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2017.08.23 (Wed)

泉光院の足跡 249 丸山堂出立

平四郎が猛烈な腹痛を起こしたのだが、…夜明け平癒。…で少し楽になった。

廿一日 晴天。長悦と云ふ盲醫を頼み按摩針療。
廿二日 晴天。今日も盲醫見舞ふ、大分平癒す。木村氏より船中安全の祈禱頼みあり種々贈り物あり。
廿三日 晴天。金子一角弐買、米味噌等調へる。薬貰。金毘羅參りとて男二人泊る、上野國の者と云ふ。

盲醫に治療をして貰っている様だ。ワタクシの子供の時代(戦前です)、近所にこんな看板があるのを見ていた。「あんまはりやいと」。かなり長い間意味が判らなかったのだが「按摩・鍼・灸」のことだった。「やいと」がお灸のことです。こんな「盲醫」の需要があったのですね。
慶長一分金表裏

続いてこの日は…金子一角弐買、…ですから両替商のところへ行って小銭をいっぱい出して一分金を二枚買った。祈禱の謝礼などが大分たまったらしい。右が慶長の頃の一分金で、上が表、下が裏。このお金は角形ですから一分金のことを一角と言ったらしい。一個4.5gで、金の含有率は84%。まずまずの高品位の金貨です。あまり純金に近いと柔らかくって耐久性がなくなる。残りの16%は銀です。
慶長小判

小判は一個18gですから、一分金四枚で小判一両と交換出来る。この日から14日経った八月八日にも金子一角弐買、と書いているからかなり貯金が出来たようです。
一分金が四枚たまったので小判の姿をのせておきましょう。
左が慶長小判。

慶長から半世紀ほど経った元禄時代、金貨の改鋳が行われて、慶長小判二枚で元禄小判三枚を作った。つまり金の含有量が三分の二に減ったのです。この結果江戸幕府には大量の金が入って小判をたくさん鋳造できて、一時的には財政が豊かになったのだが、結局は貨幣価値が下落してしまうのです。
悪貨は良貨を駆逐する…というわけで、慶長小判を持っていた人はコッソリしまい込んで大切にした。元禄小判を作ったのは将軍綱吉で、側用人であった柳沢吉保が筆頭老中となって権勢をふるう頃、(水戸の隠居光圀がテレビドラマでは全国漫遊に出ている頃、そして柳沢吉保は悪役で出ています)のことです。

東海道、日坂宿の続きです。
宿場を出ると間もなく左手に事任(ことのまま)八幡宮というのがあります。掛川事任八幡宮
これは平安時代から伝わる神社の一つで、『枕草子』には「ことのまゝの明神、いとたのもし、」とあって、お願いしたことは何でもいうがままに叶えてくれる明神様として都にも聞こえていた。社殿はずっと奥へ行って左側、高い石段を上がった所にあります。写真が写しにくい社殿です。

掛川は城下町で、江戸時代初めは山内一豊で、彼が土佐国浦戸、高知に轉封になった後はつぎつぎと松平氏や井伊氏、太田氏といった徳川家譜代や親藩が移り住みました。掛川市内図七曲り
城下町によくあることですが、、ここも街道をいくつも屈曲させて「掛川の七曲り」といって判りにくくしている例です。
(愛知県岡崎の場合は四十七曲りと極端です)

東海道を赤線で入れておきました。左下隅にJR掛川駅があって、そこから真っ直ぐ上(北方向)に上がった所に掛川城があります。
掛川城天守閣

ここは豊臣系だった山内一豊が、徳川家康への対抗のために軍事上の拠点として天守閣を含む大きな城を築いたのだが、安政の大地震で城郭の大半が壊れてしまった。何を思ったか平成6年になって掛川市では御城を再建し、木造で立派なのを造ったのだが、NHK大河ドラマで一豊の妻が、へそくっておいた10両の小判を出して亭主のために名馬を買った、というあたりが評判になって観光客が集まった以外は大したこともありません。
掛川城二の丸御殿
むしろ(この天守閣の東方下の方にある)目立たないけれども二の丸御殿は、藩の儀式・政務を行うとともに、藩主の公邸でもあって、御殿建築としては京都の二条城などとともに全国で数ヶ所しか残存していないもので、國重文指定となっているこっちの方を大切にして、また観光用にも宣伝しなくちゃならないと思うのです。全部で七棟あって、建坪242坪(800㎡)と大きな建物です。

掛川の宿場を離れると二瀬川に架かる大池橋というのを渡ることになります。
廣重版画「東海道五十三次之内 掛川 秋葉山遠望」。
掛川秋葉山遠望東海道五十三次之内


右手遠方に見える険しい山が火伏の天狗三尺坊の棲むという秋葉山。

この橋を渡ると追分になっていて、東海道が直進、秋葉路が右折、となります。この絵では橋の向こうが描いてないので判らないのだが、秋葉路のところには鳥居が立っていた。
掛川人物東海道鳥居

右の廣重「人物東海道・掛川」で見ると、絵の左端の所に半分ほど鳥居が見えている。橋を渡ったところに二人の女が立っていて、そのすぐ先が秋葉路で鳥居、と言うわけです。保永堂版では橋と秋葉山、人物東海道で鳥居、両方あわせて秋葉路が確認できました。

泉光院も秋葉山へ行くのですが、この道は通らずに、いまの国道150号線、濱街道の方を通って見付宿から森町の方へ入り、光明山の下から秋葉山を目指すのです。それまでもう少し道草をしましょう。

東海道の方へ入ると遠州三山と言われている有名なお寺があります。
可睡齋(かすいさい)、油山寺(ゆさんじ)、法多山(はったさん)の三つ。

右が可睡齋で曹洞宗のお寺。可睡斎
第十一代住職の仙麟等膳は幼い頃の徳川家康を保護したので、後に濱松城主となった家康は旧恩を謝するために等膳を御城に招いたのでしたが、その席上で等膳は居眠りを始めてしまった。それを見た家来共は「無礼なり」と声を荒げたのだが、家康は、「和尚我を見ること愛児の如し、故に安んじて眠る。我その親愛の情を喜ぶ。和尚睡(ねむ)る可(べ)し。」といった。それ以後可睡齋と名を改めたという伝説です。
明治の廃佛棄釋の時、秋葉山から佛教系統の三尺坊(秋葉寺の本尊である天狗)
このお寺に移されて、有栖川熾仁(ありすかわたるひと)親王から「秋葉總本殿」の勅額と菊の紋章を賜り、火伏(ひぶせ)の靈場となった。牡丹の花咲く頃はこのお寺で綺麗な牡丹を見ることが出来るそうだがワタクシは見に行ってはいません。
油山寺霊水るりの滝
油山寺です。
霊水「るりの瀧」。8世紀の頃、この瀧の水で孝謙天皇の目の病を治したことで一躍有名になった。
油山寺三重塔

油山寺の山門は掛川城の城門であったのを明治に入ってからこのお寺に移したもので、重層本瓦葺、国指定重要文化財。三重塔(右)は建て始めてから完成までに36年という時間がかかっている(予算の関係だったらしい)ので、1・2層目が和様、3層目が唐様、と様式が変わっている(と世界遺産研究の会で見学に行ったとき教えてくれたのだが詳細はワタクシには判りません)のだそうです。これも国指定重要文化財。

