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2018.06.17 (Sun)

泉光院の足跡 312 日吉館のこと

今までにワタクシは何度もこんな事を書きました。 
横山サンから折に触れて、
…山ばっかり行っとらんで奈良へ行って見ぃ。‥そして
…泊まるのは日吉館にせぇ。…

まず奈良公園付近の空撮写真と、ほぼ同じ場所の地図です。上が北、右が東で左が西です。
奈良公園空撮左端真ん中あたりの黒い半円形が猿澤池でその上の緑色広い部分が興福寺の境内。
その右が奈良国立博物館のある地域で、その右が春日大社のある森。右上の淡黄緑が若草山、ということになります。
ほぼ全体が見えてきたでしょう。

奈良公園地図地図で確認しましょう。
上の方、東西に延びる広い道は登大路(のぼりおおじ)、興福寺、国立博物館などの文字が見えて来ました。
その下の東西に延びる道が三条通で、春日大社にぶつかります。

日吉館という宿屋は、この地図の奈良国立博物館の、登大路の道を隔てたすぐ向かい側にあります。国立の建物記号のすぐ上に「日吉館」、その右隣が佛像写真の名品を撮っていた「飛鳥園」(実はこの間に骨董を扱っていた古道具屋さんがありました)の文字が見えています。

この日吉館こそがワタクシが定宿としていた「旅籠」でした。
ワタクシの想い出のために、まさに「廃屋」となった日吉館のことを書いておきます。
日吉館正面

屋根は壊れ、まさに崩れ落ちんとしている「日吉館」。2006年にワタクシの写した見るに忍びない姿です。

この宿でお世話になったオバチャンや、出会ったおおぜいの人たちにまつわる数限りない思い出、、そういったものはワタクシの脳の老化と共に徐々に忘却の彼方に消えて行きます。
忘れないうちに少しばかり書き留めておきたいと思うのです。
日吉館田村キヨノさん飛鳥園
左がオバチャン。
日吉館の廃業に先立って飛鳥園が写した写真です。
日吉館正面飛鳥園












右も同じ頃の飛鳥園による写真。

右の戸を開けて入ると土間になっていて、その左の座敷、いわばロビーとでも言いましょうか、そこにこのようにオバチャンが座っていて迎え入れてくれました。
ここでの夕食は、この写真に写ってる、通りに面した二階の部屋で、宿泊客全員(と言っても20人ほど)が一堂に会して!盛大にスキヤキをつつくのです。
とてもオイシイ牛肉を大量に出してくれて、それを皆さんお腹いっぱいに食べながら、今日見てきた「素晴らしい佛像」のことを口々に喋っている内に次第に佛像や寺社建築のことを理解するようになっていくのでした。時には詩人や画家や、歴史に詳しい物書きの人も泊まりあわせることがあり、そんな時にはその部屋が「日吉学校」となるのでした。
朝ご飯はいまオバチャンの座っているあたりが食堂になって、ご飯を自分でお櫃からよそって、何杯もお代わりをして、「ここでお腹いっぱい食べていって、お昼を外で食べる分のお金を拝観料に充てなさいや」と言いながらグズグズしている人を追い出すようにしているのがオバチャンでした。
日吉館相澤弘子m

右はワタクシが初めてここに泊まったとき泊まりあわせた、東京の出版社で編集の仕事をしている相澤サンという人と、北海道から来ている学生。 日吉館前で写したものです。
後に見えている建物は奈良国立博物館。
のちに相澤サンに、パソコンという道具は便利ですよ、といってワープロ程度には使えるパソコンを一台送ったのだが、彼女は「日本語を横書きにするのはどうしても性にあわないのです。」と断られた。ワタクシはパソコンの記憶力がいいことや訂正能力の優れていることなどを説得して、なんとか早くパソコンを使えるようになって貰いたいと思っていたのだが、使う前に死んでしまったのが心残りです。
彼女は日本語を横書きにすることにはどうしても我慢がならない、という信念のようなものがあって、ワタクシのように何でもいい加減に済ませるような人間とは違っていました。
美しい文章を美しい字で「縦書きで」書いている人でした。
奈良市内地図、日吉館周辺です。
奈良市内地図日吉館周辺

年末年始の何日かをここで過ごして、雪の降る朝早く、奈良を離れるために日吉館を出て、上の地図でいえば興福寺の境内の真ん中あたりまで来た時、「オ客サァ~ン」と言って追っかけてくる声がするのです。何か悪いことでもしたのだろうか、と思ってビックリして振り返ったら、丸顔の一番若い女中さんが、「宿帳を書いていって~。」というのでした。
日吉館宿帳大正11年10月
ここの宿帳は開業以来ずっと右のようなスタイルのもので、廃業までの長い間の宿帳が全部残っていたのだが今はどうなっているのだろうか。もし残っていたらその中の何冊かにはワタクシのサインもある訳なんだが・・・。

日吉館看板と會津八一

開いてあるページの左側ページの一番最初の行は秋艸道人・會津八一の署名で、職業欄には「教員」としてあり、大正11年10月の宿帳だから、早稲田高等学院の教授であった頃のもの。
そして左の写真は會津八一ご本人と、氏の書いた看板。日吉館看板

右は廃業したとき取り外した看板。文字は「旅舎 日吉館 庚午春日 秋艸道人顯」。
高さ67cm、幅151cm、厚さ5cm、ヒノキ材の堂々とした一枚板です。


日吉館縦看板

左の「ひよし館」と縦書きに書いた看板は建物右端の軒下にありました。

會津八一は、昭和四年の秋十月二十一日から十一月五日までここに泊まっていたとき、無口なおやじだった松太郎さんが秋艸道人に、うやうやしく、かつおずおずと、…勝手なお願いでは御座いますが、…と切りだしたのが看板の文字を書いて頂けないでしょうか、と言うお願いだったようです。

