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2017.05.21 (Sun)

泉光院の足跡 232 箱根峠

小田原から早川の左岸を辿って行くと、今の箱根登山鉄道・箱根湯本駅のちょっと手前に三枚橋があって、箱根峠道(の旧街道)はその橋を渡って芦ノ湖へと進むのだが、そのまま直進すると温泉道で、いろいろの温泉が湧いていた。
箱根広重常ヶ島温泉

左は廣重の「人物東海道・とうじば」と題された一枚。箱根七湯といって、1.湯本湯 2.塔ノ沢湯 3.常ヶ嶋湯 4.宮下湯 5.底倉湯 6.気賀湯 7.芦之湯、というのがあった。泉光院もきっとこれらの湯のどれかに入湯したでしょう。この温泉での一宿は、千里の道を歩いた疲れも一夜にしてとれる、と宣伝されたものです。左の絵では白糸の瀧が見えているので常ヶ嶋湯でありましょう。
右は廣重「東海道五十三次之内 箱根 湖水圖」。
廣重版画箱根湖水図

廣重の箱根湖水図は箱根の難所を強調するように切り立った峰々を誇張して描く。芦ノ湖へ向かって坂道を下って行く大名行列の姿が、山の間を頭だけを見せて歩いている様子も道の険しさをあらわしているようだ。

十八日 晴天。湯治場立、辰の刻。直ちに坂に掛る、…
箱根杉並木の道

右は旧東海道の杉並木です。
♪昼なお暗き杉の並木♪です。

疲れたら甘酒茶屋に寄って,砂糖や添加物を使わず昔通りの作り方で作った甘酒と、臼と杵で搗いた力餅を食べましょう。海苔を巻いたのが「いそべ」で、きな粉のが「安倍川」。昭和48年に通りがかりのハイカーが捨てたタバコで全焼したのだが、また復活して昔通りに売っている。
箱根甘酒茶屋箱根甘酒茶屋甘酒とお餅


この茶屋は赤穂義士の一人、神崎与五郎が、馬子の丑五郎に言いがかりをつけられたのだが、「大事の前の小事」、とこの茶屋で詫び証文を書いたという逸話のある店で、ということはかなり古くから開業していたのでしょう。
泉光院はどうやら立ち寄った形跡はありません。
箱根山から富士山秋

登りつめると芦ノ湖が見え、お天気がよければ富士山も見える。

…箱根權現へ詣納經す。本社南向、湖の岸也、花表前人家少々、夫より賽の河原と云ふを通り關所へ出づ。…

箱根芦ノ湖と鳥居

箱根神社の鳥居が見える。
古い案内書には芦ノ湖を、
「一名芦の湖(うみ)といふ。富士八湖の其一也。箱根の山嶺にあり。長さ三里許(ばかり)、幅壱里余。… 産物は鱒、腹赤(はらか)也、山椒魚は山中の谷川に生ず。小児五疳の妙薬に用ゆ。」と解説している。箱根山椒魚
ハコネサンショウウオ(右)は箱根に限らず全国の500m~2000m程の高さの谷川に住んでいて、金澤時代のワタクシがよく登った石川・富山の県境にある醫王山の三蛇ヶ瀧の下にも住んでいた。
胴よりも尻尾の方が1.5倍程も長く、スリムな体つきで、大きいのは20cm程にもなる。
黒焼きにしたものは、子供の疳の虫を抑えるのによく効く、といわれていて、上記の案内書にも書いてある通りだが、実はこれを生きたまま吞むと精力剤になる、とまことしやかに伝えられているのです。それも頭から吞まないとまた這い出てくる、などともっともらしく言われていた。みなさん聞き伝えのことを言うだけで,実際に吞んで効果を確認した人はいないようだった。
医王山大池から鳶岩


右はワタクシがよく登った醫王山、尾根の途中にある鳶ヶ岩で、左下からこの岩のテッペン迄登ってから向こうの尾根へと進みます。この岩の向こう側に三蛇ヶ瀧というのがあってそこの所にハコネサンショウウオがいるのでした。

医王山鳶ヶ岩金大合唱団
鳶ヶ岩のテッペン付近。写っているのは金沢大学合唱団の人たち。右は鳶が岩の下、大池。
医王山大池鳶岩から


箱根権現は古くから山岳修験の中心地であり、湖岸に朱塗りの大鳥居が立ち、そこから鬱蒼とした杉の並木の中を真っ直ぐに石段が上に伸びていて、その上に右のような社殿がある。左が門で右が御本殿。
箱根神社
箱根神社本殿



山伏である泉光院は当然ここにお詣りをしてから、賽の河原というのを通って御關所へ行きました。
箱根賽の河原

左が賽の河原。
芦ノ湖の畔にお地蔵さんや五輪塔などが立っています。
ここを過ぎればすぐ御關所です。

箱根お関所平成19年春

箱根関所は昭和40年に観光用として本来の場所から離れた所に「関所」を建てたのでしたが、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門(反射炉で有名なところ)宅から資料が発見されて、それを元に平成10年から発掘調査・復元をして、平成19年春、江戸時代の「御關所」が復元しました。左が復元間もない頃の御關所と付属の建物群。

箱根お関所復元
左が御關所。
そして前に建てた観光客用の関所は取り壊してしまった。

この關所はよく「入り鉄砲に出女」といわれているように、江戸への武器搬入と、江戸在住の大名の妻子が無断で國元へ行くことを禁止することで有名だった。
古い案内書には、
「御關所――小田原の城主勤番也。女人と武具は御證文なくては通さず。鑓持たせざる者は主人の手形、あるひは所の庄官の手形持参して通る。」、「明六つ御開門、暮六つしまる」と書いてあります。
ここへ来た泉光院は、…關所へ出づ。番衆口上、…と、関所役人とのやりとりを記録しているのでそれを書きましょう。泉光院は醍醐寺三寶院発行の通行手形を持っていて、これは権威のある通行手形なんですが、ここではそれが通用しなかったらしい。佐土原島津家の江戸屋敷事務局が発行して、宛先が箱根の御關所御役人様となっている手形の提示を要求されたのです。

