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2014.01.13 (Mon)

街道散歩 濱松宿01 中の町

江戸から東海道を旅して京へ上る道筋の丁度なか程に当たるのが中の町です。
江戸時代の天龍川には、天龍川・西岸から展望
江戸防衛上の理由から橋は架けられませんでした。
右は天龍川右岸堤防からみた現在の風景。鉄橋は国道1号線です。

東海道の往來はこの橋の上流、池田の宿から船で渡りました。

明治元年10月3日、明治天皇が江戸へ向かう際、2日間だけ船橋が架けられました。
天龍川堤防・明治天皇御座所
写真の右の方に見える大きな碑が、明治天皇がお座りになった御座所跡を示す碑です(後方の神社は六所神社)。
天龍川・木橋


その後明治7年に、本流には船橋、中州の所には木橋と、一応の橋が完成し、通行は格段に便利になりました。だが天龍川は暴れ川ですから、洪水でたびたび流されたので、明治9年に右上の写真のようなちゃんとした木橋に架け替えられたのでした。この木橋は、昭和8年(1933)に鉄橋が出来るまで使われていたのでした。
六所神社

堤防から下りると六所神社です。底津綿津見神・底筒之男命・中津綿津見神・中筒之男命・表津綿津見神・表筒之男命の六柱を祀ってあるので六所神社。この神様は、イザナギとイザナミが国作りを終えてから海の神である大綿津見神の分身である綿津見三神と、イザナギが黄泉の國から戻って水の中に飛び込んで禊をしている時に生まれた住吉三神(これは底・中・表の筒之男命です)の、いずれも水に関係のある神様を祀ってあるわけです。天龍川が暴れ川なので、それを鎮めるために川岸に神社を作ったのでしょう。さらにスサノオとタケミカズチ(武雷命)も合祀してありました。これらの神様のこともいずれは泉光院の記事の中で登場するでしょう。秋葉神社・六所神社境内

左は境内の北の隅に祀ってある秋葉神社。
これは火伏の天狗ですから町内に火災の発生がないように願って祀ってあるのでしょう。

中の町(正式には中野町村)は、江戸から62里29町45間。京へ63里12町16間ですから、殆ど江戸(日本橋の南側)と、京(三条大橋の東側)の中間地点です。
中の町・東海道表示

六所神社の下へ降りました。
石垣は六所神社の石垣です。
この場所が天龍川以西の東海道の起点となります。
中の町・道路原票
写真の左下に標石の小さいのが立っています。それは道路元票で、市町村の道路の起点を示したものです。大正九年に施行された旧道路法では各市町村に一ヶ所設置を決められました。当時の日本の市町村の数12,244が設置されたのでしたが、現在残っているのは1600ほどとずいぶん少なくなりました。
東京では日本橋の真ん中にある道路元票が日本中の道路の起点になっていますし、石川県では金澤市の橋場町、枯木橋の片隅に立っています。ブログ「ヨリックの散歩道・金澤024 橋場」を見て下さい。
中の町・スタート地点

振り返ってみましょう。
中の町です。江戸時代の道幅は4間で、今と同じ道幅があったものと思われます。

この道からスタートして、浜松をご案内しようというつもりです。

しばらく進むと右手に松林寺というのがあります。
松林寺・奥山半僧坊標柱
道路のすぐ脇に円柱の石標が立っていて、「奥山半僧…」と読めます。下の方は地中に埋まっていますが奥山半僧坊の道標か丁石でしょう。正面に見えるお堂は何が祀ってあるのかよくわかりません。松林寺の本堂その他主な建物はずっと左の方にあるのです。
松林寺・日露日独大東亜戦没者碑


このお堂の左に沢山の碑が経っています。右の二つが日露戦争の時の、その左の二つが日独戦争の、そしてその左に大東亜戦争の、一番左の白く小さなのが平和祈念碑と並んでいます。日独戦争?と驚かれる方もいるでしょう。そんな戦争があったのです。
第一次世界大戦(1914~1918)のとき、大日本帝国は日英同盟に基づき、連合国側の一員としてドイツ帝国に対して宣戦布告をしました。ドイツは、中華民国山東省青島(チンタオ)に租借地として権益を持っていたのです。陸軍は青島の攻撃、海軍は南洋諸島の攻撃、と本格的な戦争をしました。戦争は連合国側の勝利、つまりは日本も勝ったのです。
この時ドイツ軍の捕虜4780人を四国徳島県に収容しました。日本人はドイツ軍捕虜を丁重に扱ったし、ドイツ人たちはドイツ料理やバウムクーヘンの作り方を教えたり、ベートーヴェンの第9交響曲「合唱付」を演奏したりしました。これは日本初演です。
だが戦争があれば人は死にます。上の写真の碑は戦争で死んだ人たちの霊を祀る碑です。こんな碑は立てない方が人間は幸せです。
松林寺・安産地蔵とお百度石

