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2018.04.19 (Thu)

泉光院の足跡 300 明日香村

…夫より壺坂西國札所へ詣納經す。本堂南向、八間に五間、佛壇六角堂也。三重の塔、外に堂あり。奥の院石佛自然の五百羅漢あり。…
壺阪寺堂塔
茅原寺の次に壺阪寺へ来ました。ここは西國觀音札所第六番、正式には南法華寺といい、白鳳時代の創建と伝わっている。このお寺は人形浄瑠璃『壺坂霊験記』の「お里澤市」の物語で有名です。

「三つ違いの兄(あに)さんと、いうて暮らしているうちに、情けなやこなさんは、生まれもつかぬ疱瘡で、眼界の見えぬその上に、貧困にせまれど何のその、いったん殿御の沢市さん…」
壺坂霊験記のさわりの部分です。美人のお里は盲目の沢市と夫婦で仲良く暮らしていたのだが、お里は沢市の眼を治してやりたい一心で毎晩壺阪寺の觀音様に祈願をかけているのです。
壺阪寺千手観音

左は壺阪寺の觀音様。十一面千手千眼觀音です。

ところが沢市は毎晩寝床を抜け出していなくなるお里に、男でも出来た?…と疑うのです。
それを知ったお里は驚いて、なんで私がそんなことを、と、実情を話すのでした。
沢市は貞節な妻を疑ったことを詫びて、お里のすすめで沢市も觀音様のところへ行きますが、ここで沢市は、自分の目はもう治る見込みがないと考え、自分のような者がいることでお里に苦労ばかりかけて、と自殺を考えるのです。壺阪寺お里沢市
沢市はお里に、三日間の斷食祈願をするから、といってお里に家へ帰って支度をするように言い、お里がいなくなった頃を見計らって断崖から身を投ずるのでした胸騒ぎを感じたお里は引き返すと崖っぷちに沢市の杖が落ちていて、谷底に落ちている彼を見つけて自分も谷底めがけて飛び込むのでした。
壺阪寺三重塔

この人形浄瑠璃を見に来ている観客はここで、二人はあの世で睦まじく暮らすのだろうなァ、などと思うのですが、舞台はここで突然觀音様が現れて二人を生き返らせ、沢市の目が見えるようにしてあげました。メデタシメデタシの物語です。
右は壺阪寺にある二人の像。

千手觀音の掌には一つずつ眼がついていて、その眼で困っている人を見つけて手をさしのべるのです。壺阪寺の觀音様は眼病に霊験あらたかだと信じられています。

そこから1kmほど高取山の方へ向かうと山腹の岩肌にびっしりと刻んだ五百羅漢があります。

壺阪寺五百羅漢
毘沙門天や二十五菩薩や大日如來なども刻まれていたり、さまざまな佛たちがいらっしゃいます。
壺阪寺へ行った事のある人は、あのお寺はお金儲けがやたらに目に付くのでイヤだ、とあまりよく言いません。インドから贈られたという大きな觀音石像や、釋迦涅槃の像があったり、ちょっととまどうお寺です。もしこのお寺へ行ったらそういうのは適当にあしらっておいて、左の五百羅漢がいっぱい居る所まで歩いて行って、磨りへった羅漢サンの頭を見て、自分によく似た人がいるかどうかゆっくり見ることにしましょう。




…夫より橘寺へ詣納經す。此所は聖徳太子御誕生の地也。夫より岡寺へ詣づ。西國札所也。納經す。本堂南向、七間に六間、諸堂あり樓門二王を安置す、寺一ヶ寺。…

山を下りると明日香村といわれているあたりになります。今だと高松塚古墳、石舞台古墳、亀石、猿石、鬼の俎・鬼の雪隠、酒船石、etc 
此所には不思議な石造物や、天武・持統陵その他、見るものがいっぱい、という感じです。
甘樫丘に登れば畝傍山・耳成山・天香具山の大和三山が望めて、万葉の歌人たちのことが偲ばれます。

