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2017.04.18 (Tue)

泉光院の足跡 224 三行半

朝比奈切通し
泉光院は弘明寺で詣納経をしてから、朝比奈切通し(右の道)を通って、
…鎌倉入り口町圓覺寺と云ふの門前に宿す。…
と、鎌倉へ入りました。
そして一日で精力的に鎌倉のお寺を廻ったのです。


円覚寺三門




まず始めに、圓覺寺の三門。夏目漱石の小説『門』に書かれた門(左の写真)です。


円覚寺舎利殿円覚寺舎利殿内部


上左は国宝の圓覺寺舎利殿。宋の能仁寺から招来したという佛舎利(お釈迦様のお骨だというもの)を納めてあるといいます。右は舎利殿の内部。
創建当初のこのお寺は禅宗様式の配列になっていて、法堂(はっとう)・佛殿・三門・総門が一直線上に並んで、頭・心臓・腹・脚の位置を表し、そしてその両側に僧堂と東司(とうす=便所)、庫裏と浴室、が腕にあたるように配列してあります。
これらの建物すべてが禪の修行に大切な場所であり、禅宗のお寺の基本配列はこのようになっているのだといいます。
江戸幕府はここを鎌倉五山の第二位として保護をしてきたのだが、幕末・維新の混乱で寺領を失い、関東大震災で伽藍のほとんどが倒壊し、昭和になって再建した佛殿は鉄筋コンクリート造だが、元亀四年(1573)の佛殿指圖(設計図)をもとにしているので古式を保っている、とのことです。頭に当たる法堂はまだ建っていません。

泉光院は次に建長寺へ行きますが、その前に見落としてはいけないのが東慶寺。圓覺寺のすぐ向かい側です。
東慶寺
ここは鎌倉尼寺五山の第二位だったのだが、他の4寺はすべて廃寺となり、いまはここも僧寺となりましたが、江戸時代は尼寺であって、しかも駆込寺として知られていました。

結婚という制度が定着した江戸時代、町民の夫婦が離婚をする場合には、夫の書いた「去状 さりじょう、暇状 いとまじょう」が必要で、妻の側からの離縁の自由はあまりなかったのでしたが、このお寺は不幸な結婚から女性を救うお寺でした。
お寺に駆け込んで、足かけ3年奉公すれば自動的に離縁が成立するという「縁切寺法」が認められていたのは、上州の滿徳寺とここ東慶寺だけでした。
現代の離婚は夫婦連名で確認的届出書を作ってハンコを捺して提出することで成立しますが、江戸時代の離婚制度は、夫にだけ離縁状を書く権利(あるいは義務)があったのです。
もちろん妻が離縁を望んでいるにもかかわらず離縁状を書かないのは夫の恥とされましたし、親戚や媒酌人、家主、お寺の住持その他の人たちが仲介に入って円満に納めるか、あるいは離縁をさせるかしたのでしょうが、どうしても離縁状を書かない場合の救済処置が駆込寺なんです。
離縁状のことをちょっと書いておきます。
もし夫が離縁状を妻に交付しないで再婚した夫は、所払(ところばらい=追放)の刑罰に処せられましたし、離縁状を受領せずに再婚した妻は髪を剃って親元へ帰されるという刑罰がありました。東慶寺三行半

右の書面は標準的な去状で、三行半(みくだりはん)というものです。一例を挙げておきます。
     一札の事
 一、今般双方勝手合ヲ以及離縁
   然ル上者其元儀 何方縁組
   致シ候共 私方ニ二心無
   依之離別一札如件
    年月日      何兵衛
       まるどの

この本文を三行半に書くので、離縁状のことを「みくだりはん」というのでした。
意訳するとこんな具合です。
 この度、双方協議の上、離縁いたします。
 したがって、今後あなたが誰と縁組みしようとも
 私に異議はなく、翻意することもありません。
 以上本状を以て離別状と致します。

この去状があれば、女の側は次に誰と結婚しても文句は言わせないのです。
江戸時代の江戸は、前にも書いたように発展途上の都市なので、あちらこちらから働き手の男たちが集まってきますし、長屋というワンルームマンションもたくさん建ったし、一膳飯屋や煮売屋や料理屋もたくさんあって、喰うに事欠きませんし、古着屋で着るものを調達すればすぐにでも働けてお金になった。そんなわけで、男2に対して女1という、圧倒的に男が多かったのでした。だから夫の側にだけ離縁状を書く権利(というよりもむしろ義務)があったとしても、あながちそれで妻の側が不利であったわけでもないのです。女は少なかったので、女房の方が亭主よりも強い場合が多かったのです。だから去状を書いて貰わなくっても駆込寺に丸一年とちょっと(この1年とちょっとという期間は妊娠などの成り行きの確認のために必要だったのかも知れない)、足かけ3年お寺に入って居れば別の男と一緒にもなれたし、夫が反省すれば復縁も容易だった。東慶寺水月観音

右は東慶寺の水月観音半跏像。
東慶寺水月堂に安置されております。見せて戴くためには事前に電話予約などが必要だそうです。

磯田道史という人は「武士の家計簿」という本を書いてずいぶん有名になりましたが、「江戸の家計簿」という本も最近書いて、それには江戸時代の収入・支出が詳細に書かれているのです。それによると、建設業の盛んだった江戸では、大工、左官、鳶職は江戸の三職と呼ばれて花形職業で、日当は一日銀五匁四分、いまのお金に直すと、約¥27,000ほどになるそうです。一ヶ月に25日働くとすれば800万円を超える収入となります。それに対して、家賃は一ヶ月5万円程、お米が1kg\430、大根1本¥110、卵が1個\200ほど、とかなりお安いようですし、外食をしても、蕎麦一杯16文=¥250、鰻丼になるとかなりお高くて、一杯200文=\3200。
泉光院のことを書きながらいつも思うのは、江戸時代は今よりいい時代だったという思いです。

