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2017.06.23 (Fri)

泉光院の足跡 237 富士山頂

泉光院は山頂を目指します。

…扨此二合目と云ふより八合目迄一合々々に室戸とて穴あり、内は石垣にて上に天井を作り、其上に砂を掛けて、岩穴の如く作りたる所也。内の廣さ十五六枚敷あり。六月朔日より七月二十九日迄番人一人宛晝夜住居し登山の者の休息所とす。飯、餅、酒、茶等望み通りに有り、夜に入り此所水なき故に雪汁を以て煮物をする也。吾々共五合目迄登り掛けたる處、余り寒風烈しきに付、未だ晝頃なれども登り得ず、因て五合目室戸に宿す。戸口は一ヶ所なれば風は一切入らず、内は甚だ宜し、然れども白昼にても暗し。
富士山須山口宝永火口
江戸時代も後期になるとおおぜいの人が富士山に登るようになり、山小屋には常駐の小屋番がいて食事も出るようになっていた。
右は宝永火口。ほぼ五合目あたりです。
ここまで来たら、…余りに寒風烈しき故に…ここの室堂に入って一夜を過ごしました。
富士山日の出
翌朝は晴天だった。


十六日 晴天。朝日眼下に出るように有り、早々立ちて上宮禪定す。七合目よりは小石少々有り、下は皆小砂也、八合目より上は大石也。上る事三合目よりは胸を突く如く険阻なり、晝時銚子口と云ふに着く此所に手洗水湧く小池あり、廻り六尺計り、深さ八九寸、此上に花表あり、御鉢の淺間明神を拝す。此所より御鉢廻りと云ふをなす。廻り半道計り、…
富士山奥社鳥居
富士山頂の浅間神社奥宮です。お詣りしてから頂上の火口を一回りするのを御鉢巡りといいます。
直径約600m、深さ約200mの周囲には、最高峰3776mの剣ヶ峰から順に(時計回りに)白山岳、久須志岳、大日岳、伊豆ヶ岳、成就ヶ岳、駒ヶ岳、三島岳、の8峰が並んでいるのです。
この八峰、江戸時代には大日、釋迦、藥師、阿彌陀、文殊、などと本地佛の名前だったようです。
右の写真、真上から見た富士山の火口。いちおう上が北、左が西で、大きく崩れているのが大沢崩れ。
富士山火口空撮
泉光院は右側ちょっと下の方から登ったようです。そして火口を一回りしました。1時間くらいで回れるそうです。
富士山お鉢巡り馬の背

左は「馬の背」といって、御鉢めぐりの中でいちばん低い地点から最高峰の剣ヶ峰まで一気に登る急斜面。

富士山ドーム空撮

左が剣ヶ峰。白いのはレーダードーム。
この高い所に台風を捕まえるレーダー装置を作ったのが1964年(昭和39年)でした。

レーダー装置というものは、太平洋戦争の時アメリカ軍がいち早く実用にして、日本軍の飛行機や艦船が姿を現す前に発見して攻撃するという当時としては新技術の装置です。日本軍も同じようなものを作ろうと、東芝姫路工場あたりでマイクロ波の強力な電波を作るためのマグネトロンの研究はしていたのだが、完成前に戦争に負けてしまった。
戦後、このレーダー技術に関するすべてがMIT(マサチューセッツ工科大学)から三十数冊の本になって出版され、ワタクシの勤め先の図書館にも(リプリントで)全巻揃いました。当時の最先端電子技術の粋をこれらの本で勉強する事が出来たのです。
いま、コンピューターやデジカメや携帯に多用されているパルス技術やメモリなどといったものも真空管回路で作ってあって、それを参考にしてワタクシたちも真似をして同じようなものを作ってみて喜んだのでした。
その後電子技術はどんどん進歩してしまって、台風の追跡などは衛星画像に取って代わられ、富士山頂のレーダー装置はすっかり時代遅れになった(つまりワタクシの知っている範囲のデジタル技術もすっかり時代遅れになってしまった!)のでした。
この富士山レーダーは1999年11月を以て役目を終えて35年の歴史を閉じたのでした。

…御鉢の深さは卅間計り、中は皆雪にて埋れり。頂上西に劍の峯と云ふがあり、大石の間に金佛の藥師堂あり、納經す。此所に室戸段々あり。北に當り賽の河原と云ふがあり、東に廻り大日堂に納經す。夫より元の銚子口に出で室戸に休息す。…
富士山石仏群

泉光院はコノシロ池という奥宮のすぐ横の小さな池で手を洗って、奥宮を拝して、それから最高峰剣ヶ峰へ登り、右廻りに火口壁を一回りしたのでした。途中には藥師堂があったり大日堂があったり、そして賽の河原には右の様な石佛などもあったのでした。これも明治の廃佛棄釋の時には首を取られたりひどく壊されたりしたのでした。