…其方共江戸屋敷よりの引合差出すべしとありけり。吾々共は日本回國の行者、左様なる事は存知申さず、諸國通行の往來手形は所持致居候外はなんにも存知申さずと云へば江戸屋敷よりの引合無之(これなく)ては通ること罷りならず、又回國の者とても聞合せもある筈也と言はれければ一切左様なる事に氣も付申さず、且又江戸御屋敷と云ふも存知申さず、又屋敷共へ出る様な吾々共にても御座なく候と云へば、其方共は名は何と云ふと尋ねらる。私は一葉坊此者は合力助と申しますと云へば、先づ今日は内分にて罷り通す、重ねては決して罷り通すことはならぬと云ふて通されたり。

今度だけは通してやるけれども次回は絶対駄目だぞ、と言って通してくれた。
文化文政時代になると関所の取り調べもきびしい所やフリーパスの所もあったようです。
No.177 出切手 の項で、立山登山の帰りに越中と越後の境の関所を通る時、富山城下にあった加賀藩役所で、一人前80文の料金を取られて出切手をもらって提出したことや、No.186 象潟 の項で、出羽庄内、鶴岡城下を出る時、女鹿の関所でやはり一人前35文と、その向こうの藩、久保田藩の関所でまた35文取られた。そんなことを思い出して日記に注釈を付け加えているのです。

…此所も加賀の境川、出羽庄内鶴ヶ岡、當所と同様成る事にて切手ばかりにて往來手形也。當所錢の出ざる分がよかった。…
箱根関所通行手形

右は箱根御關所で通常取り扱っていた通行手形。
字が難しくって読めないのだが、一番頭に
…○○通行手形之事…と書いてあって、次にこの手形の所持人である武州(武藏國)何とか村の百姓らしい人の名前、
本文に入って、旅行目的が伊勢参宮であること、御關所御通行の許可を求めること、などが書いてあって、年月日、発行者氏名印(これは村の村長さんまたはそれ以上の人、菩提寺の住職など)。最後に相州(相模國)箱根御關所御役人○○様、となっている。
泉光院の持っている通行手形は、醍醐寺の権威でもって…この手形を所持している者は日本国中どこでも通行勝手たるべし、…と言うような内容の、幕府の権威を無視したような通行手形ではないかとワタクシは想像しているのです。
ここで面白いのは、泉光院が自分の主人である佐土原藩の名前も、佐土原島津家の殿様、島津忠徹の名前も出さず、自分は一葉坊という山伏であり、供をしているのは助という名前の荷物担ぎの人足にすぎないよ、という返事をしていて、役人もあまりしつこく追求はしないで、「今回は大目に見てやるけれども、次回からは決してこのような事は許さないよ。」といって通してくれた。境川の関所や女鹿の関所のようにお金を取られなくてヨカッタ、と書いているのが可笑しい。
彌次郎兵衛・喜多八の両名も箱根関を通る時、「夫より御關所を打過ぎて、…春風の手形をあけて君が代の戸ざゝぬ關を越ゆるめでたさ…斯く祝して峠の宿に悦びの酒酌み交わし…」ました。このように無事箱根の関所を越えると、山祝いと称してお互いにその困難を克服した事を祝うのでした。

泉光院はこれから先、東海道を三島の方に下らないでずっと伊豆半島を廻るのです。

…夫より宿を通り抜け辻堂あり、左山中へ入る、大峰奥駆けの道より少しはよし。三里行き日金の地藏と云ふに駈け出す。此地藏靈驗新たなるとて參詣多し、…

箱根峠の所は十字路になっていて、そこにコンビニがありますが、真っ直ぐ行けば国道1号線で三島、右へ曲がれば芦ノ湖スカイラインで、泉光院は左へ行きました。ずっと行くと十国峠。十国峠標識
たいそう景色のいいところです。展望は十国・五島に及ぶといいます。
伊豆・相模・駿河・遠江・甲斐・信濃・武蔵・安房・上総・下総の十国と大島・新島・神津島・三宅島・式根島の五島。
富士山がすぐ近くに見えます。
十国峠日金山東光寺標識
左の案内標識の一番下のは日金山東光寺を示しています。右の方へ下って行くとすぐ東光寺です。
十国峠真鶴方面展望

見下ろすと右、真鶴のあたりが見えます。ここを下れば東光寺。

伊豆では昔から死者の霊はみなこの日金山に集まる、といわれているのです。

日金山東光寺
日金山東光寺地蔵群

左が日金山東光寺で右がおびただしい地藏群。
春秋のお彼岸にこの山に登ると、通行人の中に逢いたい人の後ろ姿が見える、といい伝えられています。またこの山のどこかには地獄と極樂があって、お地蔵さんは地獄の辻にいて死者を極樂の方に導いてくれると信じられています。今もおびただしい地藏さんがこのお寺に奉納されているのです。
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2017.05.17 (Wed)

泉光院の足跡 231 道了薩埵

…未だ明き山にならざる故、吾々共登り得ず殘念也。…
で、大山の頂上、石尊大明神へ登ることが出来ず残念なまま
…夫より三十丁下り町あり、此道小田原本街道也。尾尻村と云ふにて日も入る故に、釋迦堂とて三階作り五間四面の堂あり此寺へ宿す。
十六日 曇天。尾尻村立、辰の刻。飯泉山坂東札所へ詣納經す。本堂七間四面、東向、二王門あり、前に茶屋三間あり、至て惡き地面也。…

