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2014.04.30 (Wed)

泉光院の足跡 014 雲仙嶽(その1)

泉光院は熊本城を見物に行って、 …本丸に又花畠とて御殿の近所にあり、此所も領内の者の如くまぎれて入れば行かるる也。… と書いているので、熊本城の図面を捜して、それと現在の熊本市街図と併せて見ました。
熊本城図・文化十一年
一番下ちょっと左に矢印を入れておきましたが、泉光院はきっとここから入ったと思います。この場所は、現在の熊本市で言うと、市電の熊本城前という停留所で降りて、御城の方を見ますと加藤清正の銅像があってその横の行幸橋を渡るとこの矢印の位置になるのです。
そこには櫨方門があって、枡形(御城の門は必ず枡形の形になっています)へ入ると「お花畑」と注を入れておきましたが、今は「肥後六花園」という名があって、昔も此所がお花畑だったと思いますから、江戸時代の熊本領民もきっとこのお花畑へ入ったのでしょうし、泉光院も領民に紛れて入っちゃったのです。
天守閣はこの絵圖の真ん中より少し上、横向きに天守閣らしい絵が描いてあります。文化十一年、泉光院がここへ来た2年後の絵圖です。そしてこの地図を見つけたついでに水前寺成趣園の絵も見つかったので一緒に入れます。水前寺庭中之圖
前回にいれておいた白黒の写真よりもこちらの方が遙かに名園の趣がうかがえますね。
琵琶湖を模した池の中には竹生島があり、唐崎の松や富士山やその他いろいろの風景を取り込んだような感じがこの絵の中で読み取れそうです。

熊本を出た泉光院は雲仙へ向かいました。

十三日 晴天。熊本一乘院宅立、巳の上刻。御馬下村天龍寺寶藏院と云宅迄一里一乘院見送りあり、未だ午の刻頃なれど大西風、雪氣なれば一乘院も同様一宿の積りにて休息す、種々馳走あり、此道筋は豐前小倉街道也。此一乘院は性質誠實なる人にて、老體永々の旅行随分堅固に早々歸國あれと涙を流し別れを惜しめり、其時一乘院勸めの金言あり。先達て(せんだって)承るに、雲仙嶽随分深雪にて登山出來まじくと聞く、若し登山出來ざる様ならば來り玉へ、年宿随分世話可レ申、又來春雪解の後登山といへば三月中旬也、夫迄の滯留は甚だ永く相成申すこと也、雲仙に雪あれば此所にも雪降れり、當時未だ大雪無し急ぎ登山し玉へとの勸めに彼の方へ行く。

熊本で宿を借りていた山伏の一乘院という人は随分親切だった。もし雲仙へ行っても雪で登山出来ないようだったら、もう一度ここへ戻っていらっしゃい。年宿の世話もしてあげよう、と言ってくれる。回国修行の人もお正月の間はどこかの家に世話になって、ウロウロ歩かないのです。その宿のことを年宿というのです。
豐前小倉街道は今の国道3号線。これを北へ向かいます。熊本から鹿児島の方は薩摩街道です。
田原坂
明治10年2月、西郷隆盛が麾下の薩摩軍13,000人を引連れて鹿児島を出発し北上をはじめました。
明治政府の軍隊はこの時熊本城に司令部を置いてここで戦争が始まりました。日本における最後の「内戦」、西南戦争です。

この時は、西郷隆盛は明治政府の参議という役を辞任して、鹿児島に帰って私学校を設立していたのですが、明治政府はこの学校を「危険な政治結社」と判断して、挑発をくり返すのです。結局血気にはやる若い連中の動きを押さえきれずに戦争に突入してしまった。右上の写真は田原坂(たばるざか)。