立体写真というものをご存じでしょうか。
被写体をほんの少し違う角度から写して、それを並べておいて、左眼で左の写真を、右眼で右の写真を見て、頭の中で合成させて立体にするのです。富士山頂上の立体写真があるのでそれを載せておきます。
最初はうまく見えないものですが、少し慣れると実に見事に立体感覚が得られます。実際よりももっともっと高低感が強調されてまったく感動的です。
富士山頂上立体

『空から見る日本の火山』という本が理科年表のいわば別冊として丸善から出版されて、この本でほとんど日本中の火山の姿を「立体で」楽しみました。パソコン上でも出来るかな、と思ってやってみたのです。裸眼立体視という、道具も何も使わずに立体感を得ること(これは手を伸ばしてお茶碗やお箸を取ったり、遠くの物の前後を判断したりする)は、日常生活で誰もがやっている事ですから、ちょっと慣れればすぐに出来る様になります。あまりシッカリ見つめないで、遠くの方をボォーッと眺め流つもりで見ていると、「アッ」と驚くように立体になります。かなり粗末なプリンタで印刷したものでもよく見えたので安心しました。ネット上のブログでも画面上で立体感は得られます。

…扨登山すれば萬物皆黄色に見ゆ、心持ち此の世界の如くになし、大凡初禪天に近からん、麓は雨なれども八合目より上は毎(いつ)も晴天也。此の物の黄色に見ゆるは脾の臓を勞する故に、其の勞(つか)れ目に出るに因る也。何ぞ不思議ならんや。又下り道は元登りし道の少し脇を眞直ぐに走る也。一足に九尺計りも下る、登る事一日にして下る事半時也。草鞋は新物二重穿く也。夫れにても二合目に下り見れば皆々切れて有り、…

下りは「大砂走り」で下ったようです。宝永山の北側の方、今でいえば御殿場口の八合目あたりから下。一歩で2~3mは下れるのです。
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2017.06.16 (Fri)

泉光院の足跡 236 富士山へ

十三日 晴天。修善寺立、辰の刻。田中村六角堂とて日本回國六部の祖、頼朝坊由緒ある古蹟とて六部の甚だ貴ぶ處也。因て納經す。夫より伊豆の三島明神へ詣納經す。本社南向、諸人知る處なれば略す。夫より國分寺へ詣納經す。今は寺は退転と見へ納經所は社家の様見ゆ、本堂は明神の境内にあり、…
韮山反射炉
修善寺を発って三島の方へ行きます。いまの道路なら国道136でしょうか。途中に韮山反射炉というのがありますが、もちろん泉光院が歩いた頃にはまだ出来ていません。
嘉永6年6月にペリーが浦賀へ来て、その一年後にまた来るというので追っ払うために大砲を作らなくちゃならない。大砲を作るためには鉄を溶かす炉が要るのだが、炉の作り方はほんの数年前、オランダの『ライク王立大砲鋳造所における鋳造法』という本の翻訳から始める、という様なありさまだった。
この反射炉は現存する世界唯一の反射炉で、記念碑的な価値の高いものです。
三嶋朝霧東海道五十三次之内
廣重版画「東海道五十三次之内 三嶋 朝霧」

三島の宿は三嶋大社の門前町として発達しました・
廣重の絵は朝霧に包まれた三嶋大社の宿場の姿を描いています。

文政の頃に出版された旅行ガイドブックにはこんな小唄があります。
♪富士の白雪や朝日でとける、とけて流れて流れの末は、三島女郎衆の化粧の水♪
三島農兵節記念碑
と、いまのノーエ節(農兵節)としてよく知られている唄と同じような小唄が載っていますから、かなり昔からよく知られている唄だった。
左は「農兵節記念碑」で、この唄は韮山の代官であった江川英龍(担庵)という人が幕府に建議して作った農兵隊の士気を鼓舞するために作った唄だというのです。江川家は代々「太郎左衛門」を襲名するので、江川太郎左衛門の名前で知っている方も多いでしょう。先に書いた反射炉も、英龍の建議によって幕府の命令として建設することになったのでした。
三島楽寿園渇水
三島は富士山の雪解け水が地下水となって大量に湧き出ている所で、三嶋大社の西にある「樂壽園」という庭園の小濱池にも満々と水が湛えられていたのだが、三島市の北側にある大きな工場群が大量の地下水を汲み上げたのですっかり涸れてしまった。(右の写真)

これでは名園が台無しになる、というので取水制限をしてようやく水が戻った。
三島楽寿園満水

左、水を湛えている樂壽園。
やっぱりこの方がいいですねぇ。






…夫より伊豆の三嶋明神へ詣納經す。本社南向、諸人知る處なれば略す。…

三島大社鳥居
三嶋大社の鳥居です。
お正月、初詣の季節ですから霧は発生しないのだが、霧の出る季節なら上に載せておいた廣重版画と同じような景色になるのでしょう。



三嶋大社拝殿本殿
三嶋大社に詣納経しました。
三嶋大社の拝殿と、奥に屋根だけ見えるのが本殿。

…夫より國分寺へ詣納經す。…

樂壽園の所から伊豆箱根鉄道の線路を横切ったところに伊豆國分寺の跡があります。旧蓮行寺の境内を発掘調査した結果では、二丁四方の寺域に、金堂、僧坊など建物の跡が確認されたのだが、今はほとんど鉄道線路の下となり、わずかに本堂の裏に塔跡の礎石を残すだけで、国の史跡として保存されているだけの状態のようです。