遠州地方での「厄除觀音」として一番著名なのが法多山尊永寺。
法多山尊永寺仁王門

息子が死んでからはバカバカしくなって行かなくなったのだが、それまでは毎年正月三ヶ日のあいだにウンザリする渋滞の中、車を動かしてここへ行って、\3000払って御祈祷をして貰って木製の「家内安全」の御札を有難く戴いてきたものです。
右が二王門。
このお寺には、厄除けの御祈祷で大勢の人が押しかけるので、本堂は鉄筋コンクリの大きい建物で醜悪な状況になっている。御利益を求めて広い境内は人が一杯で、お帰りには「ハッタサン団子」の売店もお団子を買う人で一杯。
このお寺ではこの仁王門が唯一、「見るべき程のもの」です。寛永十七年(1640)建
立で、入母屋造柿(こけら)葺、国指定重要文化財です。中には仁王サンも入っています。

平四郎の病気は小康状態を保っている様だが、まだ長旅を続けるには無理があるようです。

廿四日 晴天。夜に入りだび場(荼毘場)地藏堂前に皆々來り、念佛やら、和讃やら、鉦鼓を打ち深更迄喧しき事也。
廿五日 半天。精げ米調へに行きたる所町中になし、因て能米を精げたり。
廿六日 晴天。夜に入り近所の老母共六七人集まり、念佛やら、巡禮歌やら唱へ日の出る迄居られたり眠たし眠たし。

三日に丸山堂へ引っ越してからかなりたちました。この丸山堂は単にお堂があるだけではなくて、境内には荼毘場(死体の焼却場)があり、地藏堂があり、旅人が来て宿泊していたり、村人たちが集まって念佛を唱えたりしている一種の集会場も兼ねている様だ。

廿七日より八月九日まで無事。日々加持人來るやら、祈禱やら、振舞に行くやら種々の事少々宛あり。

毎日毎日、平四郎の病気看病と、それに伴う主夫業が続いているようです。
単調な日々なので日記を12日分省略してしまった(七月は小の月だったので30日はありません)。でも実は、省略したのは佐土原藩の殿様及び醍醐寺三寶院に提出した清書本で、旅の間毎日欠かさず書いている下書き本の方は全部書いてあるのです。

八月十日 晴天。加持人來る。清左衛門宅より洗濯施行。平四郎病氣平癒し、今日彼岸の初日故に町へ托鉢に出たり。予は留守番。仁王一部。所々より初尾上る。
十一日 晴天。令齋子方へ藥禮遣し候處、施藥にし遣はすとて一錢も請けられず、因て半紙三百枚遣はす。所々より餞別贈り物あり。

長い間かかった平四郎の病気、ようやく平癒しました。
すると早速托鉢にまわっている。現金な人だ。なによりもお金を貯めたいらしい。
泉光院は後始末で、醫師の令齋さんに藥代を払おうと思ったら、施行だからいいよ、と言って治療費を受け取りません。医は仁術だ、というのでしょうか。
一ヶ月半もいれば友達とも信者ともつかぬ人たちがふえる。新藏、源藏、八兵衛、金次、清藏、長治郎、八郎兵衛、清右衛門、與市、木村氏、清左衛門、貞衛門、醫師令齋、…、ここには書かなかった人たちもいるけれども多くの出会いがあった。みんな親切な人たちだった。そんな人たちが餞別までくれる。江戸時代はいい時代でした。

十二日 曇天大北風。川崎町丸山堂立、辰の下刻。知音の者共見送る。當所より三里相良と云ふ町を通る。此所は先達て田沼氏居城の地、今に城跡あり、北に川あり、高石垣也。東南西は堀跡、石垣少々殘れり、内圍ひ三丁廻り、内は松山、平城、追手南向、門の跡石垣殘れり、北に搦手、此所も門の跡あり、外廓は堀の内諸士屋敷と見へたり、今田畑となれり。余所ながら哀れを催し古へ田沼氏の盛んなりし時を思ひやれり、今は跡形も無くなり、只鷓鴣の飛ぶ計りなれば一句、
   今は只雁の田沼となりにけり
宮の内儀左衛門と云ふに宿す。

榛原郡相良町(現在は牧之原市のうち)まで来ました。相良城は田沼意次が老中になった安永元年(1772)に築造した御城で、いま役場と資料館がある。
賄賂の田沼といわれたり、聡明で進歩的政治家といわれたり、毀誉褒貶さまざまな人ですが、この人のことをちょっと。

田沼意次は徳川吉宗の将軍就任に伴って紀州から赴任してきて、最初は600石の直参旗本として官僚の仲間入りをしました。
九代家重、十代家治に重用されて、明和~天明(1764~89)の頃、側用人、老中、と昇進しました。外国貿易の奨励、商業資本の経済力を利用した重商主義的な積極財政を進めて、そうしてこの間に加増を重ねて65,000石の大名にまで出世しました。
地元では田沼街道というのを開いて、いまの国道150号線という道路で、泉光院が宇都ノ谷峠の所から焼津を出てここまで歩いてきた道とほぼ重なる道を作ったのでした。相良仙台河岸石垣
御城の裏手には仙台伊達藩主から寄進されたという石材(これもワイロだったのでしょうか)で、千石船が発着できるという「仙台河岸」(右の石垣がその一部)という港湾設備を作りそれが今も残っていて、泉光院が見たという川のそばにある高石垣がそれに当たると思われます。

しかし天明六年(1786)、十一代家斉の将軍就任とともに、反田沼派の松平定信の老中就任によって田沼意次は失脚し、隠居させられて、奥州下村(福島県)10,000石に移封となり、相良城は天明七年、完全に破壊されてしまった。泉光院がここに来たのは1817年ですから、30年ほど前のことです。泉光院は田沼時代というのを良く知っているのです。だから今は田畑となってしまっている城跡を見て「哀れを催す」のでしょう。
田沼意次は積極財政、松平定信は緊縮財政、とそれなりに時代の要請もあったと思います。日本でいま必要なのは松平定信タイプの政治家でしょうか。彼が老中に就任すると早速各大名・旗本・諸役人に倹約令を出したのでした。
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2017.08.18 (Fri)

泉光院の足跡 248 腹痛

九日 晴天。滯庵。所用に付町へ出づ、貞衛門赤飯出す、金次郎加持頼みに付行く。十日 同天。無事。仁王三部。
十一日 雨天。米調へに出る、醫師晝過見舞あり、脉(みゃく)合ひ随分宜しきと云ヘリ。夜に入り風雨荒れて波の音高ければ一句、
   波よりも風こそにくし虫選み
十二日 曇天。平四郎病氣余程快方也、されど水汲み、飯炊き、薪取り、野菜調へに町へ出でたり、ああ大儀也。堂の縁に腰打掛け休息一句、
   浮き沈み因果の海や一葉舟
仁王一部。