オバチャンの手元に會津八一氏からの一通の書状がありました。

「拝啓 過日は柿を沢山お送りくだされ ありがたく存じ候 御頼みのかんばんは 今日小包にて送り候 どれでもよろしき方を御用ゐなされ候やうなし下さるべし…(中略) …彫刻は 紙の大さと全然同じ大さの板にて、凹字に彫らせなさるべし 色は 白色の胡粉を入るゝこと とにかく彫刻師といふものは 書家のかきしものを勝手に直したりするものなる故 かたく申しつけ すべて原稿の通りに彫らせるべし …(中略) …横看板の日付は 只今から彫らせても 来年となるべきにつき 来年正月の日付をかきおきたり
           十二月四日
                        會津八一
   日吉館 御中

その頃の日吉館の東隣には骨董を扱う店、その東隣りに小川晴暘の飛鳥園が店を出してその佛像写真の声価は高いものでした。リプトン紅茶を飲ませた鹿鳴莊や、氷室神社横のミルクホール「さわやま」などとともに登大路界隈は文化人の行き交う社交場となったのでした。
日吉館おほてらの秋艸道人

左は會津八一の歌集『鹿鳴集』所収の一首をオバチャンに書いてあげたものの写しです。
いつもオバチャンの座っているロビーの奥、左上に額に入れて飾ってありました。
オバチャンは写しを何枚か拵えて常連客に別けたもので、ワタクシも一枚貰いました。
この歌は、


   唐招提寺にて

おほてら の まろき はしら の つきかげ を
つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ

のちに『自注鹿鳴集』の中でこの歌にかなり長い注記を書いて、唐招提寺の佛像のことや、さらに法隆寺・東大寺・法界寺・平等院など順を追って見るべきこと、さらには、…つきかげ…や…つちにふみつつ…の語句について意図した点を書き、最後に、…因にいふ。この歌の作者自筆の碑はこの金堂の左側にあり。見んとする人は寺務所にてたださるべし。…
とありますので、唐招提寺へ行ったら金堂の左側へ廻って碑を見て下さい。唐招提寺列柱

左の写真は唐招提寺の南大門列柱です。

おおてら の まろき はしら 

です。



あるとき予定外の長逗留になってしまって、お金が足りなくなったので、オバチャンにわけを話して何日かを食事抜きの「素泊まり」にしてもらったのでしたが、それでも同宿の人たちが丼に山盛りのご飯とスキヤキの肉を盛り付けて差し入れをしてくれて、それで命永らえ(オバチャンも見て見ぬ振りをしてくれていたのでしょう)、次に訪れたときそのお礼に金澤の銘菓「長生殿」を持参し、リュックサックに入れておいた茶道具で「山千家胡座流 やませんけ あぐらりゅう」のお茶会をしたのでした。日吉館平面図
ちょうど庭の櫻が満開で、オバチャンは奥二階の、その櫻の木のすぐ脇のいいお部屋を用意してくれて、同宿の人たちみんなと楽しいお茶会になったのでした。右が日吉館の部屋割りで、左が1F、右が2F。お茶会をしたのは2Fの一番右上の部屋。窓を開けると満開の櫻が見えたのでした。
ワタクシは山へ行くとき、(立山・剱岳や槍・穂高は別として)リュックサックの中に茶道具を入れていって、霧ヶ峰や美ヶ原、といった美しい草原でよく「お茶会」をして、その時の作法を「山千家胡座流」、と命名して楽しんだのでした。

日吉館は全部で12部屋しかないので皆さん相部屋(一応男女は別。夫婦であっても別部屋)。知らぬ同志が夜遅くまでしゃべりまくって青春の時を過ごしたのでした。
その頃のワタクシはいつもお金がなくって、旅から帰るとカメラを質に入れてしばらくの生活費に充て、次に旅に出るときには汽車賃と幾らかの宿泊費と、さらにカメラを質屋から出すための余分なお金が要ることになるので随分苦労をしたものです。

ワタクシに…奈良へ行け、日吉館に泊まれ、…と言っていくれた横山サンも、日吉館オバチャンも、縦書き相澤サンも、既にこの世にはいなくなって、次はワタクシの番だ、としみじみ思うこの頃です。

朝日新聞は時々日吉館のことを記事にしました。
お風呂を五右衛門風呂から普通の四角い木のお風呂になったこと。トイレが綺麗になったこと。
日吉館朝日新聞田村キヨノさんこの人

右はまだ75歳の頃のオバチャンの紹介。
日吉館朝日新聞今年限り19821122

1982年11月22日の記事(左)では「今年限りで廃業」すること。


日吉館朝日新聞田村キヨノさん訃報19981125

そして1998年11月25日の記事(左)で訃報とともにオバチャンの業績!を紹介しました。
坐っているオバチャンの左後ろに會津八一の看板が置いてあります。


日吉館のことはまだまだたくさん書きたいことがいっぱいあります。
相部屋で一緒になって一晩中しゃべったり、夜中になってからあちらこちらのお寺へ「侵入」したり、はじめは佛像の話をしていたのにいつの間にか音楽論争になったり、会社の出張で関西方面へ来るときは宿泊を日吉館でとったり、一時期、オバチャンは精神薄弱児の施設の人を、「普通の人と一緒にさせておくと回復が早いかも…」と台所仕事などを手伝わせていた時期があったことなど、見た佛像の数よりも沢山の思い出を作ってくれた日吉館でした。
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2018.06.12 (Tue)