次に、…夫より建長寺へ詣納經す。寺格伽藍右に(圓覺寺のことです)同じ。…
建長寺三門

建長寺は鎌倉五山の第一位の寺格を持っていました。創建は、建長元年(1249)に場所が定まって、1251年に伽藍の建立が始まり、建長五年(1253)に落慶供養が行われたので年号をそのまま寺号とした。
右が建長寺三門。
禅宗寺院建築様式





左は禪宗寺院の標準的な配置。
建長寺も、先の圓覺寺も、宋から招いた僧が開山となっていて、左の図のような宋朝の禪宗寺院様式をとりいれたのです。その流れをくむ越前の永平寺や、金澤の大乘寺も同じように建っているのです。
一番南(図では下)に総門があって、入ると心字池が広がっている場合がよくあります。普通は太鼓橋の形をした石橋があったりしますが、建長寺の心字池はずっと奥の方、方丈、龍王殿の裏にあって、池の中に島を配した名園になっている。。
総門・三門・佛殿・法堂が一直線に並んでいて、両側に庫裏や禪堂、風呂やトイレ、というのが先に書いたとおりです。境内の廻りには塔頭や子院が建っている場合があります。ここでは三門を入って右側に鐘楼がありました。建長寺梵鐘
「建長七年・巨福山建長禪寺」の銘のある國寶の梵鐘です。

建長寺ビャクシンの巨木

左は佛殿前に立っているおおきなビャクシンの巨木です。
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2017.04.14 (Fri)

泉光院の足跡 223 弘明寺

廣重版画「神奈川 臺之景」。神奈川広重保永堂

神奈川県に入ってしばらく行くと神奈川広重部分
、海に面した台地、神奈川台にさしかかります。海側の絶壁には座敷からの眺望を売りにする茶屋が軒をつらねた。

舟の帆柱の向こうに見える遠くの山は本牧のあたりで、近くの急崖は、いまは横浜市西区の野毛山公園、野毛山動物園のあるあたりと考えられています。
左の拡大図、「蔦や」、「たるや」、と読める看板の茶店からは客引き女が出ていて、旅人を引っ張り込もうとしているようです。
弥次サン、喜多サンもここの茶店のどこかで一杯飲んで、…浪うちぎはの景色いたつてよし…と賞めている。
京急の子安駅を過ぎたあたりに浦島太郎の伝承のある一画があります。
浦島太郎の墓亀型
亀住町とか浦島丘という町名が残っていて、伝承では、竜宮から帰った浦島太郎は、両親の墓を捜して東国をさすらい、箱根で玉手箱を開いて老人となり、この地まで来て両親の墓を見つけ、ここで歿したというのです。
左がその浦島太郎の墓と伝える墓石。右側の亀の背中に乗っているのがそれです。
泉光院が丹後半島を廻っているとき(No.066 浦島)、浦島太郎を祀った宇良神社のことを書いていて、ここで玉手箱を見せて貰って、正物か知れず…と疑問視しています。浦島太郎はその後木曽路の寝覚ノ床へ行ってそこで十年間、幸福な老人として過ごしたという伝承もあるのです。浦島太郎の伝承はみな謎につつまれています。
保土ヶ谷広重保永堂

神奈川から次宿保土ケ谷までは一里九丁、ほんの5kmほど。
廣重版画、保永堂版の「保土ケ谷 新町橋」の図。
帷子(かたびら)川にかかる橋を、お供を連れた武士らしいのが駕籠に乗って渡っている。
深編笠をかむり、尺八を小脇に抱えた虚無僧が渡って行く。渡った先の家には「二八そば」の看板も見えて、店の前では二人の女が立ち話をしているようだ。



保土ヶ谷広重新町橋部分


保土ヶ谷広重保永堂部分


金澤道道標4本

この川は戦後流域変更をして、この橋のあったあたりは公園になって、「帷子橋跡」の説明板が残っているだけです。
その先のJR東海道線の踏切ちょっと手前の左角に道標が4つ立っている(左の写真)。

ここの所を泉光院は左へ曲がって金澤・鎌倉街道に入りました。
書いてある文字は、右から「圓海山之道」、「かねさわ・かまくら道」、「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」という句碑、そして「ほうそう神富岡山芋大明神江の道」。

八日 晴天。川崎驛立、辰の上刻。坂東札所稱明寺へ詣納經。本堂東向、七間四面、二王門あり、寺三ヶ寺、門前茶屋三四軒あり。…

ここで稱明寺と書いているのは間違いで、弘明寺(ぐみょうじ)です。坂東札所第14番です。稱明寺というのはなくて、稱名寺というのは金澤文庫の所にあって大きなお寺ですが坂東札所ではありません。
大岡川の櫻裕香

金澤街道を南へと歩いて京急線井土ヶ谷駅の下を進んで行くとやがて大岡川に出て、橋を渡るとそこで突き当たりになって鎌倉街道となります。
「いざ鎌倉」というとき坂東武者たちが馳せ参じたというという道です。

この大岡川のほとりに亡息の住んでいたマンションがありました。左のマンションの3階でした。

マンション大岡川の櫻
ちょうど櫻の枝でかくれているあたりの部屋です。櫻桜の頃はとても美しい所でした。

弘明寺はこの川に沿って1kmほど遡った所にありました。

弘明寺山門



門前町はアーケードになっていて、上がっていくと今は繁華街の片隅に二王門とは思えないような(左の、甘茶進上の看板のある建物)があって、それが二王門。
弘明寺観音堂弘明寺鉈彫十一面観音