やっぱり医者に診せると少しは病気もよくなるようだ。しかし2kmも離れた町までお米や野菜を買いに行って、帰りにそこらの山へ入って薪を拾い集め、井戸につるべを落として何杯も水を汲み上げ、飯を炊いたり芋を煮たり、そして病人の看病です。疲れたなぁ、もう。
お堂の縁側に腰をかけて、はるか遠くを見やれば太平洋。この気持ち、誰にしゃべれば気が落ち着くのだろうか。楊柳軒一葉という俳名を持っている泉光院です。何の因果でこんな所まで来て毎日無為に時を過ごしているのだろう。大海に浮かぶ葉っぱのようなもんだ、いまの俺は。
ワタクシも思うときがあります。晩飯を食べたあとの鍋や皿を洗って、明日のお米を研いで、たまには綺麗にしてやろうとクレンザーでシンクを磨いてピカピカになったのを眺めてから、近くのコンビニに行って明日朝の珈琲に入れるシュガースティックを買って、ついでにチョコレートも買ってきて、そうしてパソコンの前に据わって、今日もまたかくてありけり…と一句をひねる代わりに泉光院の境遇に同情しながらこうして指を動かしているこのヨリックという奴はいったい何だ!
   いいえ、それが「生きている」っていう事でございます。
ワタクシも炊事洗濯買物と、毎日イロイロやっておりますが、文明開化の21世紀、泉光院の苦労を思えば何でもないこと。電気に水道、年金に健保、あらゆる便宜がワタクシの廻りを取りまいているのです。その上たまには笛を吹いてみたり、ナナ・ムスクーリのレコードなどを聴きながら、吾身の来し方行く末を思ってシンミリしたりするのです。

牧之原の一面の茶畑が広がっている平坦な台地から菊川の方へ少し降りると「小夜の中山」という難所になります。
廣重版画「東海道五十三次之内 日坂 小夜の中山」。
日坂小夜の中山広重版画

よく見ると道の真ん中に大きな石があって、旅人が足を止めているようです。夜泣石といいます。
夜泣石伝説は実にたくさんあるので、簡単に書いておきましょう。

菊川の里に住む妊婦がいた。久延寺の觀音に信心篤く月に何度も参詣していた。ある日、日坂の途中にある大石のそばで盗賊に襲われ殺される。女の霊がこの石に籠もって、夜になると赤子の泣き声がする。久延寺の住職が見つけて子供は無事女の腹から取り出される。子供は水飴で育てられて成人し、敵である盗賊を討つ。といった話。
バリエーションがいっぱいあるのでほんの骨子だけです。妊婦の名前、子供の名前、盗賊の名前、みんな伝説には書いてありますが、そもそもこの話自体が作り話かも知れません。
日坂久延寺夜泣石
久延寺と境内にある夜泣石。
小夜の中山夜泣石

石は直径1mほどです。


小夜の中山茶屋

左が東海道。小夜の中山道。久延寺の隣りにある扇屋という茶屋。ここで子育飴を売っています。
日坂扇屋子育飴


壺に入っていて(最近はプラスティックの瓶だったりして)、割箸にクルクルと巻き取って嘗める、あの昔懐かしい飴です。硬く作って竹の皮で包んだお土産用の飴もあります。正しくは「子生長飴 こそだてあめ」と言うのだそうです。
日坂名物飴のもち

右は廣重の人物東海道五十三次「日阪 名物飴のもち」です。
左側の看板に「名物 飴のもち さよの中山」と書いてあって、茶屋の女が旅人に呼び込みをしている。
江戸時代中期には既に世に知られた物語になっていたようです。

夜泣石はもう一つあって、島田の方から国道1号線を新大井川橋を渡って急な坂を上がってトンネルを3つくぐってちょっと下って次のトンネルへ入る手前にあります。石のまわりには車を止める程度のスペースがあるのでゆっくり見ることが出来ます。
この石と、久延寺に祀られている石、どっちが本物だろうか。

廣重の絵には道の真ん中にあって、大名行列の時もそのままだった。
明治元年、明治天皇が京から新都「東京」へ上るとき片付けられたとも、久延寺の住職が寺の見世物にしようと久延寺の境内に移したとも、住職は明治十三年に浅草で開催された「勧業博覧会」に見世物に出そうとしたとも、…、いろんな話が伝わっておりますが、もともとは伝説です。深く追跡しないでおきましょう。
小夜の中山街道風景

小夜の中山、峠道です。江戸時代の東海道。
扇屋の所から次第に下り道となり、最後に急坂を下るといまの国道1号線にぶつかるのだが、それを横切って向こう側へ入ると日坂の宿になります。

『東海道名所図会』には「此所の名物に蕨餅(わらび餅)を製して沽(うる)也」とありますが、『東海道名所記』にはこんなことが書いてあります。蕨餅
「葛(くず)の粉にてつくり、豆の粉をまぶして旅人にすゝむるに、往來の人ひだるさ(空腹の事です)まぎれに蕨餅なりと思ひて、つゐに葛餅なりとは知らずかし」と、昔から蕨餅だと言って葛餅を売るのは当たり前だったようだ。右は「本物の」蕨餅。
この頃は葛粉はおろか、馬鈴薯澱粉から作るのが普通らしいです。京都のお菓子屋さんでも売っていたので、「蕨の粉で作ってるんですか」と聞きましたところ、「もちろん本当の蕨粉で作っておりますよ」と店員が答えてくれた。そのお店は、本店だけではなくて、駅ビルやデパ地下などいっぱいお店を出していて、夏の目玉商品で大量に販売しておりますから、どう考えても本物の蕨粉で作れるわけがない。かりに本物の蕨粉で作ったとすればあの値段で売るのは採算がとれない。江戸時代からニセモノがまかり通っているのだから、何を今更、そんなことを聞く方が野暮というものです。

平四郎はどうしているでしょうか。

十三日 晴天。平四郎病氣同斷。無事。仁王一部。
十四日 晴天。今日は予も氣晴しに托鉢に出で、晝時歸り休息す。平四郎は病氣故靈祭りも出來ず余所の祭を見て一句、
   余所ながら見るも手向けか靈祭り
金次より花米一升、清藏と云ふよりと云ふより初尾一包、味噌一重贈らる。
十五日 晴天。托鉢に出る。長治郎と云ふより餅一重上げる。回國乞食境界なれども聖靈へ靈膳を備へんと小豆飯等料理拵へたり。

靈(たま)祭というのは今でいうお盆の行事です。去年は「旅中なればうろつき廻り」、でちゃんと出来なかった。一昨年も托鉢をしているだけだった。その前の年は丹波にいて、聖霊祭のご馳走を所々のお宅で頂いた。
今年はこんな境涯になっているけれどもせめて佛様に御膳をあげなくっちゃ。
お盆に小豆飯を作るのはどこの風習でしょうか。泉光院の故郷なのかそれとも遠州の風習なのだろうか。
小豆餅小豆汁
北陸では小豆汁とか小豆餅などを拵えたりする所もある。
左、小豆餅。
右、小豆汁。

泉光院は小豆飯の他に何を拵えたのだろうか。里芋の煮っころがしとか、茄子の煮付けとか?
ちょっと省略して、

十七日 晴天。仁王二部。夜に入り鹿島明神社内地藏祭りあり詣づ。
十八日 雨天。仁王一部。庚申に付作法す。…
二十日 大風雨寅卯(北東方向)より吹く、夜に入り止む。仁王一部。夜に入り平四郎大癪、腹痛難澁を極めたり、夜明け平癒。

20日は台風が来た日だが、その晩、平四郎が猛烈な腹痛を起こした。癪というのは原因のはっきりわからない胸部・腹部の激痛、腹膜炎・胆石・虫垂炎などの総称なので、平四郎の激痛の正体ははっきりとはわからない。
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2017.08.14 (Mon)