その碑の前に安産祈願のお地蔵さんがありました。お百度石も立っています。

♪お百度詣りのこいさんが、どうぞ添わせておくれやす…♪で、その後このお地蔵さんにお祈りをして目出度く元気な赤ちゃんを産むのが人間にとっての幸せというものでしょうか。

金原(きんぱら)明善という人の生家が今も保存されています。向かい側には記念館も建てられています。幕末から明治にかけての人ですが、暴れ天龍を治めたことで浜松では偉人となっています。慶応四年、明善が36歳の時、降り続く雨のために天龍川が氾濫し120もの村が水没してしまった。明善は天龍川堤防御用掛を命ぜられ、全財産を投じて工事にあたるとともに、上流の植林が洪水防止のために欠かせない、と植林にも力を入れました。金原明善生家

右、金原明善生家です。
2011年に大規模改修が完了して公開されたそうです。築後200年の建築材は洗い出しされ、殆どの材は再利用されたそうですが、良材のすばらしさには驚くばかりだと言われます。
一度暇を見てゆっくり見たいものです。

もう少し行くと東海道と本坂道の分岐点になります。
本坂道分岐点
車の進入禁止標識の下に「従是鳳來寺」の道標が立っていました。右の写真がそれ。
本坂道分岐点・鳳來寺道道標

立札が立っていますがそれには次のように書いてあります。

この地点は本坂通(姫街道)の起点であり、もと「□□(従是)鳳來寺」と記された道標があり、本坂道(姫街道)が鳳來寺道であったことを示している。この道標は、現在は150m西にある天龍公民館の敷地に移されている。この起点の西には、江戸から六十四番目の東海道安間一里塚が東海道の両脇にあった。この一里塚は本坂通(姫街道)の一里塚も兼ねていたが、現存しない。「東海道宿村大概帳」には「安間新田地内 壱里塚 左右之塚共木立榎」と榎が植えられていたことが記されている。 浜松市東区役所

一里塚の上には木が植えられていました。東海道ではその8割ほどが榎で、松、杉、などの場合も少しはありました。中山道では櫻が植えてある一里塚がありますがそれは珍しい例です。

中の町からこの一里塚のあった安間村、安間新田村あたりまでが幕府の直轄領で、安間川を隔てた西、薬師村・薬師新田村から濱松藩領となります。荘園や領地の境界を標示することを牓示(ぼうじ)と言い、杭を立てたので牓示杭と言います。
安間村と薬師村の境界にも牓示杭がありました。もとは安間川の西側に立てられていたのでしたが、安間川拡張工事の際に撤去されて、お天王さまと呼ばれていた神社の境内に移されて、石段代わりに使われていたことがあったと伝えています。
その後国道1号線工事の時、お天王さまの境内からから掘り出されて、薬新町の児童公園の場所に、お天王さまの祠、庚申堂などとともに移転したのでした。この児童公園の場所が道路からちょっと外れているので捜すのに苦労したのでした。安間橋

写真は安間川の橋を下流側から写したものです。
この川の東(右側)が幕府直轄領で、西(左側)が濱松領でした。だから牓示杭は橋の西側(左)たもとに立てられていました。
薬新町児童公園東・お堂

場所は、この橋を渡ると国道1号線の高架橋が見えますが、その手前の道を左に曲がってちょっと歩くと右の写真に写しておいたお堂の裏側が見えるので、正面側へ回ると右の写真のようなのが現れます。
児童公園の東隅にこのようにお天王さまから移転した一式が置いてあります。
従是西濱松領従是西濱松領(これより西、濱松領)と読みます。
後にもう一本あります。この2本が安間橋の西側に立っていたのでした。

従是西濱松領・庚申?




一番後の祠には右のような石像が立っていますが、左が如意輪觀音? 中が庚申さま? 右がお地蔵さん?
ワタクシの知識ではわからないものが入っております。
東海道松並木・薬師町
♪東海道は松並木♪と歌われているのですが、ずいぶん少なくなりました。
薬師町にはようやく2ヶ所に少しずつ残っております。
一番右にちょっと赤いものが見えますが、これは郵便ポストです。この形のものは最近あまり見かけなくなりました。
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