泉光院はこれから富士山へ登るのです。

…夫より富士山麓スバシリと云ふに赴かんと伊豆島田と云ふを通る時、跡より呼び掛くる者あり、立ち返り見れば先達てより知る人なる雲州の武平と云ふ回國者也。何れへ行くぞと云ふに付、スバシリへ行くと云へば、富士山は此所より巢山口と云ふを登れば甚だ宜し、此村へ一宿すべしとて直ちに宿取り呉れらる。藤藏と云ふ宅、甚だ善根の家也。

泉光院の予定では御殿場の須走口から登るつもりだったのだが、旅の途中で知り合った出雲の回國者武平サンが、富士山に登るなら巢山口(須山口)の方がいいよと言われて、宿まで世話して貰った。とてもいい人たちの家だった。

十四日 晴天。今日は滯留して洗濯などし明日登山然るべしと家内中申すに付、滯留し洗濯す。
十五日 晴天。伊豆島田立、辰の上刻。巢山口より不二山へ登る。島田より三里、巢山口より又三里に丹生明神とて宮あり。此所富士禪定の者を改むる所也。山役とて一人前三十二文出る由、回國の者は出さずに通る。此處を不二一合目と云ふ、是より不二の内也。…

今の富士山登山ガイドブックでは、登山道として「四大ルート」、吉田(河口湖)、須走、富士宮、御殿場、の四つを挙げていて、須山ルートは山麓のハイキングコース、という程度の扱いです。だが泉光院は須山から登ったので、なるべく詳しく辿ってみましょう。
スタートとなった伊豆島田は三島から3kmほど北へ上がったJR御殿場線裾野駅の近く、ここから県道富士裾野線で愛鷹山の北側へ入ると国道469と交わる所に須山という信号があります。このあたりは十里木高原で、今だと富士サファリパークや富士山こどもの国など賑やかな場所です。

須山口登山道は歴史の古い登山道です。
役行者(えんのぎょうじゃ)や弘法大師空海のころはよく判りませんが、室町時代の山伏はここから登ったようです。須山口浅間神社山伏
右は須山浅間神社と言っていますが、明治の神佛分離令以降、神社とさせられたもので、それ以前は丹生明神といっていた所。富士登山(というよりは富士禪定)をする人は先ずここで入山料三十二文を支払うのだが、泉光院は回國の行者なので払わずに通った。ここの所が富士山登山の起点であり、一合目です。いまは車かバスで一気に五合目まで上がってそこから歩くのが当たり前で、一合目、あるいは海岸(ゼロメートル)から登るのは特殊な趣味の世界だと思われています。写真の様に今でも山伏の世界では泉光院と同じように丹生明神で祈願をしてから登山をするようです。
富士山須山口水ヶ塚公園
左が富士山スカイラインの水ヶ塚駐車場から見た風景。
泉光院もこのような風景を見ながら登りだしたのでしょう。右が須山口登山口です。
富士山須山口登山口

こういう場所は意外と昔の道がそのまま残っているものでして、ここから富士登山の第一歩を進めるのです。


…此山松に似たる木多くあり、此木を不二松と云ふ。此山を廿丁程上り行く、二合目と云ふより小砂計りの山になる。木は勿論草もなし。…
富士山須山口御殿庭下二合五勺

少し登ると「御殿庭」というのがあります。左は御殿庭入口。ほぼ二合五勺のあたり。
中央に見えるのが富士山頂の方で、右側のピークが宝永山。標高が2000m付近です。

宝永四年(1707)に噴火して出来たのが宝永火口で、須山口はちょうどこの道筋に当たっていたので一旦は廃道になりましたが、1800年代には復活してたいそう賑わった登山道になったのでした。
泉光院は眼前に見える山頂目指して登ります。
21:41  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2017.06.09 (Fri)

泉光院の足跡 235 修善寺

富貴野山寶藏院のある山は21世紀の現在は「21世紀瞑想の森」ということで松崎町の観光地となっています。
泉光院はここで弘法大師の寶物などを拝見して、…夕方歸り市藏宅へ宿す。三度振舞あり。…で、

九日 晴天。櫻田村立、辰の刻。猫峠の方へ赴く。寺澤村と云ふに行き勘左衛門と云ふに宿す。

正しくは「猫越(ねっこ)峠」という峠道は今はもう廃道になっているようだ。古い道路地図には登山道のような点線の道が記載されていたのだが2005年の道路地図には「猫越峠」という地名はあっても道はなく、2016年の地図にはその名前も消えてしまった。
泉光院は富貴野山から一旦松崎町の方へ戻ってから猫越峠を越えて下田街道へ出ました。富貴野山から直接下田街道へ出ることもできるのですがそのルートだと天城峠を越さなくちゃなりません。今でこそ明治38年に天城トンネル、昭和になってからはクルマ社会に適した新天城トンネルが出来たのだが、そんなトンネルのない江戸時代は難所でした。それで、土地の人の勧めもあって猫越峠の道を選んだのだと思います。

