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2011.07.26 (Tue)

ヨリックの散歩道 金澤015 ヨリックの勤め先 

私が竪町の喫茶店「郭公」に足繁く通っていた1950年代、同じように足繁く通う
男がいて、いつの間にか言葉を交わすようになった。それが横山サンです。
五木寛之氏も郭公には行っていたようです。五木氏が金澤で書き上げた最初の小説は
ある娯楽雑誌の新人賞を受賞しました。その頃の事を書いた氏の文章を少しばかり
書き写しましょう。

 …私は大いに得意だったが、金澤という町は娯楽読物雑誌の新人賞ぐらいでは
一向に関心を示してはくれなかった。しかし、何となく残念な気もする一方では、
またそれなりの気安さもあったはずである。
 私が市内の喫茶店によく立ち寄るようになったのは、その頃からだった。最初は
〈郭公〉、それからスタンド・バーで昼間だけ喫茶店になる〈蜂の巣〉、…

と書いていますから、ある時期ひょっとすると「郭公」で五木氏と顔を合わせていた
ことがあるかも知れない。しかし私はその頃娯楽雑誌に小説を書いているような
五木氏には全く関心はなかったのでした。

横山サンという人はその頃は化学繊維を使って漁網、魚を捕る網、を製造する会社に
勤めていて、福井大学工学部の化学科を卒業していて、化学繊維の色染を専門にして
いたので、例えばナイロン繊維の漁網をどんな色に染めるとどんな魚がたくさん捕れる
だろうか、というような研究で会社に貢献をしていたらしい。
お互いに気が合う、というのか、いつの間にか音楽を中心にいろんな事を喋るように
なったのでした。

友人・横山サン
これが横山サン。福井の学生時代には、猿の他にもいろんな生き物を飼っていた
ようだ。部屋で蛇を飼っていると、冬になると畳の隙間へ潜り込んで冬眠をする、
と言っていたのを覚えている。
生家が敦賀で、ヨットが得意だったから、のちにクルーザー(大型の、外洋へも出られる
ヨット)を買い、会社が定年になってからは金沢工業大学のヨット部の指導者にも
なったりしていた。

平井サンという人は京都大学・大学院で戦後発展してきた自動制御という学問の
勉強をやっていた人でした。
平井サンが工学部電気工学科へ助手として赴任してきたのは1955年頃でした。
山へ登るのが好きだということで、私などともすぐ仲良くなったのでしたが、彼の山登り
というのは私のようなヤブ山ノソノソ歩きとは違って、厳冬期北岳バットレス未踏
ルート探索とか、冬季知床半島縦走などといった本格的登山なのです。工学部、中でも
電気工学科の教職員には山登りの好きな人が集まっていたことは犀瀧の項で書いた
とおりですが、山登りといっても好みが色々あって一緒に山へ行くチャンスは殆ど
ありませんでした。
横山サンの下宿のすぐ近くに彼も下宿したので紹介して一緒に遊ぶようになった
のでしたが、彼はひどい音痴で、従って山と音楽以外のところで遊んでいました。

友人・医王山スキー
これが唯一一緒に山へ行った時の写真。
先頭を歩くのが平井サン、次が横山サン、後ろがタン子サン。向こうに見える山が
戸室山で、No.013に書いておいた戸室石を産出する山です。戸室山の奥、石川県と
富山県の県境に医王山というのがあって、そこまで登ってからずっとスキーで滑って
家まで帰ろう、と言う計画です。今と違って雪が積もっても道路の除雪はしないので、
殆ど工学部の裏あたりまでスキーのままで滑ってくることが出来ました。

あるとき平井サンは「フランス語の勉強をしようじゃないか。」と言い出しました。
私も中学生の頃から一人でフランス語の勉強をしていたということもあってとりあえず
賛同して、6人集まったのでお金を出し合って、戦前フランスに住んでいたという
お年寄り(かなりの老人だったように思います)に木曜日の晩に工学部まで来ていただいて
勉強を始めました。教科書はアルフォンス・ドーデーの「風車小屋便り」を使って、
いきなり原文を和訳していくのです。文法だの発音だのということは一切やりません。
一ヶ月4回、半年間、計24回でこの教科書を読むということになりました。ところが
木曜日、私は金澤放送管弦楽団の練習と放送があって、第1木曜が練習・第3木曜の
午後9時45分から15分間生放送(その頃は録音をするなどということはありません。
全部生放送です)なので、その日はNHK金澤放送局へ出かけるのでフランス語の授業は
受けられません。
それで私だけ他の人の半分だけしか勉強は出来なかったのです。だから今でもフランス語は
中途半端(全部出席していてもやっぱり中途半端だったとは思いますが)なのです。
自動制御という学問はフランスでかなり進んでいて、だから平井サンはフランス語の
論文を読む必要があったので私たちみんなを巻き込んでフランス語の勉強を始めたらしい、
ということがわかったのは大分たってからのことでした。