こちらが本堂です。

本尊は平安時代の作と伝える「鉈彫り」の典型的な作例であって、国重文指定の十一面観音立像です。
泉光院も書いているように昔は大きなお寺だったおうなのだが、明治の廃佛棄釋のあおりで寺域の大半を没収されたらしくて、のちに横浜市が弘明寺公園としました。さらに京急が本堂の裏手の方に弘明寺駅を開設したので、いま残っているのはかっての寺域の2割ほどしかないそうです。
弘明寺十一面観音部分

鉈彫りの典型、という観音様をもう少しよく見ましょう。像高181.7cm、ケヤキの一木造で、丸ノミのあとを横縞状に残しています。寺伝では行基作といいますが、平安時代中期の作、本堂が建立された寛徳元年(1044)頃に作られたものだそうです。彫り跡が見えるように少しばかり拡大しておきました。顔にも胸にも腕にもよく残っています。
本堂左の聖天堂には空海作と伝える秘佛歓喜天や、奥の院歓喜堂にも「秘佛」というものがたくさんあって、時折展覧に供しているそうです。ワタクシが行ったときには殘念ながら秘佛にはお目にかかれませんでした。

ここで詣納經をした泉光院は、門前町を真っ直ぐに南へ出て右へ曲がって鎌倉街道へ
入り、
…夫より神奈川新町と云ふより南山中に入る。鎌倉入口町圓覺寺と云ふの門前に宿す。…
と脇目もふらずに鎌倉へ行きました。その前に、稱名寺や金澤八景を見ておきましょう。行楽好きの江戸町民たちは、大山や鎌倉、江ノ島といった近郊へ、2~3泊で出かけましたが、中でも人気を呼んだのが東海道の脇街道である金澤街道でした。
「江戸より見物せんと思う人は、保土ケ谷宿より金澤へ来て、鎌倉へ行けば見物の次第よきなり。」と当時のガイドブックには書いてありました。称名寺仁王門

京急の金澤文庫駅で降りて瀬戸の入江の方へ向かうと稱名寺。
鎌倉幕府執権の一族だった金澤(かねさわ)北条氏が館を置き、倉庫として金澤文庫を創立し、稱名寺を菩提寺として建てました。右の仁王門には関東地方最大の仁王像があって、くぐって入ると阿字池の向こう正面に稲荷山を背に金堂が建っています。

左が金堂で、その右に釈迦堂が建っているのが見えます。
称名寺金堂

金澤八景(かねさわはっけい)は、州崎晴嵐・瀬戸秋月・小泉(こずみ)夜雨・乙鞆(おつとも)帰帆・稱名晩鐘・平潟落雁・野島夕照・内川暮雪の八つで、稱名寺の鐘も入っていますし、右の瀬戸神社の前にある琵琶島は秋の月を見るのによいとされました。島の中にある弁天社の辨財天立像は北条政子の勧請と伝えます。金澤八景瀬戸秋月枇杷島神社

この辺は大規模な工場進出と、住宅団地と、八景島シーパラダイスのために昔日の面影はありません。亡息の勤めていた会社も稱名寺のすぐ近くの海岸近くに建っていましたし、八景島シーパラダイスというのは東京湾に浮かぶ人口島で、丸ごと大アミューズメント・アイランド。三角屋根の水族館や、スリルいっぱい遊園地となっていて、それで「入島料」は無料だから上手に遊べば愉しい(但し駐車場料金や、ドルフィンの遊戯や、シーパラタワーなどそういう施設で遊ぼうと思うとかなり高い!)のです。八景島シーパラアクアミュージアム

右は八景島シーパラ・アクアミュージアム。

弘明寺をでて鎌倉街道を南に辿って朝比奈切通しを通り抜ければ鎌倉です。この道は鶴岡八幡宮まで続いています。
鎌倉空撮
空から見た鎌倉。
鎌倉は周囲を山で囲まれているので、鎌倉に入るには「鎌倉七切通し・(鎌倉七口)」といわれた切通しのどれかを通らなくちゃなりません。鎌倉幕府は、尾根を切り山腹を削って道路を造りました。名越(なごえ)・亀ヶ谷(かめがやつ)・化粧坂(けわいざか)・巨福呂(こぶくろ)・朝比奈・大佛坂・極楽寺坂、の七つが鎌倉時代に鎌倉へ入る道路のすべてでした。また鎌倉幕府のあった時代は、「すべての道は鎌倉に通づ」でした。鎌倉街道地図

All roads leaf to Rome. この言葉はカエサルが漏らしたのかアウグストスなのか知らないけれども、当時のヨーロッパ地図を見ると見事にすべての道はローマに集中しているのです。
21:25  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2017.04.09 (Sun)

泉光院の足跡 222 米饅頭

…此所より新田八幡へ詣づ。是れは矢口の渡しにて終命の新田義興の廟所也。御殿は小社也。後ろに廿間廻り計りの大竹藪あり。垣結ひ廻らしあり、是れ廟所也。矢口の渡しとは此宮の西にて田地となれり、心願の者弓矢を献ず。門前に矢賣店あり。…

新田八幡は、八幡太郎義家の子孫で、源氏の左兵衛佐源朝臣新田義興(さひょうえのすけ みなもとのあそん にったよしおき)を祀る神社です。
新田神社竹藪
よくは知らないのだが、新田義興は舟で多摩川を渡る途中、はかりごとのためにここで殺されたのだがその怨霊が現れるのでここに祀ったのがはじまりだと伝えます。
歌舞伎「神霊矢口渡」に脚色されて江戸時代の人は知らないもののない物語らしい。
この神社の境内には左の写真に見られるように(そして泉光院も書いているように)篠竹の藪があって、平賀源内という(江戸時代には珍しい自然科学者だった)人がここの竹で破魔矢というものを作ったのが評判になって、參詣の人びとが買い求めたのだそうです。新田神社
二本買って、一本を奉納して、もう一本を持ち帰って魔除けにするのだそうです。右が新田神社で、この裏手にある古墳が義興の墓だといいます。