今の小田急秦野駅の近くの尾尻村のお寺に泊めてもらって、翌日は坂東觀音札所第5番の飯泉山勝福寺へお詣りをしました。勝福寺金堂
このお寺は酒匂川のずっと河口近くの場所ですから、三角州の上、埋立をしたような地形だったのかも知れない。
勝福寺大公孫樹





右は本堂で、左は境内にある大公孫樹です。

これで坂東觀音札所33ヶ寺全部をすませました。

秩父の34ヶ寺はずっと先に全部済ませてありますから、箱根山の東にある觀音札所は残らずお詣りした事になります。

…夫より最乘寺と云ふに赴く、大川あり、堤を上る事二里にして道惡し。日も西山に傾きし故に川を渡り、塚原村と云ふに宿す。

酒匂川を堤防沿いに遡ってから、今の伊豆箱根鉄道大雄山線の塚原駅近くのどこかの農家あたりで泊めてもらったのかも知れない。そこからだと最乗寺まで一里ほどです。

十七日 同天。此宅へ笈頼み置き最乘寺へ詣づ。朝辰の上刻。最乘寺入口二王門あり、松杉の山中を上る事二十八丁にして道了權現へ詣づ。本社辰巳向、小社なれども美盡せり。御本體は大天狗にて石尊權現と同一體也。曹洞禪寺三ヶ寺、納經す。金印と云ふも當寺より出づ。…
最乗寺参道杉並木

大雄山最乗寺は曹洞宗のお寺ですが、寺内に道了薩埵(どうりょうさった)、つまり天狗さまを祀っております。

二王門をくぐると杉の大木が生い茂る参道をずっと歩いて登ります。120haの寺域全域が神奈川県指定天然記念物となっています。見事な森林です。
最乗寺杉の並木


道了は、師の了庵慧明禪師を助けて、五百人力を出してこのお寺の建設工事を行い、慧明が歿すると、道了は大薩埵(十一面観音菩薩の化身)となって、このお寺を守護しようと誓願をたてて、たちまち天狗の姿となって白狐に乗って虚空に舞い上がってその姿を消した。

最乗寺御真殿
最乗寺下駄

左は御眞殿という、道了薩埵を祀るお堂です。
その脇には天狗となった道了薩埵に捧げる下駄や羽団扇がたくさん奉納されております。

最乗寺特大の下駄

鉄筋コンクリ製の巨大な下駄も奉納されていて驚きます。

右は烏天狗となった道了薩埵の石像。最乗寺烏天狗石像

泉光院は、ここの天狗は雨降山(大山)の頂上に祀ってある石尊と同じものだ、と書いています。そうなのかも知れないし違うのかも知れない。単なる言い伝えです。
最乗寺開山堂

左は開山堂。

最乗寺多宝塔

右が多宝塔。






これが普通のお寺としての最乘寺です。

…又元の塚原村へ歸り直ちに立つ、小田原驛と云ふへ晝時出づ。御城山の手、追手南向、諸人知る所なれば略す。…

小田原へ着きました。
遠くに小田原城の三層の天守閣が見えます。
これは最近建てた御城の姿です。
小田原城藤の花

藤の花が咲いていますね。綺麗な御城の姿です。
小田原城天守閣









こちらは小田原城の天守閣。新しいものですから省略しましょう。

…當町にて面白きことあり、予兩替屋にて錢を買はんとて一歩(一分金の誤)を一つ出し候へば、右へ廻し左へ廻し、永々と爪繰り見る、因て其金惡しきやと云へば、惡しきにてはなし、裏へ紙の張付けある不審也と云ふ、予笑ひ出し夫れは目録の金也、紙に張付てありしを剥取りたる金也、夫れを水にて洗ひ取り見玉へと云ふ。場所と云ひ乍ら世上ものゝ分からざる者多し。…
天保一分金
両替屋で左の一分金を出して、錢と交換して貰った。きっと江戸の御屋敷を出る時に、殿様か奥方様から戴いたお初尾の包みに入っていたもので、落ちないように糊で紙に貼りつけてあったのだろう。両替屋としては両面ともシッカリ見定めるのが当然。紙が貼りつけてあるなんて可笑しい。泉光院の言い方はちょっと傲慢。
この写真はインターネットから見つけたもので、元禄時代の金貨。
文化の年代まではこれが流通していて、文政になって改鋳したのが流通するようになった。改鋳したものは金の含有量が少なくて粗悪。だが素人目には殆ど分からない。

…當所より鴫立澤一見に行く。…
鴫立庵西行

平安時代の歌人西行の、
  ♪心なき身にもあはれは知られけり鴫立澤の秋の夕暮れ
の歌で知られた古蹟です。
西行は、平清盛と同い年に生まれて73才で死んだ。
佐藤義清(のりきよ)といって、初めは鳥羽院付きの北面の武士だったのだが、事情があって出家して西行と称した。
出家した理由は、一説では鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)に恋をしたためだといわれた。
西行のことはもっと書きたいのだが、いろんな人がいっぱい書いているのでワタクシがあえてここに書くこともないでしょう。右は鴫立庵です。

…夫より引返し箱根の入湯場へ行き一宿。

泉光院はいよいよ箱根の關所へ向かいますが、ここで通らなかった平塚と大磯の宿を見ておきましょう。
廣重版画平塚縄手道
廣重の「東海道五十三次之内 平塚 縄手道」
正面に見える丸い山は高麗山、右のとんがった山が石尊のいる大山で、画面中央、高麗山の右に富士山が小さく顔を見せている。
東海道といってもこのあたりは田圃の中を通る一本道。手前に牓示杭(宿場の出入口の境界を示す杭)と立札が見える。ここは平塚宿の西のはずれ。高麗山はこの付近では目立つ山で、平塚の宿を出てすぐの花水川の所から見た高麗山が右の写真。平塚高麗山

