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2012.07.29 (Sun)

ヨリックの散歩道 金澤046 西福寺

金澤合唱團の練習場は浄土真宗大谷派東本願寺金澤別院(つまり東別院のことです)境内にあった金澤幼稚園で、ワタクシはいつも練習時間ギリギリに行って、練習がすめばすぐ帰るだけという、ありきたりの関係だった。練習場所に行けば指揮者であるゴンゲンサンはいつも指揮者の定位置に座っていて、ピアノ伴奏の神田さんはピアノの前にキチンと座っていたし、楽譜はゴンゲンサンがガリ版で刷ったのを置いてありました。
西福寺・鐘と東別院
西福寺は東別院に近い場所で、右の写真は西福寺の鐘楼から見た東本願寺金澤別院の屋根。
撞木にぶら下がっている紐の所に見える屋根が東別院です。
だがいつの間にか西福寺、というよりゴンゲンサンに会うために行くようになったのでした。
その頃は今みたいにブログを書くとか、大年代記を出版しようだとか、そのようなつもりは全くなかったのだからゴンゲンサンの写真だとか、お家の様子だとか、そういったもの一切、保存していないのです。
お盆で西福寺へ行ってきたので改めてお寺の写真などを写し、今の住職の記憶などを頼りに西福寺のことを書いておきます。
今の住職である恩(めぐむ)チャンは『豆がら太鼓』という通信文を檀家に配っていて、その69号に「杏子(あんず)に寄せて」という文章を巻頭に載せていました。
西福寺・杏の木 山門を入ると駐車場ですが、ここに杏の老木が
 立っています。(左の写真)以下、現住職の文章を引き写しておきます。

  この杏子の木が我が寺にはいりましたは 今から百数十年以上前の明治中盤の頃と伝わっています。
元々は元菊町の金子さんの庭にあったものだそうで
すでに百年以上経った古木であったそうですから 現在まで数えると二百五十歳位になります。

 ここでちょっとyorickの注釈
西福寺・旧建物配置右は西福寺の旧建物配置で、旧広間と旧廊下と書いてある部分は現在は全部なくなって駐車場のようになっています。旧広間と書いてある上の方はお座敷で、ここに座ると杏の木(○印)がよく見えたのでした。入口は旧広間と書いた文字の下の方で、古ぼけた玄関の戸の右脇に、
 「金澤合唱團」 と縦書にした看板が下がっていました。
西福寺・山門

左、西福寺の山門。正面奥に本堂。右手に鐘楼。右の配置図と合わせて下さい。山門を入って左を見たのが左上の写真です。左に杏の木、その奥に今の玄関があります。ワタクシはお盆の時にはこの玄関を入って左2番目の部屋へ行きますと先代住職、いつもゴンゲンサンと呼んでいた人の奥様が今も元気でいらっしゃいますので、一年間の無沙汰を詫びながら近況を話したりしています。
以下、再び現住職の文章。

  今は駐車スペースの真ん中の ある意味邪魔な所に木が残っていますので 不自然に感じられる方もあろうかと思いますが 嘗ての境内建物を覚えて居られる向きには あゝ そうだったと思い出して戴けるかも知れません
  先般の会館新築の際 駐車スペースを優先したため境内の木々も奥座敷の庭木も殆ど取り払ってしまいました。 (多分 極楽?地獄?で 御先祖様から大きに叱られると思いますが) ただ当時健在だった老院(これがゴンゲンサンのこと)から杏子の木だけは残してくれと強く 言われたことから左の図(右上の旧建物配置図)のように 旧の建物を撤去した後 杏子だけが玄関の真ん前に残る形となってしまいました。
  さらに 全面を舗装してしまいましたので 栄養も充分に届かない状態になり 嘗ては たわわに甘い実を付けていたのが 今では実は成るものの 青い間に落ちてしまう 可哀想な姿になってしまいました。
  とは言え 幹全体に苔を蓄え 時には猿のこしかけまで生やす姿は 古色蒼然としながらも 花盛りには近所の保育園児の花見に供するなど 近隣でも評判の木として 頑張っています。
  私も心ならずも いじめる形となってしまった この老木に 亡き老院の思い出を重ねながら 罪滅ぼしとして 精一杯 親孝行の真似事でもして 水遣りや、 消毒など しなくてはいけないかな と思い始めて居るところです。
  なお 会館新築時に根巻きをし 植木屋に保管して貰っていた 奥座敷庭の松が 
枯れた兼六園の松の代わりとして 園内に植えられたことが判明しました。
  一本でも 木を残せたこと、また兼六園内で新しい命が続くことに喜びを感じています。

