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2017.10.19 (Thu)

泉光院の足跡 261 熱田明神

廿七日 晴天。大西風。大濱驛立、辰の刻。尾州の内鳴海驛へ夕方着き宿す。

大濱から鳴海までの間に池鯉鮒の駅があります。
今は知立と書いているのだが、昔は池鯉鮒、雉鯉鮒、千鯉鮒などいろいろ書いた。地名の由来はこの場所に神池があり、鮒や鯉が生息していたからだという。
来迎寺一里塚
八橋のお寺への曲がり角あたりに来迎寺一里塚(右)が左手に見える。その先に常設の馬市があって、「毎月四月廿五日より始て五月五日に終わる。驛の東の野に駒を繋ぐ事四、五百にも逮(およべ)り。馬口勞(ばくろう)、牧養(うまかい)集りて馬の価を極るを談合松といふ。」

広重池鯉鮒首夏馬市

廣重「東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市」
馬市が開かれると4~500頭の馬が甲信越地方から集められて競りにかけられた。
この絵に見える松の木、これが「談合松」だろうか。
知立馬市の碑
知立の、この馬市の立ったあたりに、廣重の馬市の画を入れた案内看板が立ててあって、その向こうに馬の銅像がある。
馬市がたつと、馬を売買する人、それを見物する人、またそのような人を相手にした、いかさま賭博師や大道芸人、藝者、といった人たちも大勢集まってきてたいそうな賑わいを見せたと言います。
馬は高価な商品です。それがたくさん集まるのですから取り扱う金額も大きなものだったでしょう。中には大金を手にはしてみたものの、バクチや女に手を出してスッテンテンになった人も居るに違いない。

池鯉鮒の宿を出て馬市の野を過ぎると境川という小さい川を渡って三河國から尾張國へ入ります。名鉄名古屋本線に沿ってしばらく行くと桶狭間古戦場跡への入口が左手にありまして、そのすぐ向こうが有松の町並。
広重鳴海名物有松絞

廣重「東海道五十三次之内 鳴海 名物有松絞」
有松街並現在

こちらは今の有松の町並。

慶長年間、17世紀初頭に九州の豊後絞りを手本にして始められた「有松絞り」の産地です。
一粒一粒、糸をくくってゆく作業はいまでも女の人の手仕事に支えられて作られます。総鹿の子の振袖ともなると絞りの数は20万個にも及ぶといいます。

有松絞反物有松絞絞る人

廣重の絵に描かれている建物と同じような建物の中で、いまも同じような工程で作られているのだと思います。
千本格子と漆喰塗籠(しっくいぬりごめ)の問屋や、絞り倉、藍倉がそのまま残っている町です。有松絞会館というのがあって、そこで実演や展示をしています。
泉光院にとっては何の感興もわかなかったと見えて素通りしました。
廿八日 晴天。鳴海驛立、寅の刻。熱田明神に詣納經。諸人知る處なれば略す。本社南向、境内五丁四方計り、社務御師宅多し。…
熱田神宮拝殿

草薙剣を御神体として祀るのが熱田の宮。
ヤマトタケルが東の方の「まつろわぬ」者共を征伐する時に、伊勢神宮に参拝して倭姫命から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授かり、これで敵の火攻めを防いだ、というので草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付け、この時の火攻めに逢って草をなぎ倒した場所が静岡市日本平の「草薙」なのでした。
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廣重の「東海道五十三次之内 宮 熱田神事」
は、毎年五月五日に熱田神宮で行われていた神事、「馬の塔」を描いたものです。
広重宮熱田神事東海道五十三次

馬の塔、発音する時はなまって「おまんと」というのですが、この神事は近隣の村から熱田神宮に馬を献上する行事で、本馬と俄馬(にわかうま)とがあって、廣重の画は俄馬の方を描いています。

本馬は、いわば正式な手続きで献上する馬です。村の名前を書いた札や御幣などで飾った馬に、長い綱をつけて、着飾った大人や子供が行列を作って奉納します。
ところが俄馬の方は、裸馬にコモのような物を巻き付けて(上の絵でもわかりますね)、趣向を凝らした衣装を着けた男共が跡綱というのを引っ張って走る。
手前の茶色の馬を引っ張っているのは有松絞りの袢纏を着た男たち、奥の白い馬を引っ張っているのは紺染めの袢纏を着た男たち。町の女も通りがかりの旅人たちもこの珍しい行事に目を見張っている。本馬の行列よりもこの俄馬の方が荒々しくって見応えがあるし、どこのお祭でもそうなのだが、血気盛んな荒男がこの日ばかりは有り余るエネルギーを爆発させる、というのが民間の「お祭」でもあるのです。
フンドシ一貫で、御神輿を振り回したり、火のついた松明を抱えて走り回ったり、一番先に御札を取るために雪の積もっている石段を駆け上がったり、大凧の綱を力一杯引っ張って空高く上げてみたり、・・・・そうして女たちもやはり男のそういう勇ましい姿を見るのが楽しみでもあるのです。

東海道は宮宿から船で三重県の桑名宿まで「七里の渡し」といって海上を渡るのが正式ルートでした。海が嫌いは人は佐屋廻りという内陸路もありました。こちらの方は陸上を六里歩いて、川船で三里下って桑名に着きます。たくさん歩かなくっちゃなりません。海上ルートの方は大きな船に乗って居眠りをしていてもちゃんと着きます。

海上ルートの方をちょっとだけ書いておきましょう。
宮宿は熱田の宮の門前町であると同時に桑名へ行く七里の渡しの乘船場でもありました。熱田神宮の正面で左折すると熱田湊の常夜灯と呼ばれる「高櫓の神燈」と「時の鐘」が残っています。

常夜灯のような石造りの建造物を建てるときは道中奉行の許可が必要で、また灯油と、その点滅の仕事も建築主の負担になります。七里の渡常夜灯と鐘楼

この常夜灯は寛永二年(1625)、尾張藩付家老で犬山城主でもあった成瀬正虎が建てて、永代灯明料として田地五十畝(約5000㎡)を聖徳寺に寄進して管理を依頼したのです。すると聖徳寺ではその田地から上がる収入で油を買って、点灯・消灯を仕事として続けるわけです。もちろん寺僧がやってもいいし、人を雇ってもいいのです。
この常夜灯は寛政三年(1791)、火災に遭ったので正虎の子孫の成瀬正典によって再建されました。上の写真の常夜灯はその時のものです。
船便は、朝の一番船は明け七つ(午前4時頃)に艫綱を解きました。
『東海道名所記』万治元年(1658)の項には、「そのかみは、何時(なんとき)にても船を出しけれ共ちかき頃、由井正雪が事よりこのかた、晝の七つ過ぬれば船を出さず」と書いてあって、慶安四年(1651)以降、午後4時を過ぎると船を出さなくなった。
(由比正雪はという人は、三代将軍家光の死後、江戸幕府を倒そうとしたのだが、計画《慶安の乱》が露見して、慶安四年、駿府で自殺したのでした)
そして翌朝まで、この常夜灯を点灯して、まだ船を出してはいけない事を明示する役割をさせたのでした。その横にある時の鐘は、船出や時刻を告げた鐘で、戦災で鐘楼は失われたのだが、鐘は残ってこのように鐘楼も新しく造られました。