泉光院の足跡 247 平四郎の病気

大井川の河口付近を歩いて渡った泉光院は、

…夫より川尻と云ふ村へ上る。當村百軒計りの處善根宿一軒もなし、州崎と云ふ所に庵室あり、是に行き玉へと教ふ、因て行く、直ちに出來たり。然るに平四郎は托鉢し旁々宿求めたる由なれど一切なし、據なく予が借りし州崎の堂へ來りたり、吾儘にしてもゆかぬ物也。當庵は州崎の堂とて絶景の地也、因て一句、
   夏の外や稻葉浪寄る州崎堂

大井川河口付近地図
対岸の、いまの吉田町川尻という所に着いた。この地図で吉田町と書いてある「町」の字のあたりです。このあたりはいまは養鰻業が盛んで、「吉田の鰻」は一種のブランド化している。
ここでは泊めて貰えそうな家はなくて、州崎へ行って庵室を借りた。平四郎は自分は別の家を借りようと思ったらしいのだが、どこにも貸してくれる家がなくて仕方なく泉光院の借りた庵室に来て泊まることにした様だ。
我が儘を言ってもうまくいきませんでした。
この庵は多少高い所に建っていたらしくて、多分眼下に太平洋があり、東を望めばきっと富士山が見えたのでしょう。

…今晩出家一人同宿、此僧近頃近寺へ住職して此邊見舞に歩けりと云ふ。予に一句望むに付辭せずして短冊に書く。
   西東何障りなし薰る風
廿七日 晴天。平四郎病氣にて據なく滯在。予は托鉢に出づ。圓應院と云ふ山伏あり立寄る。夕方庵室へ歸る。

この庵に僧が一人尋ねてきた。…近寺へ住職して…と書いてあるだけなのだが、きっっと1kmほど離れている能滿寺の僧だったのでしょう。このお寺は大蘇鉄で有名で(日本三大蘇鉄の一)、徳川家康が所望して静岡の城へ移設した所、毎晩蘇鉄が…帰りたい帰りたい…と泣くので(全くウソらしい話)また元の能滿寺へ返したという話。

廿八日 晴天。平四郎病氣少し平癒に付川尻村州崎出、辰の下刻。道々托鉢。川崎村内山堂と云ふに肥後の熊本大社參り夫婦の者居る故に此方へ行き一宿す。
廿九日 内山堂滯在。平四郎病氣養生す。予は托鉢に出で、晝過歸り味噌、薪、藥等調へて川崎と云ふ町へ出たり。水汲み飯炊きしたり。…

川崎という村は今は榛原(はいばら)町といいますが、川崎小学校というのにかろうじて昔の名前が残っている。
泉光院は平四郎という男を合力(ごうりき・荷物担ぎ、飯炊きといった下男役)として雇っているのだが、ここまで来たら病氣だからと言って解雇するわけにもいかない。
この日の日記には愚痴を長々と書かれているのです。
…平四郎は病氣致し不出。予は托鉢に出る、此間托鉢の時分予が托鉢稼ぎ也。儲(はたらき)惡きとて云ひ、自分の托鉢一升多きの二升多きのと云、然れども先日より病氣をして藥代米代、托鉢米の二升や三升多く有りたりとて元へかへる事也。天理自然の道理を不知(しらず)、文盲殘念なる事也。予は飯炊きたり味噌買い等調へに出る。或いは飯炊きする事也。悋なるも時による也。…

泉光院のボヤキ節もわからぬではない。だがお互い苦しいときには助けあわなくちゃ。

卅日 晴天。今日も據なく滯在。諸事調へに町へ出づ、今日も病人看病す。
七月朔日 今日も滯在。病氣は同様の體、藥を煎ずるやら彼是(かれこれ)病人に掛かり居る。毎日町へ調へ物にも出づ。

平四郎は一体どんな病気にかかったのだろうか。あと一ヶ月半ほどの間、泉光院は托鉢をして現金収入を得ながら、町まで買い物、また水汲み薪取り飯炊き、間には医者を呼んだり按摩を呼んで鍼療治をさせたりしている。
いちいち全部書いていてもしょうがないので、大きなエピソードだけにしておきます。

三日 同天。今日迄養生し居たる處、庵主回國者平四郎が病體を見、魂生の町人氣を見て、此庵に永々滯留にては近所の手前も宜しからず、宿を替へ玉へと云ふ。是より十四五丁南町丸山堂と云ふがあり。此方随分宜しき所也と教へ追立つる故、據なく晝時より出立丸山堂へ赴く。…

庵主というのがやって来て、病人がなかなか回復しないのを見て、ここに長いこと居られては近所の手前困るから、と言って、なかば追い出す様にするのです。…丸山堂というのがあってそっちの方がいいと思うよ、…というわけです。
仕方ないから引っ越した。ここだと買い物など町へ出るのに2kmほど歩かなくちゃならない。

五日 晴天。滯庵。仁王一部。米、味噌調への爲め上町へ十八丁計り行く事日に二度三度計り、水も汲む、背(かた)いたし(痛し)いたし。
六日 曇天。段々物入りに付兩替等する。南鐐一片賣、八百七十文。酒屋貞衛門方へ風呂入りに行く。新藏と云ふより加持頼みに付行く。種々饗應あり。

介護の泉光院。主夫業の泉光院。毎日こんな調子です。
お金がなくなったのだろうか、手持ちの銀貨「南鐐」というのを兩替に行きました。
南鐐
南鐐は二朱銀貨です。表面に「銀座常是」、裏面に「以南鐐八片換小判一両」と書いてあります。
四朱で一分(の金貨)、四分で一両(小判)、と四進法です。
この銀貨一枚で870文の銅銭になった。

泉光院たちがここに滞在している間、彼らの通らなかった東海道筋の宿場風景を見ておきましょう。
島田から大井川を渡った先が金谷宿、その次が日坂宿で、掛川宿、袋井宿、と続きます。
島田帯祭1
島田といえば、奇祭「帯祭」というのが3年ごとに行われます。

島田帯祭2

島田に嫁いできた花嫁は晴れ着姿で大井神社にお詣りして氏子となります。安産の祈願をすませてその足で町中を歩いて報告とするのです。しきたりだとはいえ見世物にされる花嫁の方はたまらない。それで帯を大井神社に飾ってから、大奴(おおやっこ)が腰の左右に差した大太刀に丸帯を掛けて練り歩く事になった。
日本髪に「島田髷」というのがあります。名前の由来はどうやらはっきり判らないようです。
髪型島田髷正面島田髷側面
左が普通の島田髷の正面で、右が側面。
ついでに文金高島田も。

文金高島田


大井川には江戸防衛上橋を架けさせなかった、と前に書きましたが、明治12年に蓬莱橋を架けたけれども上流で大雨が降るとたちまち急流となって、しょっちゅう壊れた。技術上の問題もあったでしょう。
蓬莱橋明治12年
蓬莱(ほうらい)橋です。
橋脚も木で出来ていた時代の橋の様子。洪水などでしょっちゅう流されたり壊れたりするので、昭和40年(1965)に橋脚部分をコンクリートにしたのだがそれでもよく壊れる。1997年に「世界最長の木造橋」としてギネスブックに登録された。
長さは897.4mなので、「厄無しの長生きの橋」と呼ばれる。長生きは(長い木)が正しい様だ。人間と自転車だけを通してくれる。料金は大人\100、小学生以下\10。
自転車も\100だそうです。