以上が西福寺の杏の木の由緒です。
私は現住職をめぐむチャンなどと呼んでおりますが今年で65歳になったようです。
私が金澤の町にいた頃は杏の木が町のあちこちにあったことは、「金澤012 杏よ花着け」の項で書いたように、私の住んでいた家の筋向かい、第四高等学校で英文学を教えていた大澤衛先生の庭にもあって、悪ガキであったワタクシは先生宅の屋根に上がって取ったものです。
西福寺・須彌壇
西福寺の須彌壇(右)。
西福寺・納骨堂






そして正面の阿彌陀佛の地下に
納骨堂が作ってあります(左)。
西福寺・法名




平成11年に息子が死んだのでこの中に入れることにしました。「深寛院釋定勝」というのが法名です。

私の家のお墓は野田山の大乗寺墓地の中にあるのですけれども、生前息子の言うには、ワタクシが死んでもあんな山の中のお墓にはお詣りに行くにも不便だから西福寺に入って呉れ、といっていたので、順序が逆になったけれどもとりあえず亡息を先にここに入れて、ワタクシは後ほどここに入ることにしたのでした。大乗寺・参道入口柴木家のお墓









左上が大乗寺参道入口の所で、私の家の墓はこの参道を300mほど登った左側の山中に(右の写真のように)あって、私の記憶している範囲では昭和19年の頃に90歳で亡くなった安政元年(1854)生まれの曾祖母や、ワタクシを育ててくれた祖父・祖母の骨を納めてあるのですが、私の父・母の骨も多分ここに入っているのだろうと思っているのです。
というのは、二人とも私が幼いうちに死んでしまって、葬儀のことについては全く知らないし、祖父母にも確認をしないうちに亡くなってしまったのでした。
こうしてここにお墓の写真と、経緯を記しておいて、いずれまた金澤へ行って暇があれば祖先の過去帳などを調べてみたいと思っているのです。
西福寺よりちょっと金沢駅寄り、本町二丁目(旧の町名だと田丸町)の専光寺へ行くと判るかも知れない、と思っているのです。

金澤ではお盆の時キリコというのをお供えします。
西福寺・キリコ
西福寺・本堂とキリコ

西福寺の本堂の前にもキリコとお花をお供えする場所を作ってあります。
「南无阿彌陀佛」と書いてある紙燈籠のようなものでしょうか。この左側面に「進上  柴木」と書いて、本当ならローソクを入れて火をつけるのがいいのでしょうが危険防止のためにローソクは別の所で火をつけておきます。

2012年5月12日(土)の北國新聞(金澤の地元新聞)に西福寺の紹介が入っておりました。
西福寺・北國新聞記事

加賀藩・前田家の家紋は菅原道真の紋である「梅鉢」紋を使っているのですが、前田家が菅原道真の子孫であるなどと言いだしたのは前田家三代利常の頃からのことであって、それまでは名古屋近辺の郷士にすぎず、羽柴秀吉と一緒に信長の下で出世したにすぎないのです。加賀百万石の城主となって家系に権威をつけるために菅原家の子孫になりすましたのが実態です。





西福寺・御供
一方西福寺の方は、応和二年(962)に奈良県で創建された真言寺院で、その後金澤に移転して、金石に近い觀音堂町に移って、中世・鎌倉時代に真宗に転じたそうで、八代目住職が菅原家の出身だったので、鎌倉時代から梅鉢紋を使っており、什器や調度類、さらには左の写真のようにお詣りに来た檀家に出す御供や、お茶菓子のお煎餅などいろんなものに梅鉢紋を使っているのです。その後加賀藩の城下町形成方針によって金澤市の中を二度ばかり移転して今の場所に落ち着いたのでした。
このため前田家でも、藩主の行列が通る際には、普通の人は平伏しなくちゃならないのだが、西福寺住職の乗る駕籠は対面通行ですれ違うことが許されていたといいます。

西福寺の本堂の片隅にはピアノが置いてあるのです。
西福寺・ピアノ
ゴンゲンサンはここで東本願寺の法主、というのか、つまり一番エライ人に来て貰って、親鸞聖人の700回忌か何かの音楽法要をやったりしましたし、その時に活躍したピアノではありますが、ご自身の葬儀の時にも金澤合唱團はこのピアノの伴奏で佛教聖歌のいくつかを演奏したのでした。ワタクシもその時このピアノの横で聖歌を歌ったのでしたが、その時以来殆どこのピアノの蓋は開かれていないようです。
ゴンゲンサンの曾孫チャンに可愛い女の子がいるのですが、その子がこのピアノの蓋を開いて音を奏でることがあればいいな、とワタクシは思っているのです。

お盆で西福寺へ行ってきたので西福寺のことを少々書いてしまった。
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