廣重の絵の所から花水川を渡るともうすぐ大磯jの宿となります。



右が「東海道五十三次之内 大磯 虎ヶ雨」
廣重版画大磯虎ヶ雨
この絵は大磯宿の東の入口。手前を行く馬の先に今度は宿の入口を示す牓示杭が立っている。文字は読み取れないが「從是南 大磯宿」などと書いてあるのだろう。絵の右端に山裾が見えているが、それは前の絵の高麗山の一部。馬に乗っているのは白い合羽に身を包んだ旅人が雨の中を急いでいるようだ。
大磯松並木
この付近は今でも松並木の風情を残しています。
大磯は「曽我物語」に登場する曽我十郎祐成の恋人、白拍子の虎御前が住んでいた地として知られていて、彼女にちなんだ名跡が各所に残っているのです。絵の表題になっている「虎ヶ雨」は、虎御前が十郎を想って流した涙雨に由来しています。大磯虎御前化粧井戸
右は化粧(けわい)井戸で、屋根のついたごく小さな井戸ですが、虎御前がこの井戸水で朝夕お化粧をした、というのだが、今は残念ながら水は涸れてしまっている。

大磯という場所で覚えているのは、ワタクシがまだ会社に勤めていた頃の話です。
「勉強会」と称して、会社の業績向上を図るということを主要目的として「捕らぬタヌキの皮算用」的な五ヶ年計画というようなものを会社の各部・課長が集まって年に一回は立案したものだった。その会場がこの大磯で開かれたりしたこともあってワタクシにはなじみの場所ではあるのです。だがその頃のワタクシには虎御前も西行も念頭にはなくて、もっぱら新製品開発、とか、売上高拡大、とか、そういう「会社の方針」に従ったような作文を、社長・専務などのお気に召すように毎晩殆ど徹夜の情況で仕上げることに専念していたものだった。そうして夜中でも酒を売っているコンビニを捜してウロウロしたことは覚えていても、どんな作文を書き、それが会社の業績向上にどれだけの寄与をしたかなどということはすっかり忘れてしまった。

鴫立庵はこの大磯の宿場の西のはずれにあるのです。
京都嵯峨野の落柿舎、滋賀大津義仲寺の境内にある無名庵とともに日本三大俳諧道場と称されて、今でも毎月、句会が開かれているそうです。俳諧の道に疎いyorickですので深入りは避けますが、楊柳軒一葉という俳名を持っていて、芭蕉を尊敬している泉光院は、小田原から三里も戻って鴫立庵へ、いわば「お詣り」に行ったのでしょう。
廣重版画小田原酒匂川
左はもとの小田原へ戻って廣重版画の「東海道五十三次之内 小田原 酒匂川」。

酒匂川は季節による水量の増減の多い川で、冬場は水が涸れて仮橋を架けたが、3月から10月頃迄は夏川といって歩行渡しでした。
川の中央を渡っているのは身分の高い人の乗る高欄輦台(こうらんれんだい)で、駕籠に入った人間ごと10人以上の川越人足が担いでいる。その向こうに4人で担ぐ平輦台、一番こっち側には肩車に乗って渡っているのが2人。背景には箱根連山の麓に小田原宿と小田原城が小さく描かれている。
唱歌箱根八里
いよいよ箱根の山を越えることになります。
明治になってからでも、
♪箱根の山は天下の険、函谷関もものならず~♪、と歌われるほどの難所だった。
小田原が標高50mほどで、箱根峠が845m。一気に800mほど登りつめるのです。
♪万丈の山、千尋の谷、前に聳え後方(しりえ)に支(さそ)う~♪、と、約17kmの山道は急勾配の連続、そのうえ相模湾や駿河湾から吹き付ける湿気の多い海風が箱根の山を駆け上がって、
♪雲は山を巡り霧は谷を閉ざす~♪となり、
年間平均3000mm(小田原の2倍ほど)の降水量が旅を難儀なものとします。
♪昼なお暗き杉の並木、羊腸の小径は苔滑らか~♪と、箱根山を形成している赤土の山道は雨が降ればぬかるみとなり、石畳はツルツル滑って歩行を困難なものにしました。
江戸時代には加えて「御關所」があって、通行手形のチェックもあり、御關所を通らずに裏山を越えようと思えば關所破りとして重罪(死罪となった者は江戸時代を通して二十数名)を課せられたのです。
泉光院は峠にかかる前に先ず…箱根の入湯場へ行き一宿。…したのでした。
22:03  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2017.05.13 (Sat)

泉光院の足跡 230 大山詣り

十五日 霧の天 日向山立、辰の上刻。一の澤山と云ふに詣づ。當寺は東叡山末常念佛あり。本堂八間四面、南向、寺一ヶ寺、夫より奥の院へ一丁上る。開山籠り堂岩屋自然石、出山の釋迦古迹等あり。夫より又山へ上ること一里半にして大山不動へ詣で納經す。本堂八間四面東向、二王門あり、當山は靈地にして參詣の火と多し、老若男女毎日百人計りあり、諸堂諸社並に寺中多し、門前にて菖蒲團子と云ふ物を賣る。參詣の者買ふて數十匹の犬に喰はす。本堂南脇より石尊へ登る道あり、未だ明き山にならざる故、吾々共登り得ず殘念也。夫より三十丁下り町あり、此道小田原本街道也。尾尻村と云ふにて日も入る故に、釋迦堂とて三階作り五間四面の堂あり、此寺へ宿す。

