2013-11- / 10-<< 123456789101112131415161718192021222324252627282930>>12-

2013.11.11 (Mon)

泉光院の足跡 002 出発 

泉光院が仕えていたのは佐土原藩二万七千七十石、泉光院が旅に出た文化年間の藩主は島津淡路守忠持でした。〈001発端〉の所で書いたように、泉光院は安宮寺住職として藩の安泰、主家の繁栄、殿様の武運を祈祷する僧侶で、藩からは五十石の禄を受ける家臣でした。ですから長い時間職を離れて回国の旅に出るためには殿様の許可を得なくちゃならないわけです。 
 《因て文化八辛未年の春、五十六齢にして致仕し、君上の御免を蒙り》
殿様に隠居の申し出をして許可され、家督を息子に譲って、それまで「長泉院」と名乗っていたのだがそれも息子に名乗らせて、自分は「泉光院」と名乗ることにして旅の準備を始めたのでした。
 《翌壬申の秋九月三日吉辰をもて草庵を旅立たんと、》
出発したのは文化九年(1812)九月三日(新暦だと10月8日になります)の早朝でした。
 《太陽東に顯れ玉へる比、鈴掛に紐し、胎蔵の脚絆、八つ目の鞋ちの緒をしめ、緑笈を肩にし、合力平四郎と云へるに床皮等の荷を荷はせ、宿出の法螺を立、獅子の引敷に鞭を揚て、飛錫の勢ひを催し、駈出の折から、直ちに爰かしこの朋友の三つ四つの風雅の詠をもて送別を物しけり。》
法螺貝
ここの所は前回も書いた所ですが、このように山伏の正装で出発しました。法螺貝も吹きました。
きっと大勢の見送りがあったことでしょう。
漢詩や和歌、俳句、を贈ってくれた人もあるようですね。
 …是等の事多き故に別帳を作り記し置き爰に略す。…
泉光院それに答えて同じように七言絶句、和歌、俳句を書いています。

 《依て予も一章一句を殘して別れぬ。
     回國出装是此晨 故人歌別自無塵
     銕駄踏破乾坤外 不始從來抖擻身
      旅はうき慣ひなからも身に掛る浮世のちりを今日や拂はん
又妻や子を捨て、家の子の類を物ともせずして、七とせ八とせ餘りも旅路に赴けるは情けなしなど人々の云ひあへるまゝ一句、
      忘らるゝ身をは思へと秋の風   》
 爰に予が知音の高僧有り、半途迄見送り玉ひ、別れに望みて予が蕪章の韻を和し玉へり。
     一尋鐵錫登清晨 凉々行裝絶點塵
     好去千峯萬峯外 東西南北遠遊身
と吟じ玉ひて即時に手を別つ。》

この七言絶句を書いた知音の高僧、という人は誰だったのでしょうか。泉光院が詠じた七言絶句(はじめの漢詩です)、これに見事に韻をふみ、意味もそれなりに上手に合わせて(ワタクシは漢詩のことは実はわからないのですが、そんな感じがします)ありますから、ワタクシの推量ですが、泉光院の肖像軸に贊を書いた大光寺の住職、昭徳陰ではないかと思うのです。
泉光院のお寺である安宮寺は、佐土原城下の武家屋敷など並んでいる中心部にあって、普通の武家屋敷の10軒分にも相当する広い面積(1800坪=6000㎡ほど)の敷地がありましたから、佐土原領内でもかなり優遇されていたお寺だったのでしょう。
大勢の友人や配下の山伏たちに見送られて出発しました。

 《夫より舞鶴城の巽(たつみ 南東)に當り、一里に久峯と云へる靈峯あり。養老元年の草創にて、海中より上がり玉ふ一寸八分の靈佛觀世音也。御前にて念稱し、首途のさちを祈り、旅の行衞の全からん事を誓ひける。數輩の僚友並に家の子、わりごなど携へもて此所迄送り來れり。又別れの章句數篇に及ぶ(是も同じく事多き故別帳に記し爰に略す)。予も一句、
      何となう風の身にしむ別れ哉
      虫の音を力に峯の別れかな
と口すさみ、友人に別れ、家の子などかへらしむ。》
佐土原城資料館
舞鶴城というのは佐土原城のことらしいのだが、歴史書などでは鶴松城としているようです。佐土原城は最初は今のJR佐土原駅の西の方に山城として作られ、難攻不落の城といわれたのだが、後に麓の方に移築され、泉光院の時代にはこのような御殿の形になったようです。右は二の丸の場所に復元した佐土原城跡歴史資料館・鶴松館。
お殿様の御座所や歴史資料と共に佐土原人形も展示してあるようです。
佐土原人形
左が佐土原人形で饅頭食い人形といわれているものです。
オトウサンとオカアサンとどっちが好き?と問われた子供が、手に持ったお饅頭を二つに割って、どっちがオイシイですか?と答えた、という故事に因んだ人形で、江戸時代から作られているのだそうです。こんな利発な子供に育って欲しいという親の願いがこんな人形の姿になったのだろうか。お人形の両手にアンコの入ったお饅頭がありますね。