大和三山甘樫岡より

甘樫丘から大和三山展望。一枚の画面に三山全部を入れるので遠く小さく見えるだけです。
左端の山が畝傍山199m。真ん中の三角形が耳成山139m。手前の草むらが邪魔になるのだが右の山が天香具山152m。

万葉の歌人たちの歌、中でも中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の
「香具山は 畝火を愛しと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬を あらそふらしき」 万葉集巻1/13 
読み仮名をつけておきます。
(かぐやまは うねびをおしと みみなしと あいあらそいき かみよより かくにあるらし いにしえも しかにあれこそ うつせみも つまを あらそうらしき)
この歌は、大和三山を恋の三角関係と見立てたようです。
中大兄皇子と弟の大海人皇子(おおあまのみこ)の、額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐっての恋争いを、大和三山に託して歌ったという説もあります。額田王肖像a

万葉の頃は、天香具山と耳成山は男神で、畝傍山は女神とされていたようです。
右は額田王として知られている絵の一部。

泉光院の頃には今のように「発掘調査」などということは盛大に行われてはいなかったので、彼はここでは橘寺と岡寺だけしか詣っていませんが、ワタクシは初めての奈良の時も、世界遺産研究の会でのツアーの時も、このあたりはよく歩いたので、その時のことも一緒にして佛教伝来の頃のことを書いてしまいます。

甘樫丘を下るとすぐに飛鳥寺です。
蘇我馬子の発願で推古四年(596)に完成した日本初の本格的寺院で、塔を三つの金堂が取り囲んでいる大寺でした。
その後、蘇我氏の氏寺から官寺の扱いを受けるようになり、天智・天武・持統朝と引き続いてさまざまな法会が行われるようになった。中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠をして親交の縁となった場所でもあった。
飛鳥寺復元図飛鳥寺配置図

左は飛鳥寺復元図。左は配置図。
塔を三つの金堂、西金堂・中金堂・東金堂が塔を中心にしてとり囲んでいて、全体を廻廊で囲っていた。

平城京遷都に際して、養老二年(718)に平城京に移されて元興寺となったけれども、飛鳥のこの場所のお寺はそのまま「本(もと)元興寺」として残された。
しかし建久七年(1196 鎌倉時代)に雷火のために堂塔残らず焼失、本尊は佛頭の一部と手の指3本が残っただけだった。

その後、飛鳥寺跡の、中金堂のあった場所に、江戸時代、安居院というのが建てられていて、そこに飛鳥寺の本尊であった釋迦如來坐像が、飛鳥大佛として復元されて鎮座している。
飛鳥寺入口

飛鳥大佛を見ましょう。右の写真、世界遺産研究の会のツアーで飛鳥寺(安居院)へ行ったときのこと、ちょうどイベントがあって「飛鳥大佛」の石碑の横に看板が立てられていました。

飛鳥寺本堂

もと中金堂のあった場所にいまの飛鳥寺の本堂があります(左)。この中に飛鳥大佛が入っていました。飛鳥寺飛鳥大佛

法隆寺の釋迦三尊像に共通特色の見られる止利様式の佛像です。



本堂のすぐ前に「塔跡」の礎石もあったのだが写真を撮り忘れてしまったらしい。



飛鳥寺のすぐ西に、蘇我入鹿(そがのいるか)の首塚というのがあった。

蘇我入鹿首塚と甘樫丘蘇我入鹿首塚


左の写真、向こうの丘が甘樫丘。
前に見える五輪塔がその首塚。
右がその近接写真。

蘇我氏の大邸宅はこの付近に拡がっていたようだ。推古30年(622)。それまで政権を掌握していた厩戸皇子(聖徳太子)が死んで、大豪族蘇我氏を抑える者は居なくなってしまって、その権勢は天皇家を凌ぐ程になった。推古天皇も後継者を指名しないで死んでしまうので、その跡目争いが起こるのは当然のことです。そこで中大兄皇子を首謀者とする乙巳(いっし)の変というのが発生して、蘇我氏が滅ぼされ、、大化の改新へとつながっていくのです。
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2018.04.16 (Mon)