一の澤山は淨発願寺といって、日向薬師を降りてから右側の方にあるらしいのだが殘念ながらワタクシは行かなかったので省略して、いよいよ大山です。
大山新幹線から
右は東海道新幹線の窓から見た大山。整った二等辺三角形の美しい山です。日向薬師は右側の尾根の向こう側の谷合にあります。
この山はお天気が悪くなる前から雲に包まれるし、最後まで雲がとれない。なのでこの山の中腹にある大山不動は雨降山大山寺(アフリサンタイセンジ)と号している。ワタクシは都合3回この山に登ってしまった。
登山口でバスを降りるとやはり長い石段があって、両側にお土産屋と茶屋(及び食事処)がありますが、ここの名物はなんといっても大山独楽と豆腐料理。大山寺こま
ケーブルの駅までの間にたくさんお店があって、かっては塔頭だったような門構えの立派なお豆腐料理の店や、椅子とテーブルが並んでいるだけの安直に食べられるようなお店があったり、選択自由。
大山豆腐料理店

右は立派な豆腐料理店で、そこで食べたお豆腐料理。


大山豆腐


ワタクシも独楽を買ってお豆腐を食べたのでした。
大山寺正面

ケーブルに乗って途中の駅で降りて、右の方へ歩いて行くと雨降山大山寺です。
このお寺には鐵製の不動明王があって、鐵の鋳物で出来ているのです。作られたのは13世紀半ばで、鐵は青銅に比べて溶融温度が高くて硬い金属だから当時の鋳造技術では造るのが難しいのに、仕上げがとてもよく出来ているのだそうです。
右が國寶の鐵不動。
大山寺鉄不動

これはなかなか見せて貰えないらしいのですが、世界遺産研究の会でここへ来た時には予約を入れておいたので見せて貰えたのでした。有難いことでした。





大山寺宝篋印塔
こちらは青銅製の寶篋印塔。
明治の廃佛棄釋でこの塔は破壊されたのだが、破片を拾って再生されたのです。


江戸時代中期頃から大山詣でが盛んになりました。
年間十万人、講をつくって押しかけました。江戸の下町の町民には特に人気があったようです。江戸から大山に行く道筋は、世田谷三軒茶屋から町田・海老名と通って16里程。帰りは藤澤の、廣重版画にあった大きな鳥居をくぐって江ノ島へまわって、そこの遊女屋で精進落しをして、鎌倉や金澤八景などを見物して帰ると21里ほど。

古今亭志ん生の語る落語「大山詣で」の一席はこのコースを通っているものと思います。
喧嘩っ早い熊サンが一緒に行くことに長屋の衆は心配して、もし喧嘩をしたら罰として頭の毛を剃ってしまう、と約束させる。とりあえず參詣するまでは無事だったのだが、やはり心配した通り山を下りてから酒を飲んだ熊サンが大喧嘩を始めてしまう。酔っ払った熊サンがまだ寝ている隙に頭を剃って丸坊主にしてしまって、長屋の衆は早立ちして江ノ島へ行く。それを知った熊サン、急いで長屋へ戻って、長屋のおかみさんたちを集めて涙ながらに語るのです。…長屋の衆たちは江ノ島へ行って船遊びを楽しんだのだが海が荒れてアッという間に転覆、酔っ払って腹をこわした俺一人が船に乗らなかったので生き残ってしまった。俺は坊主になって、みんなの菩提を弔って、して急いでそのことを知らせに戻った。だから死んだ亭主のためにみんなも髪を剃って尼になって亭主の菩提を弔うがよい。…そして長屋のおかみさんたち全部を丸坊主にしてしまう。そこへ長屋の衆が江ノ島から帰ってきてとんでもない事態になっていることを発見して大騒ぎになる、というのがこの落語のあらすじ。
落語なんてあらすじを読んだって面白くも何ともないものなのだが、たまたま泉光院が大山詣りをしたのでそのコースを紹介かたがたあらすじを書きました。
江戸時代の人にとっては「髷」というものは男女を問わず非常に大切なもので、それがなくなるのはとても恥ずかしいことだと思っていました。
明治維新になると新政府は徳川時代と一線を画すべく次々と新政策を発表しましたが、その中の一つに「断髪令」というのがあります。明治4年8月9日の『太政官令』、「散髪制服略服脱刀共可爲勝手事 但 禮服ノ節ハ帶刀可致事」というのがそれで、表向きは、散髪をしても、刀を持ち歩かなくてもいいよ、と、あくまで強制ではないという法令でしたが事実上は、新政府の官僚はみんなザンギリ頭にしましたし、私の車夫イサベラ

 ♪半髪頭をたたいてみれば因循姑息の音がする   
 ♪惣髪頭をたたいてみれば王政復古の音がする
 ♪ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする
と新聞にザンギリ頭を奨励するような記事が出たりしたのでした。だが東京市民の頭からチョンマゲがなくなるにはかなりの時間がかかって、明治22~23年頃にようやく100%ザンギリ頭になったということです。
右はイサベラ・バードのスケッチ「私の車夫」という絵。
明治11年に日本へ一人で来て日本の奥地紀行をしたイギリス女性。日光へ行くために人力車を3台雇ったので、その時の人力車の車夫です。チョンマゲが乗っているようです。
髪型丸髷髪型文金高島田
女性の髪型、丸髷と文金高島田の二つをのせておきました。
江戸時代の下町おかみさんはこんな髪型はしなかったでしょうね。