十日 晴天。寺澤村立、辰の刻。三里の谷合を行く、峠下にて行き詰まり、宮の原村と云ふの庵室に宿す、庵主一句望みに付書付る。前あり略す。
   夕立の過ぎて雨なし天城山

今の西伊豆町役場のあるあたりから仁科川に沿ってずっと上がっていくと宮の原村を過ぎたあたりで川が分かれている。正確な地図があれば左側の谷を遡ると猫越峠であることが判るのだが、そんな地図があるわけがない。おまけに夕立が来た。だが便利なもので、江戸時代にはあちこちに庵室というものがあって、人が住んでいるのもあるし無住のものもある。人が住んでいる場合だと庵主は風流人のことがよくあるようだ。泉光院は風流人のいる庵にめぐりあった。

十一日 晴天。庵室立、辰の上刻。直ちに猫峠に掛る。上下三里、道甚惡し、双方大薄(すすき)繁り露にて皆々濡れたり。…
猫越岳猫越峠付近稜線

左、真ん中の三角形の山が猫越岳で、その手前側が猫越峠になります。
右が猫越峠付近の稜線。今は「伊豆稜線歩道」という、ちゃんと整備された歩道があるので歩きやすいのだが、それでも下田街道へ降りる道を捜すのは難しいかもしれない。猫越峠から峠道を猫越川に沿って下ると猫越村があって湯ヶ島温泉の方へ出る事が出来ました。
浄蓮の滝
三島大社の鳥居の前から下田港までの道、国道136号というのが下田街道。
このあたり、湯ヶ島温泉、吉奈温泉、嵯峨沢温泉、月ヶ瀬温泉、修善寺温泉、大仁温泉。伊豆長岡温泉…、名湯がいっぱいあります。少し名所も見ておきましょう。
右は浄蓮の滝。落差25m、幅7m。泉光院の降りてきた湯ヶ島のちょっと南にあります。大きな駐車場で車を止めて、多くの売店が並んでいる道の大勢の観光客をかき分けて谷へ降りた所にあります。
天城トンネル旧

浄蓮の滝の所から少し南へ行って、左手の細い道を入って行くと旧道の天城トンネル、左の写真、になります。
このトンネルが出来てから 湯治客がたくさん伊豆へ来るようになりましたし、それを目当ての旅芸人の姿も見えるようになりました。
大正七年、(旧制の)第一高等学校の2年生で19歳の川端康成も、湯ヶ島温泉で14歳の踊り子と出会いました。そしてこの天城トンネルを抜けて(いまならループ橋というのをクルクル回って降りて)、一緒に下田までの三泊四日の旅をしたのでした。
河津七滝の所で一休みして「踊り子と私」というこのブロンズ像を見ましょう。踊り子と私m
この像があるのは七つある滝のうちの四番目(つまり上からでも下からでも真ん中)、初景滝(しょけいだる)の所です。
伊豆の踊り子吉永小百合
ついでですから昭和38年に映画化された吉永小百合の「伊豆の踊子」の一場面も入れておきましょう。



…晝過ぎ田方村と云ふに下る、人家三軒あり。夫より半道にて芳桑(吉奈の誤らしい)村と云ふに温泉あり、入湯の處道心者一緒に入湯し種々話す中、今晩は予が庵室に宿し玉へと云ふに付同道して庵室に宿す。月ヶ瀬と云ふ村、村の名に付一句、
   月ヶ瀬の早き流れの今宵哉
十二日 晴天。月ヶ瀬村立、辰の刻。東海道筋三島の驛へ出る、道に修善寺と云ふ温泉あり。治衛門と云ふに一宿し入湯す。此修善寺は元眞言なりしが、退転し今禪となる、因て大師像あり。
修善寺本尊大日如来

伊豆の温泉で「入湯」を楽しんでいるようだ。
修善寺本堂
右、修善寺本堂と本尊の大日如來。
大同二年(807)、弘法大師がここへ布教に来て、後に弟子がお寺を建てたのがこの修善寺だということになっていて、北条氏が帰依したので大寺になった。
弘法大師という人は伝説の塊のような人だから、ここに温泉を掘り当てた功績も弘法大師に与えられております。病の父を介護して川で身体を清めてやっている子供の姿を見て、手にした独鈷で岩を砕くとそこから温泉が湧き出したという。
独鈷の湯全景
左が修善寺の前を流れる桂川の中にある「独鈷の湯」。
独鈷(とっこ)=右の法具で、金剛杵と言う武器の一つ。
妙法院毘楼勒叉像独鈷
独鈷