泉光院の足跡 311 興福寺・南圓堂

泉光院は帯解地藏でお詣りをしてから、

‥夫より奈良南圓堂へ詣づ、西國巡禮札所也、納經す。興福寺の内也、六角堂南向、夫より伽藍廻りす、‥
興福寺南圓堂
右、南圓堂です。

南圓堂の本尊は不空羂索観音。
興福寺南圓堂不空羂索観音
(左の写真です)





南圓堂は西國三十三觀音札所の第九番。ここでは観光客とは全く違った人に出会います。ここで納經をして、納經印を書いて貰ったり、御札を買い求める人で混雑しているのです。興福寺の諸堂の中では庶民の信仰が根付いているお堂だと思いました。
他のお堂は『観光用堂塔』のように思えました。

興福寺三重塔

南圓堂から南に少し下がった所に三重塔があります。
まったく目立たない所にあるのでワタクシも最初のうちはこんな所に塔があるなんて知らなかった。しかもめったに開扉することもないので、宣伝でもしてくれないとここに行くチャンスはなかなかないのです。
2006年にここへ行った時は、北圓堂・仮金堂・そしてこの三重塔の三堂共通入場券が\1200だったので、そのキップを買って初めてここへ入りました。なかなか均整のとれた美しい塔です。
普段はこの塔へ人は入れることはないので、例えば下駄箱だって小さなのがあるだけだからどうしても行列になってしまうのです。


興福寺三重塔内部辨財天興福寺三重塔辨財天坐像


ここには珍しいスタイルの辨財天さまがいらっしゃいました。
左はコッソリワタクシが写した写真。
これではよく判らないのでガイドブックの中から右の写真を戴きました。8本の腕にはそれぞれ武器を持っていて、穏やかな顔つきには似合わない戦闘的な佛様でした。

今までにこのブログに載せてきたインドのサラスヴァティーや、江ノ島の裸辨天とは全く違った弁天サマの一面を垣間見る思いでした。

興福寺のお終いはやはり國寶館です。何度も入った場所ではありますが、何度見ても飽きない佛像があるので入ります。
龍燈鬼興福寺
龍燈鬼と天燈鬼です。もとは西金堂にありました。
佛前に燈を捧げている一対の「鬼」です。
龍燈鬼頭部興福寺
龍燈鬼は団子鼻を上に向け、上目遣いに燈籠と見上げて「何と邪魔っ気な!」というような顔をしています。


天燈鬼興福寺
天燈鬼の方は「この燈籠が目に入らぬか!」と葵御紋の印籠を掲げる格サンのような気分です。
天燈鬼部分興福寺


一対の物でありながら、スタイルも表情もこんなに違ったものを作り上げる佛師のアイデアは大したものです。80cmほどの小さな物だから、怖ろしげな鬼、という印象はまったくありません。見れば見るほど カワイイ! のです、健保三年(1215)、運慶の三男、康辨の作だそうです。

十三世紀、日本では鎌倉時代、中世真っただ中。この頃、ヨーロッパはどんな時代だったでしょうか。ワタクシの最近はほとんど泉光院の生きていた時代にどっぷり浸かっているので、ヨーロッパの中世について書くなんて大それたことは、と思いながらもやはり先進文化国がどのような物を作っていたか興味があります。
ノートルダム寺院
この頃のヨーロッパは、イスラム世界から聖地イェルサレムを奪還しようとする十字軍がトルコあたりへ出かけていると同時に、神聖ローマ帝国・イギリス・フランス間でもお互いに戦争をしていて、藝術などという暇な仕事にはミナサンあまり興味がなかったようです。日本のカワイイ鬼の彫刻が作られたこの時代、ヨーロッパではどんな怪物が造られていたでしょうか。

パリでは1163年からセーヌ川の中州、シテというところでノートルダム寺院の建設が始まり、14世紀半ばにはほぼ今のように出来上がったらしいですが、この寺院もたくさんの彫刻で飾られております。
ノートルダム寺院怪獣ガーゴイル
だが左、何とも不気味な怪獣がこの壮麗な寺院の双塔の上にあるのです。
ガーゴイルという名前です。
こういうものを造った彫刻家は、日本の佛師たちのようなユーモアのセンスに欠けているようですね。
ヨーロッパの悪魔は、日本の鬼と比べると悪逆非道、救いがありません。
日本の鬼はどこか可愛げがあって憎めない存在です。
ヨーロッパではやはり芸術が花開くのはルネサンス以降のことであって、15世紀まで待たないといいものは現れません。(注。古代ギリシャ・ローマは別扱いです。あれはヨーロッパとは違って特別に素晴らしい。ルネサンスでギリシャ・ローマに帰れ!と言うのはむべなるかな、です)
建築や、美術・彫刻、音楽・舞踊、文学、といった芸術全般について日本とヨーロッパの比較をする野は面白いことではありますが、泉光院とはあまり関係がないのでいったん中止します。

國寶館で多くの人が褒め称えるのは八部衆のうちでも「阿修羅」。
でも素晴らしいのは阿修羅だけではありません。
八部衆というのは古代インドでは邪神であったのだが、お釋迦さまに帰依して、佛教に取り入れられてからは佛法を守護する護法神としての役目を果たすようになりました。いくつかを載せておきます。
興福寺阿修羅像興福寺阿修羅像頭部

