2013-04- / 03-<< 123456789101112131415161718192021222324252627282930>>05-

2013.04.07 (Sun)

街道周遊 秋葉路1

昔の日本にはあちこちに天狗さまというものが住んでいたようです。八大天狗とか四十八天狗とかいいますが、有名なものでは京都愛宕山の太郎坊、比良の次郎坊、鞍馬の僧正坊といったところで、鞍馬の僧正坊は鞍馬天狗という名前で牛若丸に武術を教えたことで後世にまで名を残しています。
ワタクシの住んでいる遠江地方では遠州七天狗というのが住んでいました。秋葉山秋葉寺の三尺坊(春野町)、奥山方廣寺の半僧坊(引佐町)、三仞坊(磐田市)、太白坊(春野町)、繁昌坊(森町)、笠鋒坊(天竜市)、王寺坊(掛川市)の七人(というか7匹というか)がそれです。中でも三尺坊と半僧坊が大天狗として日本中に知られていて、その徳を慕う人が巡礼にやってきて、その人たちの道中の便宜のために道標や常夜燈が設置されたのでした。三尺坊半僧坊道
右の写真は道標の一例。ちょっと磨り減っていて読みにくいのだが、
  「左 奥山半僧坊  右 秋葉三尺坊 」と縦二行に書かれていて、
  その下に二行の中央にちょっと大きめに 道 の字が彫ってあります。
この道標は浜松市浜北区小松の秋葉神社に設置されているものです。

まず秋葉山三尺坊から始めましょう。
秋葉山三尺坊という天狗は火伏(ひぶせ=防火)で有名です。
 …伝え聞く。昔後桃園帝(1770~1779)の御時、京都大火の際火まさに御所に迫らんとした時、異形の者御所の屋根に現れ火を伏せしに、人々驚きて名を問えば「我は秋葉の三尺坊なり」と答えて空中に飛び去りしと。…と言うような伝説もあり、江戸時代には広く知られていたことがわかります。

秋葉路へ入るのは、東海道では、掛川、袋井、浜松、御油がスタートとなり、北からであれば、中山道諏訪宿・塩尻宿あたりで考えると、杖突峠を越えて櫻の名所高遠からは秋葉街道が真っ直ぐ秋葉山の麓まで通っているのです。

東海道からの秋葉路です。
掛川・秋葉山遠望
左の絵は歌川廣重、東海道五十三次のうち「掛川 秋葉山遠望」。
右に聳えるゴツゴツとした山が秋葉山。
この橋、大池橋というのですが、これを渡ると道が分かれていて、左が東海道、右が秋葉街道で、秋葉街道の入口には鳥居が立っていたのでした。その鳥居は今はもうありません。そのかわりに鳥居町という名前がいま残っています。
東海道巡覧記によると …橋詰より秋葉山へ道有。行程九里半… という道のりです。
秋葉街道は、掛川から森町、三倉、犬居と通って秋葉山となります。
掛川から袋井の間には遠州三山というお寺、萬松山可睡齋、醫王山油山寺、法多山尊永寺がありますし、森町の近くには遠州一の宮である小國神社がありますし、見付宿には國分寺もありました。

濱松宿からのスタート地点は東海道沿いの田町からとなります。濱松城大手門のあった場所のほんのちょっと東、りそな銀行浜松支店とヴィオラ田町というマンションの間の道が濱松宿からの秋葉街道出発地点でした。
田町・一の鳥居跡・現在田町・秋葉鳥居・戦前