京都の妙法院(三十三間堂)の二十八部衆のうちの一人、毘樓勒叉(ビルロクシャ)がたまたま持っているので入れておきました。
独鈷の湯は修善寺温泉の有名旅館、新井旅館のすぐ前にあって、台風や豪雨で桂川が氾濫すると土砂で埋まったりするのだが、有名観光資源なのですぐに修復されます。
修善寺温泉独鈷の湯内部
こちらが独鈷の湯の内部。巨石の中に温泉が湧いている。観光名所なので昼間は洋服を着た人がいっぱい廻りに見物に着ているので、とても入浴する事は出来ません。もし昼間、素っ裸で入浴したら公序良俗に反する行為をした、ということで軽犯罪法に引っかかるでしょう。だが夜になるとコッソリ入湯している人が居るらしいという噂です。
ここは入りにくいのですぐ近くの新井旅館に入りましょう。右が新井旅館の「天平の湯」。総檜造りと巨石と、弱アルカリ性「掛け流し」のお風呂です。早速入りましょう。新井旅館天平の湯
突き当たりの下の方にある横長のガラス窓の向こうが庭園の池の中になっていて、たくさんの錦鯉が泳いでいるのが見える(水の中の鯉と同じような位置で、自分も鯉になって泳いでいるような感覚です)。
この旅館は先年の台風や洪水で再起不能かといわれたのでしたが、何しろほとんどの建物・客室が「登録文化財」になっているのだし、明治になってからは大勢の画家・詩人・俳人・小説家その他やたらに有名な人々が来て入湯しているので、暫くすると再開にこぎつけているようです。女将に頼んで案内してもらうと、いつ誰がどのお部屋にお泊まりになったか教えてくれます。靫彦・大観・古径・龍子・青邨・御舟・柏亭・玉堂・子規・虚子・かの子・勇・左千夫・綺堂・紅葉・鏡花・龍之介・露伴・鱒二・藤村・花袋…
といった面々。(姓の方を入れてありませんが全部判れば百点満点。不明一人5点減点です。)
修善寺温泉湯汲み式
毎年4月21日に弘法忌の日には、ここに立派な温泉を掘り当ててくれた弘法大師に感謝するため、「湯汲み式」というのが行われます。修善寺から湯桶を持った娘たちが独鈷の湯まで右のように行列を作って行き、修善寺の僧がその桶に湯を汲み入れて、またお寺へ戻って感謝の法要を行うのです。
21:48  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

2017.05.30 (Tue)

泉光院の足跡 234 石廊崎

六月一日 晴天。湊浦立、辰の刻。手石村と云ふに行く、手石の彌陀納經所あり、此下より船に乘りて五丁計りに洞穴あり、船を入るゝこと五間計り、其奥四間計りに水際より五尺計り上に高さ一尺計りの彌陀のごときが黄金色に見ゆ、右脇に二體ありて少し低し、必ず阿彌陀とも分り難し、洞の内に大波打込む故に船動きしかと知れず、然し乍ら洞の奥上に少しの窓穴ありて明り入る様也。佛と云ふは自然石と見ゆ、黄金色に見ゆるは不思議也。穴南向、汐干に入る。滿汐には不參、船賃七十文。…
弓ヶ浜
賀茂郡南伊豆町手石町の海岸、弓ヶ浜です。
一番左端の山の向こう側あたりの海蝕洞窟の中に彌陀の岩屋というのがあって、干潮時に船を洞中に乗り入れると前面の岩壁に金色に輝く三体の佛像のようなものが現れるので信仰されました。今の地図にも弓ヶ浜の西に名所として「手石の彌陀の岩屋」として記載されていますが、いまはこんな所へ行く人は居ないだろうな。

…夫より石室(いろう)の權現と云ふに詣納經す。…
石廊崎

右が伊豆半島南端の石廊崎風景。
石室権現はいまは石室神社という名前で、左の石廊崎灯台のすぐ下、岬の崖の下にへばりつくように建っている。




石廊崎燈台

左が石廊崎燈台。
そして右が石室権現。石室神社

泉光院はこのように書いている。
…石山の鼻先に小社鎮座、海際より八九間計り上也。本尊神變菩薩並びに恵比寿大黒、當所は豆州南の果て也。日も西山に沈む故に、當町善藏と云ふに宿す。今晩平四郎は別宅。

ここから先しばらく歩くのに苦労しています。石廊崎から南伊豆町の下賀茂温泉のあたりまで出るのに細い山道を通るのです。何しろ天城越えなんです。日付を省略して歩いた場所だけを書いておきましょう。

…石井村立、辰の刻。蛇石村と云ふに行きたる處、晝時過也、然る處、此所より岩科郷と云ふには一里半の峠ありと云ふ、然れば當村へ一宿し明日早々越ゆべしとて一宿求むれども此邊三十軒計りの處宿一軒もなし、據なく夫より峠を越へかゝる、心はせく、道は惡し、半道計りにて道に迷ひ、漸く暮時岩科郷と云ふに下る。庵室あり一宿す。

