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2012.09.21 (Fri)

街道周遊 007 スタート

いよいよ出発します。出発地点は濱松宿の東の木戸口。No.005の馬込川に架かる馬込橋
がスタート地点です。
東海道に沿って名所旧跡を辿りながらまず江戸への道を辿ることにしましょう。

馬込川は遙か昔天竜川がここまで流れていた名残の川で、〔吾嬬路之記 (享保六年
1721)〕には「馬込川 橋有。むかしは小天龍といふ。」で、その橋は〔諸国道中袖鏡 
天保十年1839〕には「まごめばし長さ三十貳間(約58m)。濱松の入口也」でした。

まず例によって古地図を出しておきます。
繪圖・濱松~天龍川














宝暦二年(1752)に出版された〔新板東海道分間繪圖〕です。この道路地図は、一丁(109m)を一分(約3mm)に縮尺した地図ですから、1/36300くらいになるでしょうか。今の国土地理院発行の地形図が1/25000である事を思うとかなりの精度で作られております。
赤字で入れたのは説明に便利なように後で写真などを入れる予定の場所です。

上の繪圖、左の方が濱松宿の場所で、西番所から東番所までの間が宿場町というわけです。

黒地に白抜きで濱松とある場所が御城の大手門、高札場、そして一番賑やかな連尺町で、そこから南(下の方)へ、問屋場や本陣、旅籠などが軒を連ねていました。東海道・東木戸跡
宿場の東の出口は馬込川の川を渡ったところに木戸があって(右の写真がその跡・外木戸跡 馬込橋東 と書いてあります)、ここを通って行きます。

まもなく天神町という信号が見えてきます。左へ曲がって少し入ると天神社がありました。「祭神 菅原道真」と書いてあります。暑い日でしたが境内で大勢の人が働いていました。5月の浜松祭の時には昼の間は凧を揚げて、夜になるとこの屋台を美々しく飾り立て、お囃子の子どもたちを乗せて賑やかに町へ繰り出して、お祭りの雰囲気を高めるのです。
天神社・神輿屋台全体を飾っている美しい彫刻を掃き清めて晒布で包み、来年のお祭りに備えるという地味な作業を町内の男達みんなですることによって連帯感が生まれ、永続的にお祭りが維持されていくのです。
天神社・本殿

右はこの天神社の本殿です。天神社には普通腹ばいになった牛の像がほしいものなのですが、ここにはそれがありませんでした。

ここからもう少し行くと大きな鳥居が街道に面して立っています。蒲神明宮の入口です。
蒲神明宮・大鳥居
〔東海道名所圖會〕に「蒲神明 ー 神館村にあり、神主蒲氏は(源氏)三河守範頼の末裔と云ふ」。

源範頼は源義朝の六男、頼朝の弟に当たります。頼朝が鎌倉幕府を開いてからは彼の独裁政治となり、範頼は伊豆修善寺で殺され、
義経は奥州で殺されました。独裁者というのはいずれ邪魔になりそうな親族をまず排除してしまうものなのだろうか。蒲神明宮・大鳥居右下

右が鳥居の下にある標柱の類。鳥居は大きいです。

ここから蒲明神までの道はとても長い。道を間違えたかと思うほど。漸く見えました。下が神明宮の二の鳥居です。
蒲神明宮・入口

中世の時代、12世紀頃の浜松南部には濱松莊・蒲御厨・池田莊・市野莊・美薗御厨・羽鳥莊といった荘園がありました。
蒲御厨の領主は伊勢内宮でしたから、ここの所に神明宮が作られたのは当然のことです。
範頼はここで生まれたので、蒲冠者と呼ばれました。長じて頼朝の代官として木曾義仲追討、平家追討に赴き、義経と共に戦功を挙げたのでした。
鎌倉幕府でも重職にあったようですが、富士の巻狩(曾我兄弟仇討ち事件)のあと、頼朝が死んだという噂が立って、本当か嘘か判らない事だが範頼が北条政子に、私がいるから鎌倉幕府は大丈夫だ、とか言ったという謀反の疑いをかけられて殺されたのでした。だがその子孫はずっとこの神社の神主を勤めていて、今の神主は範頼から数えて45代目くらいに当たるそうです。
蒲神明宮・拝殿

左、神明宮の拝殿。
神明サンの祭神はアマテラスです。
創建は大同元年(806)、伊勢神宮の勧請によるもので、伊勢神宮に倣って二十年ごとにすべての建物を新しくする式年遷宮が行われてきたため、古い建物などは全く存在しないし、石造物もたくさんあったのだろうがあまり残っていないようです。一番最近の遷宮は平成12年だったそうです。すると次の遷宮は平成32年という事になりますね。
蒲御厨の時代は6400石にものぼる広大な土地を領有し、四十二ヶ村の総社として人々の信仰を集めてきた由緒ある神社ですが、おそらく豊臣秀吉による太閤検地とか、その後の江戸幕府による寺社の管理によって「御朱印石高二百六十石」という事になってしまった。
境内の中には末社がいろいろあってオモシロイです。
蒲神明宮・伊雜宮

これが伊雜宮(いざわのみや)。伊勢神宮の別宮です。
横の立札には祭神、伊佐波登美命・玉柱姫命と書いてありました。
蒲神明宮・天王社

右が天王社。
牛頭(ゴズ)天王、つまりスサノヲを祀ってあります。素戔嗚尊は天照大神の弟に当たる神様なんだが、高天原で悪行をするので地上の出雲国に追放され、ヤマタノオロチを退治して、日本での最初の和歌であるとされる「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」という歌を歌ってクシナダ姫と結婚して大国主命を生ませたかと思うと、佛教のお釈迦様の滞在地であった祇園精舎の守護神である牛頭天王と習合したり、民間伝承である蘇民將來説話の武塔神として登場したり、とても賑やかな神様です。
蒲神明宮・厳島神社