泉光院の足跡 299 當麻寺

法隆寺の参詣を済ませて泉光院は當麻(たいま)の方へ行きます。二上山の麓です。
二上山落日
かっては「ふたかみやま」と呼ばれた山です。
雄岳](515m)と雌岳(474m)が寄り添うように聳えています。
大和の平野から見ると「陽が沈む山」である二上山は、後には西方浄土信仰と結びついて、聖なる山として崇められてきました。
大和のどこからでも際だって見える美しい姿の山です。二上山夕景

早春にはアセビ、春には櫻、新緑の頃は山ツツジ、初夏にはアジサイ、秋には萩、と四季おりおりの花に彩られます。

「No.286 廿五菩薩来迎會式」の項で中将姫の略歴を書いておいたのでしたが、その後のことを書きます。

父と再会した中将姫は、尼になる決心をして當麻寺で三日間お経を唱えていたところ、奇跡が現れて尼になることが許されます。
26歳のとき、もし佛がこの世にいますならば目の前に現れたまえと三七日(さんしちにち=21日)祈ったところ、最後の晩に老尼が現れ、百駄(馬百頭の荷)の蓮茎を集めてその糸で曼荼羅を織ることを命じます。
當麻寺曼荼羅厨子
集めた蓮糸を石光寺(染井寺)の井戸へ入れいるとたちまち五色の糸に染め上がり、実は阿彌陀如來の化身である織姫が現れて、手伝って一夜で一丈五尺の曼荼羅を織り上げました。

左が曼荼羅の入っている御厨子で右が曼荼羅。
當麻寺曼荼羅

この曼荼羅は、西方浄土阿彌陀如來が菩薩を従えて極楽浄土へ衆生を導く図で、當麻寺の本尊になっているのです。


その12年後、阿彌陀如來が25菩薩を従えて現れ、中将姫を西方浄土へと連れて行った、というのがその後の中将姫伝説。この伝説は謡曲や浄瑠璃となって広く巷間に流布しました。

泉光院です。

…夫より當麻寺の方へ赴く、先づ染井寺へ詣づ。此処は中將姫曼荼羅を織り玉ふ時蓮の糸を染玉ふ井戸也。夫より當麻寺へ詣納經す。本堂東向十間四面、是彌陀曼荼羅堂也。外に諸堂あり、塔二つ、中興行者開基の所也。樓門二王を安置す。奥の院に圓光大師也。門前町少々あり。…
石光寺
左が石光寺。染寺とも、染井寺とも言います。
今も境内にはその井戸が残っています。
そこから徒歩10分位で當麻寺です。

右が當麻寺の東塔と西塔。
當麻寺東西塔


平家が攻めてきたときにはこの両塔は難を逃れました。奈良にはかっては東西両塔を持つお寺は、薬師寺を始めいくつかあったのですが、創建期のま双塔が残っているのはこのお寺だけです。国宝指定となっています。

當麻の地は古代の豪族當麻氏の本拠地でした。
ヤマト王権はこの當麻の地を手に入れるために、やはり力比べをしたことが『記紀』に記載されています。
11代垂仁天皇の時、天皇はこの地に當麻蹶速(たいまのけはや)という勇猛な力自慢がいると聞いて、出雲國の強力、野見宿禰(のみのすくね)と闘わせた。両者互いに蹴り合い、野見宿禰が當麻蹶速のあばら骨を折り腰の骨を砕いて殺してしまった。垂仁七年七月七日のことだと記録されています。そしてこの二人が「相撲」の元祖だとなっています。
天皇は、當麻氏からこの土地を取り上げて野見宿禰に与え、彼は出雲國には帰らずにここで天皇に仕えることになった。このようにしてヤマト王国はここでまた(オオクニヌシから出雲の地を取り上げたように)領土を拡張したのでした。
當麻寺中将姫練供養稚児行列
當麻寺で5月14日に行われている練供養會式です。
聖衆来迎して中将姫が極楽往生したという伝説を再現する行事です。
本堂を極楽浄土、東の娑婆堂を人間界に見立てて、両堂の間の板橋を、二十五菩薩の仮面をつけた人が練り歩きます。こちらは稚児行列のようですね。當麻寺中将姫