島田宿から大井川を正規の渡り方で渡った先は金谷宿。
金谷大井川遠岸東海道五十三次

廣重版画「東海道五十三次之内 金谷 大井川遠岸」

大井川の遠岸、つまり江戸から遠い方、ということでしょうか。
蟻が這うように大名行列の一行が行く。


人も駕籠も豆粒の様に小さく描いているので大井川の大きさが強調される。
最後尾は殿様の御駕籠。これを20人以上もの人足が大高欄輦台という豪華な輦台に乗せて運んでいる。
渡った先が金谷の宿です。
金谷石畳
無事に大井川を渡った旅人は、金谷の宿に着くと「水祝い」として一杯やった。箱根の峠を越えたら「山祝い」というのをやったのと同じ意味合いを込めて。

金谷の宿を出るとすぐさま急な坂を登ります。JR東海道線金谷駅の手前を左へ曲がって、線路の下を抜けると右のような石畳の道が出てきます。
以前から石畳はわずか残っていたのだが、金谷の町民が、一人一石運動、というのをはじめて、みんなで一個ずつ石を運んでご覧の様な立派な石畳道が出来た。しかし歩きにくいですねぇ、これは。底の硬い革靴だと石が丸いので気をつけないと滑ったりする。女の人のハイヒールはとても歩きにくい様だ。草鞋であれば全く問題なく足をやさしく乗せてくれる。ウオーキング用で底の柔らかい靴を履いて、つま先でバランスを取って石の上に乗せるといい。
登り切った所は一面の茶畑。
金谷茶畑一面
明治維新になって幕府のお侍サンたちはみなさん失業したわけですが、最後の将軍徳川慶喜さんに従っていたお侍さんは慶喜サンの力もあって荒れ地だった台地を開墾して茶畑にしたのです。
電車に乗っていると北側の窓から「茶」の字が見えて楽しい。
茶の字

静岡県のお茶は、生産量だけは全国一の筈です。出もこんなに日当たりのいい場所では美味しいお茶が出来るのだろうか。上等のお茶はやっぱり少し谷になっていて、霜がおりずに霧が出るようなやさしい地形とおだやかな風の吹く様な風土がいいのではないかと思います。

平四郎の病氣はどうなっているでしょうか。

七日 昨夜より今朝迄雨。滯庵。施餓鬼略作法相勤むる。七夕なれども平四郎は大病、旅中の七夕一句、
   七夕や只短冊を見るばかり
貞衛門、源藏と云ふ宅へ祝儀に行き種々馳走、木村八郎兵衛と云ふより祈念頼む、仁王二部、
八日 晴天。滯庵。今日迄は賣藥計りにて醫師に見せず、因て日々病氣重る様見ゆるに付、庵主共々醫師に見せんと言へども平四郎聞きいれず、據なく止む。仁王一部。加持人來る。今日も木村氏より祈念頼みあり初尾來る。今日は貞衛門と云ふに頼み、醫師令齋と云ふを頼み來り是非にとて見せたれば、是れ大病也と云へり。煎藥五貼直ちに煮じ服さしむ。丸山境内に火葬場あり、無常の煙りを見て一句、
   秋風やだびの烟は余所ながら
金次と云ふと云ふ宅加持頼みに付行く。

七月七日は七夕。新暦だと8月19日でした。お盆近くだから施餓鬼法要をやりました。泉光院も竹に短冊を吊す、なんてことをやったのだろうか。江戸時代にやっていた行事は平成の今もずっと続いているようだ。だが病人が居るので吊した短冊に一句を書き込む気にはならない。

平四郎は売薬を飲むばかりで、医者に診て貰うのを拒否するのです。医者に診て貰うとお金がかかるのです。
貞衛門さんに頼んで令齋という医者に来て貰った所、…是れ大病也…と言って煎じ薬を五袋くれました。いったいどんな病気だったのだろう。症状など書いてないので見当もつきませんが、なにしろ大病のようです。とりあえず薬を煎じて飲ませた。
この丸山堂の境内には火葬場が併設してあるらしくて、たまたま火葬があったのだろうか。荼毘の煙が立ちのぼるのを見て、改めて人生の無常を感じた。普段は「今日も昨日の如くありけり、明日もまた今日の如くありなむ」と生死の事など全く念頭になく暮らしているのだが身近でこんな事があると、「諸行無常」の偈が心に浮かぶ。
14:54  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2017.08.11 (Fri)

泉光院の足跡 246 大井川

泉光院が宇都ノ谷峠を通った頃はもうすでに蔦の細道は使われなくなっていた。
豊臣秀吉が天正十八年(1590)に小田原攻めを行った際、大軍を通すために新しく道を作りました。前号のはじめに載せておいた宇都ノ谷峠略図で、青色、東海道、と書いた道がそれです。
本能寺の変で織田信長が死んだのは天正十年(1582)。まだ信長の部下で羽柴秀吉と名乗っており、備中高松城の水攻めで苦心していた時、信長が殺されたことを知って急遽毛利輝元と和睦して引き返し、山崎の合戦で信長殺しの犯人である明智光秀を滅ぼし、それからというもの、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を、四國の長宗我部元親を降伏させ、九州の島津義久の降伏・・・次々と敵対勢力を滅ぼして、関白太政大臣となり、朝廷からは豊臣の姓を頂戴し、小田原の北条氏政を攻めて、その時奥州の伊達政宗を服属させたのでした。そのあいだ8年間。実に短期間に戦国大名のトップに立ったのでした。それというのも、秀吉の戦争の仕方は従来の戦争とはかなり違っていたのです。先に書いたように、大軍を通すために新しく道路を作る、というような奇想天外な方法を使ったのでした。そしてその道路はそのまま江戸時代になっても東海道として大名の参勤交代に使用できる立派な道路でした。

泉光院は宇都ノ谷峠を下ってから、東海道から離れて大井川の下流、海岸近くへ行って渡し賃を払わずに川越をしようと思っているようです。
一応、正規の東海道を少し見ておきましょう。
岡部柏屋夕刻

左は岡部の宿に今も残る大旅籠、柏屋(かしばや)です。
文政年間、天保年間、と2度の火災に逢いましたが、天保七年(1836)に三代目として建てられたこの建物は当時の旅籠の様子をかなり忠実に残しているようで、現在は資料館として公開されています。


岡部の宿を過ぎると藤枝です。
江戸幕府は「街道」を制定するにあたって、単に人間が通る道筋を決めて整備する、というだけのことではなくて、公共の交通及び貨物運輸・宿泊・休息・通信などに関する設備、法令など一切を整備し管理しました。
担当は道中奉行と言って、大目付と勘定奉行の中から各一名が兼務します。
大目付は諸大名や高家などを監視し、法令の作成・発布・周知をはかるなど内閣官房のような役目で、定員は5人ほどで、通常は高位の旗本から選任されますが、待遇は大名格となります。勘定奉行も旗本から選任されて、定員は4~5人で、幕府の財政を管理します。財務省といったところでしょうか。この中のやはり最高位の人が道中奉行を兼務(正式には兼帶といいました)しました。
宿場には、参勤交代で往復する大名や、宮廷の高位の人の往来、幕府の役人などの宿泊施設として、本陣・脇本陣などがあり、貨物運搬のための馬や人足などの手配をする問屋場というのがあって、問屋場には宿役人として問屋、年寄、帳付などがいて、人足指(さし)、馬指(さし)といった人が指揮をして荷物の取次などをしていた。街道(東海道・中山道・奥州道中など)というのはこういった交通システム全般が円滑にいくように運用されているのでした。
藤枝人馬継立東海道五十三次之内