これは厳島神社です。
厳島神社というのは宗像三女神を祀る宮です。
宗像三女神、田心姫(たごりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)は、アマテラスの吐く息から生まれたとされるアマテラスの娘たちです。
福岡県宗像市の、朝鮮半島に近い沖之島には田心姫を祀る沖津宮が、九州に近い宗像市大島には湍津姫を祀る中津宮が、そして宗像市内に市杵島姫を祀る辺津宮、この三社を合わせて宗像神社というのですが、この三つを結ぶと朝鮮半島に達する、つまり、日本と朝鮮の海上交通の要衝ですから、交通安全の神様とされています。また市杵島姫は佛教の弁財天と習合して弁天様にもなったりします。だからお宮もわざわざ池を作ってその中に神社を造りました。本来は宗像神社なのだが、平清盛は海外貿易のための守護神として宗像神社から三女神を勧請して厳島神社を建てたのですし、日本中至る所に三女神の代表格として弁天様を水辺、あるいは小島の中に建てるのです。
蒲神明宮・稲荷社

蒲神明宮・お稲荷さん


右は稲荷社です。
稲荷は食物・穀物を司る農業神です。
赤い鳥居、白い狐がそのシンボルになっているようです。これもインドのダキーニー女神・荼枳尼天(だきにてん)と習合して佛教にまで取り込まれたのでした。

もう一つ、秋葉神社もありました。
蒲神明宮・秋葉神社
秋葉大権現は火伏せ、防火の神様として知られています。
秋葉神社・三尺坊

信州で生まれた修験者が新潟で修行をして、遠州の地にやってきて、秋葉山に籠もり、遂に神通力を得て空中を飛ぶ事が出来るようになり、秋葉三尺坊と名のったのですが、
ある時京都に大火があり、御所に火がつきそうになった時、うちわを持った天狗が現れて火を消し、天皇が名前を問うたところ、我は秋葉三尺坊なり、と言って姿を消したので、宮廷はこの天狗に正一位の位を贈ったのでした。


右は秋葉大権現の正一位は最高の位です。
蒲神明宮・正一位秋葉神社

秋葉燈籠を納めた建物を覗き込むと、このように「正一位秋葉神社」のお札が貼ってある事がよくあります。
秋葉燈籠は街道筋に常夜燈として立っています。夜道を通行する旅人のために燈火を絶やさなかったのでしょうか。当時の灯油は菜種油などを使ったのだから高価なものだったのでしょうが、村人達はこの燈火を消さないで伝えたのでした。
秋葉山の事は、いずれ野田泉光院が磐田あたりから登っているのでその時に詳しく書く事にします。

元の大きな鳥居の所まで戻って、道路の反対側の道へ入ってみましょう。
入ったすぐの所に円通寺というお寺があって、そこに小さなお稲荷さんがありました。
円通寺・稲荷社

たくさん旗が立っていて、
北向稲荷大明神と書いてあります。
円通寺・北向稲荷

先の蒲神明宮のお稲荷さんは西を向いていたように思いましたが、それは単に境内の配置によるものだろうと思うのです。
それとも何か由緒があるのだろうか。

お稲荷さんは伏見稲荷を頂点として、豊川稲荷とか笠間稲荷とか有名なものが日本中あちこちにたくさんありますが、このような小さいお稲荷さんを数えるといったいいくつあるのだろうか。

東海道を東に向かいましょう。子安という地名の所には子安神社がありました。
子安神社

由緒書には御祭神 木花咲耶姫命 とありました。
この神様は大山祇(オオヤマツミ)命の娘で、邇邇藝(ニニギ)命の妻です。ニニギと結婚して一夜で身籠もったので、ニニギは、俺の子じゃなくてどこかの國ッ神の子供じゃないのか?と疑うのだが、疑いを晴らすためにコノハナサクヤは、「もしこの子が天ッ神であるニニギの本当の子ならば何があっても無事に生める筈」、と言って産屋に火をつけてその中で三人の子供、ホデリ、ホスセリ、ホオリを無事出産したのでした。ホオリの孫が神武天皇である、と言うのが記紀の記述です。
ここの子安神社の伝説では、源範頼の妻の無事出産を願ってこの神社を創建した、といいます。子安神社は各地にありますが、安産の神様としてのコノハナサクヤヒメを祀ってあります。
大山祇命には磐長(イワナガ・姉)姫と木花咲耶姫の二人の娘があろました。
ニニギが高天原から降臨して鹿児島県の笠沙(カササ)の岬でコノハナサクヤに出会って一目惚れをして求婚したのでした。父のオオヤマツミは喜んで磐長姫も一緒に差し出したのでしたが、磐長姫は醜女だったのでこれを嫌って妹のコノハナサクヤだけと結婚したのでした。オオヤマツミは怒って、「磐長姫を妻にすれば天ッ神(ニニギ)の命は岩のように永遠のものとなり、木花咲耶姫と結婚すれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約をたてて二人一緒にさし上げたのだ。木花咲耶姫だけを妻にしたので、天ッ神の命は木の花のようにはかなくなるだろう。」と告げ、それでその子孫である天皇の寿命は神々ほど長くはないのです。
木花咲耶姫はまた富士山の女神でもありまして、浅間神社の御祭神でもあります。

次は天龍川まで行く予定です。
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