右は蓮池に浮かぶ中将姫像。左は當麻寺付近の風景。

當麻寺風景



…夫より金剛山へ赴く、ナガラと云ふ所にて夜に入る。道に森脇と云ふ村あり、此村にて六部死し同行十六七人程集り居る山道にて聞きたり、然る處一人の男子此宅へ立寄り玉へと云ふ、何事かと存ずれば我々共を天蓋同行ならんと見違へ、笈等を改めたれど別格の者なれば不調法の段を斷り御免とて歸る。因て初夜頃にナガラ村に着く、庄屋付ならでは宿なしと云ふに付庄屋宅へ行き宿貰ひ堺屋と云ふに宿す。庄屋發句あり別書に記す。予も一句、
   指圖ある情けの奥や薰る風
廿四日 晴天。ナガラ宿より金剛山に登る。五十丁に本堂、法喜菩薩、南向、燒失故今假堂奥の院宮一宇、寺中多し、大宿坊にて納經。麓ナガラへ歸り、夫より八旗八幡へ詣づ、高野街道三在村と云ふより一里西山の手の小社、納經す。三軒茶屋桝屋と云ふ善根に宿す。
金剛山

金剛山の遠望。
二上山から南へ下った金剛山脈の主峰1125mです。
山頂には葛城神社があるようだ。


廿五日 晴天。三軒茶屋立、辰の上刻。茅原寺へ詣づ、茅原山金剛壽院吉祥草寺と云ふ。當所は神變菩薩誕生の地也。本堂觀音、神變菩薩堂、都藍尼堂、産湯の池、神仙山、香精水湧き出たりと云ふ井あり。…
吉祥草寺

右が茅原山吉祥草寺の本堂。
ここは役小角(えんのおづぬ)誕生の地と伝えられ、本堂には五大尊が祀られています。
五大明王ともいい、中央が不動明王、東・降三世明王、南・軍荼利明王、西・大威徳明王、北・金剛夜叉明王が左の図のように配置されます。
吉祥草寺五大尊


右が行者堂にある役小角自作の役小角像といわれているもの。
役小角は奈良時代にここで生まれ、金剛山で修行をして孔雀明王を感得し、熊野や大峯などでも修行をして、修験道の開祖とされた人です。吉祥草寺役小角像
前鬼・後鬼という夫婦の鬼(右の写真に少しだけ写っています)を駆使して活躍したのだが、妖術を使って人心を惑わす、とか、天皇を殺そうとしたという謀反の疑いをかけられて、AD699年(文武三年)五月二十四日(ずいぶん詳しく日付まで記載されている!)伊豆の大島に流罪になった。この頃、夜になると空を飛んで富士山で修行を重ねたというのだが、それはあてにならない。
のちに(701年)疑いが晴れて茅原に戻ったのだが、その年に箕面の天井ヶ岳で死んだ。
死後1100年経った江戸時代の寛政十一年、光格天皇が役小角に神變大菩薩(じんべんだいぼさつ)という諡(おくりな)を贈った。
これが大雑把な役小角の略歴です。
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2018.04.13 (Fri)

泉光院の足跡 298 中宮寺

法隆寺の東院伽藍の裏手から中宮寺へ行くことができました。
中宮寺入口


半世紀前の中宮寺門前です。写真のつなぎ方が下手なのですが、その頃はこんな具合でした。正面の寺務所で案内を請い、右手の門から入れて貰いました。
中宮寺菩薩半跏像左
京都広隆寺の「彌勒菩薩像」とともに有名な「菩薩半跏思惟像」はいちばん右に見えている屋根の建物に入っていました。ワタクシは始めて奈良へ来てこの像と対面した時以来ずっと行っていないのですが、昭和43年だかに高松宮妃が鉄筋コンクリの本堂を寄進してその中に入れたらしいし、超有名な佛像ですから観光客は引きもきらず、という情況だろうと思います。
中宮寺彌勒菩薩