矢口渡跡

左は戦後しばらく経った頃の矢口渡の風景だが、すでに渡し場はなくなってしまって、昭和24年に多摩川大橋という立派な橋が出来ている。


…夫より大師川原と云ふに詣づ。川崎の驛と云ふに出で戌亥の方海邊に十八丁行く在村に三丁計りの石垣あり、内に本堂六間四面、本尊不動、愛染、中段は大日、護摩三段。納經後川崎驛森田屋と云ふに宿す。

日本橋を出発して最初に渡るのが六郷川。いまは六郷川とは言わずに多摩川と言っている。
徳川家康はこの六郷川に大橋を架けさせたのは慶長五年(1600)で、千住、両国と並ぶ「江戸の三大大橋」と呼ばれるほど立派なものだったのだが、洪水のたびに流れるので、享保年間(将軍吉宗の頃)に川崎の本陣や問屋、名主が渡し船を始め、船賃を宿場収入としたことから宿は繁盛した。
川崎広重保永堂
廣重保永堂版「川崎」です。
六郷から川崎河岸に向かう渡し船。

下の方にちょっと拡大をしてみました。
乗っているお客は右からタバコを一服している商人ふうの男、荷物を組み直している男、近郷の女、侍らしい男、いろいろ居ます
船頭が竿を力一杯押している。

対岸の川崎河岸で待っているのは樽を四つ背中に乗せている馬や客を乗せたまま待っている籠、旅人らしい人も二、三人居るようだ。
川崎広重保永堂部分
さまざまな人たちがこの渡し船を利用している。馬や駕籠もそのまま船に乗せて運んだのでした。

右向こうに見える家は渡し船の運賃を支払う川会所の建物。当時の運賃は十三文だったという。


こちゃえ節、というのがあります。
♪お江戸日本橋七つ立ち、はつ上り、行列揃えてあれわいさのさ
   こちゃ高輪 夜明けて提灯消す こちゃぇ~こちゃぇ
♪六郷渡れば川崎の、まんねんや、鶴と亀との米饅頭
   こちゃ神奈川 急いで保土ケ谷 こちゃぇ~こちゃぇ
京の都まで全部の宿場を唄いこんで、京へ行く方の上り歌と、京から江戸への下り歌と両方、別の歌詞で出来ています。江戸時代の俗謡ですからちょっと色っぽい思わせぶりな歌詞があったりして面白い。
例えばワタクシの住んでいる浜松付近ではこういう歌詞になります。
♪袋井あたりで見付られ、浜松の、木陰で舞阪まくりあげ
   こちゃ渡舟(わたし)に乗るのは、新井宿

六郷川を渡って川会所で料金を支払って東海道へ入ると、奈良茶飯を商う茶店がありましたが、有名なのは万年屋。
川会所の反対側、『諸國道中旅鏡』という旅行ガイドブックんいは、道の左側に二階屋で描かれていて、弥次・喜多も万年屋に立ち寄って…ならちゃをさらさらと…食べた。一人前36文だった。万年屋江戸名所図会

右は『江戸名所図会』に描かれている万年屋の繁盛している様子。「万年」という看板がちょっとだけ見えている。
奈良茶飯
左は復元した奈良茶飯です。
この由来は、奈良東大寺などで始めたのが浅草金龍山淺草寺の門前の茶屋あたりで売り出して評判になって、…明暦の大火後、浅草金龍寺の門前の茶屋に始めて茶飯、豆腐汁、煮染(にしめ)煮豆等を調へ奈良茶と号(なづ)けて出せしを、江戸中端々よりの金龍山のならちゃ喰ひに往かんとて、殊の外珍しき事に興ぜり。…と、最初は浅草で流行っていたのがこの川崎でも評判になって名物になったようだ。
♪お江戸日本橋七つ立ち…するとちょうどこのあたりでお昼になってお腹がすく頃、六郷川でとれたシジミの味噌汁が付いているご飯です。
川崎大師平間寺
…夫より大師川原と云ふに詣づ…
こちらは泉光院がお詣りをした大師川原。正式には金剛山金乘院平間寺(へいげんじ)。川崎大師の名前で通っています。
初詣の集客力はとてもすごくて日本第三位。300万人近くが押しかけます。亡息も一度初詣に行った事があると言っていました。

「東海道名所記」に、…むかし弘法大師入唐して、わが御影おみづからつくり玉ひ、流沙川にながし給ふ所に年へて後に此浦にながれ寄り玉ふを、獵師引あげ奉りてあがめしより大師川原と名づく。…で、海から引き上げたその木像には…牡蠣がらがひしととりつきて今にあり。…でした。
またこのお寺は、京都醍醐寺三宝院の末寺なので、泉光院のお寺、安宮寺もやはり三宝院の末寺なので同系列なのです。
江戸時代の川崎宿の繁栄は川崎大師のおかげといってもいいようです。厄除祈願は庶民ばかりではなく、武士にも広がり、将軍家斉、家慶、家定、家茂らまでもが厄除け詣りをして、御成門を建立し御膳所としたので格式も高まったのでした。
その後の平間寺の発展に大きな役割を果たしたのは明治32年に操業を開始した大師電鉄(現在の京浜急行大師線)で、この頃から大師門前町が発展したのでした。

