高峰譲吉博士(タカジャスターゼの)宅を見たり(右がその庭園)した。
続いて江戸時代には金澤城内にあった東照宮、明治以後は尾崎神社と改名をした神社、(左の写真は右が拝殿で左奥が本殿)などを見ました。
尾崎神社・拝殿と本殿
この神社はアマテラスと東照大權現である徳川家康と、前田家第三代である前田利常を祀る神社です。東照宮はおそらく日本中の大きい大名の城下町には作ってあるでしょう。いまワタクシの住んでいる浜松にも東照宮はありますから。

それから国道157へでて、銀行・オフィスビル街を歩いて香林坊の「大和」デパートでお土産お菓子の追加を買い、片町へ出ました。
竪町入口
片町から竪町への入口。
半世紀程前にはここを50mほど入ると左側に郭公という喫茶店、もう50mほど行くとやはり左側にモナミという喫茶店があって、その時のお金の事情(モナミには学生コーヒーというちょっとお安いのもあった)でどちらかに入り、宇都宮書店で買ってきた本を読み終えて、自宅へ帰る途中にあった文学堂という古本屋でその本を売って、売ったお金で古本を買うのがワタクシの日常。宇都宮書店はワタクシの勤め先にもいつも出入りしている本屋で、年2回のボーナス一括払いでツケがききますから、お金がなくても本を買ってコーヒーを飲む事が出来るのでした。
竪町広見・天狗の肉屋

竪町から新竪町に入るところに広見(ちょっとした広場)があって、そこには天狗という肉屋があり、そのあたりに古本屋の文学堂や野田屋というお茶屋もありました。これらのお店は今でも同じ場所に同じような構えで商売をしております。
天狗の肉屋・看板



天狗肉屋の看板天狗です。

野田屋・店先

右は野田屋。
創業安政六年だそうです。
ワタクシが子供の頃、ここまで買い物のお使いに来ました。牛肉のこまぎれ百匁とか、お茶百匁とか、という程度です。
暑かったのでここでお茶を飲みました。
いろんなお茶を飲めるのです。

野田屋のお茶

「野田屋が選んだ日本各地の煎茶」

野田屋の知覧茶

静岡では川根茶・本山茶・深蒸し茶、三重の伊勢茶、岐阜は白川茶、滋賀の朝宮煎茶、京都の宇治茶、佐賀の嬉野茶、鹿児島では知覧茶とかごしま茶、福岡の八女茶。
左はその時淹れてもらった知覧茶。右は買ってきた白川茶・八女茶・嬉野茶。

文学堂
左は文学堂の店内です。半世紀前の店主とは代替わりをしてしまっているので、買いたい本はありませんでした。古本屋の店主という人種は、自分の好みで収集した本を売ると言う商売をしているのですから、店主の好みと自分の好みが一致すれば買いたい本はすぐ見つかるものです。私の本棚には昔の文学堂で買った本が今でも並んでおります。

水溜町から杉浦町、十三間町と細い道を入って吉野サンのお家。このあたりの町並は昔と全く変わっておりません。江戸時代の地図そのまま今でも歩けるのです。
吉野サンはワタクシと同じ高校の一年上。お家には蓄音機もあってヨハン・シュトラウスのワルツなどを聞いた覚えがある。吉野サンにお土産として絶滅危惧種になるおそれのある鰻を進呈して、しばらくおしゃべりをしてから食事に行きました。海遊亭入口
大工町にある「山の尾・海遊亭」というお店。「山の尾」は東山・東茶屋街から少し卯辰山に上がった所にある高級料亭旅館で、北大路魯山人がしばらく滯在した事もあるのでそのことでも有名な料亭です。おそらくそこで修行をした料理人がやっているのだろうと思います。右が海遊亭の玄関。


吉野サンと外で食事をする時はよく海遊亭に入ります。
蓮根団子稚鮎


ばい貝とか、蓮根団子、稚鮎(左の写真)、普段あまりお目にかかれないお料理が出てきます。
蛤のお汁も美味しかった!

ayaサン
お酒もayaサンおすすめの農口(のぐちという杜氏が作ったというお酒)ですっかり気持ちよく酔っ払ったのでした。
20:50  |  金澤  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
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