左、阿修羅(あしゅら)の全身像と頭部。

3面6臂という異形の像にもかかわらず不自然さは感じられませんね。それよりもちょっと愁いを含んだ少年のような顔と、細くしなやかな少女のような姿態が見る者を惹きつけます。


五分淨頭部興福寺
右は五分淨(ごぶじょう)。頭にかぶっているのは豚かイノシシのようにも見えるのだが象の冠。緊張した面持ちで真っ直ぐ前を見つめる少年。



八部衆沙羯羅頭部興福寺
左、沙羯羅(さから)。
龍神で、雨乞いの神様でもある。不安そうな顔つきで空を見上げている様子はまだあどけない子供のようだ。頭のてっぺんには蛇の頭があって、そこから頭の周りを一廻りして胸の所で蛇の胴体がとぐろを巻いている。


八部衆迦樓羅頭部興福寺
左は迦樓羅(かるら)。
大きな嘴と鋭い目つきが印象的。龍を常食とする巨鳥だそうです。
参考のために右に全身像を入れておいたのは京都三十三間堂(妙法院蓮華王院)の迦樓羅像。肩には翼が付いているから鳥だということがよくわかる。蓮華王院迦樓羅

こんなとんがった嘴で笛を吹くのはさぞ困難だろうと思うのだが、超自然の世界のことです。人間の常識では計り知ることはできません。


八部衆にはほかに、緊那羅(きんなら)・畢婆迦羅(ひばから)・鳩槃荼(くばんだ)・乾闥婆(けんだつば)といった諸尊がいらっしゃいまして、佛法を守護し、お釈迦様を守っております。
06:49  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2018.06.08 (Fri)

泉光院の足跡 310 興福寺・佛頭

猿沢池五重塔
龍神が住んでいたという猿澤池のまわりを廻ってから興福寺の境内へ入りましょう。右は猿澤池からの興福寺五重塔。
五十二段あるという石段を登ります。
上まで上がったら一度振り向いてみましょう。江戸時代末から明治にかけての町屋のおもかげを伝えるそのあたりを「ならまち」といいます。元興寺の旧境内で、小さなお寺と格子戸の家が迷路のように入り組んでいます。あとで元興寺極楽坊や頭塔を見に行くときにそこを通ることにします。

興福寺が出来たのは和銅三年(710)の平城遷都の時に、飛鳥にあった藤原氏の氏寺を鎌足の子の不比等がここへ持ってきたからです。だから興福寺では2010年を興福寺1300年記念の年として盛大な記念行事を計画しました。
興福寺伽藍配置
左が初期の境内配置図で、平安初期にはほぼこのような大伽藍になりました。
だがこの中でいま残っているのは右下の五重塔とその上の東金堂、そして右中ほどの北円堂、わずかにこの三つだけです。
このお寺は平安期末には多数の僧兵を擁して、比叡山延暦寺としばしば対立していました。比叡山の「北嶺」に対して興福寺は「南都」。そしてそれぞれ自分たちの権利を主張して、比叡山延暦寺は日吉神社(ひえじんじゃ)の神輿を、興福寺は春日大社の神輿を担いで宮廷に強訴に出かけたので、「南都北嶺」と恐れられ、白河天皇も「鴨川の水、賽の目、山法師」の3つは自分の力ではどうにもならない!と嘆いたのでした。興福寺東金堂と五重塔
右は東金堂と五重塔。
初めてワタクシがハタチになったばっかりの頃に、殆ど予備知識なしに猿澤池から石段を上がって、殆ど感動に近い驚きでこの風景を見たのでした。

興福寺ほど火災に遭ったお寺はほかにありません。
最初の火災は治承元年(1048)で、この時は北円堂など一部をのぞいてほぼ全焼し、承暦四年(1080)には反平氏の動きをしたために平重衡によって行われた焼き討ちによって堂塔のすべてを焼失した。
まもなく再建工事が始まって、佛像など今に多く残るものはこの時の運慶たち佛師の活躍によるものです。
江戸時代になると享保二年(1717)の大火災では五重塔、東金堂、北円堂と鎌倉時代後期に建てた三重塔が焼け残っただけでほかはみんな焼けてしまった。
明治時代には廃佛棄釋で廃寺となり、五重塔も売りに出されて、買主は一番上の相輪(これは金属ですから)を手に入れるのが目的だったので塔に火をつけて焼こうとして、ならまちの人たちが火事になると危ないからと言うことでようやく残されたのでした。築地塀は悉く破壊され、たくさんあった佛像も持ち出されて焼かれたのだが、それでもビックリする程たくさん今でも残っているのです。明治21年になってようやく法相宗大本山として復興しました。
興福寺2006特別公開ポスター
興福寺では創建1300年記念事業としてかっての壮麗な興福寺の偉容を再現せんものと、努力しているようです。
左のようなポスターにつられてワタクシは…興福寺のすべてをみるのだ…と出かけていったのでした。
興福寺中金堂発掘と東金堂五重塔
右は中金堂の基壇礎石の所から見た東金堂と五重塔。



興福寺中金堂発掘現場
左が中金堂跡の発掘現場です。右の方に見えている建物はとりあえず中金堂に収容する予定の佛像などを保管(展示もしていました)するための仮金堂。
この中金堂は興福寺のHPなどでは2018年のうちには完成して落慶法要も行われるらしいので間もなく堂々とした姿を見せてくれることでしょう。

ワタクシが横山サンに、‥山ばっかり行っとらんで奈良へ行って見ぃ‥と言われ、‥そして泊まるのは日吉館にせぇ‥と言われたのがきっかけで、その後何度も奈良へ行きました。