熱田湊の図
左が熱田湊の圖。真ん中に鳥居が見える。これは遙かこの方向にお伊勢さんがあるのです。ここから船に乗って伊勢神宮へお詣りに出かけたのでした。右の写真はそのあたりの現況。七里の渡現在の風景

昔はここからすぐ伊勢湾になっていたのだが、いまはずっと向こうまで陸地になってしまって、堀川の岸がわずかに湊だったことをうかがわせている。
船に乗ってみましょう。
岸壁を離れた船は、帆を上げて舳先を桑名に向けます。晴れていて波が静かなら景色は素晴らしい。
名古屋城天守閣鯱
海から見る熱田の宮のみどり濃い森は美しく、濃尾平野は広々と墨絵のように霞んで見える。熱田の宮の向こうに聳えているのは名古屋城。その屋根に光るのは金の鯱。大判を1940枚使って作った。
いまのお金にすれば6~7億円にもあたるでしょうか。
目を転ずれば右遠くに鈴鹿の山々が波打つように連なっているのが望め、左は大海原へと続く伊勢湾が目の届く限り続いている。お客は船の胴の間に寝そべったり酒を飲んだり戯れ言に興じているうちに桑名へ着くのでした。

ところで船賃ですが、『東海道中膝栗毛』には、「此わたし船、七里のかいじやう(海上)、一人まえ四十五文ズゞ、其外駄荷のりものみなそれぞれにちんせんをはらひ、ふねにのる」のでした。
蕎麦一杯16文で勘定すれば一人前\1000かもう少し高いほどでしょうか。荷物は一荷54文、駕籠一挺なら167文払う。貸切にする事もできて、40人乗りの船で二貫二百五十四文、という具合でした。そして海上七里の所要時間は、これは天候や風波の情況によっていろいろあったようだが、太田南畝の『改元紀行』では2時間、某大名の日記では4時間。なかには7時間かかったという手紙もあるそうです。

泉光院はいずれ桑名から伊勢へ行くのですが、その前にイワさんから頼まれた物を美濃國の山中まで届けに行かなくちゃならない。それに西国三十三ヶ寺や國分寺などどうしてもお詣りしたい所もあるし、だから熱田の宮で…詣納經…してから名古屋の城下町へと向かいました。
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2017.10.16 (Mon)

泉光院の足跡 260 八橋

十一日 晴天。滯留。近村托鉢す。今日は讃州高松少將京都御即位御祝儀江府將軍の御名代として御通行の行列を拝す。伊達檜小鳥毛槍二本、白熊長毛槍二本、猩々毛大槍二本、乘馬曳馬廿頭、弓臺十張、鐵砲廿挺、供廻り六百人計り賑々し。

讃岐高松藩主、松平頼義120,000石。仁孝天皇御即位の儀式に、江戸の将軍徳川家斉の名代として列席のために上京する。その行列にぶつかった。
仁孝天皇が即位したのはこの年の三月二十二日で、同じ日に先の光格天皇は上皇になっている。どんな事情で天皇が交代したのかワタクシの知る處ではない。天皇家というのは時の政治権力によって思うが儘に操られた場合が多いのだから怪しむには当たらない。
大名行列錦絵
600人の大名行列は見事なものだったでしょう。
左は錦絵に描かれた大名行列の一例です。
毛槍といってもいろいろあるのだ。泉光院はいろいろの種類の毛槍の名前を挙げているので捜してみたのだがワタクシの手持ちの資料では見当たらない。殘念。
こんな大きな大名領列となると一つの宿場に全員揃って宿泊というわけにはなかなか行かない。前後二つとか三つの宿場がいっぱいになったりする。前田の殿様は多い時には2000人の行列を作ったので、東海道とか中山道といった大きな街道でもこれだけの大行列が通行するとなるとかなり前からキチンと予定を立てておかないといけないので、だいたい半年から一年位前から各宿場宛に通行予定を連絡して準備を調えておく。それでも予定外の大雨とかハプニングとかで乱れると大騒ぎになる。本陣とか脇本陣など、通行が鉢合わせしないように事前に調整をしておくことも必要だった。だから、道中奉行の職を大目付と勘定奉行の中から兼帶で担当するのはまことに理に叶ったことだった。

十二日 晴天。滯在。托鉢に出づ。櫻の宮と云ふに祭禮あり詣づ、此祭禮馬を飾り鞍の上に幣を立て、種々作り物をなし、氏子供より上がる也。馬十六匹、一匹に三十人附く。其内四人計り鐵砲を持ち道々打つ也。又牧内村と云ふに觀音堂あり、此寺より因果經の和讃を印施に出せり、貰ひ行く、庵主松茸を呉れられたり。
十三日 晝より雨、滯在し少々托鉢せり。

櫻の宮というのはどこだかわかりませんが、祭禮の行列で馬を引き連れながら道々鉄砲を撃つというのは物騒な気がする。
このあたりで有名なお寺というと、源義経と浄瑠璃姫のラブロマンスの誓願寺とか、松平・徳川氏の菩提寺である大樹寺というのがあるのだが長い滯在の間泉光院はこれらの寺には立ち寄っていない。

十四日 晴天。 晝より大西風、初寒強き故托鉢少しにて歸る。扨此邊より尾州の内にては庭に大いなる池を掘り、水を溜め、塵を入れ肥料にする、其池の土を掘り上げて田畑に入れる、大方其池の傍らに井戸あり、其井戸には池の惡水洩れ入る也、因て惡水多し。
十五日 晴天。滯在。今日は昨日の大風に吹かれ眼病になれり、因て休息す。一句、
   西風に打たれて目まで紅葉せり
今日は故郷にては鎭主祭禮也。多く柿を賣物に出せり。因て一句、
   故郷の面影見ゆる熟柿かな
十六日 晴天。滯在。托鉢。梅の宮と云ふ祭禮に詣づ。

