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2013.12.17 (Tue)

泉光院の足跡 004 淡島明神

七日 晴天。巳の刻花ヶ島を發す。生目(いきめ)八幡宮と云ふに詣で納經す。當社は古へ(いにしえ)、平家惡七兵衛景清盲目となり落着の地也、其目を崇めたる宮也。
(于レ今眼病の人祈誓すれば即時平癒す。夫より伊滿福寺と云。宮崎郡眞言寺の本寺也。)日羅建立七堂伽藍の一ヶ所の地也、因て納經す。飫肥領清武と云ふ驛に宿る。江藤孝次と云ふ宅。
生目神社
まず生目八幡宮に詣でました。八幡様ですから祭神は品陀和氣命(ほんだわけのみこと=應神天皇)なんですが、泉光院が書いているように平家の藤原景清も一緒に祀ってあるのです。

源平合戦の折、源頼朝に捕らえられた藤原景清は、その目で源氏の繁栄を見るのを厭うために自分で両目をえぐり取り、源氏への復讐も断念した。頼朝はその志を賞して日向勾当という位と日向國に300町(3,600坪)の土地を与え、景清はここに住むようになったというのがこの神社の由来です。この神社の境内を流れている川の水で目を洗うと眼病が治るといわれているのです。宮崎平野に春が来ると「生目さん縁日」があって、九州各地、遠くは四国からも眼病平癒祈願の参拝者が集まります。

この辺り一帯は古墳の多いところで、生目神社へ入る鳥居の反対側の方へ曲がると生目古墳群。前方後円墳8基、円墳14基が残っています。佐土原町の西、西都市には有名な西都原(さいとばる)古墳群が、その南の国富町には本庄古墳群が、佐土原の北の新富町には新田原(にいたばる)古墳群が、と古墳だらけ。
西都原古墳群
左の写真は西都原古墳群。4~7世紀前半の古墳群。
311基の墳墓からなり、32基の前方後円墳の他、円墳、方墳、柄鏡式古墳、地下式横穴墳など、古墳の展示会場のようです。大正元年から学術調査が始まり、昭和9年には國史跡に指定され、戦後になってから全国に先駆けて史跡公園「風土記の丘」第1号に指定されました。
一番大きい男狭穂(おさほ)塚・女狭穂(めさほ)塚は九州最大の規模の前方後円墳です。瓊瓊杵命(ニニギ)と木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の墓ではないかといわれているものです。殆ど神話の世界です。
すぐ近くには國分寺・國分尼寺もあって、泉光院は回国の途中國分寺があれば必ず立ち寄って詣で納經をしているのですが、そこには立ち寄っていません。
代わりに伊滿福寺に詣で納經しました。
このお寺はAD600年頃、聖徳太子の命で、百済の僧日羅が聖観音一体を持って来日、日向の地に寺院を作りました。飛鳥時代に成った日本でも最古に属する名刹といわれているお寺です。
そしてこの日は清武の江藤孝次という宅に泊めて貰った。

八日 晴天。卯の刻清武を發す。木崎と云ふ所に渡船あり。夕立に逢ふ、雷あり暫時に晴る。淡島明神に詣づ。地を離るゝこと半道にして、半里廻りの島也。不思議様々あり略す。……

淡島はいま青島と言っている有名な観光地です。青島・空撮

右は青島の空撮写真。
日向灘に突き出た周囲1.5kmほどの小島です。
青島・鬼の洗濯板

ビロウ樹など亜熱帯植物が群生していて、島の廻りを「鬼の洗濯板」と呼ばれる波状岩が取り巻いています。島の中には彦火火出見=火遠理(ヒコホホデミ=ホオリ)命と妻の豊玉毘売(トヨタマビメ)を祀る青島神社があります。泉光院の時代には淡島明神と言っていたのだろうか。
青島神社・鳥居と鬼の洗濯板
青島神社

鳥居をくぐって青島神社へお詣りしましょう。

朱塗りの綺麗な神社です。

この神社には、アマテラスの孫である邇邇藝命(ニニギノミコト)と、山の神の娘である木花之咲耶毘売(コノハナノサクヤヒメ)の間に生まれたホデリ(海幸彦)とホオリ(山幸彦)の兄弟のうち、弟であるホオリと、ホオリの妻となった海の神の娘のトヨタマビメが祀られています。