明治政府は高瀬という港町に集結して、ここから熊本城司令部救援のために、唯一大砲を運搬出来るこの田原坂越えの高瀬往還を進軍する。熊本城北方18km、両軍が雌雄を決する「田原坂の戦い」は、3月4日に始まり、20日までの17日間に及んだのでした。高瀬・船着場
そしてそれぞれ3000人以上もの戦死者を出して、ついに田原坂は政府軍の手に落ち、それからは薩摩軍は敗走に次ぐ敗走、、6月1日には人吉を政府軍に占領されて戦争は終結しました。右の写真は「高瀬・船着場」の跡です。政府軍はここで大砲を陸揚げして植木町の方へ向かう道を通ったのでしょう。
泉光院はここで将来そんなことが起こったことは知りません。

…夫より高瀬の町と云ふに行く、御米藏あり、船着也。當町に大社八幡宮鎮座。樓門九州第一の手組の細工也。當所より島原へ渡らんとてはまこ村と云ふ海邊へ出づ、風惡しき故に渡り得ず、因て當所權八と云ふに宿す。…

繁根木八幡宮
高瀬の町の八幡様は繁根木(はねぎ)八幡宮です。船着場からさほど遠くはありませ ん。ここの鳥居は慶安五年(1652)の建立で、熊本県で確認された鳥居の中で最古のもの。また、二層造りの樓門は江戸初期のもので、高さが12m、桃山様式の華麗な彫刻が見られるといいます。
写真はその樓門です。遠くて暗くて、折角の彫刻は全く見えません。だが泉光院の日記にあるように、…九州第一の…彫刻らしいですね。手前に竹の竿を立てて御幣のようなものが吊してあるのはお祭りか何かの行事があったのだろうか。

ここの船着場は菊池川の河口に位置していて、流域各地から運ばれてきた米や農産物の集散地となり、ここから大阪の堂島へ運ばれた肥後米は日本の米市場の相場を左右したといいます。

ここで泊めてくれた家の主人、權八さんから雲仙嶽噴火の時のことを夜話に聞くのです。まはこ村と書いてありますが、これは今の地名では玉名市小浜のことです。
雲仙嶽眉山
左の写真、これは島原半島の眉山です。
ちょうど有明海を隔てて熊本市の真西に当たるような所にあるのです。山の真ん中が上の方から大きく崩れているのが見えるでしょう。その後の、頂上が少し雲に覆われているのが雲仙の普賢嶽・妙見嶽です。

泉光院がここへ来た1812年の20年前、
寛政四年(1792)、眉山が突然崩れ落ちました。大量の岩石が麓に広がっていた島原の町と、7000人の住民を一瞬のうちに残らず呑み込んで有明海に突入したのです。それで津波が発生して対岸の肥後國の海岸を襲いました。この時の津波の高さは10mにもなり、両方の死者は15,000人。日本の火山災害史上最大の犠牲者が出たのです。この出来事は「島原大変肥後迷惑」という言葉で伝えられているのです。手前の方に島がいくつも見えるでしょう。これが崩れた山の岩屑です。島原九十九(つくも)島というのです。海底には海面に出ていない流れ山が無数に隠れている筈です。
島原大変肥後迷惑


煙を吐き溶岩が流れ出ている眉山と、その下に広がる島原の城下町。
右下の方に火砕流が海に流れ出しているのが絵の上で合成されて描かれています。

 …主人の夜話に、先年雲仙嶽燒崩れの時、三日以前に此海邊上、仲洲村と云ふより下川内村と云ふ迄四里の間、人の形ちしたる者徘徊す、片足は白足袋、片足は黒足袋を履き、夫れに文字あり、三日の内津波にて大變あり、早々立退きすべし、波の色黒ければ人多く死し、白ければ助かると有り、右書不信の者は多く死したり、其時死したる人肥後の内三千六百人程、島原の方は數不知、此村迄島原より海上七里の所也。…

こういう異常な出来事が起こった時、昔の人はそれなりに自分の心を納得させるためにこういう説話を作って語り伝えたのでしょう。こういう話はたくさんあって枚挙にいとまがないほどです。
季節は新暦に直せば12月下旬。連日、… 大雨、 とか、 大西風、とか、 風惡しき故に渡海なし、… などと書いて滞在しています。