廣重版画「東海道五十三次之内 藤枝 人馬継立」です。これは宿場の風景と言うよりは、問屋場での荷物の継ぎ立てをしている図。
この画面では、前の宿場から到着した荷物を馬から下ろす人足の様子や、次宿への運搬の指示を出す人が居たり、仕事を終えた馬が奥の方で飼葉桶に首を突っ込んでいたりして、忙しい問屋場の様子を描いています。

藤枝宿の名物は染飯(そめいい)でした。藤枝瀬戸の染飯
藤枝の宿場を出ると、「名物染飯 瀬戸村の茶店に売る也。強飯を山梔子(クチナシ)にて染め、それを擂りつぶし小判形に薄く干し乾して売る也」で、この干したものはその都度蒸し返して出したものと思われる。そのまま携帯食にもなったのかも知れない。今でも右のように折詰のお弁当型のと竹皮包みのおにぎり型のを売っている。おにぎりの包み紙は当時用いられていた版木が残っていたので、「名物・瀬戸御染飯」の印刷がしてある。

♪越すに越されぬ大井川♪といわれた大井川は、なにしろ東海道第一の大河で、「霖雨降止ずして水かさ増しぬれば、川止めとて東西の驛中所せまくまでふさがり、一驛二宿も後へもどりて水の落るを待もあり」、となるのです。
嶋田大井川駿岸東海道五十三次

廣重「東海道五十三次之内 嶋田 大井川駿岸」。
大井川は川幅が十三丁(約1.3km)あって、流れも速く東海道では最も危険な場所の一つだった。幕府はこの川を江戸の防衛線として、架橋や舟渡しをさせなかったので、川越人足が輸送手段となり、旅人は輦台に乗ったり、肩車で川を渡った。
渡し賃は、1.股通し 48文 2.帯下通し 52文 3.脇通し 94文 まであり、これは水深をあらわしたもので、最高の脇通しで四尺五寸(136cm)、それ以上は川止めで、御状箱(幕府などの公式文書を入れた箱)だけを通し、五尺(152cn)以上になるとそれも止めてしまった。大井川川会所
川を渡りたい者は川岸にある川会所(右)という所でお金を払って、「割符」という油紙でできた切符のようなものを買って、渡るときには人足一人に一枚を出した。
泉光院は渡し賃を払うのは嫌だから、川下の浅いところを自分の足で歩いて渡るつもりです。

…宇津の山と云ふを越へ、岡部の驛迄半道にして左右に道あり、右は本街道、左は在道、大井川の下海際を越す道也、因て托鉢し乍ら此方へ赴く。然るに小川村と云ふに靈佛の地藏を安置す、此方へ詣づ。…
焼津海蔵寺

焼津の湊近く、小川村の海藏寺の延命地藏が靈佛であると聞いてそっちへ行きます。右が海藏寺の本堂。このお寺では紀伊大納言、紀州の殿様が参勤交代で帰る途中こんな事があった。

…此地藏は紀州公先年大井川洪水にて廿日の御滯留あり、其時此地藏霊驗新た也と聞し召され御宿願ありたる所、直ちに水落ち紀州公御越しあると跡は又直ちに洪水となり、又十日留りたり、因て今に御信心あり、御代參毎々と聞けり。因て此方へ赴く。…

紀州の殿様は大井川で20日間も川止めをくらって、ここのお地蔵さんが霊験あらたかと聞いてお詣りしたところ、すぐに水が引いて渡る事が出来た。殿様が渡ったあとですぐにまた洪水になって10日間川止めになった。だからそのお礼に紀伊大納言徳川頼宜がお堂を建てた。本当かどうか分からない話ですが、紀州公奉納の金製の地藏もあるという。そして翌日、

廿三日 晴天。大村新田滯留にて小川地藏へ立場す。納經し夜に入り歸る。

小川地藏は參詣人が多いので、そこで立場をした。立場というのは人通りの多い所で一ヶ所に立っていて托鉢をするのです。ワタクシが泉光院のことでメールなどを書いていた頃のことです。浜松に一つしかない駅前のデパートの前の、この前の空襲の時に焼け残ったというポプラの大きい木の下で、伊予国から来たという青年僧が立場というのをやっていました。で、ワタクシは彼になにがしかの喜捨と、話のついでに泉光院の資料なども渡してしまった。ワタクシの見ていた間にもかなりの人が青年僧の鉢の中にお金を入れていたようだった。泉光院もある程度の喜捨を頂いたことでしょう。

いまの大井川町相川、中禰、小杉といったあたりを歩いているのだが、この辺は漁師町で泊めてくれる家もなく、手持ちの米もなくなって情けない思いで歩いている。

廿四日 晴天。大村立、辰の刻。アイ川通りとて濱往還へ行く、日も西山に落ち、宿求め、又米も調へ度方々尋ぬれども米屋もなく宿もなし。然る處此處に名主の隠居あり、彼の宅にて米無心言ひ玉へと云ふ者あり、因て其方へ行き米無心言ふて調へ、又一宿の宅など尋ねたる處此邊には善根宿一軒もなし、拙宅へ一宿し玉へと云ふ、是れは忝しとて直ちに宿す。朝暮振舞あり、中禰村増平と云ふ宅、一句前あり略す。
   汗臭き身を忘れたる舎り哉

親切な人がいて宿と食事にありつきました。

廿五日 晴天。中禰村立、辰の刻。下小杉村と云ふへ托鉢の處草鞋法施の家あり、休息し、折よしと一宿を無心す。即時出來朝暮振舞に逢ふ、平八と云ふ宅。予が托鉢無精とて平四郎甚だ不機嫌也。
廿六日 晴天。下小杉村立、辰の刻。平八郎は頭痛するとて薬を調へ服す。昨日精出して取り貰ひたる托鉢米よりは藥代に多く取られたり。ハブチ新田と云ふ村より大井川へかゝる。渡り瀬知れざる故に一軒家に尋ね立ち寄りたる處、主人仁者にて、道六丁計り行き大井川の瀬三つありとて、渡り様教えられたり。深き處尺五六寸あり皆浅瀬也。川廣さ十町位、下は直ぐに波打際也。…

草鞋をタダでくれる、という家があって、そこで休息して、この辺、泊めてくれる家が少ない様なので、一宿を申し込んでみたらすぐOKしてくれた。ところがそれが平四郎には気に入らない。泉光院は托鉢に精を出さずに直ぐに泊まることを考える。俺はもっと托鉢で稼ぎたいのに、というのが本音。それで欲求不満が昂じてふて腐ったり逆らったりする。そして泉光院と仲違いをする。
だがこの時、平四郎が「頭痛がする」といって薬を買って飲んだ。昨日托鉢で稼いだよりももっと沢山薬代に取られてしまった。そして実はこれが平四郎大病の前兆なんです。次の日から一ヶ月半ほども平四郎は動けなくなるのです。
大井川河口
左は大井川河口付近。
渡る場所を教えて貰おうと思って立ち寄った家の主人は「仁者」であって、わざわざ河口まで来て教えてくれた。この海際のところを渡ればいいよ、と。そこだと深い所でも40~50cm。膝下くらいです。なぁにわざわざお金を払って肩車や輦台に乗って渡る事はありません。
右の絵の様に、女の人やお殿様の駕籠のような場合ならやむを得ません。高いお金を払って川越人足を雇わなくちゃならないでしょう。大井川川越図部分広重
この水位だと、前の方に書いておいた様に、人足一人の料金がこの場合最高の、脇通し94文で、輦台を担いでいる人足が6人だから564文、これに輦台の借用料が人足二人分だから、全部合計で752文になる。大した出費です。
余分なことだが、参勤交代で大名行列が渡る場合の費用を考えると、さぞ高いものについたでしょうね。
加賀の殿様の一回の参勤交代の費用が、今の貨幣価値で考えた場合、7億円くらいはかかったと言います。これを一年交替で江戸と國元を往復するのだから、藩財政が逼迫するのも無理はない。大井川河口付近地図