和辻哲郎が「聖女と呼ぶに相応しい」と言ったようにとても美しい佛像です。
歌人會津八一は『南京新唱』の中で、

  中宮寺

 みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の 
 あさ の ひかり の ともしきろ かも

と歌い、この像について実に長々しく注を書いています。
「ともしきろ」という言葉は今の私たちには馴染みのない言葉ですから解説を引用しておきます。

… ともしきろかも かそけくなつかしきかな、 といふほどの意。「ろ」は意味なき助詞。『万葉集』には「悲しきろかも」、「尊きろかも」、「乏しきろかも」などあり。またこの歌は、この半跏思惟像の一種微妙なる光線の半影を詠みたるものなれども、この光澤は近時この寺の尼僧たちが、布片などにて、しきりに佛身に拂拭を加ふるために、偶然に生じ來りしものにて、製作の最初には、かかる光澤は期待されざりしなり。 …」と書いていて、この像の最初の姿は全身に金箔を貼り、頭部には寶冠、胸には瓔珞、両臂両腕には釧鐶、と、普通の菩薩像だったであろうと言っています。
菩薩半跏像東博
左は東京国立博物館蔵の小さな金銅佛ですが、中宮寺の菩薩半跏思惟像も当初はこのようなスタイルだったようです。
半跏思惟像ソウル国博

また、この像を一時期「如意輪觀音」と言っていたこともあるのですが、この像が造られた頃にはまだ日本には如意輪觀音の造形儀軌も伝えられてはいないし(つまり密教伝来の頃でないと如意輪觀音像は日本には伝えられてはいなかったので)、またある時期、彌勒菩薩像と言っていましたが、それは朝鮮半島ではこのような形の佛像を「彌勒菩薩」と言っていたので(右はソウル国立博物館所蔵)、日本でもこの形の菩薩半跏像を「彌勒菩薩」と呼んでいる場合が多いのです。


法隆寺、そしてこの中宮寺の時代に日本に伝えられた佛像の様式は、日本では「飛鳥様式」といっていますが、中国の「北魏様式」が朝鮮を通じてもたらされたもので、細面(ほそおもて)の端正な顔つきです。法隆寺金堂の釋迦三尊像のように渡来人による作品がその代表的なものでしょう。だが日本人の工人の手によって造られるようになると次第に美しい姿になっていきます。
日本人の美意識は、穏やかな気候や四季の移りかわり、緑豊かな山林や、つまり一口で言ってしまえば、日本の国土特有の「花鳥風月」、こういうものに囲まれているうちに日本人全体の共通認識として自然発生してきた感覚なのかも知れない。ワタクシは殆ど外国を知らないのでこういう大きな問題にはふれないでおきましょう。
法隆寺柿食えば

斑鳩の地を歩くとき、いまでもこのような風景に出会うことがあります。

   柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

と自然に口から出て来ます。若いときに桑原武夫の「第二芸術論」などにかぶれてこういう文学には親しみがなかったけれども、いつの間にかワタクシの頭の中にも入ってしまったようだ。

泉光院は法隆寺で詣納經をしてからすぐ當麻寺へ行くつもりで二上山の方へ向かいますが、せっかくですからもう少し斑鳩のお寺を見ておきましょう。
中宮寺を出て北の方へ行くと次は法輪寺、法起寺。
法起寺遠景

右はもう半世紀以上も前にワタクシが写しておいたものです。
向こうに見える塔は法起寺の三重塔。
こういう風景を眺めながらお寺を訪ねる旅は楽しい。




法輪寺講堂

左が法輪寺の講堂。
法輪寺には、法隆寺五重塔・法起寺三重塔と並んで「斑鳩三塔」と呼ばれた白鳳時代の塔があった。その塔は昭和19年に落雷で焼失してしまったので、ワタクシが行ったときには講堂だけしか残っていなかったのだが、このお寺は法隆寺と同じような伽藍配置だったのでした。
法輪寺三重塔
昭和50年に、作家の幸田文さんらの努力によって三重塔が再建されたので写真だけを右に載せておきます。