岩科郷は西伊豆海岸松崎から少し山中に入った所です。蛇石村から蛇石峠を越えるのは今でも細い道しかないのです。道に迷ってしまった。
岩科学校

左は明治13年に建てられた「岩科学校」という小学校で、なまこ壁を生かした白亜の寺社風建築にバルコニーをつけた和洋折衷の、伊豆で最古の小学校。國重要文化財指定です。

右は松崎の町を特徴づけるなまこ壁の家並み。松崎海鼠壁の家

松崎という町は伊豆の長八という左官が居た事で有名で、鏝だけを使って漆喰で絵を描く。その絵が実に素晴らしい。
入江長八というこの左官は、泉光院がここへ来た頃に生まれて、江戸に修行に出て技術を磨く傍ら、狩野派の絵を学んで、これを左官の技に応用しようと思いついて、鏝で盛り上げた漆喰に着色するという「彩色鏝絵」という技法を完成させたのでした。
長八八方睨みの龍
左は淨感寺本堂の天井に描かれた「八方睨みの龍」。
長八美術館というのもあって、そこには長八の傑作鏝絵を見ることが出来る。入場すると虫眼鏡が渡されて、鏝絵の細部を虫眼鏡で見て、その技術に驚嘆する! ということになっている。

泉光院はここから富貴野山寶藏院という弘法大師ゆかりの寺を訪ねて、そこから天城峠を越えようと思います。

八日 曇天。三島村立、辰の刻。富貴山と云ふに上り、天城山と云ふを越へ、本道に出んと思ひ、櫻田村と云ふに行く。雨着山越への様子を聞く處、六里の峠あり甚だ難所なりと云ふ。右に付思案の所、主人市藏と云ふ者申す様、今日富貴山へ登り此處迄下り我内へ一宿し、猫越へと云ふを越へ玉へ、此峠は上下三里也と云ふ、因て右に定め笈頼み置き直ちに富貴山へ登る。麓より一里半。禪寺一ヶ寺。…

天城越えの道を聞いてみたら、ここからだと六里もあって難所だよ、と言う。そう教えてくれた市藏さんは、ここから寶藏院へお詣りをして、戻って私の家で泊まって、明日猫越峠へ行きなさい、それだと上下三里だよ、と教えてくれたので、おっしゃる通りに致しましょうと、すぐ寶藏院へ行くことにした。福貴野山宝蔵院登り口
右が寶藏院への登り口。
今は櫻田村から狭い道だけれども普通車くらいまでなら車で上がれる。
福貴野山宝蔵院地蔵群
西伊豆町と松崎町の境にある550mほどの富貴野山という山の頂上あたりにこのお寺があって、正しくは富貴野山宝蔵院。登ると130体以上もある石佛が参道をずっと背中合わせになって並んでいます。
山門も本堂も、昭和24年頃の台風で倒壊してしまって、いまは礎石だけが残っていて開山堂が一棟、この石佛群の向こうにあります。

…當山は弘法大師開基の山にて、大師の笈、杖等寶物種々あり、笈は修験笈也、笈佛は六地藏と云へる秘佛にて、今一體は當堂の中尊也。當寺参詣の者へは何れも掛合出る也。夕方歸り市藏宅へ宿す。三度振舞あり。

泉光院がここへ行った時には…參詣の者へは掛合(軽食のようなもの)…が出たらしいのだが、今は無住のお寺で本尊もどこかの個人宅へ格納されているらしいし、納經印が欲しい人は、これも松崎町側では吉長○○氏宅で、西伊豆町側では梅田○○氏宅で、印刷されて押印済みのものを買うことが出来るそうです。
だからこのコースは参詣のためではなくてハイキングコースだと思った方がいいようだ。
22:46  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2017.05.26 (Fri)

泉光院の足跡 233 佐土原江戸用船

伊豆國へ入った泉光院は、先ず東海岸を歩いて先端の石廊崎まで行き、そこから山を越えて下田街道、伊豆の踊子コースで修善寺、三島、という具合に歩きます。
伊豆半島衛星画像
伊豆半島というのは右の衛星画像の左下にあるのがそうで、右の島が伊豆大島です。
地学の講義をするつもりはないのだが、この半島は日本の本州のほかの部分とはちょっと違っていて、フィリピン海プレートの上に乗っていた「古伊豆半島」という島が、1年に4㌢ずつ近づいてきて本州に衝突して今のようにくっついたのです。


プレート日本付近2次元
日本列島は、左の図のように北半分が北米プレート(異説もあります)、西半分がユーラシアプレートの上に乗っかっていて、その境目が、糸魚川静岡構造線(フォッサマグナ・大きな溝という意味のラテン語、とも言います)です。
ここの所に割り込むようにフィリピン海プレートが古伊豆半島の島を乗せて日本列島の中に潜り込むように侵入して、今のように伊豆半島になったのが200万年程前の事だと言います。プレート3次元
大きな地面がぶつかって潜り込むのだから、その摩擦熱で富士山や箱根火山が出来ましたし、今も潜り込んでいるのだから伊豆や箱根にはいい温泉が湧き出ているし、そのうち東海地震や東南海地震が起きるだろうと言われているのです。
右の図はその三次元模式図。

