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2013.01.24 (Thu)

街道周遊 009 天竜川を渡る

天龍川はとても大きな川です。現在は背の高い堤防に囲まれて滅多なことでは氾濫することはありませんが、江戸時代までは大雨が降るたびに洪水になったりしてそのたびに流路が変わるのです。
16世紀頃の天竜川流域
右は1600年頃の天龍川の流域。
メインになる本流は右の方の「大天龍」と書いてある方ですが、時代によっては小天龍と書いた方が本流になることもあったようだし、その間、いろいろ好き放題に流れていたようでした。
馬込川、芳川、安間川、といった川が天竜川の支流として、かっての暴れ天龍のなごりをとどめているというわけです。

前回までは濱松宿の東の出口である馬込川の木戸からスタートして、中ノ町の六所神社の所の堤防へ上がって遙か向こうの天龍川東岸を眺めました。
右の地図で、安間の所に赤丸印を付けた所が江戸時代の主な渡船場のある所でした。
その上の赤四角印は中世から戦国時代~江戸時代初期にかけての渡河地点だったと思われます。

池田・渡船場碑

赤四角の池田の堤防のところには「天龍川渡船場跡」という立派な石碑があって、その脇に徳川家康の出した許可証の写しが掲げられています。 遠州天龍池田渡船之事  という表題で、天龍川渡船業の独占権がこの池田村に与えられていたらしいのです。多分徳川家康に対する何らかの功績があったために独占権を保証されたのでしょうが、文字がかすれているのと、古い文字をちゃんと読めないワタクシの無学のために詳しくは説明できないのが残念です。
天龍川東岸からの展望堤防と渡船場碑渡船場の説明


左が堤防に立って西の方(浜松方面)を眺めた写真、中が堤防に立つ「天龍川渡船場碑」で、右が池田村渡船業組合に徳川家康が与えたという許可証を写した立札。読めれば面白いのだろうが、ちょっと残念。
写真としてはまことにつまらない写真です。
天龍川は大きな川で、左の写真の向こう岸だと思われる所が実は中州であって、もう一つこの手前と同じくらいの流れが中州の向こうにもあるということの説明のために入れたのです。
中世の天龍川付近荘園


もう一つ、中世の頃の地図を入れておきましょう。
上の方から二本の川が流れていますが、右のが中世の天龍川で、今よりずっと東の方、磐田原台地の西麓を流れていて、左の方は現在の馬込川とほぼ同じ場所を流れているのですがずっと上の方では一緒になっていて、天龍川の流路が幅広かったことが判ります。No.007、スタートの項で、蒲大明神は伊勢神宮(内宮)の荘園であった蒲御厨の鎮守として早くから祀られていたことや、源氏の源範頼がここで生まれたことなどを書きましたが、その東隣の池田莊は京都の松尾大社の荘園でした。この地図で見ると池田莊は天龍川の西側で蒲御厨と地続きになっています。

この池田莊の長者に熊野(ゆや)という娘がおりました。
矢島大臣(やしまのおとど=平宗盛→平清盛の次男)はこのあたりの領主だったこともあるようで、この娘を寵愛し、京都・清水寺の櫻を見に行こう、と都へ戻る時に熊野を連れて京へ行きます。
所が熊野の母が病に伏せっているという手紙が届いたので、見舞に戻りたいと暇を請いますが許されません。櫻の下で酒宴が始まり、熊野は舞を舞うのですが、その時故郷の母を気遣って、 ♪ いかにせん 都の春も惜しけれど 馴れし東(あづま)の花や散るらん ♪ と詠ったので、宗盛も哀れに思って暇を与えた、ということです。
池田の長者の屋敷跡は、行興寺となって今に残り、熊野が植えたという藤の花は「熊野の長藤」として国指定天然記念物となっております。
行興寺・正面熊野の長藤


  
左が行興寺。
右が熊野の長藤。
大木となっています。


 
熊野の長藤・満開の花
 
綺麗ですねぇ。
花が咲くのは4月下旬から5月上旬。









行興寺・熊野母娘侍女墓本堂左手脇には熊野の墓というのがあり、母と、侍女の蕣(あさがお)の墓、あわせて三基あります(左の写真)
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