泉光院がこのように長く滞在しているときはたいてい宿主やご近所の人たちと仲良くなって、句のやりとりや、加持祈祷をやってあげて食べ物の差し入れを受けたりしているのだが、ここでは全くそんな気配はありません。

十七日 晴天。滯在。八つ橋の古蹟一見に行く、本街道より北に入ること八丁にして八つ橋村と云ふ。禪林一ヶ寺、書院の庭に少しの泉水ありて崩れ橋掛けたり、杜若(かきつばた)少々殘れり。業平竹と云ふは小金竹なり。一と本薄(ひともとすすき)など云ふあり、此寺より西十丁計りに小庵あり。此所も八つ橋の古跡と云ふ碑石立てり。古へを思ひダシ、八つ橋の古跡を尋ねてと前書し短冊を殘し置く。
   八つ橋や身に入み々々(しみじみ)と水の色
八橋かきつばた
知立の町の少し東の方に在原業平の古跡がいくつかあります。
有名なのは無量壽寺の庭園にある「八橋」です。国道1号線を車で知立から東へ走って、名鉄三河線を越えたあたりで旧東海道へ入ると間もなく標識があってここへ行く事が出来ました。
前にNo.245 宇都ノ谷峠 の項で業平のことは書いておいたのでここでは歌だけを書いておきます。


 
  らごろもつつなれにしましあらば
  るばるきぬるびをしぞおもふ

と、 かきつばた を頭に詠み込んだ歌を作って涙を流したので、それ以来ここは杜若の名所になった。
(かきつばた、にアンダーラインを入れておきました)
No.244 吐月峰 の所で吐月峰柴屋寺を、No.245 宇都ノ谷峠で在原業平のことを書いていた岡本かの子の小説、今度は八つ橋です。小説から引用します。

…私も街道に取憑かれたのであろうか。そんなに寂れていながらあの街道には、蔭に賑やかなものが潜んでいるようにも感じられた。一度は藤川から出発し岡崎で藤吉郎の矢矧の橋を見物し、池鯉鮒の町はずれにある八つ橋の古跡を探ねようというのであった。大根の花も莢になっている時分であった。そこはやや湿地がかった平野で、田圃と多少の高低のある沢地がだるく入り混じっていた。畦川が流れていて、濁った水にひとひらの板橋がかかっていた。悲しいくらい周囲は眼をさえぎるものもない。土地より高く川が流れているらしく、やや高い堤の上に点を打ったように枝葉を刈り込まれた松並木が見えるだけであった・「ここを写生しとき給え」と主人が言うので、私は矢立を取り出したが、標本的の画ばかり描いている私にはこの自然も蒔絵の模様のようにしか写されないので途中で止めてしまった。…

と『東海道五十三次』の中で書いている。
ワタクシは高校の国語の教科書で岡本かの子のこういう小説を習って、ついでに彼女の奇妙な夫婦生活のことや、晩年の耽美妖艶な物語も少しは読み、そうして何よりも東海道とか、古い街道の持つ魔力のようなものにいつの間にか染まってしまったようです。この小説は高校生の国語の教材としてはあまり妥当なものではないと後の文部省(いまは文部科学省)の役人は思ったのだろうか、最近の教科書には採用されていないようですね。ワタクシのような風来坊人間になっては日本の将来によくない、と思っているのであろう。

十九日 晴天。近所に祭禮あり參詣、序(ついで)に托鉢。
二十日 晴天。滯在。托鉢に出で晝歸る。
廿一日 晴天。滯在にて初茸狩りに出る。一句、
     茸狩りに出づるも頭陀の一つ也
廿二日 半天。股引仕立てる。同宿の僧、大濱の宿と云ふを興歌に詠めるに、予も物の名にして、
     今日も亦餘所の情けにあふ濱の 眞砂の數とつきぬ旅人
廿三日 大雨。滯在。晝過晴る。
廿四日 晴天。岡崎矢矧の橋御普請成就に付辰の刻渡り初め一見に行く。三夫婦渡り初めの式なり。只江戸よりの諸奉行當所の係の衆役方一見の上渡り初められたり。序に家中托鉢。

矢作橋の再建工事が完成したので渡り初めの式があった。今でも橋が出来た時には三夫婦(一族三世代夫婦)による渡り初めがあるのが普通だし、泉光院の時代でもそうだったのだが、この時は江戸から来た担当役人(きっと道中奉行配下の役人だったのだろう)と、地元の役人が工事の完了を確認して渡り初めの式を行ってお終いになった。泉光院は九日にここを通った時にはまだ橋は完成していなかったのかも知れないし、渡り初めの儀式は江戸からの役人の到着を待って行われるので、とりあえず渡れたのかも知れない。わざわざここまで儀式を見物に戻ってきたのだから、ついでに岡崎の家中(=武家屋敷町)で托鉢をした。
岡本かの子も矢矧の橋は木下藤吉郎(豊臣秀吉)が日吉丸であった頃、この橋で蜂須賀小六に拾われた場所だと思っていたようだ。ワタクシも子供の時は物語の本でこのことを読んで覚えていた。戦前の子供はみんなこの物語を読んで知っていた。

廿五日 滯在。晝より大雨に成る。徒然一句戯れに詠める、
     憂き事は娑婆の習ひと世を出ても 亦行く先に海川のあり
平四郎は夜に入りて歸り皆々濡れたり。欲には身もかゆる事也。
廿六日 晴天。滯留。終日休息明日出立の諸用仕舞方す。

ようやく出発する気になったようだ。これから先は、名古屋から、一の宮、岐阜、美濃、と進んで、No.251 遠州沖之洲 の項で書いておいた、沖之洲村のイワさんから頼まれた届け物を、美濃國田栗村の政藏さん宅へ届け、それからずっと南へ下って養老の滝を見て、津からお伊勢さんの方へ行って、、鳥羽で年宿をとってこの年を終えることになります。
泉光院のように思いのままに風に吹かれて歩いているようでも、…憂き事…があるのだろうか。あるとすれば平四郎と意見が合わない事ぐらいでしょう。彼は相変わらず托鉢に精を出していて、ずぶ濡れになって帰って来た。
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2017.10.14 (Sat)