…本堂南より石尊へ登る道あり、未だ明き山にならざる故、吾々共登り得ず殘念也。…
大山山頂登山口
大山寺から上に登ったところ(ケーブルの終点)に今は大山阿夫利(あふり)神社(の下社)があって、その左脇のところに頂上にある大山阿夫利神社奥社への登山道があります。大山阿夫利神社山頂奥社

左がその登山道。そして頂上に奥社(右の写真)があります。
この奥社の中に石尊大明神という神が降りてくる依代(ヨリシロ)
石が祀ってあるのだろうか。

明治になる前は神佛習合の社でした。泉光院がここへ来たのは(旧暦の)五月十五日(今のグレゴリオ暦に直すと6月28日)です。ここの山開きの期間は六月二十六日から七月の十七日ですから山開きの期間ではないのです。だから…石尊へ…登ることは出来ず殘念でした。いまの「登山」という考え方では理解出来ないことだが、山開きの期間でないと登ってはいけないのです。ハイキングで1250mのこの山頂まで登って眼下に広がる秦野市内風景を眺めるのは大山詣りではありません。
大山阿夫利神社下社拝殿
こちらはケーブルの終点にある下社。この社殿の中には地下に真っ暗な通路(信濃善光寺の胎内めぐりと同じような)があって、そこを出ると美味しい水の飲める場所もあります。
たまたま社殿で巫女さんの舞を見ることができればそれはシアワセ。




大山阿夫利神社巫女舞


大山寺参道女坂


下りはケーブルに乗らずに女坂(右)を歩いて降りましょう。お豆腐料理が美味しくなります。
22:17  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2017.05.11 (Thu)

泉光院の足跡 229 相模国分寺

…夫より金目山坂東札所へ詣納經す。本堂七間四面南向、二王門あり、場所惡き地也、納經判の時住持予が笈佛を開帳したきよし申さるゝに付開く、永々讀經どもせられたり。…
金目山光明寺入口
金目山光明寺本堂

左が金目山光明寺の門前で、右が本堂。坂東観音札所第7番です。金目(かなめ)の觀音堂と言って平安時代作の寄木造り聖観音立像が御厨子の中に入っている。その御厨子も室町時代に作られたもので、入母屋造りの本瓦葺きに似せた彩色の施された御厨子なので、重要文化財指定になっている。
住職は泉光院の笈の中に入っている佛像を拝みたいと申された。永々と読経をしてくれたのは良かったのか迷惑だったのか。この笈佛は昨年京都の佛師に修理に出したばかりの物の筈です。

金目山光明寺のすぐ近くに亡息の卒業した学校がある。風洞実験ストレーキあり
彼は飛行機を作るのが好きだったのだが、飛行機のことを教える学校は東大・京大・阪大という旧帝大の3校と、後は日大・東海大だけだったので、実力相応のきおの金目山近くの東海大工学部に入ったのだった。
彼の生存記念のためにこの場を借りて卒論の「ストレーキによる翼湍失速」中の風洞実験の一場面をのせておきます。
超音速機の後退翼の形状によって、前翼の渦流がどのように影響を受けるか、というようなことを風洞実験で確認する、というのが卒論の主な内容だろうと思うのだが、ワタクシは飛行機のことはよく知らないので深くは記しません。流れの中に置かれた物体の形状によって、キャビテーション(泡のようなもの)の発生や力が安全に大きく関わっている、というようなことを調べる内容だったのでしょう。地球の表面に存在する流体(空気や水など)の中を高速で走行する物体の性能に大きな影響を持つ分野のこういう基礎工学も大切なことです。

…此所より元來し道に返し國分寺の方に赴く。日も西山に落つる故、石田村淨心寺と云ふ寺へ宿す。
十二日 大雨天に付一句、
   憂き事のはてや旅路の五月雨
右の句に付、住持夫れ程雨が難儀ならば今日滯留せよと申さるゝに付幸なりとて滯寺
斯様なるときには發句も役に立つものなり。

旅行中こんな大雨に遭うのは嫌だなぁ、…と句を詠んだら浄信寺の住持がそれを聞いて、そんなに嫌ならもう一泊どうぞ、と言ってくれた。有難い。

十三日 晴天。石田村立、辰の刻。カツ木(厚木の誤り)と云ふ宿に出で船渡り直ちに國分寺へ詣納經す。本堂午未向、門なし。…
相模国分寺跡礎石
金目山から相模国分寺のある所(いまの小田急海老名駅の東の畠の中)までは直線距離でも16kmほどあります。秦野の金目山から伊勢原市を通って厚木のところで相模川を船で渡って海老名まで行きます。この渡船場は先の寒川神社の時の渡船場よりずっと上流の方です。相模国分寺跡入口

右の相模國分寺跡は金堂・講堂・七重塔の礎石が残っています。金堂と塔が横に並ぶ、法隆寺と同じような伽藍配置だったようです。
國分尼寺跡もその近くにありますが、こっちの方は住宅地の中に碑と案内板があるだけ。

泉光院はこんな「國分寺跡」にお詣りしたのではなくて、左の石段の上にある國分寺藥師院の方にお詣りをした。こっちの方はお寺も建っていて住職もいる。
上の方に赤い矢印が見えているのでそれに従っていくと國分寺跡の方に出ます。

…夫より法永寺と云ふ觀音へ詣で、直ちに坂東札所星の谷と云ふに詣納經す。本堂七間四面、二王門、寺一ヶ寺、門前茶屋少々あり。當地も至て地惡し、暮に及ぶ故門前に宿す。
星谷寺二王
少し北に上がっていまの座間市の方へ出ました。
坂東観音札所第8番星谷寺(しょうこくじ)。ほしのや觀音という名前で知られています。
左が石造の仁王さんで、その奥に右の觀音堂があります。
星谷寺本堂