海幸彦と山幸彦の物語の大筋。
ホデリは海で漁をし、ホオリは山で猟をして暮らしていました。ある日ホオリは兄にお互いの仕事と道具を交換してやってみようじゃないかと提案して、兄は山で獣を追い、弟は海で釣り糸を垂れてみました。だが慣れない仕事だからお互いに収穫はゼロです。兄は弟に狩りの道具を返しますが、弟は漁の最中に釣り針をなくしてしまったのです。兄は激しく怒り「釣り針を返せ」と迫ります。償いのために弟は自分の剣を砕いて1000もの釣り針を作るのだが、兄は受け取りません。
進退窮まった弟ホオリは海岸で悲嘆の涙にくれていると塩椎神が来て泣いているわけを聞き、潮流を司るこの神は竹の籠で作った船をさしだし、これに乗って海を統べる大綿津見神のもとに行けばこの神の娘が問題解決に力を貸してくれるというのです。
籠の船は無事海神オオワタツミの宮殿に到着し、海神に気に入られたホオリは娘のトヨタマビメと結婚し、3年の年月がアッという間に過ぎました。
ホオリはようやく釣り針を探しにここまで来たことを思い出してため息をつきます。
トヨタマビメは夫のため息を耳にして、何事ならんと父親に相談し、わけを聞いたオオワタツミは魚を集めて、鯛ののどに針の刺さっているのを見つけたのです。
釣り針を持って帰って兄ホデリに返すとき、義父オオワタツミはホオリに、ホデリに復讐をするための呪文や珠を授け、兄は弟に降参することになったのでした。

ホオリのその後のことです。
トヨタマビメは妊娠していたので海の国を出て地上にやってきました。陸上の神であるホオリの子供を海では産めないという理由です。ホオリはあわてて産屋を建て始めました。しかし鵜の羽根で屋根を葺き終わる前に妻の陣痛が始まってしまいました。
激しい痛みに、未完成の産屋に入るトヨタマビメ。子供が生まれる直前、大きな声で「私は海の国の住人ですから故郷に居るときの姿で子を産みます。お願いですから覗かないで下さい」というのだが好奇心で覗いたホオリの見たものは、身をくねらせて子供を産んでいる巨大なワニでした。
出産を終えたトヨタマビメは赤子を抱いて夫に「私は海の国と陸の間を行き来しようと思っていましたのに、本当の姿を見られてしまった以上、今後は再びここに来ることはございません」と、子供を渡して暇乞いの言葉を告げて海の国へ帰っていきました。生まれた子供は、天津日高日子波限建鵜葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコト)と名付けられました。その意味は、天空に輝く太陽のように高貴な血統の御子で、渚に建てた産屋の屋根を鵜の羽根で葺き終えない間に生まれた勇ましい子、となります。長すぎるので次からはウガヤフキアエズと言いましょう。

……瓜生道と云ふ浦邊あり、知る人あり立寄る、種々饗應あり。御崎の観音と云ふに詣づ、此所は日向一國の東に出張りたる所也。夫より二里南に内の海と云ふ浦邊あり、此れ飫肥領也。谷口文左衛門と云ふ知音あれば一宿す。
 九日 晴天。辰の刻内海立つ。種々饗應ありし故茶代一包遣はし候へども、日本回國修行行者なれば一錢も不請とて相かへされたり。此所より二里に鴬巣(うぐす)と云ふ浦あり、此所にて飫肥の番所旅人往來を改たむる所あり、雨天になり休息す。折節、鎭守祭禮とて酴釀漉(どぶろく? にごり酒)など出し勸めあり、山伏の笈珍しき物とて見物の人多く集まる。又劍見たしとて望み有り見せる、有難がり賽錢など上げる、雨故滯りになり宮の浦と云ふに宿す、榮吉と云ふ宅。出來遇の飯とて出す、馳走に逢ふ。當時此村疱瘡流行にて、賑々敷く疱瘡踊とて老若男女交り合ひ亂拍子にて面白し。
日之御碕寺遠望

青島神社から海岸沿いに南へ下ると折生迫(おりゅうざこ)天神社があって、そこへの道は折生道(おりうみち)と言うのだが、泉光院はそれを瓜生道と書いています。もう少し行くと日之御碕觀音寺があります。
右の写真は青島神社のある青島の海岸から見た風景で、一番左に出っ張った所が見えます。泉光院もきっとおなじ風景を見ているのでしょう。…日向一國の東に出張りたる所…と書いておりまして、紫波州崎(しわすざき)城や日御碕觀音寺のある半島です。このお城は中世の時代、島津氏と伊東氏が攻防をくり返したところです。この時の争いを終結するために、永禄十年(1567)、坊津(ぼうのつ)一乘院の僧に和議の使者として日御碕観音寺に来て貰ったという、中世以来の由緒あるお寺です。
そして内の海(今の地名は内海 うつみ)の谷口文左衛門宅で一宿です。
色々饗應にあずかったので若干のお礼を包んだのだが、回國行者へのお布施のつもりだと言って一銭も受け取りません。山伏の劍

二里ほど南の鴬巣まで来たらそこからは飫肥領、伊東氏五万一千石の領地となり、番所(と書いておりますが、関所のようなもの)があって、旅人改めがあった。
笈 醍醐寺宝物

ちょうど鎮守の祭礼があって、村人たち大勢集まっていて、山伏の笈や宝剣を珍しがってお賽銭を出す人もいた。
山伏の背負っている笈は単に登山のためのリュックサックと言うことではなくて、必ず佛像も入っているのです。
そしてここでは濁り酒のご馳走にもあずかりました。

笈は京都醍醐寺の宝物、宝剣は山伏装束のサンプルからとりました。
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