泉光院の足跡 259 棒鼻

徳川家康が関ヶ原の戦いで勝ったのが慶長五年(1600)で、その翌年には東海道に傳馬・宿駅の制度を布いたのですから、強力な政権を維持するためにはまず通信・運輸の確立が必要、と考えたのでしょう。幕府は、先にも書いたように、大目付と勘定奉行に「道中奉行」を兼務させました。大目付も勘定奉行も老中に直属する役職で、大目付は大名や高家などの監視役を、勘定奉行は幕府の財政責任を、と両者とも重要な役職だったし、旗本から選任されるのだが大名並みの待遇だった。定員は両方とも4~5人で、その筆頭が道中奉行を兼務したのでした。つまり「国道」を管理するのは政府のきわめて重要な仕事だと幕府は考えていたのです。
街道筋に宿駅をさだめ、それぞれの駅には馬を常備し(駅=驛という字が馬偏なのは、通信・運輸のために馬を準備しておく場所だからです)、「朱印」を捺した手形を所持した幕府などの公用の人と荷物を、次の宿場まで送り届ける役目が宿場の問屋の仕事でした。問屋は幕府の公務、つまり朱印状を持った人や荷物を無料で輸送されるようにしました。そしてその代わりに税金を免除したのです。
参勤交代という制度ができたのは、三代将軍家光の寛永十二年(1634)からで、この時はまだ外様大名だけに義務づけられた制度でしたが、寛永十九年(1642)になると譜代大名にも参勤交代を命じました。それに伴って大名の宿泊施設として「本陣」という宿泊施設も問屋場の近くに作られるようになりました。
一般人の旅行客は、泉光院もおおむねそうなのだが、布団や鍋釜は自弁で持って歩き、「木賃宿」というところで木賃=燃料代を支払って自炊をする、というのが「たてまえ」で、次第に食事を出したり布団を使わせたり酒を飲ませたり、そうして給仕をするという名目で「飯盛女」というのを置いたのでした。当時の旅行ガイドブックには「飯盛女」の代金が 必ず記載されています。

東海道ではおよそ二里(約8km)ごとに宿場が置かれ、旅行者が増えるとともに旅籠や茶屋、土産物屋なども軒を連ねるようになりました。中でも御油宿が東海道屈指の繁盛な宿場となったのはこんな理由が考えられます。
○東海道と姫街道・本坂峠道、秋葉路の追分だったこと、
○濱松・吉田・岡崎が城下町なので、お侍サンの居るような町はイヤだったこと、
○御油宿と次の赤坂宿がわずか十六丁(約1.7km)しか離れていないので、両宿とも飯盛女を置いて、競争して泊まり客を必死で奪い合うことになったこと、
などでしょう。
十返舎一九は『東海道中膝栗毛』で、「留女、いずれも面をかぶりたる如く塗り立てるが袖を引いてうるさければ…」と書いたのでした。
赤阪旅舎招婦ノ圖広重
赤坂宿です。
廣重「東海道五十三次之内 赤阪 旅舎招婦ノ圖」

飯盛女は宿場女郎とも言われ、宿泊客の食事の給仕をするばかりではなくて、枕席も共にしました。
御油の圖が強引に客を引っ張り込む圖だったのに、赤阪では豪華にできている飯盛旅籠の内部。
庭にはその頃珍しかった大蘇鉄が植えられています。

赤阪旅舎内部お食事
左の部屋の廊下には湯上がりの男が片肌に手拭いを引っかけ、部屋の中には横になってくつろいでいる男。そこへ女中が夕食の御膳を二つ運んできた。その横で按摩が「お疲れでござんしょう、肩や腰、お揉みしましょうか」と言っているのだろう。

右隣の部屋を覗いて見ましょう。

赤阪旅舎内部お化粧
女が二人、鏡に向かってお化粧に余念がない。
きっと先に書いたように、…お面をかぶったように真っ白に白粉を塗り込んで、…今夜の支度をしているのでしょうか。
右奥の押入にはお布団がいっぱいつまっている。みんな厚くて上等のお布団のようだ。

赤坂の宿場へ行くと、もと旅籠屋だった「大橋屋」があります。今でも営業をしているようで、予約を入れると泊めてくれるらしい。
赤阪大橋屋

一階は普通のガラス戸になったが、二階の出窓は昔ながらの連子格子を残しています。




赤阪宿大橋屋内部
大橋屋の内部。
入ったすぐは土間になっていて、暖簾をくぐった所が帳場(この写真のお部屋)。

入ってみると天井には駕籠が吊してあったり行燈が置いてあったり、往時の大きな旅籠の様子がしのばれます。
慶安二年(1649)の創業と伝え、今の主人で19代続いている老舗で、庭に蘇鉄はないけれども廣重の絵のモデルだといわれていて、この写真の建物は正徳五年(1716)頃に建てられたものだそうです。
泉光院がここを通った時すでにこの旅籠は営業していたわけですが、彼はこの宿場を素通りしているのです。
ここの所から東海道は殆ど今の国道1号線と重なり、名鉄名古屋本線の横を通るようになって、次の藤川宿に入ります。
藤川棒鼻ノ圖広重

廣重「東海道五十三次之内 藤川 棒鼻ノ圖」


藤川棒鼻ノ圖部分



棒鼻(ぼうばな)は宿場のはずれ。右の牓示杭(ぼうじくい)というのを宿場の出入口や、國境、領地といった場所の境界に立てた。

この絵は幕府が朝廷に馬を献上する時の行列です。
藤川棒鼻ノ圖献上馬御幣
馬が2頭、背に御幣が立てられている。
宿役人や旅人たちが土下座している中を、お馬が進む。
廣重は天保三年(1932)に幕府御馬献上の一行に加わって、この儀式の圖を描く命令を受けていたので、その時の経験をこの圖の中に描き込んだのでしょう。


