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2011.09.29 (Thu)

ヨリックの散歩道 金澤027 レコード・コンサート

レコードをタダで貸してくれた山田時計店、教師用の会議室を生徒に使わせてくれた
化学の先生、学校の放送設備をうまく運用してレコードを鳴らすようにしてくれて、
さらには綺麗な字でガリ版を切り、絵入り多色刷りの解説書を印刷してくれた西尾サン、
他にもっと面白いクラブもあっただろうに私のわがまま放題のコンサートを聞きに来て
くれた生徒たち、そのほかのたくさんの人たちのおかげ、で私のやっていたレコード・
コンサートは私にとってかけがえのない高校生活の思い出となったのでした。

昭和26年(1951)の事です。その年の暮れベートーヴェンの第9交響曲「合唱付」が、
ヴィクターとコロンビア、2社から同時に発売になりました。
ヴィクターはトスカニーニ指揮NBC交響樂團、コロンビアはブルノー・ワルター指揮
ニューヨーク・フィルハーモニー。どっちも名指揮者・名オーケストラ。
結局無理をいって両方とも貸して貰って、その晩西尾サンと二人で聴いたのです。
まずトスカニーニ、次にブルノー・ワルター。トスカニーニはどうだったかな、と言って
トスカニーニ、ワルターも綺麗だなと言ってワルター。またトスカニーニ、
またワルター。とうとう一晩に7回、第9を聴いてしまった。もう夜が白み始めていた。
付け加えておきますが、その頃のレコードはSPレコードといって黒くて重くて割れ
やすいシェラック盤という材質、演奏時間は片面4分(裏表両面で8分)です。
だから1時間以上もかかる第9交響曲のレコードは、鋭い演奏をするトスカニーニで8枚、
ゆったり棒を振るワルターが8枚半(残りの片面にはブラームスの大學祝典序曲が
入っていました)。
これをとっかえひっかえ盤を入れ替えるのです。

学校で(これは全くの無許可で)勝手に徹夜をしてレコードを鳴らしていて、叱られ
なかった(勿論褒められもしなかった)し、担当の化学の先生は全く自由にやらせて
くれて(つまり介入も指導も何もしなくて)、高校の3年間、このように好きなだけ
音楽を聴いていることが出来たのでした。だから、グレたり、悪いことをしたり、
(勉強したり、)している暇はなかったのでした。

だが何としたことか、私が卒業をするちょっと前の事ですが、学校側から私に、
全校生徒対象に レコード・コンサートをやってくれないか、と言う話があって、
軽はずみなのか無鉄砲なのか簡単に引き受けてしまったのです。
きっと頭の中には大きな曲を大きな音でシッカリ聴くことが出来る、くらいのことを
考えていたのかも知れない。そして選んだ曲の中に、リヒャルト・シュトラウス作曲の
交響詩「ドン・キホーテ」が含まれていました。
他にどんな曲を選んだのか記憶は定かではないのだが、この曲を選んだことで、
その後しばらくの間は同級生や教師たちから揶揄・冷笑・蔑視、といった眼差しが
ワタクシに注がれることになりました。
ドン・キホーテ・レコードカバー
左の繪はドン・キホーテの説明に
都合のいいのがあったので拾って
置いたものです。
物語に登場する主要人物などちゃんと
入っているようでおかしい。

愛馬ロシナンテに打ち跨り,槍を
ひっさげた老騎士ドン・キホーテは
風車を巨人と思い込んで戦いを挑ん
だり月の世界のお姫様を助けに行こう
と考えたりします。
忠実な下僕サンチョ・パンサの忠告も
耳に入らず、村娘をドルシネア姫と
奉って嫌われたりしますが、
それはすべて世人の無知蒙昧の故で
あって、ドン・キホーテの
高貴な精神はそんな事ではひるみません。
ワタクシもドン・キホーテにならって周囲の揶揄・冷笑などには怯むことなく、
楽しく音楽三昧の高校生活を送ることが出来たのでした。

所で、先号で中学生になってからいつの間にか断りもなく高校生になってしまって
いましたが、戦後のしばらくの間はGHQによるいろいろの改革が進行していて、
1947年4月1日に「学校教育法」というのが施行されたのでした。これで今まで
國民學校と呼んでいた学校はただの「小学校」と呼ぶようになった、という程度
ならばよかっただが、占領軍の基本的な考え方は、軍国主義・超国家主義的教育の
禁止と、その手の人物の教育界からの追放、修身・國史・地理の授業の停止、
小学校・中学校9年間を男女共学・教育費無償という義務教育にする、と言うような
内容だったのでした。
そういうわけで、大方針はGHQと日本政府の間で出来ていたものの、実際に末端で
教育をする先生たちは教えるのに戸惑ったようです。
そんなわけで、名前だけ(新制の)中学生になった2年間というもの、勉強にも
遊びにも全く熱が入らず、私にとって暗黒の2年間、わずかにブラスバンドで憂さを
晴らしていたようです。そしてそのまま(新制の)「市立工業高校」の生徒に無試験で
なってしまって、そのあたりからようやく人心地がついた、というか、普通の高校生
並みの、大げさに言えば精神構造になったのでした。
ワタクシの感じから言うと、最近の高校では「先生方による生徒の管理」がとても
うるさくて、生徒の発想が自由にのびのびと広がる、などということはあまりない
ように思われます。
こんな問題はとても大きな問題で、老ヨリックの嘴を挟む所ではないのだが、
いずれまた機会を見て雑感を書くことにします。

しばらく美味しいものをここに載せなかったので、今度は「金茶寮」という料亭へ
行ってみましょう。
下菊橋から寺町へ
これは犀川に架かる「下菊橋」です。
前回の、ダブリュ坂から櫻橋、
というあの道の一つ上流の橋。
この写真は昭和20~30年代の
ものらしいですからちょうど
私が通学をしていた頃の写真です。

下主馬町から中主馬町と行って
菊川町小学校の前からこの橋を
渡り、坂を登ればそこは寺町、
市立工業はすぐそこ。

この坂を上りはじめて少し行った左手にちょっと引っ込んでいるのが金茶寮。
金茶寮・入口
左の写真がその入口。
そこは加賀藩八家の内 横山家 
の別邸のあったところで、
横山家は加賀藩の領地の内、
富山城の城代家老を務めた名家です。
料亭として開業したのは昭和8年だ
というから歴史はまだ若いのだが、
広い敷地の中にある離れ座敷に、一客一亭 をつらぬいている、といいますから
なかなか入るのも恐れ多い始末です。
学校の行き帰り、ときどきこの門内を覗いて、
…こういう所でたまには飯を食いたいものだなぁ…などと
儚い夢を抱いたまま、いつの間にか金澤を離れ、未だに夢を果たせないヨリックです。
せめて写真だけでも御料理を楽しみましょうか。
金茶寮・料理
金茶寮・八寸と鍋

金城楼・焼物と菊株風呂吹き



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