泉光院はここにお詣りをしてから川崎宿の旅館森田屋に泊まりました。

川崎の宿場を立って神奈川、保土ケ谷、と東海道を歩いてから金澤街道の方へ曲がって、鎌倉を一回りしてから藤沢のほうへ出ますが、ここではゆっくりあたりの風景を見ながら進むことにしましょう。
市場村一里塚拡大

川崎宿の本陣の前を通り過ぎると鶴見区に入って左手に「武州橘樹郡市場村一里塚」の石碑と赤い鳥居のお稲荷さんがある。
市場村一里塚稲荷社
左がお稲荷さんのあたりだが、右が「市場村一里塚」の石碑で日本橋から5番目の一里塚で、明治後西側の一里塚は壊されたが東側のだけが残って、石で土留めをしてお稲荷さんを祀った。

このあたりで東海道は鶴見川を渡るのだが、『江戸名所図会』には「橋より此方に米饅頭を売る家多く、此地の名産とす。鶴屋などいへるもの尤も(最も)旧(ふる)く慶長の頃より相続すると云ヘリ。」
米饅頭
これが復元された米饅頭(よねまんじゅう)。
鶴屋というのが一番古くて江戸時代初期からあったという。寛政十三年(1801)、太田南畝・蜀山人が幕府の仕事で大坂へ上がった時の紀行文『改元紀行』に、ここには鶴屋、亀屋ほか七軒の米饅頭を売る店があって、…一つ三文、籠代二文…と書いている。籠代というのは、買った米饅頭を(持って帰るために)入れる籠のことで、10個饅頭を買って籠に入れて貰うと32文払うことになるわけです。その場ですぐ食べてしまえば籠代は要りません。当時の米饅頭は、塩味のアンコを入れた大福餅を焼いたようなもので、皮も厚かったようです。これらのお菓子屋さんも、江戸時代が終わって明治になり、幕府の運営していた「東海道」という制度が崩壊すると次々と廃業に追いやられ、一番最後まで商売をしていたのは亀屋でしたが、これも明治末年で姿を消したのでした。JR鶴見駅の近くのお菓子屋さんで最近復元版の米饅頭を売り出しましたが、今の(上の写真のような)米饅頭は、薄いギュウヒ(求肥=羽二重餅のような)の皮に甘い漉餡がたっぷり入っていて、ぜんぜん昔の面影はないようです。
太田南畝(なんぽ)は、昼は有能な幕臣でしたが、夜は狂歌師太田蜀山人となり、「世の中は、酒と女が敵(かたき)なり、どうか敵に巡りあいたい」などと人を笑わせていた。大坂からの帰り道は中山道を通って、紀行文『壬戌紀行』というのを書いている。いずれ中山道のことを書くときにはこっちの方から引用するつもりです。
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2017.04.05 (Wed)

泉光院の足跡 221 品川宿

四日 晴天。晝時より山口氏に呼ばれ行く。種々馳走あり、夕方歸る。新右衛門殿並に伴次等へ暇乞として酒等出す。伴次より一角借用、浪速より爲替にて返す筈。
五日 晴天。節句。一句、
   菖蒲ふく軒からのきの幾何里
前田氏方へ暇乞に行く、蕎麥切出る。夫より諸々暇乞し、伊勢屋茂兵衛と云ふ知音方へ暇乞に行く。唐人製墨一挺贈る。夫より神明前町權西と云ふ宅へ行く。去春上州伊香保温泉場にて知合ひになりたる也、種々馳走あり、色紙、短冊、浮世繪等呉れらる。菅笠一つ調へる。又丸合羽調へ夕方歸る。夜に入り醫師隆迪子を以て奥様御姫様より御初尾上る、御局方よりも初尾上がる、又瀧枝どのと云ふ宅へ加持に行く。

いよいよ江戸を離れるときが来ました。永年つきあってきたお友達は料理屋などへ呼んでくれて別れの宴をしてくれる。世話になった人(おそらく自分より身分の低い方の人たち)にはお酒や餞別を渡す。御屋敷にお勤めの皆さんのところへは挨拶に廻る、というようにキチンと始末をつけておきました。泉光院はもう二度と江戸へ来ることはありません。そのことは本人が一番よく知っているはずです。
伴次という男から…一角借用…と書いてあります。一角という貨幣単位は、丁六銀という庶民の間でよく使われていた銀貨のことらしいのだが、金一分ほど、銅銭だと1500文ほどか。たったこれだけ借りて、大坂へ着いたら為替で送るつもりをしている。借りたものは返すのが当然なのだが、たった金一分のために大坂から為替で送る方がよっぽど手数もかかるだろうに。何か深いわけがあるようだ。写楽四代目松本幸四郎

奥様と御姫様からお餞別(御初尾)が下される。おつぼね様たちからもお餞別が届く。
瀧枝どのという人もお局さまの一人だろうか。

江戸土産で人気のあったのは浮世絵。
写楽の「四代目松本幸四郎」です。遊女の浮世絵も人気があったのだが、隠居をした老齢の泉光院ですから、歌舞伎役者で絶大な人気のあった繪にしました。

六日 晴天。今日出立の筈の處四つ時、殿様御用に付父子共々御殿へ罷り出る、予に琥珀御帶一筋、御菓子被下、倅長泉院へ唐扇一本、御菓子一包被下、御暇申上げ下る。御側衆を以て御禮申上げる。屋敷中暇乞に廻る。常中帶小倉地一筋調へる。