八日 晴天。八旗村立、辰の刻。御油の宿を通り岡崎の城下菊屋と云ふに宿す。

岡崎の町は面白い所で、東海道が「二十七曲り」という具合に屈曲しているのです。
徳川家康が関東へ移った後、天正十八年(1590)田中吉政がここに移封されて入城してから、城下町を盛んにするため、東海道を御城の北側、外堀の内側、に移して、これで通行の人馬が城内をとおれるようにした。同時に外敵には御城までの距離を長くし、味方は間道を利用して防衛線までの距離を縮めることが出来るようにしたのでした。
時代が下がって太平の世が続くようになり、19世紀初頭のガイドブックには、「まこと岡崎城は本多中務大輔の城にしてその賑ひ駿府に次ぐべし。」と書かれ 楽しかったらしいその泊りは、 ♪岡崎女郎衆はよい女郎衆♪ と唄にうたわれたほど女郎衆が主役だった。この時代の旅行ガイドブックには、こんな所に書くのはいささかはばかれるのですが、宿場の女郎衆の評価やその揚げ代なども詳細に書かれてあって、ここ岡崎は「揚代二朱也」(単純な比較はできませんが1万円くらいでしょうか)と少々高価だったようだ。
岡崎分間延絵図
岡崎の二十七曲り、まず古地図で見ておきましょう。
左は文化年間(1804~1814)に道中奉行井上美濃守藤原利恭以下の役人が編纂して、文化丁卯(1807)年春正月に完成した「東海道分間延繪圖」というもので、巻物仕立てで二部作られ、一部は江戸城内紅葉山文庫に、もう一部は道中奉行所に保管したのです。この地図は幕府の管理する五街道とそれに付属する街道の詳細を記入したもので、実に詳細に作られています。巻物仕立てですから方位は正確ではありませんが、所々に東西南北の記号を入れてあるのでおよそのことはわかりますし、距離の縮尺は、一里を七尺二寸として、これは正確に縮尺されています。左上は岡崎城を中心としたごく一部だけをのせました。
岡崎二十七曲り現代
こちらは現在の1/25,000地形図の二十七曲りの部分、赤線が旧東海道。真ん中左寄りに小さな赤丸を入れたのが岡崎城。
実に見事に27曲りになっております。
岡崎市も最近これを観光の「売り」にして、曲がり角ごとに石碑を立てて「旧東海道二十七曲り」がわかりやすくなりました。こういう道に沿って歩いていると、店のたたずまいもかなり古いものが残っておりまして、古本屋に立ち寄って、柄にもなく中原中也や伊藤整の詩集とか、そんなものがかなり安く買えたので思わずたくさん買ってしまったのでした。

岡崎の宿は大きくて、本陣3、旅籠112、伝馬80疋、人足297人、駕籠100挺が常備されることになっていた。
泉光院が泊まった菊屋という旅籠はその112軒の内の一軒でしょうが27曲りのどこにあったのかはわかりません。宿賃を払って出された飯を喰って、宿場女郎衆にも縁があろう筈もないし、草臥れたので日記を一行書いてすぐ寝てしまった。

徳川家康は天文十一年(1542)十二月二十六日、この岡崎城で呱々の声をあげた。岡崎城天守閣
当時、城は今川義元配下の武将が管理していたのだが、義元が桶狭間で戦死した後、今川家で人質になっていた少年家康がこの城に戻って独立することになった。そして濱松城に移るまでの10年間をここで過ごしている。だからこの城は江戸時代になってからは由緒ある家柄の譜代大名が配置されている。
♪五万石でも岡崎様は、御城下まで船が着く …♪
と俗謡に唄われた船着き場は、この天守閣の南へ下った乙川(矢作川の支流)の川端にあって、帆掛け船が三河湾からここまで上り下りができた。港があるということは輸送の経費が大幅に削減きるのでとても便利です。大八車や馬の背、人の背による運搬を考えるとその効果は計り知れないことが理解できます。
岡崎城船着き場
左の写真、ちょっと見難いのだが大きな木の根元に石碑が立っていて、その下に船着き場があるのです。
世界遺産研究の会で岡崎城を見学に行った日はとても暑い日で、この船着き場までの坂を下がったり上がったりしたのだが、とても草臥れたのでアイスクリームを食べて、お城の周辺や内部は殆ど見なかった。どうせ鉄筋コンクリの再建御城だという思いがあるので中へ入っても仕方がない。

九日 晴天。岡崎城下立、辰の上刻。菊屋と云ふ名により重陽なれば一句、
   菊かさねとは世にありし名なるべし
大濱と云ふ間の宿へ行きたる所、大雨に成りたる故、多四郎と云ふ者の宅へ宿す。
十日 大風雨。據なく滯留。秋日晝寢。

九月九日に菊屋を出た。この日は重陽の節句です。(新暦では10月19日だった。)
菊の花の咲く季節なので菊の節句とも言います。陰陽思想では奇数は陽の数であり、陽の極である九が重なるというのでこの日はとてもおめでたい日とされました。で、例によって一句作ったのだが、この句はいったい何でしょうね。
岡崎矢矧之橋東海道五十三次

廣重「東海道五十三次之内 岡崎 矢矧之橋」




矢作川(やはぎ)に架かる矢矧(やはぎ)の橋は東海道第一の長い橋だった。
長さは二百八間(約374m)もあって、現在の鉄筋コンクリート橋の270mよりも100mも長かった。
豊臣秀吉がまだ日吉丸と呼ばれていた少年時代、この橋の上で野武士の蜂須賀小六と出会った話は『太閤記』で名高いのだが、本当のところ、戦国時代にはまだこの橋は出来ていない。江戸時代になってから架けられたものです。はじめは土橋で、寛永十一年(1634)にこの絵のような板橋になったのだが、何度も流されて、12回も架け替えられた。
岡崎矢矧之橋部分
矢矧の橋を大名行列が岡崎目指して進んでいる。向こうには三層の複合天守閣や隅櫓まで描き込まれた岡崎城と城下町が描き込まれている。
橋の上の行列は、はっきりとはわからないが殿様の乗った駕籠と、警護する近習(家臣)、先箱、槍、長持、挟箱、長柄傘、そしてそれらを運ぶ奉公人などが整然と並んでいる。ひときわ長い槍(この絵の左の方)は飾槍で、大名の威光を表すとともに、その先端の形から遠い所からでもどこの大名かわかった。
「鞠と殿様」という童謡がありましたね。
♪金紋先箱供揃い、御駕籠の傍には髭奴、毛槍を振り振り、やっこらさぁあのやっこらさ♪
この歌は紀州の殿様のお国入りの情景でした。手から離れた手鞠がお殿様の手に入って、その鞠は、♪山の蜜柑にな~ぁったげななったげな♪。
なかなかいい歌です。好きな歌です。

大濱は岡崎と次宿池鯉鮒(ちりゅう=知立)との間の宿です。大雨を幸い滯留して昼寝をしている。何が気に入ったのかここで二十七日まで滞在しています。
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2017.10.10 (Tue)

