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2012.06.24 (Sun)

街道周遊003 濱松宿02 曳馬城

三河の徳川家康が遠州に侵入して最初に入城したのは曳馬(引馬・引間 いろいろ書きますが
ここでは曳馬としておきます)城でした。

曳馬城はいつ頃誰が建てたのかははっきりとは判りませんが、今川氏が遠江(遠州・静岡県
西部)を支配下においたときに、今川氏は家臣であった飯尾氏を曳馬城主に任じました。
16世紀初頭の争乱の時に飯尾氏は今川氏に味方した功を認められたわけです。
そして三代にわたって曳馬城主として50年ほど在城しました。
曳馬城跡・東照宮全景曳馬城跡・石碑


写真左は、今は東照宮となっている曳馬城跡です。
右の写真、右下の石碑には「曳馬城跡」と書いてあるのが見えるでしょうか。
鳥居の右、電柱の固定用つっかいワイヤー(黄色)の下に小さく立っているのです。
(こういうのを見つけて写真に撮っておくのもブログを書くための準備です(^o^)

永禄三年(1560)、今川義元は上洛をするために25,000という大軍を率いて西へ向かい
ますが、これを阻止したのが桶狭間における合戦でした。織田信長は今川軍の十分の一
と言われるほどのわずかな兵力で本陣を襲い、今川義元を討ち取って今川軍を退却
させたこの逆転劇は非常に有名で、テレビドラマになったり沢山の小説に書かれたり
していて知らない人はありません。
今川氏は家督を氏真に引き継ぎますが以後没落の一途を辿りました。三河の松平元康
(これがのちに徳川家康となります)が独立して勢力を拡大していきます。曳馬城主で
あった三代目の飯尾豊前守連龍(つらたつ)は謀反の疑いをかけられて、今川氏真に
よって駿府城で謀殺(永禄八年 1565)されたりして、いよいよ今川家は弱体化して
いきます。これにつけ込んだのが甲斐の武田氏、三河の松平氏、というわけです。

永禄十一年(1568)12月13日、松平元康(もうここらで徳川家康と改名しておきま
しょうか)は、武田信玄の駿河侵攻と呼応して遠江へ軍を進めます。

ここで椿姫觀音という人の物語をはさんでおきましょう。正規の歴史書にはあまり
登場しない人物ですが、こういうお話もyorickの好む所ですので。
椿姫觀音堂 左の祠が椿姫觀音を祀っているお堂です。
この觀音さまは、お田鶴(おたづ)の方といって、
飯尾豊前守連龍の奥方さま。
夫である連龍が今川氏によって殺され、
お田鶴の方はまだ幼い長子義廣を擁して
曳馬城主として城を守ることになるのです。

そこへ徳川家康の侵入です。

徳川家康はまだ三河の一豪族であり、
織田信長の下になっているのだが、
織田家には、羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉
などといったのがいたりして、
家康としては何としても自分の領地を広げ、自分の部下をたくさん集めて
勢力を伸ばさなくちゃなりません。
今川家が弱体化し、今川・飯尾の関係が悪化している今がチャンスなのでした。

徳川方の圧倒的な軍勢を前にして、お田鶴さまの軍勢はなすすべもありません。
椿姫觀音堂・内部椿姫觀音・肖像
落城寸前となり、緋縅の鎧に
白柄のなぎなた、丈なす黒髪に
純白の鉢巻、といういでたちの
お田鶴さまと、それを取り巻く
白鉢巻き、たすき掛け、刃を
手にした十八人の侍女たちは
壮絶な戦いに打って出ます。
曳馬城の最後を飾る戦いでした。
家康はお田鶴さまと十八人の
侍女を手厚く葬って祠を建て
ました。家康の正室であった
築山御前も塚の廻りに百本の
椿の花を植えて供養をしました。
お田鶴さまは椿姫觀音として
今もここで世人に慕われて
いるようです。