安宮寺を出た泉光院は日向街道(現在の国道10号線)の方に向かって歩き出します。安宮寺は佐土原城の東さほど離れていない城下町の中にありました。そこから南東方向に一里ほどの所に久峰観音というのがあって、そこで道中の安全を祈願し、最後まで見送りについてきた友人たちと酒を酌み交わし、別れの歌を詠みかわしたのでした。
久峰観音は安産の観音様として近在の信仰を集めていますし、境内には松尾芭蕉の句碑が立っています。正面に「芭蕉翁」右肩に「元禄七甲戌十月十二日」、左側に「旅に屋無て夢ハ枯野をかけ巡る」久峰観音
(注 屋無は病ですから、旅に病で夢は枯野を…の句です。)元禄七年(1694)の十月十二日は芭蕉の命日であり、芭蕉最後の病中吟を碑にして翁を偲んだ弔碑だと思われます。芭蕉句碑

写真は左が芭蕉の句碑、右が久峰観音。
この句碑が立てられたのは文化文政年間と言われているのと、佐土原では幕末頃まで、毎年芭蕉の命日に連歌の会が催されていることや、泉光院の旅の途中でしょっちゅう(あまり上手とも言えない)俳句を作っていることや、東北地方を歩いている時かなり「奥の細道」のルートを選んで歩いていることなどから考えると、泉光院の生きていた時代の佐土原には芭蕉ファンが多かったのだろうと思われます。
佐土原付近の現代の地図です。
佐土原・地図



左上の方に佐土原城跡、安宮寺のあった場所、合力平八郎のお墓のある誓念寺、泉光院の肖像軸に贊を書いた昭徳陰のお寺大光寺、右の方へ行って久峰観音、ずっと右に現在のJR佐土原駅、という具合に書いておきました。
安宮寺は明治維新後の廃仏毀釈のあおりを受けて廃寺となってしまったので、泉光院のお墓は佐土原城のさらにずっと西(地図では左の方)の大安寺にあります。このお寺は佐土原島津家の菩提寺でもあります。

 《かゝりける事にて時を移し、午の刻計りに此所を出立。少し麓の方に峯の藥師とて靈佛あり、念誦し、下那珂と云ふ村の人里に下る。兼て相知れる人の宅に立ち寄り別れを告げゝれば、酒樽など取出し別れを惜しみ長談に及ぶ。申の下刻此里を發し、一里に廣原と云へる郷に至り、此所の長たる人、元來したしければ、別れを告げんと立寄る、是非一宿と擧つて謂へるに付、鞋ちの緒を解く。種々馳走數刻に及ぶ、予が旅行を慰めんとて、家の子並に隣家の子供等三味線手拍子とりどりにて五更に及ぶ迄なまり歌、是も亦一興と稱し、予は艸臥(くたびれ)たれば、笹の葉の露にひじたる枕ひきよせ、打眠りつゝ、明れば四日の朝日の光りを迎へて、ふしよき夢を覺し侍る。》

久峰観音で最後までついてきた見送りの人たちと別れて、平四郎という合力(荷物運びの男、泉光院のお供として旅に出た時は満34歳だったようです。)と二人旅になりました。
ここから四日の項になるわけですが、日記本文では三日の続きとして書いています。

 《一里を過ぎて佐土原の分地、島之内と云へるに、予が同家、野田某の元に暇乞に立寄り、種々饗應に時を移し、又一里に野道をたどり、申の下刻(夕方5時頃)、芳士と云ふ村に着。吾安宮寺の配下、大光院と云ふ山伏の寺へ見舞ながら立寄れば、一宿を勸めけり。折しも今日は、此院、所縁なりける亮豐と云へる法印の七回忌に當れりとて、舞鶴城内の諏訪坊精舎現住の法印を迎へて、佛事の執行い有りければ、共に廻向しなどと云ふに付一宿し法事取行ふ。予も凡(およそ)七、八年の旅霜を經んとの含みなれば、追善の心に一句、
     日車のめぐるは早し七ヶ年
と吟しける。其夜は取分け院主の饗應少なからず。彼の諏訪坊法印と枕席を諸共にして、しめやかに物打かたらひて宿せり。故郷よりも配下の山伏二たり三たり随身して、此所迄送り來りけるを、何所迄いても同じ事と、平安の言傳(ことづて)共して、爰より故郷へかへらしめ、是よりは合力のをの子と唯二人にして、七年せ餘り、旅の年月、日々夜々、驛宿の序次、人物の厚薄、山海川澤の風景、述懐、行状を記すのみ、艸帖左の通りなり。》

ここまでが旅の初日(から二日目)の日記全文入れてみました。
この日記、6年2ヶ月の間ワタクシの記憶ではたった一日の欠落があるだけで、約2200日の間、几帳面に書き綴られているのです。
所々省略は致しますが、ワタクシも泉光院に倣って、「日々夜々の風景や述懐」を書き綴ってみたいと思います。
スポンサーサイト
06:35  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
 | BLOGTOP |  NEXT>>