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2014.03.28 (Fri)

泉光院の足跡 011 出水の番所

知覧から坊津(ぼうのつ)へ行って…坊泊り喜太郎と云ふに宿す。
で、翌日、

十月朔日 半天。當津に一乘院とて眞言の靈場あり詣づ。本堂五間四面、寺の前より遠見の番所へ行き遠見す。湊の東口に銅門など云ふ岩あり、上古長者の屋敷跡と云ふ。又當所に琉球芋作り始めし屋鋪あり、文化年中迄に五代に成る、名は久次郎と云ふ者也。辰の刻此所より野間と云ふを一見の筈の處、至て道惡く行程困難なる由、因て加世田郷の日新寺と云ふに詣づ。當寺は日新公とて薩州にては今迄の名將と稱したる君の寺也、御廟所を拝す。門前に町少しあり。夫より松坂寺松峰院と云ふ山伏宅に行き一宿す。

一乘院も廃寺になりました。今の地図には「一乘院跡」という地名として残っているだけです。一乘院
さいわい三国名勝図会に一乘院の絵が残っているのでそれをのせておきます。泉光院の見た頃の一乘院です。
この絵のように大きなお寺が明治2年の廃仏毀釈で跡形もなく破壊されてしまった。跡地には坊泊小学校が出来て、その校庭には昔の名残の石の仁王像が2体と、鬼瓦のような石が3個残っているそうです。
この三国名勝図会には私でさえ読むのがいやになるくらいの説明がついていまして、由緒ある立派なお寺だったことがうかがえるのですが、何せ、跡形もないのですから観光のしようもありません。坊津海岸遠見
泉光院と同じように、坊津(ぼうのつ)の岬の端まで行って遠見をしましょう。
リアス式の海岸が続く坊津の岬から夕暮れの東シナ海を眺めました。こういう風景は観光バスで行っても味わえません。枕崎市までJRディーゼルで行ってそこから国道226を歩くか、一日に数本しかないバスに乗って、サテ今夜はどこで泊まろうかと、少しばかり心細い思いでぼんやり眺める。
それが日常を離れた旅の醍醐味。
泉光院も
…坊泊りと云ふ所迄五里、此間道甚惡し、… …絶景の地也、…と書いていました。

坊津も天然の良港で、古代には遣唐使船の寄港地としても知られ、唐の高僧鑑真が乗った船もこのあたりにたどり着いたと言われます。そして幕府が長崎以外での海外貿易を禁じた後も薩摩藩主島津氏による密貿易の拠点となった。

琉球芋(薩摩芋)を日本で始めて作り始めた家へ行きます。休次郎という人で、この人で5代目になるとのこと。
ここから本当は野間という所(薩摩半島の一番西の岬、今は坊津野間県立自然公園となっています)へ行くつもりをしていたのだが、道が悪いと聞いて加世田川に沿うようにして加世田郷の日新寺(今は廃寺となって竹田神社)にお詣りをし、日新公という名将の廟に参詣をしています。日新公というのは薩摩田布施城主である島津忠良で、泉光院の家系に関係深い忠将は忠良の子なので、ちゃんとお詣りをしなくっちゃ、と思ったのでしょう。
笠沙から高千穂と桜島この野間の近くに笠沙という岬があります。
左の写真は笠沙から東を見た風景。
左の方が高千穂の連山で、右のほうに噴煙を上げているのが桜島。

古事記によると、高天原から高千穂峰を経て地上に降りてきた邇邇藝命(ニニギノミコト、= アマテラスの孫。以下ニニギと略します)がこの笠沙の岬で美しい娘に出会った。名前を聞くと、大山津見神(オオヤマツミ 大山杵命とも書くようです)の娘で木花佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ 以下サクヤヒメ)といい、姉に石長毘売(イワナガビメ 以下イワナガヒメ)がおります、と答えた。それを聞いて娘に求婚すると、「父がご返事申し上げます」と答える。早速父に使いを出して娘を貰い受けたいと申し出るとオオヤマツミは大いに喜んで、姉のイワナガヒメも一緒に、数々の贈物を持たせて娘をニニギのもとに差し出しました。
ところが姉のイワナガヒメはひどく醜かったので、ニニギは姉を送り返してしまって、サクヤヒメとだけ一夜の契りを結ぶのです。オオヤマツミはこのことを大いに恥じて、「イワナガヒメはゆるがぬ永遠の命を、サクヤヒメは木の葉が茂るような繁栄を、と祈って二人をお送りしたものを、ニニギは姉を送り返してしまった。これで天の御子の寿命は木の葉の散るようにはかなくなるだろう」と言いました。この時から天皇の寿命は長くはなくなったのです。今の天皇、多分死んだら平成天皇となるだろう明仁サマはワタクシと同じく今は御年80歳になりますが、ワタクシと同じ程度の寿命なのではなかろうかと思うのです。ついでに書いておきますが、ニニギとサクヤヒメの曾孫が神武天皇となります。
サクヤヒメはこの時の一度の契りで妊娠します。ニニギは疑問を持ちました。たった一度で子を孕むなんて変じゃないの?私の子じゃなくて国ッ神の子じゃないの?サクヤヒメは反論して、もしあなたの子じゃなくて国ッ神の子だったら無事に生まれてこないでしょう。あなたの子なら無事に生まれるでしょう。と言って、戸の無い大きな建物を作ってその中へ入り、周りを土で塗り固めて火をつけ、燃えさかる火の中で三人の子供を産んだのです。火照命(ホデリ = 海幸彦 )、火須勢理命(ホスセリ)、火遠理命(ホヲリ = 山幸彦)。
海幸彦と山幸彦のその後の物語についてはNo.004 淡島明神の項に書いてありますのでそちらを参照して下さい。