十国峠から日金山東光寺へ下って、お詣りをしてその晩は近くの地藏堂で泊まった泉光院は、

十九日 晴天。坂中地藏堂立、辰の刻。又十八丁下り伊豆權現へ詣納經す。八州総社と云ふ額あり。…

伊豆山神社
急な坂を下って伊豆山神社へ来ました。
ここは伊豆に流された源頼朝が北條政子とデートしたという噂で、境内には二人の「腰掛石」などというものもありますがそれは後世の作り話。

日金山は前にも書いたように死者の霊が集まる場所として信仰を集めていたのだが、ある時海岸に鏡が一つ流れ着き、それを神鏡として日金山に祀った所、鏡の流れ着いた場所から温泉が湧いた。それが熱海の走湯(はしりゆ)だというのです。
伊豆山神社走湯権現
この温泉を信仰の核にして走湯(そうとう)權現(右)を祀ったのが伊豆山神社です。
源頼朝はこの伊豆山神社と箱根神社、三嶋大社を三所詣りとして大勢の部下を連れてたびたび参詣しています。
江戸時代になると、小田原藩は熱海の温泉を接待の場所として利用するようになり、徳川家康も招待されているようです。
さらに明治になると読売新聞に『金色夜叉』という小説が連載になって、熱海の海岸を♪貫一お宮の二人連れ♪が散歩をしたり蹴飛ばしたりする舞台になってたいそう有名になりました。貫一お宮銅像
熱海の海岸を散歩をするとこの像はすぐに目につきますから。
だがこの像は外国人観光客にはかなり不人気なようです。何しろ男が足駄履きで女を蹴飛ばしているのですから。
間(はざま)貫一と鴫澤お宮の関係がここに至るようになるまでの長い長い物語を説明しても外国人にはなかなか分かって貰えないようです。

…夫より熱海と云ふに峠を越へて行く。此處市中に湯湧き出る所あり、廻り十四五間に垣あり、其内に大石あり、其下より湯を吹き出す。其勢大瀧の落るが如く、其音大雷よりも高し。惣じて湯の湧き出ること日に二三度、夜一二度也。朝六つ時、四つ時、八つ時、夜も同斷也。湧出でざる間には水も出ず小石原となれり、多くの子虫出であさる也。又湧出る時には土中に遠雷の如き音あり、段々音高くなればそろそろと湯湧き出る。又休み日とて湯の湧出ざる日あり、一ヶ月一日宛月の十五日か十六日にあり。此時は前夜湧續きて暫くも止まずに出る、此湯の流れを六七軒にて分配し入湯人入湯す。…

右は「自噴泉」。熱海自噴泉
昔は泉光院の書いているように本当に自噴泉だったのだが現在はポンプ仕掛けか何かで観光用に吹き上げているようだ。泉光院はこの自噴泉の事などたくさん書いているのに、自分は入湯をせずに素通りをして次に行っているのです。

…夫より上多賀村と云ふに峠を越して下り藤右衛門と云ふに宿す。夜に入り近所の者共多く集まり、其内には盲僧盲女もありて何ぞ話せよと云ふに付、世上話は平四郎に譲れり、然る處是非吾にも話せよと云ふ、眠さはねむし據なく話す。先づ各々方は話聞かんとして御出で、何が聞くぞ、又爰へ來れる身體は何が歩行させじぞ、其の聞かんと思召すものは何が思はするぞ、先づ此事を聞いてより話し申さると云へば、聞くは耳也、歩行は足也など一切分からざる故、先づ人間の始まり天の一理よりして、五倫五常、大學三綱領三歳に漏れざる心性皆々話し聞かすれば恐れをなして居られたり。

熱海から山を越えて多賀村へ入り、藤右衛門サン宅で泊めてもらった。村の庄屋さんのようなお宅だったのでしょう。村人が大勢集まってきて話を聞きたがる。
泉光院は面倒くさいので、孔孟の學、人は何のために生きるかなど哲学を喋る。
村人達はそんな話を聞きに来たのではないのです。日本中をくまなく歩いてきた修験行者から面白く珍しい話を聞きに来ただけなのに。