戦後の復興がようやく始まったばかりの頃はまだ観光客も少なく、施設もあまり整ってはいなかった。
上の方に載せておいた平安時代の興福寺の配置図、右上、「食堂 じきどう」が明治8年に取り壊されていて空き地になっていたのだが、そこに國寶館が造られたのは昭和33年(1958)で、ワタクシが初めてここへ来たときはまだ出来ていなくて、ワタクシの大好きな旧山田寺の「佛頭」は現在は國寶館に納められているのだがその頃は東金堂に置いてありました。
興福寺佛頭l
というのも、この佛像は天武七年(678)年に鋳造を開始し、天武十四年に完成して、飛鳥・山田寺の本尊として開眼供養をした佛像です。それを興福寺が盗んできたのかどうかは判らないのだが、文治三年(1187)に興福寺の物になり、治承四年の平重衡による南都焼き討ちの時には堂塔のすべてを焼失してしまった。

その佛像は、まもなく再建事業が始まって再建された東金堂の本尊とされたのだが、応永十八年(1411)の火災で首から下が溶けてしまって、このような姿になってしまったのでした。

でも、いい顔をしていますねぇ。‥

応永二十二年(1415)の東金堂5回目の再建の時には右の藥師如來が鋳造されて本尊となり、旧山田寺佛頭は永らく行方不明となっていたのだが、昭和12年の東金堂解体修理の時、須彌壇の下から発見されたのでした。そんなわけで、國寶館が出来るまでの間、東金堂にこの佛頭は納められていたのでした。この佛頭は白鳳彫刻の代表的名品とされています。
興福寺東金堂藥師三尊像
白鳳佛はそれまでの飛鳥佛よりも丸顔で、頬のあたりがふっくらとして、表情に優しさがあるのが第一の特徴です。飛鳥佛の代表的名品である法隆寺金堂の釋迦三尊像と比べてみるとその違いがよくわかります。

右が今の東金堂内部。
入ってみると、荘厳な雰囲気がただよっています。
ほかのお堂よりもなぜか観光客が少ないので落ち着いて佛像と対面出来ます。

國寶館が出来る前はここに多くの国宝級の佛像が並んでいました。佛頭のほかにも阿修羅像や龍燈鬼・天燈鬼(他にもあったと思うのだが忘れてしまった)といった素晴らしい佛像と対面できて、初めて奈良へ行ったときの感動は忘れがたいものがあります。

次に北圓堂へ行ってみましょう。
興福寺北円堂南東
ここは現存する興福寺の諸堂の中ではいちばん古い建物です。
普段は公開していないのですが、春秋などに
気をつけていると特別開扉されることがあります。
上の方で「興福寺国宝特別公開2006年」というポスターを載せておきましたが、このようなときにはこの北圓堂の扉も開いて、佛像を見ることが出来るのです。

彌勒佛坐像興福寺北圓堂

世親菩薩像全身興福寺北円堂

右が運慶作の彌勒菩薩坐像と世親菩薩立像。
名品揃いです。


興福寺北円堂彌勒佛他
彌勒佛と脇侍興福寺北円堂


左、北圓堂内部。
右、本尊の彌勒佛坐像と両脇侍・
特別公開といっても、このあたりは東金堂や五重塔、宝物館とはかなり離れているのと、建物は築地塀で囲まれているので、こんなに素晴らしい佛像が「特別公開」されているとは知らない人が殆どですから、ワタクシがここで写真を写している間(かなり長い時間だったのだが)、一人の人間も入ってきませんでした。

興福寺という立派なお寺で、一人の人も居ない時に、自由に写真を撮ることが出来た想い出深い写真であります。
22:10  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2018.05.31 (Thu)

泉光院の足跡 309 奈良へ

阿倍文殊から八木村國分寺と詣納經をした泉光院は、

…夫より三輪明神へ詣納經す。當社は和州一の宮也。印しの杉古へのは枯れて今新木也。拝殿西向、御殿は花表に扉計り一山御神體也。夫より大峯先達中の坊と云ふに見舞す。晝過ぎ金屋へ歸り休息す。又近所に地藏堂あり呼ばれ行く、種々馳走あり。
三輪山遠望山の辺の道景行天皇陵
次に三輪明神へ行って詣納経しました。
右は三輪山遠望です。山の辺の道景行天皇陵付近の道から見た三輪山です。
ここは大和國一の宮。現在は立派な拝殿が出来ていますが、三輪山(476m)が御神体なので、本殿はなくて山の下に「三輪鳥居」いう変わった形の鳥居があります。
三輪鳥居基本形

…拝殿西向、御殿は花表(鳥居のことです)に扉計り、一山御神體也。…
です。泉光院の書いている通り、鳥居に扉が付いています。
大神神社門前の賑わい3
ワタクシがここへ来た日は丁度祭礼の日で、門前はご覧のように賑わっていました。
大神神社門前の賑わい2

屋台のお店がたくさん出ています。
ちょっと懐かしいお祭風景です。子供の頃、「飴買い錢」というのを幾らか(一日五錢から十錢ほど)貰ってこんなお店屋さんで、何を買おうか悩んだことを思い出します。(飴は一銭で買えました)
大神神社二の鳥居