泉光院たちは川下の誰も居ないところをジャブジャブと渡って無事「越すに越されぬ大井川」を渡った。
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2017.08.05 (Sat)

泉光院の足跡 245 宇津ノ谷峠

岡部宇都之山東海道五十三次之内


廣重版画「東海道五十三次之内 岡部 宇津之山」の情景は、鞠子と岡部の間を遮る峠。わずかにのぞく空、鬱蒼とした森、盛り上がる山の奥深さ、その山あいの道を柴を背負った樵たちと薪を背負った女と旅人らしいのが通る。泉光院も通る。

廿二日 朝雨。鞠子驛立、辰の刻。宇津の山と云ふを越へ、岡部の驛まで半道にして左右に道あり、右は本街道、左は在道、大井川の下、海際を越す道也、因て托鉢し乍ら此方へ赴く。…

丸子を出た泉光院は、東海道(泉光院の言う本街道)を下って、岡部の宿の手前の坂下という所で焼津の方に向かう道へ入ります。正規の東海道は岡部・藤枝・島田と進んで大井川を渡ることになるのですが、どうやら泉光院はそれをいやがって、大井川のずっと下流の方、海岸近くを歩いて渡るつもりなんです。

岡本かの子にもう少しつきあいましょう。
宇津ノ谷峠略図

右にのせたのは宇都ノ谷峠の略図。丸子を出て峠の下に掛かると、「蔦の細道」と入れておいたオレンジ色の旧道と、東海道と書いてある青色の道に分かれます。

左が蔦の細道の入口を示す道標です。
蔦の細道道標



 …「さあ、これからが宇都ノ谷峠。業平の、駿河なるうつの山辺のうつゝにも 夢にも人にもあわぬなりけり、あの昔の宇津の山ですね。登りは少し骨が折れましょう。持物はこっちにお出しなさい。持ってあげますから」
 鉄道の隧道が通っていて、折柄,通りかかった汽車に一度現代の煙を吐きかけられた以後は、全く時代と絶縁された峠の旧道である。左右から木立の茂った山の崖裾の間をくねって行く道は、ときどき梢の葉の密閉を受け、行く手が小暗くなる。そういうところへ来ると空気はひんやりとして、右側に走っている瀬川の音が急に音を高めてくる。何とも知れない鳥の声が、瀬戸物の破片を擦り合わすような鋭い叫び声を立てている。…
蔦の細道

いまは蔦の細道と呼ばれるようになった旧の東海道の道筋は保存されています。ワタクシも一度だけ通ってみました。
この道はその昔、『伊勢物語』に登場する在原業平も通りました。「第九段 東下り」の段です。
この段は、三河国八橋というところで「かきつばた」の五文字を句の上にすゑて旅の心を詠むくだりがあって、次に駿河国の宇津の山を越えます。
蔦の細道俵屋宗達東下り

左は俵屋宗達の描いた「伊勢物語図色紙」の中の「宇津山図」(MIHO MUSEUM所蔵品)。

『伊勢物語』の主人公である「をとこ」、それは多くの場合貴公子であり、歌に秀で、優雅で情の豊かな男です。読者はその「をとこ」が在原業平(ありわらのなりひら)あることを思い浮かべながら読むのです。

蔦の細道深江蘆舟屏風絵
昔ありける男が登場し、女あるいは男と歌を交わし、華やかな色彩としめやかな情緒のある短いお話を積み上げることでこの伊勢物語は構成されています。
今度は琳派の絵師深江蘆州の屏風絵に描かれている蔦の細道(部分)です。右端の青い衣を着た男が業平だと思われます。

もう一度第九段の所に戻って、

   東下り
むかし、をとこありけり。そのをとこ、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、あづまの方にすむべき國もとめにとてゆきけり。

男は自分を「えうなきもの」と思い捨てて都を離れ、東国へ行きます。何で「要なき者・用なき者」と思い詰めたのか、藤原氏との権力闘争で敗れたからだろうか、それとも、清和天皇女御であり藤原良房の女(むすめ)である二条后高子(たかいこ)との恋がとげられなかったからだろうか。かきつばた八橋

をとこは八橋で、             
 から衣きつつなれにしつましあらば
    はるばるきぬるたびをしぞ思ふ
と詠んで涙を流します。
右は愛知県の知立あたりだっただろうかカキツバタの名所、八橋の風景。木の橋をこの写真のように曲げて組んであるのが八橋の特徴です。
そしてこの歌の句の頭に、「か・き・つ・は・た」の文字を読み込んであるのです。

 ゆきゆきて駿河の國にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心細く、すずろなるめを見ることとと思ふに、修行者あひたり。「かかる道は、いかでかいまする」といふを見れば、見し人なりけり。京にその人の御もとにとて、文かきてつく。駿河なるうつの山邊のうつつにも夢にも人にもあはぬなりけり。

宇都ノ谷峠を蔦の細道というのは、この段に、細い道に蔦楓が茂ってもの心細く、と書いてあるからでしょう。
こんな所で修行者から「どうしてこんな所をお通りなさる」と声を掛けられたので見たら知っている人だった。それで文を書いてその修行者に託したのです。
「人」というのはもちろん「好きな人」であり、「御もとに」ですからその人は高貴な女性です。昔の人は相手の人が心に想っていてくれると夢に現れてくる、と思っていましたから、駿河の國まで来てみれば、現(うつつ)にも夢にもあなたに逢うことが出来ない、あなたはもう、私のことをお忘れでしょうか、と嘆いて文を書くのでした。
何れまた書きますが、第六十九段「狩の使」の伊勢斎王恬子(やすこ)さんも、「君や來し我や行きけむおもほえず 夢かうつつか寢てかさめてか」と詠み、業平も「かきくらす心の闇にまどひにき 夢うつつとはこよひ定めよ」と返しています。昔の人の心には、夢とうつつの間は大きな距離はなかったように思われます。

もう少し後になってから書きますが、泉光院も遠州沖之須という所の庵に泊まっていたとき、そこの尼イワという人に手紙を託されて、美濃國田栗村の政藏という弟の家まで届けています。いつの時代でも修行者は全国を渡り歩いているので、文を届ける、という用事も頼まれたのでしょう。昔の人は「面倒くさい」などとは思わずに引き受けたようです。

この峠は、歌舞伎「蔦紅葉宇都谷峠 つたもみじうつのやとうげ」では百両の金を持っていることを知った十兵衛が、座頭の文弥を殺す場面に使われるなど、やはりここは難所でした。
岡本かの子に戻ります。