泉光院の足跡 258 御油

しばらく泉光院と離ればなれになっていました。また一緒に行きましょう。

「No.254鳳来寺」 の項で、鳳来寺の参詣を済ませた泉光院は、…納經所より下ること十八丁、… 1425段の石段を下りて門谷へ出ました。…麓に樓門あり。夫より三里に大川あり、瀧川とて渡船あり此上に宿す。
まさか船の上で寝たわけではないだろう。瀧川村は大川である豊川上流の寒狭川の渡船場のある村だったようだ。寒狭川は鮎釣の名所で季節になると大勢の釣り人が入りますし、鮎料理を食べさせるお店などもあるのです。

六日 晴天。 瀧川村立、辰の刻。新城と云ふ旗本の陣屋町を通る。長さ十丁計り、夫より永山村と云ふに行く、坂太郎と云ふ宅に宿す、朝暮馳走あり。
七日 晴天。永山村立、辰の上刻。一の宮へ詣納經。杉山の内、本社南向、夫より國分寺へ詣納經す。寺一ヶ寺、東向、夫より八旗八幡へ詣納經。東向大社也。境内廣し、乍然貧地故か築地も多く破れたり。夫より東海道筋御油の驛へ出づ。

豊橋と飯田を結ぶ「伊那街道 (国道151)」で泉光院は新城へ来ました。ここは領主が菅沼氏7000石の旗本。一万石以上でないと大名とは言わないし、御城を持つほどの身分でもないので、陣屋があるだけだった。
砥鹿神社奥宮本宮山
三河國一の宮は砥鹿神社。
向こうに見える綺麗な山が本宮山785m。砥鹿神社の奥宮です。豊川の河原から見た山容。きれいな三角形で、神様がいるのにふさわしい山。
でも殆ど頂上までクルマで行けますよ。

砥鹿神社里宮拝殿
こちらは砥鹿神社の里宮の方。普通にお詣りをするのはこっちの方。泉光院もここで詣納經をしました。

JR飯田線三河一の宮駅からすぐ。クルマなら東名高速の豊川ICからすぐです。


次は三河國分寺です。最近になって発掘調査が行われたようですが、私有地らしくて盛大に発掘はできないらしいのです。
三河国分寺塔跡
右が「三河國分寺塔跡」という標柱の立っている竹藪で、この竹藪の中に塔の礎石が発見されたらしいのです。

この標柱の前の道を右へ少し離れたところに國分尼寺跡があって、こちらは盛大に発掘調査が行われ、金堂・講堂跡の礎石がきれいにでていますし、しかもワタクシが行った時には既に中門というのが復元建立されていました。
三河国分尼寺金堂礎石

左が基壇の上に乗った金堂礎石。
右下が復元成った中門。
その後行っていないのでわかりません。



三河国分尼寺再建中門
この中門、ちょっと安っぽく見えて、こんなもの造らない方がいいのではないだろうか。
もし礎石だけだったら、頭の中で奈良東大寺の轉害門のような、あるいは法隆寺の中門のような堂々としたのを思い浮かべることができるのに。
わざわざ「国分寺・国分尼寺跡」というのを自分の趣味で見に行く人だったら、礎石があるだけで充分建築当時の姿を思い浮かべることができようものを、と思うのでした。
それから…八旗八幡へ詣納經、…とあるのですが、八幡神社が見当たらなくて、地図上で「八幡町」というのがあるので、きっとその付近に八幡様があったのだろうと思います。
泉光院はそのあと東海道へ出て御油の町へ入るのだが、近くに豊川稲荷があるのでそれを見ておきましょう。
豊川稲荷本堂
このお寺は妙嚴寺といって千手観音を本尊としているのだが、秘佛吒枳尼(ダキーニー)眞天というヒンドゥー教由来の女神も祀られているのです。豊川稲荷厨子

そのダキーニーがいつの間にか狐と一緒になったのが日本のお稲荷さん。
いろいろ経緯はあるのだが省略して、商売繁盛の守護神として祀られるようになり、神社佛閣の片隅、だんだん広まってデパートの屋上や会社工場の隅っこ、至る所にお稲荷さんが祀られるようになってしまった。
左は豊川稲荷本殿。右はその中の御厨子。

と余川稲荷厨子の前の狐
カワイイ狐が二匹、、狛犬の代わりに並んでいます。



泉光院とこのあたりで出会いましょう。
三河國分寺・國分尼寺・八旗八幡などをお詣りして「追分」という所へ出ます。
そこは浜名湖の北から本坂峠を通ってきた姫街道と、東海道が交わる追分です。
御油追分秋葉燈籠

左は追分の所に立つ秋葉燈籠。
そして道標などがたくさん立っています。
「秋葉三尺坊大権現道」、「国幣小社砥鹿神社道 是より二里卅町」の道標が見えます。ここの秋葉燈籠はとても大きくてとても目立つ場所でした。ところがその廻りにいつの間にか民家などが建ってしまって見つけにくくなってしまいました。
クルマで国道1号線を走っていると(京都方面向きに走っていると)右手に見える筈なんですが今はとても見つけにくい情況です。
七日の日記の終わりの部分、…夫より東海道筋御油の驛へ出づ、日も西山に落つる故に八旗村の修験寺大塚坊と云ふに宿す。外に山伏一人同宿。
御油松並木

御油には今も立派な松並木。
これは昭和16年にはすでに国の天然記念物に指定されました。御油と赤坂の間およそ600mの間、江戸時代そのままに生え揃っていて、中には幹廻り4m近い巨木も残っています。
天正三年(1578)、織田信長の部下が植えて、慶長九年(1604)に徳川秀忠が整備させたものだといいます。ゆるくカーブしている道に、このように見事に育った松の木の間を歩くと、しばらくの間は浮世を離れた思いになること必定。


御油広重旅人留女東海道五十三次

だが廣重版画では松並木の風情ではなくて、旅人を旅籠に無理矢理引きずり込もうとしている圖。

「御油 旅人留女」





御油広重旅人留女部分
拡大してみましょう。

道の真ん中で二人連れの旅人を何としても泊めようとがんばっている二人の女。女たちは客の男よりも体格も大きく腕力もありそうだ。
横を通っている芸妓や窓から覗いている女と比べればその凄さがわかろうというものです。
こんなのに捕まればもうどうしようもない。
旅籠の室内にある看板の解説をしておきます。

御油旅籠看板M

左に大きく「竹之内版」と書いてあるのはこの「東海道五十三次之内」の画集の出版元である保永堂の屋号が「竹之内」です。その右上のちょっと大きい看板は、左から「一立齋圖」、「摺師平兵衛」、「彫工次郎兵エ」、「東海道繪圖」と書いてあって、この作品を手がけた版元、絵師、摺師、彫師などの名前がわかるようになっているのです。
ほかの絵でもこのようないわば宣伝のような文字が入っていたり、廣重の「ヒロ」を組み合わせた模様が風呂敷に染めてあったり、空に舞っている凧の絵柄になっていたりしているのです。
御油の町並です。
御油大正期