星谷寺梵鐘

このお寺の梵鐘はちょっと変わっていて、普通は「撞座(撞木の当たるところ)」がこっち側と、反対側の向こう側にもあるものなのだが、この梵鐘は一つしかないので、「日本三奇鐘」の一つに数えられているのです。右がその梵鐘。


十四日 雨天。星のや立、辰の刻。昨日通りしアツ木と云ふ宿へ出で、坂東札所飯山寺へ詣納經す。石段を上ること三丁、本堂五間四面一宇、寺一ヶ寺、二王門前に茶屋一軒あり。…
長谷寺6番紫陽花
左が飯上山長谷寺。坂東觀音札所の第6番です。300段ほどの石段を上がった上にあります。本尊は行基作という176㌢の十一面観音の胎内に納められた10㌢ほどの小さい十一面観音像で、縁結びの観音様として知られており、例年4月8日にご開帳になります。
この日はなぜか「タニシマチ」と言われていて、近在の新婚夫婦が參詣する風習になっているのです。
この日、参道にはタニシを売っているというので、ここの茶店で売っているタニシの味噌漬けの写真を載せておきました。新婚夫婦とタニシの間に何か関係があるのかと思って調べてみたのですがわかりませんでした。ご存じの方は是非ご一報下さい。長谷寺タニシ味噌漬

ここは櫻の名所でもあり、4月8日ならきっと3000本の櫻がみんな満開で、櫻を見ながら茶店に腰をかけてタニシの味噌漬けを食べるのは、オツなもんですねぇ。

…夫より日向の藥師と云ふ靈場へ詣づ。山の手十八丁上る、又石段三丁、本堂十二間四面、南向寺一ヶ寺、森の御殿末寺修験寺也。因て神變菩薩堂あり納經。雨天故門前に宿す。

日向薬師三尊像
日向(ひなた)藥師というのは通称で、日向山靈山寺藥師堂の藥師三尊は日向薬師と呼ばれて(高知県大豊町の柴折藥師、新潟県上越市の米山藥師と共に)日本三藥師の一つということになっている。先に見た横浜、弘明寺の十一面観音像と同じく「鉈彫り」の佛像で、鉈彫り二大傑作といわれているものです。
他にも平安・室町期の佛像がたくさん残されていて、みな国重文指定となっています。このお寺も廃佛棄釋の時ずいぶん荒れてしまったようで、昔の繁栄は見る影もないのだが、いまは寺務を扱う宝城坊というのと藥師堂が左右にあり、宝物殿もできて今後は參詣人も増えるかも知れない。
日向薬師参道

お寺へ行くには左の石段を登ります。
日向薬師本堂


場所も景色もいいのだが、観光地としては殆ど知られていないので、丹沢山地のハイキングコースとしての方が有名なようだ。
ワタクシがここへ来た時はちょうど秋で、バス停の広い原がヒガンバナでいっぱいだった。お寺を見る人は殆どいなくてヒガンバナの写真を写している人はたくさんいた。石段を登ってお詣りに行く人はいなかった。
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2017.05.08 (Mon)

泉光院の足跡 228 遊行上人の寺

…夫より本道へ返し、藤澤の驛へ出で遊行上人の寺へ詣納經す。…
廣重版画戸塚
泉光院は保土ケ谷宿から鎌倉、江ノ島とお詣りをして藤澤へと行ったので、その間にある戸塚の宿は通らなかったから、廣重版画の戸塚を入れておきます。
「戸塚 元町別道 もとまちわかれみち」。
日本橋を七つ(午前4時頃)立ちすると夕方6時頃に戸塚に着くことになります。距離にして約十里。保土ケ谷と戸塚の間には権太坂という難所があった。
明治時代の権太坂
今でもお正月に行われる大学の箱根駅伝の中継でも権太坂の所では必ず坂道を走り上がる選手の姿が写ります。
江戸時代の権太坂は今よりももっと急な坂道だった。左は明治の頃に写した東海道風景。保土ケ谷・戸塚・藤澤間は四里あって、上り下りの多い悪路だった。古い資料ではこのあたりの山道を指して「ことのほかおそろし」と書いている程です。

上の廣重版画では、右の柏尾(かしお)川にかかる吉田橋をこっちに向かって男が歩いてくる。この橋の向こうに見えている屋根が戸塚の宿場です。
橋のたもとに燈籠と石碑が見えていますが、この石碑は道標で、「左りかまくら道」と彫られています。「こめや」の看板が上がっている家は米屋でもあったのだが、旅籠屋も兼業していた。軒先の高い所にかけてある札には、「大山講中」、「月參講中」、「百味講」、「神田講中」と書いてあるのが読めるので、こういう団体の指定旅館なのでしょう。戸塚吉田大橋
右が現代の吉田橋。ガードフェンスが終わった所から橋になって、少し屈曲して、コンクリートの欄干の途切れる所までが橋。その下を柏尾川が流れる。橋のたもとに茶色のものが見えますが、それはここが廣重版画の「吉田橋」だという案内板。現代の戸塚は首都圏のベッドタウンになっているようです。
お軽勘平道行の場碑