上左、椿姫觀音堂の内部と、その右、椿姫觀音像です。綺麗にお花が飾られていますし、
椿姫觀音さまがカラー写真で額縁に入っています。
椿姫觀音・祈願石
祈願石(右の石)というのもあって、それを
さすりながらお願いをすると叶うそうです。
お願い事をするには、優しく石に触れて
お願い事を唱え、椿姫觀音に参拝するのです。
「藝事上達・必勝祈願・良縁成就・男児誕生・
家庭円満、もう一つおまけに 浮気封じ」
がよく叶うお願い事だそうです。

この時の徳川家康軍の動きは、永禄十一年(1568)十二月十三日に三河・遠江の国境、
陣座峠を越えて、奥山方廣寺(半僧坊)、井伊之谷宮などを経て、細江の刑部城、
天竜区の二俣城などを落としてから曳馬城を滅ぼしたのが十八日、さらには北区三ヶ日町の
佐久城、日比沢城を落として次に掛川城へと進撃します。まさに破竹の勢い、進む所敵無し、
の状態です。
永禄十二年末には遠江全域をほぼ支配下に収めてしまったのでした。
翌元亀元年(1570)、姉川の戦いというのがあって朝倉義景・浅井長政を破った頃には
岡崎城から曳馬城へ本拠を移します。だがここはちょっと手狭、というわけで、曳馬城と
それにつながる少し西の方、三方原台地の南端 とを結んで、濱松城 というのを構築します。
左の地図が、江戸時代の曳馬城を含んだ濱松城の全域です。曳馬城は右端の場所です。
濱松古地図・御城周辺

ほぼ中央が本丸。「御城」と書いた
下の区画が天守台で、市役所とか
図書館と入れてありますがそれは
現在の公共施設というものがいかに
江戸時代の城郭跡に依存しているか
判るように入れたのです。
濱松公園とか美術館もこの御城の
領域の中にあります。昭和40年頃
までは動物園までこの中にありました。

ここで曳馬城跡周辺の写真を少し
入れておきましょう。

左が現在の濱松城天守最上階からみた曳馬城(東照宮)の森。
そして右が東照宮の拝殿です。
曳馬城の森
曳馬城跡・東照宮



江戸時代はここは濱松城の一部で、米倉とか食糧倉庫のような建物があったようです。
明治になって、御城は廃城となり、跡地に東照宮を建てました。だが昭和20年のアメリカ軍
による空襲と艦砲射撃で濱松市内の多くは廃墟となり、現在建っているこの東照宮は
昭和33年に再建されたものだそうです。

旧曳馬城の廻りを散歩しましょう。
日限地蔵・建物

御城の前の道です。左下に小さなお堂が見えていますが、
これは「日限地蔵堂 ひぎりじぞうどう」です。
このお地蔵さんに願い事をするときに、「かくかく
しかじかの願いを、いついつまでに叶えて下さい。」と、
日を限って願い事をすると叶うといいます。
日限地蔵尊は日本中各地にあって、それぞれ篤い
信仰を集めているようです。
日限地蔵・内部

右がその内部。
戸はいつも開いていて、
時には人がお詣りのために
来ていることもあるようです。
ワタクシも写真を写すために何度か来たのですが、
ちょっと戸を開けて、わずかのお賽銭を投げ込んで
から写真を写すことにしております。

静岡県で一番有名な日限地蔵は今は島田市の行政区分になっていますが、国道一号線・金谷町
役場の近くにあります。

曳馬城の一番北側を区切る道路で、堀になっていたと思われます。
曳馬城・北側の道

曳馬城跡から望む濱松城天守

右の写真は曳馬城の場所
(東照宮)の裏手から
濱松城の天守閣を(かなりの
望遠レンズで)見た
ところです。
もっとも家康が濱松城に
居を移してもすぐに
この写真のような
天守閣を造ったわけでは
ありません。
濱松城へ引っ越したすぐ後には甲斐の武田信玄が
攻めてきます。三方原の戦いで徳川家康は苦戦を
強いられます。だがこの頃、信玄の病は重くなり、
家康を徹底的に敗北させる所まではいかずに引き
上げて、甲府へ帰る途中で死亡したことは
徳川家康にとって幸運であったと言えるでしょう。
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