大正の初期。







御油平成期

平成の初期。






あまり変わってはいませんねぇ。

東海道五十三次のうち日本橋から35番目の宿場であった御油宿はその名がよく知られ、繁盛した宿場でした。天保十四年(1843)に江戸幕府が編纂した『東海道宿村大概帳』には、宿内人別1298人(男560人・女738人)、宿内惣家數316軒、と東海道筋では小さな方に属する宿場でしたが、本陣3、旅籠62、と濱松や吉田と肩を並べるほどたくさんの旅籠がありました。5軒に1軒は旅館だったのでした。当然のことながらお客の取り合い競争は激烈を極めたことでしょう。^o^)
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2017.10.06 (Fri)

泉光院の足跡 257 荒井關所

荒井渡舟ノ圖広重
舞坂から渡船に乗ると荒井宿に着きます。

廣重「東海道五十三次之内 荒井 渡舟ノ圖」

向こう岸の右端に関所の屋根が見える。関所の前が船着き場。
先を行く船は大名が乗っている御座船だろう、丸に笹龍胆の紋を染めぬいた幔幕を張り、吹き流しや白熊槍が立っている。
右が丸に笹龍胆(ささりんどう)の紋。丸に笹竜胆紋
龍胆の花と葉をかたどった紋章で葉が笹に似ているので笹龍胆紋と呼ばれている。りんどうは秋に藍色の美しい花を咲かせるので藤原時代からお公家さんの間で使われ、後に武家では清和源氏の流れをくむ家がよく使っているそうで、武家が天下を取るようになってからは、ちょっと偉くなった侍は我も我もと源氏の系統であると称して自分の家の系図を源氏に書き直して、姓の上に「源朝臣」をつけた。この龍胆紋ももちろんそうなんで、これだけではどこの大名か確定するのは難しい。
うしろの船に乗っているのは下っ端の中間(ちゅうげん)共で退屈そうに欠伸をしている。
渡し船を管理していたのは荒井宿のほうで、舞坂側には権利はなかったようです。
渡し賃を見ると、延享三年(1746)では「船一艘二百七十文也。一人前船賃と云ふ事はなし。船に乘合はす人数へ一艘の船賃割合せ出す也。」でしたが、それから100年ほど経った弘化四年(1847)だと「船借切り上下共四百十七文、乘合は割付人数次第」でした。乗る人数が多ければ船賃は安くなる勘定です。
船賃に限っていえば100年ほどの間の物価上昇率は150%。
現在の百年前というとほぼ明治の末年。その間の物価上昇率は10万%(1000倍)を超えているでしょう。なにしろ江戸時代は物価に限らずすべてに於いて非常に安定な時代でした。ワタクシの子供の頃(昭和10年代)、お祭りの時にもらう飴買い銭は30銭だった。今の子供、1000円くらいは欲しがるだろう。
新居関所です。昔は荒井と書きましたが今は新居です。
新居関所
船はこの手前の岸に着くので、下りたらすぐ御關所だった。

新居関所正面

左は新居関所の正面。

そして右は厳しい顔を見せている関所の御役人。新居関所内部

御役人の後には弓矢や槍・鉄砲などが並んでいる。不審な者は容赦はしないぞ!ということか。
徳川幕府は、西の方の旧豊臣方に属していた大名の反乱を非常に恐れていたので、このように箱根、そしてこの荒井の關所を厳重にしたのでした。
『諸國道中袖鏡(天保十年刊)』に、「御番所有、女、武具御改有也。吉田の城主より勤番也」。女・武具は言うまでもなく「入り鉄砲に出女」の取締。
新居関所女通行手形

男が通る場合は、「御關所上下共男は我が所を名乗り、其行先をいつわりなく申上げて通るべし。女は上下共御手形上る也」で、左がその「女手形」。

男は「○村の×助です、△町へ行きます」と言えばよかったのだが、女はこのような書付を提出し、確認を受けた。
新居関所鉄砲通行手形
右の書類は水戸藩主徳川光圀が京都から江戸へ鉄砲一挺を取り寄せる際に発行した手形。同じ徳川御三家のうちであっても武器の搬入は厳重にチェックを受けたのでした。
鉄砲や武器を江戸へ持ち込むことを厳しく取り締まるのはわかりますが、なぜ女の出国を厳しく取り締まったかというと、大名の奥方は江戸に、いわば人質としてずっと居ることになっているので、大名が参勤交代で國元へ戻っている時に、奥方が國元へ行けば人質が逃げ出したことになるのでそれが困るのです。
新居御關所にはこのような書類がたくさん残っていて、当時の管理が厳重であったことを今に物語っているのです。

無事御關所を通り抜けたあたりは商店街だった。かの彌次郎兵衛喜多八の両名はここでウナギの蒲焼きを食べていますし、戯作者・狂歌師として知られた太田蜀山人南畝は本来の仕事である幕府の役人として大坂銅座御用のため寛政十三年(1801)に出張した時、ここで「鰻よろしと聞きて、ある酒屋に立寄りて食すに、味ことによろし、駿河なる柏原のものと同日の論に非ず。」と激賞しているのです。
ワタクシがまだ湖西市あたりに住んでいた頃は浜名湖畔に鰻の養殖場が沢山あって鰻を出荷していました。うなぎ料理渥美
亡息一周忌の時、横浜のムジコン(Musica Conchertino の略)という亡息も一緒にやっていた古楽のアンサンブルの人たちを、まずお昼に駅前近くの創業1907年という老舗鰻屋でウナギを食べてもらった。お店の中に生け簀があって、お客の注文があってからウナギをさばく店だった。
右はウナギ料理いろいろ。上から時計回りに蒲焼き、肝吸い、白焼き、丼。
お店の勧めはタレをかけないで焼いた「白焼き」(下のお皿)。ウナギ本来の味をいかして甘くとろりとしたウナギを味わうのです。
法事のあと、エピファニーという亡息の好きだったフランス料理の店を貸切にして持ち寄った楽器でミニコンサートをしたのでした。

荒井の宿を出ると街道はやがて山にぶつかるので左に折れて海岸べりに出ます。白須賀宿はもともとは海岸沿いにあったのだが、宝永四年(1707)の地震と津波で壊滅したので汐見坂の上に移転しました。
白須賀広重汐見坂圖東海道五十三次