佛像も見ておきましょう。
法輪寺虚空蔵菩薩立像
法輪寺藥師如來坐像


左、法輪寺、虚空蔵菩薩立像
右、藥師如來坐像。
どちらも飛鳥佛の特徴がよく出ている像です。


法起寺菩薩立像法起寺菩薩立像部分


こちらは法起寺のちいさい菩薩立像。
これも飛鳥時代の佛像。


法輪寺・法起寺両方とも天平時代の立派な佛像もあるのですがそれは次の機会にしておきます。
飛鳥佛というととうしても法隆寺・中宮寺のものが主になってしまって、法起寺・法輪寺へ行かないようですが、忘れずにここまで行って、最後に慈光院へも立ち寄ってお茶をいただき、庭園を眺めて一日の旅の終わりを締めくくることにしましょう。
慈光院庭園a

慈光院庭園です。ツツジの大刈り込みが見事です。
左はワタクシが行ったときの写真。下駄を出してくれて庭園を自由に散策出来ました。
慈光院庭園b

右は2018年4月11日、朝日新聞夕刊に載っていた写真です。庭園の様子は殆ど変わっていないようです。
でも下駄を履いて庭園を自由に散歩させてくれるでしょうか。
14:30  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2018.04.05 (Thu)

泉光院の足跡 297 玉虫厨子

法隆寺には聖徳太子由来の宝物がたくさんあります。
法隆寺聖霊院
初めて行った時は左の写真、聖霊院の建物の前を通って宝物館へ入ったのでした。
その後大寶藏院という新しい建物ができて主な寶物はみんなそこへ納められて展示されるようになりました。
一時期、奈良国立博物館に百済觀音が展示されていた時がありましたが、それは大寶藏院が出来てそこへ百済觀音を納めるまでの一時的なことだったようです。
新しくできた大寶藏院へ入ってみましょう。
右が新築間もない頃の大寶藏院。
法隆寺大寶藏院外観
入口から時計回りに、金堂壁画(模写)、夢違觀音、玉虫厨子、正面奥に百済觀音。次に橘夫人鮨、百万塔といったものがあり、金銅佛や塑像、絵画、刀剣、染織、といったこまごまとしたものも同時に見ることが出来るようになっている。
さすが國寶・名寶ぞろいです。
法隆寺夢違観音

夢違觀音という謎めいた名前の觀音菩薩立像。
7世紀頃に作られたらしいこの優しい顔立ちから、悪夢を善夢に変えて下さる、という信仰が生まれたらしく、この佛像が立っている蓮華座(足の下の土台)は元禄七年(1694)に江戸の太子講の人々がこの像のために作って奉納したのだが、その頃には夢に関して霊験のあることが知られていて、「夢違觀音」の名前が付けられていたということです。

右は玉虫厨子。法隆寺玉虫厨子

金銅飾り金具の下に玉虫の羽を貼りつけて飾ってあるので玉虫厨子というのだが殆ど剥落しているようだ。
内側の右側面には「捨身飼虎圖」、左側面には「施身問偈」という図が描かれている。
両方とも「本生図」。、すなわち釋迦の前世における善行の物語です。

法隆寺玉虫厨子捨身飼虎図
左は捨身飼虎圖。
マカサッタ王子が2人の兄とともに山中に狩りに出かけ、7匹の仔を生んで親子共々餓死しかかっている虎に出会う。これを見た王子はこの虎を救おうと決意して、恐怖する兄たちを帰し、この絵の一番上に書かれているのは、自ら高所に登って着物を脱いで木の枝に掛け、真ん中の絵の所で虎の前に飛び降りている場面、そうして一番下の絵では、飢えた虎に食われている場面。この時天地は王子の行いに感動して鳴動賛嘆し、この王子は後に生まれかわってお釋迦さまになるという説話。

「施身問偈」という説話は、雪山(ヒマラヤ)で修行をしていたバラモン僧が、あるとき山中で怖ろしい姿の羅刹に出会ったのだが、「諸行無常、是生滅法」の二句を唱えるのを聞いて、残りを是非聞きたいと願う。それを聞いたらお前は死ぬぞと羅刹に言われるのだが、もし聞くことが出来れば命は惜しくない、といい、残りの二句、「生滅滅已、寂滅為楽」を聞いて岩に書き付けて、こうしておけば後世の誰かが知るだろうと言って羅刹に命を与えようと崖の上から飛び降りる。所が実はこの羅刹は帝釈天であって、そのバラモンは釋迦の前世であった、というのです。
弘法大師はこの句をわかりやすいように、「いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐのおくやかけふこえて あさきゆめみしえひもせす」と日本語に訳した、ということになっています。