加世田郷の日新寺でお詣りをして、そこから海岸沿いに北へ行きます。

二日 晴天。大西風。加世田立、辰の刻。日置と云ふに赴く、道に金峰山と云ふに寺あり詣づ、…

旧暦では十月二日ですが今の太陽暦にすると11月5日です。冬の季節風が吹いてきたようです。金峰町に金峰山(636m)があって、ここに金蔵院というお寺があってお詣りをした。これも明治には廃寺になってしまって、跡が金峰神社となり、なぜか安閑天皇というのを祀るようになった。
夕方になったのでどこか泊まる所を捜して、見つけた先が以前大峰修行の折に出会った事のある山伏だった。 …幸ひ加世田殿大峰代參山伏にして、峰中折々出合ひし山伏也、珍客とて一宿、種々饗應あり。當所より西に當り一里に吹上ヶ濱と云ふあり、南は野間と云ふ處より、北は市木と云ふ處迄大凡(おおよそ)七里餘、幅一里餘の濱也。…

坊津から野間までずっと岩礁の続くリアス式海岸だったのだが、ここから北は砂浜で、今は海水浴場になっている。
北西の季節風が強くて砂が…大煙の如く處々渦巻き立ち、甚だ珍しき砂濱也。沖に甑島見ゆ、陸地より十八里。…
甑島列島は上・中・下甑島の3島で出来ていて、観光の景勝地です。上甑島の南端に甑大明神と呼ぶ高さ50mほどの甑(蒸し器)のような巨岩があってこれが名前のもとです。東シナ海の交通の要地で、古代には遣唐使船の漂着、近世には南蛮船の漂着、慶長七年(1602)には薩摩藩主の招聘で宣教師フランシスコ・デ・モラレスが下甑島に上陸した。

泉光院はこのあたりの所では、山伏の宅を次々とリレー式に紹介してもらっています。日置・樋木・串木・樋脇・川内市の向田町、と言った具合に。
…樋脇と云ふ方へ赴く。冠ヶ嶽頂峰院と云ふ眞言寺あり詣づ。…冠岳
右の写真がその冠岳(516m)。秦の徐福が始皇帝の命令で不老不死の薬を求めて日本にやってきてこの山に入り、冠を納めた山、というのが命名の由來だと言います。
秦の徐福という人は日本の各地に足跡を残していますが中でも紀伊半島・新宮にはお墓もありますのでその時にゆっくり登場してもらうつもりです。
頂峰院も、熊野権現が勧請されて出来たお寺だから、金蔵院と同じく山伏寺の筈です。それで廃仏毀釈の時廃寺となって、跡が今は冠岳神社で、日本神話に出てくる神様が納まっているようだ。
このように、特に南九州では廃佛毀釈が徹底的に行われて、しかもその跡がみんな神社にされてしまって、天皇や、神話に出てくる神様達が佛さまに代わって中に納まっているのです。これは明治維新の時に権力を握ったのが薩長連合ですから、薩摩出身の新政府のエライ人が自分の出身地の佛教寺院を徹底的に破壊させてしまったのだろうと思います。その点、金澤という町は、前田の殿様は権力にはあまり興味がないようで、新政府には縁がなかったので新政府が推進した廃佛棄釋という命令には従わなかったようで、従って佛教寺院は殆どみんな破壊されずに残っていて、しかも神社が非常に少ない町なんです。

冠岳を下りると川内(せんだい)川があって、新田神社
…當所に大川有り、是川内川と云ひ薩摩第一の大川也。太閤薩州入の節武蔵守防ぎしは此川也。川を渡り八旗八幡宮に詣て納經す。一の鳥居より宮本迄八丁、、馬場幅八間、仁王門、石段三丁、八幡新田宮と云ふ額有り。當社より北東に國分寺、天神宮有り納經す。…