出発しようとしたらお殿様から呼び出しがかかってお餞別を下さる。琥珀織りの帯なんて畏れ多くて普段使いには出来ないから、普段用にに小倉の帯を一本買った。
琥珀織りは縦糸に細い絹糸を密に、横糸に太いのを粗く配して独特の輝きを作り出した織物で、西陣では今でも作っている。夏用の帯地として珍重されるというのだが、よそ行き用の極上等の品物。
小倉織は厚手木綿の堅牢な織物で、この帯地だと侍が大小二本を腰に差しても緩まなかった。夏目漱石の「坊ちゃん」ではいたずら生徒共がみんな小倉織の制服(といっても和服に袴だが)を着て登場する。質実剛健、普段着に最適のようです。

七日 晴天。御屋敷立、辰の半刻。品川宿外れ鮫津村明石家と云ふ迄新右衛門殿、岩之丞殿、和助殿、與力俊平及び倅長泉院上下九人見送らる。數盃傾け別れる。別れに付一句、
   なごり猶ならす扇に知らせけり
新右衛門殿一句、
   武藏鐙さすが名殘は惜しめどもとめ得ぬものは泪なりけり
岩之丞一句、
   旅衣ひとへに涼し鈴掛の錦の袖のかへるをぞ待つ
伊勢屋茂兵衛暇乞に遅れたりと此所迄追いかけて來り別れを惜しみ、風呂敷一つ餞別とて贈らる。又六七丁見送り掛茶屋にて別れる。合力平四郎と主従になる。長泉院は日光の方へ赴く故明日出立の筈、…

ようやく御屋敷を出発しました。
高輪付近地図
右上のほうに「佐土原屋敷」と入れたのが佐土原藩上屋敷のあった場所。現在は三井倶楽部である事は、No.218, 江戸着の項で書いたとおりです。
御屋敷の前の通りは「綱の手引坂」という名前の道で、平安時代の頃に「渡辺の綱」という武将がこのあたりで生まれたという伝説があって、綱が産湯を使った井戸というのがあったり、御屋敷とそのお隣のイタリア大使館の間の坂は綱坂というのがあります。
渡辺綱は、ある夜京都の一条戻り橋で美女に出会い、送って欲しいと頼まれて馬に乗せたら美女は鬼女と化したので、名刀髭切りの刀で片腕を切り落としたら鬼女は光を発して愛宕山の方に飛び去った。…という伝説の持主です。
綱の手引坂を下ると慶応義塾大学の図書館の所へ出ますが、道を渡って向かい側へ入ると「NEC」本社で、ここは薩摩藩の上屋敷だった所です。そこから東海道になるのでJR田町駅の前から高輪の木戸へと向かいます。
三井倶楽部庭園入口
左の写真は三井倶楽部の横から庭園の一部を覗いて見た所と、右が庭園の一部。少しは江戸時代の面影が残っているだろうか。
三井倶楽部庭園入口




左の写真、大きい木の向こうが三井倶楽部、佐土原島津家の上屋敷で、綱の手引坂を上がりきった場所。右が綱の手引坂の一番下です。
三井倶楽部綱の手引坂上三井倶楽部綱の手引坂下


ここからすぐ近くに慶応義塾大学の図書館が見えて、その道を向かい側にはNEC本社ビルがあるのです。
NEC本社田町
左がNEC本社ビルで、その下には右の「薩摩屋敷跡」の標石が置いてありました。
薩摩藩上屋敷跡NEC本社下

ワタクシの勤めていた会社はこの会社の系列だったので、ここの重役が社長になってくる事もありましたし、最後にここから来た来た社長は、TQC(全社的品質管理、総合的品質管理)などというものにすっかり凝ってしまって、新製品の開発努力、顧客との融和親善、社員との信頼関係構築、などといった新来社長としてやらなくちゃならない業務を何一つする事もなくて、組織を紙の上で、つまり、働く人間の事を何一つ知らないままに自分の頭の中で配置換え、つまり人事異動などをやったので、新製品開発からは遅れ、顧客からは見捨てられ、従業員はやる気を失い、結局は前の社長が築き上げた100億円余の資産を雲霧消散させてしまって、あげくの果てには会社を倒産させてしまったのでした。(会社が倒産してしまう前にワタクシは定年で退職金を頂き、さらには子会社への出向を二つもやりまして充分に頂けるものは頂きましたので文句を言う筋合いは何もありませんでした(笑)。)これは余分な事ではありますが、組織の長というものは、組織の内部の人間との信頼関係が大切です。社長であろうと総理大臣であろうと同じ事です。

泉光院は綱の手引坂を下り、薩摩藩上屋敷の前から東海道へ出て、西の方へ向かって歩き出しました。
江戸市中には町ごとに木戸が設けられ、それぞれに自身番を置いて防犯にあたっていました。高輪大木戸跡
都営地下鉄泉岳寺駅の真上に高輪大木戸が置かれていましたが、ここは東海道の玄関口として特にしっかり作られていたようです。右が高輪大木戸跡。


高輪風景
左が高輪付近を通る大名行列。
「お江戸日本橋を七つ(午前4時頃)
に出た旅人は、ちょうどこの高輪大木戸のあたりで明るくなるので提灯を消したといいます。



品川日之出保永堂版

こちらは廣重・「東海道五十三次之内 品川 日之出」の図。保永堂版です。

品川は江戸への出入口にあたるので送迎の者はここで別れを告げるのです。泉光院たちは鮫津村の明石家という料理屋で盃を傾けました。いまの南品川、京急本線の鮫津駅近くに鮫津公園というのがありますが、きっとそのあたりだったのでしょう。品川宿人物東海道

右は廣重の人物東海道シリーズの品川宿です。
品川では旅人の送迎でおおぜいの人が集まり、当然のことながら盃を酌み交わすことになり、酌をする女もはべることになって、吉原の「北国」に対して品川は「南国」と称されるようになりました。