法隆寺橘夫人厨子
右は橘夫人厨子。
橘夫人ってどんな人だか知らないのですが(光明皇后の母だともいわれている橘三千代?)、この厨子を寄進した人だそうです。
法隆寺橘夫人厨子菩薩像
扉には実物は殆ど見えないらしいのだが、右のような觀音と勢至(だと思う)の2菩薩像が描かれています。
厨子の中には橘夫人の年持佛と伝えられている阿彌陀如來と兩脇侍が納められています。当時の最高技術を駆使した品物のようです。

いよいよ百済觀音の名前で知られている觀音菩薩立像です。

この像は大寶藏院の一番奥の中央に立っていらっしゃいます。
法隆寺百済観音三態
百済觀音三態です。

この像はしばらくフランスはパリで展示されていて、1995年に帰国してからも大寶藏院が出来るまでの間奈良国立博物館で展示してありました。
博物館正面入口を入って真ん中の広間にガラスケースに収まっていたので、このようにいろんな方向から見ることが出来ました。
その時のことを思い出したので三態の写真をまず載せておきます。

普段薄暗いお寺の中でしか見ることの出来ない佛像と違って、明るい会場で、身体の隅々まであらわになった佛像を見るのはちょっと気恥ずかしい気持ちでありました。

もう少しこの佛像の像を載せておきましょう。
法隆寺百済観音全身正面
法隆寺百済観音お顔法隆寺百済観音水瓶を持つ手

水瓶を持つ手、
お顔、
正面全身像です。


飛鳥時代に作られた像です。乾漆がかなり剥落しているのだがお顔の輪郭や水瓶を持つ指先の柔らかで優美な曲線は美しいですねぇ。
14:02  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2018.03.30 (Fri)

泉光院の足跡 296 法隆寺の金堂と塔

一つずつゆっくりと見ていきます。まず金堂。
法隆寺金堂

法隆寺は昭和9年から約半世紀かけて「昭和の大修理」が行われていました。
その途中、昭和24年の1月26日、壁画の模写作業をしているときのこと、早朝に初層内部から出火して柱と壁画が燃えたのでした。
彫刻や一部の小壁画は別の場所に収蔵されていたので無事だったのでした。

納められている佛像は、釋迦三尊像、薬師如来像、四天王像など。

中へ入りましょう。
法隆寺金堂内部法隆寺金堂釋迦正面s



まず目に付くのは釋迦三尊像。
左が横から、右は正面から。

日本の佛師によって佛像が制作されるようになったのは物部廃佛派と蘇我崇佛派の抗争で崇佛派が勝利を収めた頃と考えられ、佛像制作の創生期に活躍したのが、この釋迦三尊像の制作に当たった止利佛師とされています。
法隆寺釋迦三尊

そしてこの釋迦三尊像は日本に於ける最初の佛法の理解者と考えられてる聖徳太子の冥福を祈るために、推古31年(623)に制作されたのでした。

この時代の日本の佛師が佛像制作の参考にしたのは北魏時代の雲崗や龍門の石窟の佛像だったようです。
右がその一例、龍門石窟寶陽洞の本尊。法隆寺龍門石窟寶陽洞本尊

敦煌から雲崗、樂浪、そして朝鮮の慶州、と、佛像の辿ってきたあとを見て行くと、次第に洗練されていく様子がうかがえてとても面白い、といいますが、ワタクシには判らぬことばかりですので省略します。