右がその八旗八幡宮。今は新田神社という名前です。大きな鳥居をくぐって332段の石段を登り詰めた山頂に朱塗りの社殿があります。薩摩國一の宮として古くから栄えていました。
豊臣秀吉(太閤)が九州征伐でここまでやってきた時、島津家に仕えていた新納(にいろ)忠元は大口城を守っていました。この新納氏がここで言っている武蔵守です。島津義弘が敗れた後も忠元一人ここで奮闘して、薩摩隼人の名を高めました。結局島津氏が全面的に秀吉に敗北してしまったので大口城を開場し、剃髪して拙齋と号したのでした。
薩摩國分寺跡
新田神社の北東に薩摩國分寺址(国史跡)があります。薩摩の國府は大宝二年(702)年に設置されたことになっていて、國府の東隣に國分寺が建設されました。左の写真はその発掘調査の時のものです。
奈良時代末期から平安初期の創建とされていて、金堂跡や講堂跡の一部、その他の遺構が確認されました。伽藍配置は奈良県明日香村の河原寺によく似ているそうです。
河原寺式というのは、南門の北に中門があり、中門の両脇から回廊が続いて中金堂につながります。回廊内には東に塔、西に西金堂があります。中金堂からはさらに回廊が北に向かっていて、講堂を囲む形式です。
泉光院がここへ来た時にはおそらく國分寺そのものは何もなかったのではないかと思います。ただ、伝承として、ここに國分寺があった、ということが伝えられていたか、あるいは國分寺という名前で小さなお寺が作られていたのかどちらかでしょう。

七日 曇天、晝より晴天。西方立、辰の刻。阿久根と云ふ郷にて晝食す、鹿兒島下町左太郎と云ふに又此所にて出合ひ種々噺し、夫より野田の郷と云ふを過ぐ。此郷先年予が先祖中納言殿領せられたる地にて有りたる由思ひ出せり、高尾野と云ふに宿す、政右衛門と云ふ宅。

No.007 鶴丸城 の項で泉光院の九代前の先祖である野田中納言殿のことを書いておきましたのでここでは重複を避けておきます。御先祖さまの領地だった野田郷は阿久根市の北・出水市の南で、毎年10月頃には鶴が飛んできて3月頃また北へ帰ります。出水の鶴ナベヅルが最も多く、次いでマナヅル、稀にクロヅル、ソデグロヅルが来ます。記録によると元禄七年(1694)頃から来ているそうですから、泉光院がここを通った時には鶴がいたでしょうね。だが日記には鶴を見たとは書いてありませんでした。

八日 半天。高尾野立、辰の刻。出水郷と云ふに赴く、此間に幅五間長さ一里半計りの松並木の馬場有り、皆平原にして真直ぐなり、百萬騎の兵を置くに便りあり、背水の陣も大方此地ならんか、出水郷を過ぎ、米ノ津と云ふに出水口の番所あり、肥後口の改所也。堺の谷と云ふ番所より一里に薩州肥後の堺杭あり、鹿兒島下町札の辻より是迄二十七里とあり。肥後熊本迄二十四里、此堺目に幅三十丁計の大松山あり。扨薩州には朝茶の時、盆に茶と菓子を添へて出すこと丁寧也。右の松山を抜け袋と云ふ村へ出る、肥後よりの番所あり。水俣と云ふ町へ宿す、同宿六七人あり終夜博奕(ばくえき=バクチ)す、主人制すれども聞入れず、平四郎は終夜寝入らず、予は一切不構臥す。
出水番所
左の写真 出水の番所(関所です)へ来ました。
ここは薩摩と隣国肥後(熊本県)の國境です。国防上重要な場所ですから厳重な関所がありました。
寛政の頃ここへ来た高山彦九郎も、文人頼山陽も、ここで厳しく調べられました。
他領民で通行手形を持っていない者は絶対に入れず、もし領内で證文のない者が発見された場合は関所の番人まで処罰されました。

泉光院は、No.008 開聞岳の項で書いておきましたが、出水番所宛の出国手形を書いてもらっておいたので格別問題なく出国できました。

この関所を出て一里の堺の谷という所に堺杭た立っていて、袋という村には肥後の番所があって、ここも無事通過しました。
泊まったのは水俣の宿屋。薩摩國では山伏の宅を次々と紹介して貰いながら泊まっていたのだが、肥後ではそういう知りあいがいなかったらしくて宿屋泊まりです。
6~7人の同宿がいたのだが一晩中バクチをやっていて、宿屋の主人が止めようとするのだが止めない。平四郎はそういうのが大嫌いな性格なので一晩中眠れなかったようだが泉光院は構わず寝てしまった。
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