右は二の鳥居。
大神(おおみわ)神社です。

大神神社拝殿

左、拝殿。




三輪鳥居

こちらは三輪鳥居です。



ここから先、泉光院は今の奈良市内へ向かいます。奈良では泉光院の行かなかったお寺も含めて見ていきたいと思います。

十一日 晴天。金屋立、辰の上刻。三輪町荒物屋萬藏と云ふ知音あり、見舞に立ち寄る、餞別として葛一袋贈らる。…

泉光院は三輪山の麓、金屋村を朝出立して、その日のうちに在原寺、今は不退寺といっている奈良市内北の方のお寺、そこから少し南の方の帯解寺へ行き、少し戻って猿沢の池から興福寺。東大寺、とお詣りをして木津の方まで行きます。こんなに急がないでゆっくり見ていきましょう。

大神神社からいまの山の辺の道を北上します。
箸墓古墳全景NET
少し行くと右手の方に箸墓古墳(左の写真)が見える。
3世紀頃に築造された前方後円墳で、右が前方の部分で左が後円にあたる。
お墓の主は、七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)とされているのだが、邪馬台国の女王卑弥呼という説もあるらしい。
ワタクシはここは遠くから写真を撮るだけでした。

順序だと景行天皇陵でその北に崇神天皇陵、となるのだが、左は崇神天皇陵。

崇神天皇陵
両方とも巨大前方後円墳で周壕も大きく美しい。


黒塚古墳遠景

その右には黒塚古墳。ここから三角縁神獣鏡が33枚も出土して、これも卑弥呼が魏から贈られた鏡ではないか、などと言われたこともあったのだがヤマト政権の有力人物の墓であろうということに落ち着いているようだ。
いずれも泉光院は興味がないらしく奈良へ急ぎました。
十一日の続きです。

…夫より在原寺井筒の古跡今に井あり。一と本薄(ひともとすすき)あり、納經す。帶解地藏へ詣で納經す、當町中は懐妊しても岩田帯なし、又妊娠の女此所にて帶を申し受くるに、男子なれば黒の印し、女子なれば朱印の守り出る事妙也、御籤(くじ)の如きもの也。…

東大寺西門である轉害(てがい)門から西に向かってずっと真っ直ぐに行くのが佐保路で、興福院(こんぶいん)、不退寺、海龍王寺、法華寺、平城宮跡、西大寺、それから秋篠寺へと続きます。
不退寺

左が不退寺本堂。
このお寺は『伊勢物語』の主人公とされている在原業平が、自作の聖觀音像を安置し、創建したと伝えられるお寺なので、「在原寺」とも言います。
このお寺は花の名所。四季折々、300種とも500種ともいわれるほどの花が咲きみだれるのだそうです。ワタクシが奈良を歩くときは冬枯れとか真夏とかが多かったので、…花咲き乱れる奈良…という印象はあまりないのでした。
次に泉光院は帯解地蔵へ詣納經し、それから興福寺・春日大社・東大寺…と歩いていて、その日のうちに木津まで行っています。日記は後でまとめて書くこともあるでしょうから必ずしも歩いた順序通りには書かなかったのかも知れない。
帯解寺

右は帯解寺の本堂。
本尊は地藏菩薩半跏像なので帯解地蔵とも言います。
由来は文徳天皇の妃染殿(藤原明子)が春日明神のお告げによってこの地蔵に祈ったところ、間もなく懐妊し、無事に子供(のちの清和天皇)を産んだので、喜んだ天皇は天安二年(858)に伽藍を建てた。その後治承四年(1180)に平重衡の南都焼き討ちで焼失し、再興したけれども今度は永禄十年(1567)松永久秀に焼かれた。
江戸時代に入って、二代将軍秀忠の子供(のちの家光)もここでの祈願の甲斐あってか無事誕生した。
今でも、子供の誕生と無事の成長を祈る善男善女の参拝が絶えません。皇族の方もみなさん参拝なさるようです。

泉光院も奈良の都を歩いているようですから、ワタクシもゆっくり奈良見物をいたしましょう。
奈良はワタクシの大好きな場所。たまには泉光院の悪口などを言いながらのんびり歩きたいものです。泉光院は修行のためなのかも知れないが、あまりに慌ただしく歩く。お寺へお詣りしても「納經」をするだけで(もっとも彼にとってはそれが一番重要な意味を持つのではあろうが)佛像の顔かたち、甍の波や柱列のたたずまいをゆっくり見てはいないようだ。ワタクシは初めて奈良へ来たときのことを回想しながらゆっくり歩きたいものです。
昔は新幹線などという速い乗物はなかったのだが、替わりに「夜行列車」というものがあった。
金澤を夜中に発つと京都の駅にはまだ朝早くに着いて、奈良電に乗り換えると、霧に包まれた宇治の茶畑の中をゆっくり電車が走る。
JR奈良駅

左は改築されたJR奈良駅だが、それでも少しは古都にふさわしい様子。三条通を上がればやがて猿澤池。

猿澤池柳


池の周りに昔は柳の古木がもっとたくさんあったようだが、最近は若木に置き換えられているようだ。右が一番年老いた柳のように思われる。
ワタクシもこの柳のように年老いた。
池の向こうに見えるのは興福寺の五重塔。いつ見ても懐かしい風景。
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2018.05.24 (Thu)