二十日 晴天。多賀村立、辰の刻。網代と云ふ獵場へ托鉢しに行く、夫より二里の峠を越へウサミと云ふ村へ下り庄右衛門と云ふ宅へ宿す。
廿一日 晴天。當村晝過ぎ迄托鉢、伊東と云ふ村へ行き一宿、當所伊東と云ふは日向國飫肥の領主今の伊東氏本國城下の跡也。東林禪寺と云ふ菩提寺今にあり詣づ。年々代參あり。當所にも温泉三ヶ所あり入湯。
伊東東林寺
伊東という所は曾我兄弟の仇討ちに登場する伊東祐親(すけちか・曾我兄弟の祖父)の領分だった場所だが、江戸時代の伊東氏は宮崎県の飫肥の領主(泉光院時代の殿様は伊東祐福、51,000石)になっていた。右は東林寺。伊東氏の菩提寺だから毎年代理の人が飫肥からお墓参りにくるのを泉光院も知っていたのでお詣りをした。
伊東祐親は伊豆に配流された源頼朝の保護観察をする役目を平家から任されていました。しかしいつの間にか祐親の娘八重姫と頼朝は仲良くなってしまって、千鶴丸という子供を作ってしまった。それを知った祐親は平家の怒りを恐れて(つまり監督不行届の責任でしょうか)千鶴丸を殺して頼朝をも暗殺しようとしたので事前に察知した頼朝は北条時政の館へ逃げて、今度はそこの政子と一緒になってしまう、というような出来事があるのですが、そのことはさておいて、伊東市では祐親を英雄扱いにして、毎年5月の末頃の土日に「伊東祐親祭」というのをやっています。
伊東市の東の地下では微少群発地震がよく発生する所で、その所為だろうか温泉がたくさん湧き出ています。泉光院の頃は…温泉三ヶ所あり…だった源泉が今は800ヶ所もあり、市中にはうんと安く入れる(\170~\200)共同浴場が10軒あります。
とりあえず大黒天とか、寿老人、福録天、辨財天など七福神の名前の付いたのを捜せばいいです。
今井浜温泉露天風呂
下田へ行くまでは大したことをしていません。ときどき平四郎と仲違いをするらしくて、…平四郎は別宅したり。…とか、…平四郎昨夜は別宅せしかど今夜は予が旅宿へ來れり。…など、別々の家に泊めて貰たりしている。
伊東から、北川(ほっかわ)村、稲取村、河津町の見高村や縄地村など、ほんの少しずつ移動してお泊まりを重ねています。

左は今井浜の露天風呂。いいですねぇ。入りたくなりますねぇ。

「静岡妖怪譚」という本を見ていたら、稲取に八百姫さまがいらっしゃる事を発見しました。
八百姫東伊豆町稲取
八百比丘尼神社東伊豆稲取
右が東伊豆町稲取の八百姫神社と、八百姫さま。
八百姫さまのことは、「No.069 八百姫」の項で詳しく書いておきましたが、若狭國遠敷郡小浜にいた人で、ある時父親が土産に持ってきた人魚の肉を食べて、若さと美貌を保ったまま800歳まで生きたのです。
日本各地をめぐり巡って、道を開き、橋を架け、堂社を作り、五穀樹木の繁殖を教え、人の病を治し、貧しい人を助け、人の守るべき五徳を教え、世の人々につくして歩いたのだと言います。ここ稲取の八百姫サンは、民俗学者柳田国男の高弟である折口信夫がここを訪れた時発見して、氏の代表的な著書『古代研究』国文学編の中に、昭和初期に写した写真とともに紹介してあるそうです。

廿九日 晴天。上野村立、辰の刻。柿崎浦と云ふに出づ、此所は伊豆の下田とて江戸廻船入津んも所也。佐土原江戸用船問屋喜衛門と云ふ宅へ休息す、下田町通り湊浦繁七と云ふ宅に宿す。

佐土原藩は外様(とざま・関ヶ原の戦いの後に徳川家に服従した大名)の小藩(27,000石)でしたが、それでも大坂の中之島には蔵屋敷を持ち、江戸では「No.138佐土原藩上屋敷」 で書いたように三田に上屋敷を持ち、中屋敷・下屋敷も持っていました。佐土原藩用船

日向国佐土原と江戸はずいぶん離れているので、用船を七艘ばかり持っていたようです。だいたい400石から700石積の船です。
右は島津忠徹が主君であった頃の用船の絵。
白地に太い黒の中筋の入った帆と、紫地に白抜きの方喰(かたばみ・酢漿草)紋の幔幕をめぐらし、白地に紺色の轡紋(くつわ・丸に十の字の紋、島津家共通)の旗印を掲げて、佐土原から瀬戸内海を通って大坂へ、それから紀伊半島を廻って東海道沖を東進して伊豆から江戸へ入りました。江戸の藩邸と佐土原の御城との間の貨物や連絡文書、必要に応じて人間も乗せる、メール便の役目をします。そして大坂の蔵屋敷、江戸の御屋敷の御用を勤めます。
途中の下関や鳥羽、伊豆の下田には藩指定の船問屋があって、泉光院は…佐土原江戸用船問屋喜衛門と云ふ宅へ休息…してから10kmほど石廊崎の方へ行ったところの…湊浦繁七と云ふ宅に…宿泊しました。

前に載せておいた八百姫サンの絵をのせておきます。       
小浜八百姫厨子大宮八百姫祠

左は福井県小浜の空印寺。八百比丘尼の御厨子に入っている像。
右は埼玉県にある八百姫大明神の祠。
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