平井サンはAACK「= 京都大学学士山岳会」というののメンバーで、その頃は
桑原武夫博士が会長でした。そしてカラコルムのチョゴリザ(7654m)という山へ
登りに行くという計画を立てて、そのメンバーに平井サンも指名されました。
それを聞いた横山サンとワタクシは、背が低くてヤセッポチで体重も軽くてなんだか
力がなさそうな平井サン、といつも思っていましたから、アイツはきっとベース
キャンプでへたり込んで一歩も動けないに違いない!と結論づけていたのです。

チョゴリザ
これがそのチョゴリザという山。
(クリックすると大きくなるようです。もう一度クリックしすると正常な感じになります)
チョゴリザという名前は、「純白の衣を着た花嫁の山」というような意味だそうです。
同じく隊員の加藤泰安氏の写した写真で、六切りの大きな写真を戴いてとても嬉しかった
のでここに載せておきます。綺麗な山ですね。

ところが何としたこと!頂上へ登ったのが平井サンだった!とニュースで知って、
横山サンとワタクシは絶句したのでした。
彼は帰ってきてから言うことには、図々しくも、…花嫁を抱いてきた…というのでした。

平井サンは自分用のお土産にアイベックスというヒマラヤに住む大きな獣の角を一対、
横山サンとワタクシには山羊の毛皮で作った帽子と、現地ではチャンキーダウトと
呼んでいるらしい口琴(鉄で出来た安いもの)をくれたのです。
角は長さが1㍍ほど、根元の開口部が15㌢ほどもある見事なもので(勿論今なら
輸入禁止で絶対に持って帰ることの出来ないものですよ)、横山サンとワタクシは、
その角で角笛を作ったらどんなにか素晴らしかろう!と説得して、遂に見事作り上げ、
横山サンとワタクシはそのアルペンホルンを吹いたのでしたが、平井サンはどんなに
練習しても音が出なかったのでした。

工学部の隣に上野八幡神社というのがあります。
上野八幡
前にも書いたかも知れないのだが、金澤の八幡様のお祭りは4月と9月の15日という
ことになっていて、その日にはキチンとお祭りでしたので、長い間ここは八幡様だと
信じて疑いませんでした。ところが先日ここへ行った時、由緒書というのを見ましたら
何と、一番冒頭にこんなことが書いてあるのです。

「約四百年前の神佛混淆の時代醫王寺と呼ばれていた」
これでワタクシの長い間の疑念が一度に吹っ飛んでしまいました。
以前、「泉光院とともに」という長い続き物を書いていて、野田泉光院という山伏が
文化十二年(1815)七月二十九日に金澤へ来た時に、
 …金澤城下修験袈裟頭醫王寺と云ふに尋ね行く、火燵町とて城下東の在町にあり。
 見舞申入るゝ處留守と僞り居らるゝ様に見ゆ、右に付醍醐御殿御内、御執筆方より
 御傳言あり、直ちに申入れ度と申入れ候得ば、暫くして出られたり。因て御傳への
 趣委細申入れ、彼の方へ返答承り直ちに立つ。…
というふうに書いていて、三一書房刊の野田泉光院の「日本九峰修行日記」の原注に
この醫王寺を「金沢市東山一丁目、高野山真言宗」と説明してあったのだが、私は
それは誤りで、小立野のどこかにあって、医王山の見える場所にあるお寺ではないか、
と考えていたのが正解だったのです。

泉光院はそのあと天徳院、寶圓寺と詣納経して、淺野川へ出てから旅宿の森元屋というのに
泊まっておりますが、これは有名なお菓子屋「森八」でしょう。
淺野川の大橋を渡った所は今は森下町と書いて(もりもとまち)と読ませていますが
本来は森元町だったと思います。
千歳9個

森八の銘菓「千歳」です。
美味しいですねぇ。私は金澤へ行くと必ずこれを買って帰るのです。
このお店は他にも美味しいお菓子をたくさん作っておりますが、それはいずれここに
順番にのせていくつもりです。


上野八幡神社の右隣、細い道を隔ててすぐ隣に金澤大學工学部がありました。

この学校は大正9年に金澤工業高等学校として設立され、昭和19年に金澤工業専門学校と
改称され、戦後の昭和24年に金澤大學工学部となりました。

金澤高専・校舎

これは昭和初期の写真ですが、私がここに就職して通勤するようになった時も
これと同じ建物で、ほぼ9年半をここで暮らしたのです。
ここで出会った人々、ここで体験した様々な出来事、それらが今の私を形作っている
のだと思っています。
それらのことはいずれまたどこかで美味しいものを食べる時にでもついでに書くことに
いたします。
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