左の写真が現在の様子。左のビルがマンションで、右に緑色の看板のあるのが銀行です。
右の写真が戦前の様子。この鳥居が濱松からの秋葉街道一の鳥居となります。最初にここに鳥居が建てられたのは江戸時代の後期らしいのだが明確な記録はありません。
最初の鳥居は木の鳥居でした。このため木が傷み、その都度再建していました。ところが嘉永年間(1848~1853)、鳥居の近くから出た火が、折からの東風によって西に燃え広がり、神明町から濱松城の大手門まで迫ったのです。しかし、火元である田町はごく一部を焼いただけで助かった。このため田町の人々は日頃から秋葉大権現を信仰していたためである……と、早速代参を秋葉山に向かわせ、難を免れたお礼と、消失した大鳥居の再建を誓いました。用材は秋葉山の山中から伐りだし、天龍川を流して中ノ町で引き上げ、東海道を田町まで運んで、鳥居が完成したのは嘉永五年(1852)でした。数年後その木の鳥居に痛みが見られるようになったため、町の有志たちは永久的な鳥居にしようと考え、青銅製の鳥居建立の計画を立てたのだが、それには莫大な建設費が必要であり、その資金集めが問題となりました。
この時田町の金物商鍋屋五郎兵衛が中心となって寄付金集め、基金の設立、といったことをやってようやく文久二年(1862)に疑義上の青銅製大鳥居が完成したのでした。
鍋屋は現在もf田町で金物商を営んでおり、先日、鍋屋の現在の主人にお聞きしたら、五郎兵衛氏は五代ほどの先祖に当たること、この青銅製鳥居は昭和17年(1942)に兵器製造のため供出することになって取り壊し、それ以後鳥居は再建しなかったこと、取り壊したとき、柱の中から寄付をした人の名前を書いた小石が沢山出てきて、それを鍋屋の蔵の中にしまっておいてあること、などの話を聞くことが出来ました。鳥居の写真は、この日記の3月の項で鳥居の竣工式の時、と書いたようですが、それは間違いで、昭和17年の取り壊しの時のお祓いの様子です。でないと年代が合いません。
鍋屋の現在の奥様がお嫁に来たのは戦後のことですので鳥居のことは全く覚えてはいませんでした。
右上の青銅製大鳥居の写真は鍋屋に今でも保存されているそうです。写真は他にもあったようですが、貸したまま帰ってこなかったりしてお困りのようでした。

街道は田町から北に向かって真っ直ぐに進みます。池町・尾張町・元目町・元浜町(ここには亡息の、そしてワタクシのヴァイオリンの先生のお宅があり、その隣には平野美術館があります)・中沢町(ヤマハの工場裏手で、ワタクシが時々行く古本屋の百寿堂があります)・高林・上島と進み、有玉まで来ると、「街道周遊011・姫街道その2」の所で書いておいた姫街道と秋葉路の交差点になります。浜松市街はこの前の戦争の終末期には空襲と艦砲射撃のために殆ど廃墟と化したので、ここへ来るまでの間、殆ど遺跡らしいものは残ってはいませんでした。

道はここから遠州鉄道の赤電車に沿うような形で県道296号線を進むと小松という所で、秋葉神社の二の鳥居や秋葉燈籠、それと小さな秋葉神社のお堂が見えてきます。
秋葉神社二の鳥居・小松この鳥居は石で作った鳥居としては遠州地方最大のものだと案内には書いてありました。
鳥居の額にも正一位秋葉神社と大書してあります。
小松秋葉神社・秋葉燈籠鞘堂鳥居の下に見えている秋葉燈籠の鞘堂、(右の写真)も立派な作りですが、神社の本堂に当たる建物はまことに小さく貧弱なものです。

小松秋葉神社・本堂と道標
そして道標は大きなのがあるのです。
石段の左脇にあるのがこのページ冒頭に載せた道標です。
「左 奥山半僧坊  右 秋葉三尺坊」と彫ってあります。
本来はこの位置ではなくて、神社の向かい側、いまコンビニのあるあたりの交差点にあったのではなかろうかと思います。
秋葉路の方をたどると貴布祢神社(今の遠鉄電車 浜北駅の近く。右下の写真)に出ます。
貴布祢神社

この神社に沿って裏手に回って秋葉路らしい道を辿れば秋葉燈籠や道標のようなものを見つけることが出来るのです
スポンサーサイト
21:02  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
 | BLOGTOP |  NEXT>>