廣重は生涯の間に20種類以上もの東海道シリーズを次々と描きましたが、一番有名なのはやはり初めて出版した「保永堂版」で、他には題字を隷書で書かれている「隷書東海道」、行書で書かれている「行書東海道」、美女を前面に描いて風景はその後に添えてある程度の「美人東海道」、とか、「張交東海道」、「人物東海道」、「竪繪東海道」など色々あります。泉光院はこれからしばらくの間東海道筋を歩きますから、必要に応じて出していきます。品川隷書東海道

右は隷書東海道、品川です。

近くには泉岳寺もありますが、No.141 江戸見物續々 の項で目黒あたりからここまで見物に来ているので先を急いでいます。

知友たちは品川のはずれまで見送りに出ます。最近は長旅に出るといっても誰も見送りには出ませんね。クルマに乗ってドアをバタンと閉めればそれでおしまい。
江戸時代だと江戸四宿、中山道なら板場宿、日光・奥州道中なら千住宿、甲州道中なら内藤新宿まで、みなさんお見送りに出てそこで惜別の宴をはる。東海道の旅客は一番多かったから品川宿はたいそう賑わった。鮫頭八幡弁天池

泉光院たちが宴をはったのは鮫津という村。むかし品川沖で鮫がとれて、その腹中から聖観音が出てきたのでそれを本尊にしたのが海晏寺で、鮫の頭は鮫津八幡に祀られた。右が鮫津八幡の弁天池。まわりには厳島神社や稲荷社、水神社、弁天社などの末社が祀られているのです。

…又六七丁見送り掛茶屋にて別れる。…
品川掛茶屋隷書東海道部分
明石家で別れの宴をはったのだがそれでもまだ別れるのはつらい、800mほども歩いて大森のあたりまで来てようやく別れることになった。こんな掛茶屋は道筋には幾つもあって、団子でも食べて別れる事にした。

…合力平四郎と主従になる。…

いよいよ旅の始まりです。
泉光院が江戸へ着いてから今日までの間、平四郎は別行動をしていたようだ。平四郎は自分勝手に托鉢をして歩いたり名所見物をしていたのかも知れない。
今日からは泉光院は主人であり、ここからの平四郎は帰国するまで泉光院に雇われて荷物を担いでお供をして後を追うのがお仕事。

…本街道を右に外れ池上本門寺へ詣づ。本堂八間四面。二つ共に赤銅瓦葺、五重の塔、鐘口差渡し七尺計り、位牌堂迄も皆赤銅葺、門前茶屋多し、日蓮の廟所も當寺にあり。門前に題目石高さ一丈二尺二本一所に立てり。…
池上本門寺五重塔桜

池上本門寺の五重塔です。
慶長十二年(1607)に二代将軍秀忠の乳母である岡部の局が、秀忠の病氣平癒のお礼として建てたもので、関東地方に現存する五重塔としては最古・最大の五重塔です。
池上本門寺梵鐘
この梵鐘は高さが2.25m、口径1.7m。巨大なものです。



髭題目石
左は髭題目石というものですが、殘念ながらこれは池上本門寺のものではありません。この特徴ある文字のはね方で書いてある「南無妙法蓮華経」を髭題目というのです。
日蓮宗のお寺には必ずといっていい程この髭題目石があります。
本門寺には高さが3.6mの大きなのが二本立っていた。
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2017.03.25 (Sat)

泉光院の足跡 220 江戸の住宅事情

廿四日 晴天。今日は愛宕山へ詣で、…

愛宕山は標高26mの小さな山だけれども目立つ山で、家康が征夷大将軍に任ぜられた慶長八年(1603)にこの山の頂上に愛宕神社を建てた。
祭神は、火の神(火産霊命・ほむすびのみこと)、水の神(罔象女命・みずはめのみこと)、山の神(大山祇命・おおやまつみのみこと)で、江戸を災害から守る神様たちだった。
愛宕神社男坂石段
有名なのは左の男坂、約40°、86段の急勾配を讃岐の藩士曲垣(まがき)平九郎が馬に乗って駆け上がり、社前に咲いていた梅の枝を折って三代将軍家光に賞せられた、という話がある。愛宕神社男坂見下ろし

この石段を上から見下ろすと怖いくらいの急傾斜。


愛宕神社女坂

右は女坂。こっちの方は石段が109段で少し傾斜が緩い。
今と違って廻りに高い建物は何もなかったから、房総半島まで見渡せた。
この神社の南側に、大正14年(1925)、JOAKが本放送を開始した愛宕山放送局があった。いまはNHK放送博物館になっている。

JR山手線新橋駅の西側の烏森神社からこの愛宕山の界隈はたいていのサラリーマンには懐かしい場所であろう。
烏森神社
虎ノ門周辺にあるたくさんの「お役所」への通り道、その途中にある大きいビルや小さいビルにはお役所の「出先機関」のわかりにくい入口があって、ようやく捜し当てて、用意の書類を提出しても不機嫌な顔つきのお役人に適当にあしらわれるのがオチである。
民間の会社に勤めていても、お役所とのつながりは避けられないし、このあたりをウロウロした経験はみなさんお持ちだろう。このあたりには小さな飲み屋がたくさんあって、出張の仕事をどうやら終えてここを通れば、ワタクシの様なヒラ社員は、お役人とつるんで利権にありつく様なオイシイ仕事とは縁がなくて、もっぱら身銭を切って悲憤慷慨、苦いお酒を飲んで帰途につくのでした。
それはともかくとして、