 …私は芝居で見る黙阿弥作の『蔦紅葉宇都谷峠』のあの文弥殺しの場面を思い起こして、婚約中の男女の初旅にしてはあまりに甘くない舞台を選んだものだと私は少し脅えながら主人の後について行った。主人はときどき立ち停って「これどきなさい」と洋傘で弾ねている。大きな蟇が横腹の辺に朽葉を貼りつけて眼の先に蹲(うずくま)っている。私は脅えの中にも主人がこの旧峠道にかかってから別人のように快活になって顔も生々してきたのに気づかないわけにはいかなかった。洋傘を振り腕を拡げて手に触れる熊笹を毟って行く。それは少年のような身軽さでもあり、自分の持地に入った園主のような気儘さでもある。そしてときどき私に「いいでしょう、東海道は」と同感を強いた。私は「まあね」と答えるより仕方がなかった。
 ふと、私は古典に浸る人間には、どこかその中にロマンチックなものを求める本能があるのではあるまいかなど考えた。あんまり突如として入った別天地に私は草臥れるのも忘れて、ただ、せっせと主人について歩いて行くうちどのくらいたったか、ここが峠という展望のある平地へ出て、家が二三軒ある。「十団子も小粒になりぬ秋の風という許六の句にあるその十団子を、もとこの辺で売っていたのだが」 主人はそう言いながら、一軒の駄菓子ものを並べて草鞋などを吊ってある店先へ私を休ませた。…
十団子許六石碑
これから結婚しようと思っている若い男女の初旅にしては、いくら物語の上でのことだとしても殺人事件の舞台となった、人通りもない、ヒキガエルのウロウロしているような淋しい峠を連れて歩くのはどうかと思われる。右の石碑は慶龍寺境内にある許六の句の石碑です。許六「十團子も 小粒になりぬ 秋の風」と書いてあるのが読めます。
十団子

十団子(とおだんご)は室町時代から峠道の民家で売っていたようで、杓子で十個ずつ掬って腹を減らした旅人に売っていた。柴屋軒宗長がここへ来た大永四年(1524)には、急な雨で雨宿りをしていて、街道名物というその団子を食べていたようだし、小堀遠州も辛酉日記に「十づつ掬ふによりて とをだむご と云ふ也。」と書いている。
森川許六(きょりく)は元禄時代の俳人で芭蕉の門人だった人ですが、ここへ来たのは小堀遠州が通った1621年よりも多分7~80年後だから、その頃は話に聞いていたよりも少し小さくなっていたのかも知れない。
東海道線に汽車が通るようになって、峠を越える旅人が少なくなって、団子の販売では生活が出来なくなってだんだんやめる家が出てきた。宇津ノ谷峠十団子寺
そこで慶龍寺(右)では8月23・24日の延命地蔵尊例祭の時に参拝客に「魔除け」として売るようになったのが現在の十団子です。
いまお寺ではちっちゃい団子を10個紐でつないだのを九つ束にして、上にのせておいた写真のような形で売っているようです。玄関先に魔除けとして吊しておくのです。

 …私たちがおかみさんの運んできた渋茶を飲んでいると、古障子を開けて呉絽(ごろ)の羽織を着た中老の男が出てきて声をかけた。
「いよう、珍しいところで逢った」
「や、作樂井さんか、まだこの辺にいたのかね。もっとも、さっき丸子では峠に掛かっているとは聞いたが」
と主人は応える。
「坂の途中で、江尻へ忘れてきた仕事のことを思い出してさ。帰らなきゃなるまい。いま、奥で一杯飲みながら考えていたところさ」
 中老の男はじろじろ私を見るので主人は正直に私の身元を紹介した。中老の男は私には丁寧に、
「自分も絵の端くれを描きますが、いや、その他、何やかや八百屋でして」…

ここで作樂井さんが登場しました。主人と杯の応酬をしながら東海道のことを話しているのですが、「私」が退屈をしている様子に気を遣った作樂井さんが、

 …「奥さん、この東海道というところは一度や二度来てみるのは珍しくて目保養にもなっていいですが、うっかり嵌まり込んだら抜けられませんぜ。気をつけなさいまし」
 嵌まり込んだら最後、まるで飴にかかった蟻のようになるのであると言った。
「そう言っちゃ悪いが、御主人なぞもだいぶ足を粘り取られているほうだが」
 酒は好きだがそう強くはない性質らしく、男は赭(あか)い顔に何となく感情を流露さす声になった。
「この東海道というものは山や川や海がうまく配置され、それに宿々がいい具合な距離にあって、景色からいっても旅の面白みからいっても滅多にない道筋だと思うのですが、しかしそれより自分は五十三次が出来た慶長頃から、つまり二百七十年ばかりの間に幾百万人の通った人間が、旅というもので嘗める寂びしみや幾らかの気散じや、そういったものが街道の土にも松並木にも宿々の家にも浸み込んでいるようなものがある。その味が自分たちのような、情味に脆い性質の人間を痺らせるのだろうと思いますよ」
 強いて同感を求めるような語気でもないから、私は何とも返事しようがない気持ちをただ微少に現して頷いてだけいた。すると作樂井は一人感に入ったように首を振って
「御主人はよく知ってらっしゃうが、考えてみれば自分なぞは――」
と言って身の上話を始めるのであった。…
現在の宇津ノ谷峠
こちらは現在の宇津ノ谷峠。宇津ノ谷峠の集落があって、お羽織屋といった建物もあります。

作樂井の身の上話は省略しますけれども、34才の歳になってふと商用で東海道へ足を踏み入れたのがきっかけで東海道をウロウロし始めるのです。あまりにたびたび家を空けるので妻は愛想を尽かして子供を連れて家を出てしまい、この男は器用な男だったので、表具やちょっとした建具。左官の仕事が出来て、襖を張り替えてそこに書や絵を描く、こんな事を生業(なりわい)にしているうちに深みにはまりこんで東海道から抜け出せなくなってしまうのです。
この時の「私」の旅はこれで一旦終わって、島田から汽車で帰ります。


 …結婚後も主人は度々東海道へ出向いた中にも私も二度ほど連れて行って貰った。その時は私も形振(なりふり)構わず、ただくすんでひんやりと冷たいあの街道の空気に浸りたい心が急いた。私も街道に取り付かれたのであろうか。…

岡本かの子にはまた後ほど三河の八橋とか關・亀山あたりで登場を願うことにして一旦休んで頂きましょう。
ワタクシも街道の魔力に心惹かれた一人かも知れないのだが、西行のように妻子を振り捨てて家を出るほどの勇気も才覚もなく、作樂井サンのように会社に辞表を出して街道に嵌まり込むほどの夢とロマンも持ち合わせていなくて、凡々と今まで生きてきてパソコンの前に据わって指先を動かしているに過ぎないのです。

ちから姫サマからコメントを頂きました。コメントを少し引用させていただきます。
♪私も十団子を魔除けとして玄関に吊るしてあります。地蔵盆の時求めてきました。・・・
そうですか。いいですねぇ。これが文化なんでしょう。
ワタクシなんぞ話を聞いたり本で読んだりしたことを知ったかぶりをしてずうずうしく書いているだけなのだが、ちゃんと実践していらっしゃる方からコメントを頂いたのです。本当にありがとうございました。

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