泉光院の足跡 308 善財童子

十日 晴天。安倍文殊へ詣納經す。夫より八木村國分寺へ詣納經。夫より三輪明神へ詣納經す。當社は和州一の宮也。印しの杉古へのは枯れて今新木也。拝殿西向、御殿は花表に扉計り一山御神體也。夫より大峯先達中の坊と云ふに見舞す。晝過ぎ金屋へ歸り休息す。又近所に地藏堂あり呼ばれ行く、種々馳走あり。
阿倍文殊堂騎獅文殊菩薩像
文殊院は大化改新の時左大臣になった阿部倉梯麻呂が阿倍氏一族の氏寺として建てたお寺で、創建当時は法隆寺式の大きなお寺だったようだ。
左は日本三文殊の一、快慶作の獅子に乗った大きな文殊菩薩。高さが7mもある。
ほかの二つは京都天橋立の切戸の文殊と、奥州山形亀岡の文殊。両方とも泉光院は先にお詣りを済ませています。ここでお詣りをしたので三文殊みんな済ませました。
文殊は普賢と一緒に釋迦如來の脇侍となっていることが多いのだが、この写真のように獅子に乗ったのは五台山文殊と言って、はるばるシルクロードの流砂を越えて中国五台山までやってくる姿をあらわしたものらしいです。この写真の左下にいる小さい像は「善財童子」。合掌をして、斜め右を振り返る仕草をするあどけない表情の童子です。
この文殊菩薩騎獅像は、善財童子を先導とし、優塡(うてん)王に獅子の手綱を引かせ、最勝老人と仏陀波利(ブッダパリ)を従えています。文殊菩薩四侍者像ともいいます。

善財童子のことを少々。
阿倍文殊堂善財童子
左が阿倍文殊堂の善財童子の像です。
yorick善財童子PC
そして右はワタクシの持っている善財童子像。

彼は文殊菩薩の勧めによって求道の旅に出て、53人の知識人に出会って教えを請うのだが、最後にまた文殊の元へ戻って、文殊の限りない知恵を得ることが出来た時の喜びの瞬間を形にしたものだそうです。

ワタクシはブッダの教えを信仰してはいるのですが、佛像などという物を持つ趣味はないけれども、この善財童子像だけは持っているのです。

金澤合唱團の指揮者は金澤市枡形(金沢駅から徒歩8分程の場所)の西福寺の住職であってとても素晴らしいバリトンの声を持っていた。だから彼がお経を唱えるとその美声に(善男はともかく)多くの善女たちは胸がキュンとなったという。それはさておいて、その住職が亡くなる前にこの善財童子像を何体か拵えてその一つをワタクシにも贈って下さいました。
金澤合唱團男声
右は金澤合唱團の男声。
右端がワタクシたちが半ば尊敬の念を持って「権現サン」と呼んでいた指揮者でもある西福寺の住職。(ワタクシは右から6番目で、5番目がこのブログにも時々登場する横山サン)。
そんなわけで善財童子は数ある佛様たちの中では一番ワタクシにとって親しみのある佛様です。

善財童子の求道の旅は『華厳經』というお経の最後の章に書いてあります。
善財道寺西大寺
彼が訪ねて教えを請うた人々は、菩薩、男女の神々、修行僧・尼、仙人や婆羅門、國王、商人や資産家、ものを造る技術者、少年少女、一番下の階層である隷民など老若男女貴賤を問わず次々と訪ねて行くのです。そして最後に普賢菩薩の教えを受けて究極の境地に到達する、というのがこのお経の説く所です。最後が文殊菩薩だと解説してある本もありました。
右は奈良西大寺の善財童子頭部。

東大インド哲学の中村元がNHKのラジオ講座で話した中から一部を要約しておきます。

彼が24番目の人として尼さんを訪ねたとき、尼さんは次に会うべき人を教えます。
「善男子よ、この南方に嶮難という国土あり、城を寶莊嚴と名づく。一女人あり、婆須密多と名づく。汝、彼に詣でて問へ、『如何が菩薩は菩薩の行を学び、菩薩の道を修するや』と。」…
こんな調子では読みにくいのでうんと圧縮して概要を書きましょう。

ここから南方にある宝で飾られた町に、ヴァスミトラーという名前の女性がいるので、その方に会ってボサツとしてなすべきことを学び実践するにはどうすればいいのかを聞きなさい、と尼さんに言われたので、丁寧に敬礼してそちらへ向かいます。
ヴァスミトラーは立派な椅子に腰掛けて、「顔貌端嚴」顔立ちは立派で、「妙相成就」見事な姿でいらっしゃいました。この世界に比べるものがいないほど素敵で、言葉は艶やかで、文学技芸に秀でていて、不思議な知恵と力をそなえています。善財童子は礼儀をつくし、「貴い人よ… と呼びかけます、…悟りを求めているのだけれどもどうしたらいいかまだわからない、…」
yorick善財童子頭部

左はワタクシの持っている善財童子像の頭部です。
西福寺の権現サンに頂いたものです。カワイイ顔をしていますね。

するとヴァスミトラーは答えて申します。
「善男子よ、われ既に離欲実際清浄の法門を成就せり。もし天われを見れば天女となり、もし人われを見ればわれは人女となり、… 形体殊妙に、光明の色像も殊勝にしてたぐいなし。…」 あでやかで光り輝いているその姿もたぐいなく美しい、と自分でそう言っているのだから間違いありません。所がこの人は実は遊女なんです。そして、「…もし欲望にとりつかれている人が私の所へ来たならば、その人のために教えを説いて、執着がないという精神統一を得させよう。もし私を見ることがあるならば歓喜を得させてあげよう。…」とだんだん話が具体的になってきます。「…もし私の手をとった者にはすべての佛さまの国土に至りうるという精神統一を得るようにしてあげましょう。もし私にキスしたり、私を抱いたりする人はみな欲を離れて究極の法門を得ることが出来るようにしてあげましょう。…」とヴァスミトラーは言うのです。