夫より神田雉町と云ふに快長院といふ山伏に用事あり尋ね行きたる處、當時小石川と云ふ所へ宿替えし居るゝ由承る、其跡に居る人も山伏の様見へたり、三枚敷きの裏家也。江戸中山伏は皆々此様なる住居也。
長屋外部
神田雉町という町は最近の地図では消えてしまっているけれども、一ツ橋と竹橋の間の所に雉子橋というのがあって、今の共立女子大学のところから水道橋への広い道が雉子橋通りといいますから、快長院という山伏が住んでいた長屋はきっと神田神保町あたりだったのだろう。

江戸の庶民はみな棟割り長屋で間口九尺・奥行二間、右の様な家に住んでいた。
長屋内部九尺二間
その内部は左のよう。

戸を開けて入ると三尺の土間があって、続いて四畳半の畳がある。
土間の所に「へっつい (かまどの事です)」と水桶があって米櫃と漬物桶を置いて、流しがあれば何とか煮炊きが出来る。これで店賃(たなちん=家賃です)は530文程。大工などの出職の日当もほぼ530文程だから、一日の日当で一ヶ月の店賃が払える。蕎麦や汁粉が16文で、銭湯は大人10文で子供は6文。だから仕事さえあれば親子5人が暮らせた。江戸は発展途上の町だから仕事はいくらでもあって、ぶらぶらしていると大家さんが仕事を持ってきてくれた。だから「宵越しの銭は持たねぇ…」でも暮らせたのでした。江戸の長屋井戸と便所
トイレ(むこう)と井戸(手前)は共用で長屋の人たちみんなで維持をする。屎尿は肥料ですから近隣の農家が取りに来て若干の代金(たいていは農作物、大根や菜っ葉である場合が多いのですが)は大家さんの取り分になります。江戸時代は徹底したリサイクルの社会で、ゴミとして捨てる物などはありません。古着でも書き損じの紙でもみんな利用出来るし買い取ってくれる場合もあります。いつも落語で申し訳ないが、屁でも肥やしになる、という社会です。

しばらくぶらぶらして過ごします。
廿五日 同天。滯在。與力郡司俊平と云ふに呼ばれ行く。
廿六日 同天。先日より杜鵑晝夜頻りに鳴くを聞きて、
   時鳥頻りに告ぐる歸郷哉
廿七日 廿八日 無事。滯在。

ホームシックにかかったのでしょうか、泉光院が鳥のことを書くときホトトギスしか出てこないのです。雀が鳴こうが百舌が騒ごうが目白が囀ろうが、すべて子規(これも不如帰もホトトギスです)が鳴いたことにしているようだ。これは古今和歌集の影響が甚大なのです。泉光院は「古今伝授」の出来る資格も持っているようなのです。

廿九日 晴天。晝時より御殿へ上り候様御使あり上る。奥様御上りあり、右に付回國の話申上ふる様仰出され、異事珍物名所等御話申上げ夜に入り御暇下され歸宅。

奥様や御姫様、奥のお女中達に夜になるまで回國のお話を申し上げた。…異事珍物名所…など珍しい話ばかりです。きっと喜んでもらえたことでしょう。何しろ彼女たちは江戸の町ですらほとんど出歩かないのだし、つきあう人の範囲だってごくごく限られている。
ラジオやテレビ、週刊誌、CD、DVDなどと言った物は一切ないのだし、御屋敷に出入りする貸本屋だっていつも同じような本ばかりしか持ってこない。芝居を見に行くといっても浅草あたりまで行かなくちゃならない。泉光院の語る珍しい話は最高の娯楽。夜になるまで離してくれなかった。

五月朔日 晴天。 此間内々被仰付置候御祈祷の儀、來る三日吉日に候間御祈禱仰付けらるゝ旨御側用人より手紙來る。
二日 晴天。右御祈禱被仰付候に付供物等入用の品書付差上る。
三日 晴天。去歳の通り牡丹の間といへるにて終日修法相勤める。晝時より御料理被下、奥様御姫様御兩所様御加持差上る。

この霊力ある修験行者が江戸を離れる前にもう一度、佐土原島津家の隆盛発展と殿様である島津忠徹様の武運長久を願って御祈祷をして貰うような口約束があって、それが正式に文書で依頼が来たようだ。午前中は去年と同じ牡丹の間で護摩修法をして、お昼ご飯が出て、午後は奥様と御姫様のご健康を願って加持をしてさし上げる。

泉光院が健在な間は佐土原島津家も安泰でした。
ところがもう今から10年程も前の事になるでしょうか、ワタクシがたまたま東海道草津宿の田中七左衛門本陣(草津宿に今も残る本陣です)へ行ったとき、ここで驚くべきものを発見してしまったのです。
ここで私が発見したのは、天保十年(1839)四月、参勤交代の途次、佐土原城主島津忠徹がここで病気で死んだことです。
享年43歳。野田泉光院が仕えたお殿様です。
草津本陣上段の間

左が草津宿の田中本陣、上段の間。
この部屋で死んだのです。

泉光院が帰国したのは文政元年(1818)の十一月で、歿したのは天保六年(1835)一月、80歳の時でした。もし泉光院がもっともっと長生きして、殿様の無事息災の御祈祷をやっていてくれたらなぁ、などと無理なことを思ったりしたのでした。
田中七左衛門本陣の玄関の間、入ってすぐの左手の壁に、この本陣で起こった主要な出来事の年表が貼りだしてあったのの中にあった、一行の記事をワタクシは目ざとく見つけたのでした。
草津本陣門

右は草津宿、田中七左衛門本陣の門です。もしワタクシのブログをお読みになって、興味を持たれた方がございましたら、草津宿を通りかかった折にはこの門を入って、玄関の間へ入ってすぐ左の壁の上部をご覧になって下さい。
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