廣重「同会堂五十三次之内 白須賀 汐見阪圖」

絵は汐見坂の途中から見た風景。
眼下に遠州灘が広がり、白い帆が海に映える絶景を見ることが出来た。
ごく最近まで国道1号線がここを通っていたのでトラックがひっきりなしに轟音を響かせていて怖い道路だったのだが、以前有料だった浜名バイパス、汐見バイパスというのが無料になった途端、トラックはそっちの方に行ってしまったので、こっちを走るトラックは激減して、汐見坂から遠州灘
以前この坂の途中にちょっと平らな場所があっていつもトラックがたくさん止まっていた空地が空いたので、そこに車を止めるとちょうどこの景色とよく似た景色が眺められるようになった。違うのは沖の白帆に代わってタンカーや自動車運搬船が居ること。





右は白須賀の町並。昔の街道風景です。白須賀宿街並



白須賀の宿場を出ると遠江國から三河國に入ります。最初の宿場は二川宿。
二川猿ヶ馬場広重東海道

廣重「東海道五十三次之内 二川 猿ヶ馬場」

白須賀の先に猿ヶ馬場という小松の生えた原があった。今はこのあたりに日本を代表するような電気関係の工場が建ち並んでいて昔日の面影はない。
二川広重猿ヶ馬場茶屋

柏餅が名物だったようで、画面左の茶屋に「名物 かしハ餅」の看板が上がっていて、男が一人、注文しているのかお金を払っているのか。
二川広重猿ヶ馬場部分

三味線を背負った女が3人、やはり茶店に向かっている。盲目の彼女たちは三味線の弾き語りをして各地を廻っている瞽女(ごぜ)という女芸人です。娯楽の少なかった田舎では喜ばれました。
水上勉に「はなれ瞽女おりん」というのがあります。水上勉文学の中でも最高という評価の高い小説です。映画にもなりました。岩下志麻がこの映画で最優秀主演女優賞を貰いました。
二川の、この淋しい風景の中に瞽女がいることでいっそう寂寥感があふれ出ています。旅を続け、芸を売ることで生きている彼女たちの人生をも感じさせる一枚です。
二川宿の場所は国道1号線が町なかを通らなかったので今でも古い面影を残している町です。町のすぐそばをJR東海道線と東海道新幹線が通っているけれどもこれもほとんど町並には影響を与えなかった。
二川脇本陣二川脇本陣上段の間

左は二川宿本陣の馬場家。そして右が上段の間。
享保年間(1720年代)建築の表門、宝暦年間(1750年代)建築の母屋、文化年間(1800年代)建築の玄関、土藏などが豊橋市の補修で残っている。雪隠(トイレ)や風呂場も公開している。裏の空地には二川宿本陣資料館というのもあってよく出来ているそうです。
窟屋観音正面
JR東海道線(新幹線も)の二川駅から京都方面に向かって右手の窓から山の方を見ると小高い山(107m)の上に観音様の立っているのが見える。窟屋観音真横

岩屋觀音といいます。

明和二年(1765)と台座に記入してあった青銅製の觀音様だったのだが、この前の戦争の時に「供出」させられてしまって、いま立っているのは昭和25年の再建です。
電車でここを通った人はたいていこの観音様を見たことはあるでしょう。身長9尺6寸(約3m)のこの観音様は、江戸下谷の大工、茂平と善左衛門が寄進しました。彼らは豊川に架かる橋の設計施工を担当したのだが、壊れない橋を設計するために七日間お堂に籠もって祈願し、満願の日に、夢に觀音様が現れて、橋の最適勾配をることが出來て、無事橋は完成したのです。それでここに觀音様を寄進したのでした。

今の豊橋市が吉田の宿です。
吉田広重豊川橋東海道

廣重「東海道五十三次之内 吉田 豊川橋」

豊川橋は今の国道1号線の橋よりももう少し下流にあって、この絵のように吉田城からはるかに「小手をかざして」見る様な距離だった。吉田広重お城から遠望

吉田広重豊川橋拡大

この橋は長さが百二十間(約218m)あって、矢作橋、瀬田の唐橋とともに東海道三大橋に数えられていました。それだけに、架橋を請負った大工はお堂に籠もって祈願をしましたし、完成の暁にはお礼の気持ちを込めて觀音様の像を寄進したのでした。
豊川橋を大名行列が渡っている。それをお城の修理に来ている大工が珍しそうに眺めている。
吉田城天守閣
右の吉田城天守閣は築城当時のものではなくて、これも明治維新後にすべて取り払われてしまったのを昭和29年に復元したものです。

吉田城の城主も 濱松と同じように、「代々の諸侯連綿として居城し玉ふ。」と譜代の大名たちが次々とやって来ては次の領地に転勤なさる。しかも所領というのは非常に少なくて、濱松が5~7万石、ここ吉田も7万石といった程度。仙台伊達の62万石、加賀前田の102万石、薩摩島津の77万石といった外様大名に比べると将に雲泥の差。
それでも東海道の交通の要地として宿場はたいそう繁盛した。さらには当時のガイドブックにもあるように、「此宿大に繁華にして娼家多し」であって、「昔唄に曰く、♪吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖で♪」というような唄が流行ったのです。吉田広重吉田通れば二階から

この唄は、俗説では家康の孫娘で豊臣秀頼の夫人であった千姫、吉田御殿に美男を招き入れた、といううわさ話によるものであって、おそらくは事実と異なるだろうと思います。

右の絵は廣重の「人物東海道五十三次 吉田」。
まさに二階から招いている図です。

二川から来た道は、吉田城の前を通って豊川橋を渡るのですが、その途中に創業文化年間という「菜飯田楽」を食べさせる「きく宗」というお店が今でも営業をしております。泉光院が歩いていた頃でもそのお店で菜飯田楽を食べることが出来たのです。


豊橋きく宗店の前豊橋きく宗菜飯田楽


このお店は昔は東海道に面していたのだが、吉田大橋が御城の近くに架け替えられて国道1号がそっちの方になったので、このお店の場所はちょっと捜しにくい裏通りになってしまった。
ワタクシは豊橋ではほとんど食事をしないのだが(前に書いた、白菜と豚肉のすき焼きの件のためです。豊橋の食べ物に嫌悪感を持っているのです)、饂飩の「東京庵」と、この「きく宗」だけは立ち寄って食べるのです。この菜飯はダシで炊いたご飯に大根の葉ッパを細かく刻んだのを混ぜ合わせただけのものなのだが、不思議と美味しい。
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