さまざまな人生体験をして、煩悩や欲望を通り抜けて、酸いも甘いもかみ分けた人には、やがて解脱の境地が開かれているということを示唆しているのかも知れません。
ボロブドール遺跡レリーフ
ジャワ・ボロブドール遺跡の外周には釋迦の生涯がレリーフになっているのだが、その中には善財童子求道の旅のレリーフも入っているのだそうです。
右のがそうなのかどうか判りませんが、美女と童子らしいのを一枚捜しあてたのでそれを載せておきましょう。
古代ギリシャやローマ、そしてインドにはヴァスミトラーのような素敵な遊女がいたようです。

この華厳経というお経はもともとはインドのどこかで作られ、シルクロードを通って中国、朝鮮、日本に伝わってきました。聖武天皇の時代、奈良東大寺にビルシャナ佛(毘盧遮那佛)が造られますが、この大佛は華厳経の表現する佛さまです。泉光院が東大寺へ行ったときにこの佛さまのことも書くことにしましょう。

文殊菩薩で思い出すのは、森鴎外の小説『寒山拾得 かんざんじっとく』です。
この禅問答のような、正解のないようなお話が高校の時の国語の教科書に載っていて、「拾得が実は普賢で、寒山が文殊なのだよ。」というのを、教師がいったいどんなふうにこのお話しを締めくくったのかいま思い出そうとしてもさっぱり思い出せないのだが、この小説の一番最後、[實はババアも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ。]というのが記憶の底に残っております。

東海道五十三次の53という宿場の数も、この善財童子が訪ねた知識人の数に合わせたのだと、世界遺産研究の会の講座の時に聞いたことがあります。でもなぜそうしたのか、その理由までは教えてはくれなかったので、いまでも疑問のままです。

大和國分寺焼失前2003
右のお寺は大和八木にある浄土宗の國分寺というお寺で、泉光院は、…八木村國分寺へ詣納經…しました。
大和國分寺標石
標石にはたしかに「大和國分寺」と彫ってあるので、そうなのかも知れないとは思いますが、聖武天皇が建てさせたという國分寺のリストにはこのお寺は入っていないので、ワタクシの疑問の一つです。塀の向こうに見えている本堂は、十数年前に火災で焼失してしまったそうです。 これは焼失前の写真。

『善財童子求道の旅』という本がありました。ヴァスミトラーに逢ったときの様子を載せておきます。その本から少しの引用。

獅子奮迅比丘尼から、…「善男子よ、ここより南のドルガ、別名嶮難國のラトナヴェーハ、寶荘厳という意味の都城に婆須蜜多、ヴァスミトラーという名の遊女が住んでおられます。その方にも聞いてごらんなさい。」…と教えられてやって来たのが左の絵。
善財童子26婆須蜜多女最高遊女

ヴァスミトラーの住居はとても立派で、香りの良い水を湛えた堀がめぐっていて、赤や白、黄や青の蓮華が咲きそろっている。豪華な敷物で飾られた室内には多くの侍女や立派な男たちに囲まれてヴァスミトラーは(上の絵、建物の正面に)坐っている。彼女の肌は金色に輝き、瞳は碧緑、まさに臈たけたという美しさです。玉を転がすような声、どんな楽器でも弾きこなせる技芸のたしかさ、何一つとっても人を魅了する素晴らしさです。善財童子は(建物の前、段の下にいて)彼女の魅力に圧倒されます。ヴァスミトラーはいいます。
…善財童子よ、よく来ましたね。私は離欲の究極を究めたという菩薩の解脱を会得しているのです。それで私の所へやってくるどんな人々、どんな神々、どんな鬼神、阿修羅、緊那羅であれ、私を求めてやってくるすべての衆生たちの願いにも応じて姿を現し、その衆生の気に入る背丈・肌色・姿形になります。もし天人が私を求めているのであれば私は天女に、人間の男なら人女に、鬼神なら鬼女になります。ある者は私を見つめるだけで、ある者は私を抱きしめるだけで、ある者は私にキスするだけで、ある者は私と同衾するだけで、その者は欲望を離れた状態になるのですよ。」…
善財童子はよくわかりません。
…「私には意味がわかりません。あなたを抱けばもっと欲情にとらわれるのではありませんか?」…
…「そうではありません。私はすべての衆生が欲望を離れることができるように、言葉で、そして身体で、法を説くのです。そうすると衆生はそれぞれ素晴らしい菩薩の三昧の世界、いわば忘我の境地に入り、離欲の究極に達するのです。」…
善財童子はまだ信じられないといった面持ちで、
…「あなたはどのような善行を積まれてその菩薩の解脱の境地を体得されたのでしょうか。」…
…「そうねぇ。はるか彼方の記憶をたどって申しましょう。かって、過去世にアティウッチャガーミンという佛が出現しました。その佛は衆生を哀れんで慈愛を示すためにスムターという王都に入られました。そのとき天上からは宝石の華がキラキラと舞い下り、妙なる音楽が響きました。私はそのときある長者の妻でスマティと申しましたが、その佛のお示しになった奇跡に駆り立てられて走り出し、佛に一枚の宝石のお金を差し上げました。佛の傍らには文殊菩薩が侍者として仕えておりましたが。その文殊菩薩が私をこの上ない悟りに向けて発心させて下さったのです。善財サン、こうして私は離欲の究極を究めた菩薩行を体得出来たのです。しかし私は他の菩薩方の功徳については存じません。ここより南に善度城という都城があり、そこに鞞瑟胝羅(ビシュチラ)という居士が佛の塔廟を供養しておられます。その方にお聞きになったら如何でしょうか。」…
と次の訪問先を教えてくれたのでした。

善財童子はこのようにして次々と53人の知識人に教えを請う旅を続けるのでした。
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