宿場を出ると「お輕勘平、戸塚山中道行の場」という碑が左側に立っている。

江戸から落ちのびるお輕と勘平が、富士のお山を背に東海道を道行きする『道行旅路花婿』。演じているのはお輕を中村福助、勘平を中村勘九郎。(ちょっと古い画像です)
この場のあらすじを少しだけ、…
お軽勘平道行の場
『忠臣蔵三段目』
高師直(こうのもろなお)にいびられた塩谷判官(えんやはんがん)が遂に堪忍袋の緒が切れて殿中刃傷の場となる、というあたりは皆さん御存知ですね。この判官のお側の者として足利家に随行しているのは早野勘平。本当なら勘平は饗應の儀式の間中、待機しているのが勤めです。松の廊下で判官が高師直に斬りつけてしまったとき、勘平としては主人はどうなったのか、師直は死んだのか、國元の大星由良之助に何を報告すべきか、あらゆる情報を集めなくちゃなりません。ところが勘平はその場に居なかったのです。御殿を抜け出して、恋人お輕とデートを楽しんでいたのでした。お輕が足利御殿まで来ていたのは、顔世御前に託された文箱を判官に届けるために来ていたのです。勘平は、お輕の顔を見て、どうせ儀式の間は暇だろうと思って軽い気持ちでお輕を誘って御殿を抜け出してデートに出かけたのでした。ところが御殿ではとんでもないことが起こっていたのです。勘平が御殿に戻ったときには一大事出来(しゅったい)で、門はすでに固く閉ざされていたのでした。不忠者となってしまった勘平はお輕と手に手を取ってお輕の実家のある京都山崎へと落ちのびる途中の道行がここ戸塚の場面となるのです。お輕と勘平はこの松の根元で抱き合いながら、恋のなれそめ、将来の夢などを語る、という幻想的な舞踊劇がこの「道行旅路の花婿」。
もともと作り話である『忠臣蔵』の、さらに架空の人物であるお輕と勘平が、人影のないのを幸い松の根元で抱き合った、というそんな場所をここの地に設定して、道の脇に松の木を植え、碑まで作ってしまったという江戸時代の人たち、何とも情緒豊かな人たちですねぇ。
廣重版画藤澤遊行寺
右は廣重版画「藤澤 遊行寺」。
遊行寺は正式には藤澤山無量光院清浄光寺といって、時宗の本山。
宗祖一遍上人は踊り念佛で往生安樂の境地へ至る、と大衆に説いて諸國を遊行したので、上人を遊行上人、お寺を遊行寺というようになった。
この絵で大きな鳥居が目をひきますが、これは江ノ島辨財天の一の鳥居。東海道から江ノ島へ行くときにはこの鳥居の所から今の国道467へ入ります。泉光院は江ノ島から江ノ島を発って一里九丁でこの鳥居の所に着きました。前に見える境川を渡って、向こうの山の中腹に見えている遊行寺に詣納經をしました。
絵では鳥居のあたりに座頭が四人、橋の付近に婦人が二人、江ノ島へ詣でるために来ているようだ。
清浄光寺一遍上人
右は遊行寺と一遍上人像。
伊予で生まれた一遍上人は出家して諸國を巡るうち、熊野で悟りを開いた。そうして弘安二年(1279)から踊り念佛を始めて諸國遊行の旅に出た。そして一遍上人は自分では一度も寺を寺を造らなかった。この遊行寺も時宗四代目の僧呑海が建てたのだという。
この本堂の裏には小栗判官と照手姫のお墓がある。二人のお墓の間には、愛馬鬼鹿毛の墓もある。
このお二人の物語は歌舞伎や説教節でいろいろと創作・脚色されていて、ヴァリエーションがたくさんあるのです。小栗判官がこの付近の豪族横山大膳に毒殺されたのだが、遊行寺の(何代目かの僧)大空上人の夢枕に閻魔大王が立って、その男を熊野の湯へ連れて行けば治るであろう、とお告げがあり、横山大膳の屋敷に下女として入っていた妓女照手姫が苦労をして熊野へ連れて行く、というのや、照手姫は人買いに騙されてどこかへ売り飛ばされてしまう、というようなのや、色々あってワタクシにはよく判らない。奈良の金峯山寺へ行ったとき、どこかの塔頭で小栗判官・照手姫の物語を見たような気がした。いずれ泉光院が熊野に着くまでの間に決着をつけたいと思います。

…夫より一の宮へ出る、日も傾きし故に一の宮村へ宿す。
十一日 晴天。直ちに一の宮へ詣納經す。花表前松並木三丁、本社南向、社家持也。…
寒川神社随神門寒川神社拝殿


相模國一の宮は寒川神社。左が随神門で右が拝殿。
祭神は寒川比古神と寒川比女神のお二方で、この名前からするとこの神様は日本神話に登場するようなアマテラス系やオオクニヌシ系の神様ではなくて、この地方の豪族を祀ったお社のようです。大山道道標

遊行寺の所から寒川神社へ行くには藤澤宿から少し西に行って、右の(大山道と書いてある)道標のところで右に曲がって大山道に入るのです。

ここへお詣りをしてから少し南に下って、相模川を渡船で渡った所に四之宮、今は平塚市の一部になっていますが、そこに相模國四の宮である前鳥(さきとり)神社があるのです。

…夫より四の宮と云ふに渡船あり、此所四の宮とて大社あり。予納經したれば平四郎氣に入らず、二の宮三の宮は如何するやと云ふ、吾れ返答せず、八旗八幡へ詣納經す。…
前島神社
左が前鳥神社。通り道だからお詣りしたら平四郎が文句を言った。
…二の宮三の宮はどうするんだ!…と。
二の宮は川匂神社、小田原市の近くの二宮町です。
三の宮は比々多神社、これは伊勢原市の方。
通り道ではないのです。だから
…吾れ返答せず…に平塚八幡宮へ行きました。
…本社一宇南向、大神門あり、大松山の内寺一ヶ寺、門前茶屋なし。…
平塚八幡宮鳥居平塚八幡宮

左が平塚八幡宮の大鳥居、右が拝殿。
平塚八幡宮は前鳥神社のすぐ近くです。そしてここは相模國八幡庄の総鎮守で、相模國の五の宮でもありますから平四郎がこのことを知ったらもっと嫌みを言ったかも知れない。
12:04  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
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