法隆寺金堂釋迦顔

お釋迦様のお顔です。
慈愛にみちたお顔ですね。
法隆寺金堂藥師如來顔


右は藥師如來のお顔。
優しいお顔です。







法隆寺金堂壁画焼失前

金堂の周囲の壁面には繪が描かれています。
左が焼失前の壁面の様子。
西側(6号壁)の阿彌陀浄土です。
法隆寺金堂壁画6号壁阿彌陀浄土













阿彌陀如來と、両側の脇侍、觀音菩薩と勢至菩薩が描かれています。


法隆寺金堂壁画6号壁觀音頭部

右の繪は左側の脇侍、觀音菩薩の頭部です。
右側に描いてるのですが、阿彌陀様からみれば左の脇侍にあたるわけです。
この脇侍の繪は金堂壁画中最も美しいといわれているのでのせておきました。

法隆寺金堂1号壁画釋迦淨土


東側(1号壁)の釋迦如來淨土。


法隆寺五重塔

法隆寺の五重塔です。

金堂も五重塔もその姿は1200年前の建築当時と殆どかわらない姿を見せてくれています。長年月の間に何度かの修理をうけて、元禄時代の修理では多少変わったところもあったようだが、昭和の修理では当初の姿に復元されました。美しい姿です。





法隆寺廻廊エンタシス




廻廊をめぐりながら何度もこの塔と金堂の姿を眺めていたのでした。
人のいない法隆寺の境内なんて、今では考えられないのですが、その頃はこんな写真が写せたのです。
塔の南北の扉も開けてありましたし、ゆっくり見ることも出来ました。
法隆寺五重塔構造
法隆寺五重塔釋迦涅槃塑像


五重塔の断面図(左)。
塔の内部にはお釋迦さまにちなんだ話が塑像で作られています。右は北面の釋迦涅槃の光景。おおぜいの人が釋迦の死を嘆き悲しんでいます。
東面は維摩と文殊が問答をしていて、それに聞き入る聴衆たちの場面。南面は彌勒菩薩の淨土。西面は釋迦の舎利(遺骨)を分配している場面が作られています。
これらは和銅四年(711)に作られたのがほぼそのまま残っているようです。

今こうして昔写した写真を見ながらブログを書いていると、その時の感動がワタクシの心の中に蘇ってくるようで、時間の経つのも忘れてしまいそうです。
その頃は、写真の現像は勤め先のワタクシの部屋のすぐ近くに暗室があってそこで全部自分で写真の処理をしていたので、あまり上手な仕上げではないのだが、それでも人の写っていない法隆寺の写真が手元に残っているのはウレシイ。
法隆寺伽藍配置昔
建築当時の西院伽藍の配置は右の図のように金堂と五重塔が廻廊に囲まれていて、大講堂は廻廊の外になっていたのだが、延長三年(925)に大講堂が焼けて、
法隆寺伽藍配置現在
正暦元年(990)に再建されたとき左の図のように大講堂は元の所に建てて、廻廊を「凸」形に曲げてその角にあたるところに經藏と鐘樓を建てて現在のような形になった。

始めてここへ来た時は全く不勉強で、というより、ただただ感嘆の声を上げていたばかりでしたが、その後だいぶ経ってから岩波書店から『奈良六大寺大観』。そのあとで『奈良の寺』(全21巻本)が発売されて、飛びつくように買ってしまった。安月給でウン万円の出費は非常に痛かったのだが、おかげで今は安心してこんなものを書いていることが出来る。法隆寺經藏


右が大講堂から見て南西にある經藏。反対側には鐘樓があってほぼ同じような形で建っていますから左右対称のように見えます。


法隆寺大講堂外観

大講堂です。
講堂は佛法を講義・勉強する場所ですからたくさんの僧侶が集まるので堂内は広々と作られています。
右が大講堂内部の諸佛。



法隆寺大講堂諸佛

真ん中にいるのが藥師如來で、日光・月光の兩脇侍が左右に配されています。

この三尊を守護するように四隅に四天王が邪鬼を踏みつけて立ちます。
四天王は、(東)持国天、(南)増長天、(西)廣目天、(北)多聞天の順に配置されています。多聞天だけを単独で祀る時は毘沙門天という呼び名に変わることもあるようです。

時間をかけて西院伽藍を見てまいりました。廻廊から外へ出ましょう。
法隆寺中門エンタシス

法隆寺中門内側


これは中門の内側。別れを惜しんで出ました。

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