十一月十九日 晴天 大西風。今日も渡海なし、故に近在へ托鉢に行き梅田村榮七と云ふに宿す。朝暮素粟の飯の馳走あり、折節寒中少々雪あり、最明寺佐野氏へ御一宿を思ひ出す、薪木は三木(さんぼく=梅・櫻・松)にはあらざれども石炭を焚きあたらせる、硫黄臭きこと頭痛に及ぶ。

ちょっと解説が必要かも知れませんね。これは謡曲「鉢ノ木」の故事です。
鎌倉幕府執権の北条時頼が僧の姿で旅に出ていた時の事、雪の日に佐野源左衛門常世を訪れた時、貧乏をしていた源左衛門は粟飯を馳走し、薪が少なくなって大切にしていた盆栽、梅・櫻・松を切って囲炉裏にくべた故事を思い出しているのです。のちに鎌倉幕府から動員がかかり、「いざ鎌倉」と源左衛門は鎌倉に馳せ参ずるのですが、以前訪れた僧が北条時頼であったことを知り、時頼はその時の恩義に報いるために、加賀国の梅田庄、越中国の櫻井庄、上野国の松井田庄の三ヶ所に領地を与えたのです。泉光院は梅田村榮七宅で粟飯の馳走になり、火を焚いてあたらせてくれたのだが、それは立派な木を切ってくべたのではなくて、石炭だったから硫黄臭くってたまらん!と言っているのです。

翌日、 …長洲村へ歸りたる所島原便船あり直ちに乘船、島原の住男女四人連借切の船也。此四人の者共も回國にて四年ぶりに歸國の由、晝過島原領三ヱ町と云ふに着、航路七里、…

島原に住んでいる男女四人のグループが、四年ぶりに回國から帰ってきて、貸切船を仕立てる、という話が聞こえてきた。それに一緒に乗せてもらった。
島原といえばまず思い出すのが普賢岳の噴火です。物凄い火砕流が噴煙とともに押し寄せているテレビの画像は今でも思い出すことが出来る。
雲仙普賢嶽

上の写真、1984年
7月

下の写真
1994年
7月

同じ場所から写した
左・普賢岳
右・眉山です。

噴火前と噴火後の普賢岳の写真。
この写真を見るとつい不謹慎ながら次の替え歌を思い出すのです。
  ♪造山 造山 お山が出来るのね そうよ 火山も爆発よ♪
この歌詞を、♪ぞうさん ぞうさん お鼻が長いのね そうよ 母さんも長いのよ♪
の旋律で歌うのです。山が出来る、ということが実感出来る写真だと思ってのせました。不動だと思っている大地もこのように変わっていきます。

三ヱ町は上の写真の右の方の海岸らしい。左手に雲仙岳を見ながら眉山の方に向かって島原の城下へ行きましょう。
 …此所より東一里に島原城下あり旅人問屋 樒屋増兵衛と云ふに宿す。島原城
御城外廻り半道計、四角なる平城也、追手(大手)東口角樓あり追手門は高樓門、南に雲仙嶽、續きに普賢嶽東南半里にあり、先年山水にて流れたるは此普賢嶽の東鼻先也、幅十七八丁、切りたるが如く山崩れ海上へ流れ出し、半道計今岡となれり、海中所々島多く出來たり、御城東口圍ひの所迄水來り、水高さ三丈計りと見ゆ、御城内松の枝に藻屑掛り居る、…

右上が島原城。このお城は昭和39年に復元されました。
島原鉄砲町
左は城下町の「鉄砲町」という武家屋敷の並んでいる町。道の中央に用水が流れていて、両側に石垣に囲まれた邸が整然と並ぶ。江戸時代の武家屋敷街の基本形です。この用水は寛文九年(1669)に設営されたもので、そのまま残っているようです。
島原藩主松倉氏は二代にわたってキリシタンを弾圧しました。重税と過酷な労役を課し、農民は餓死寸前にまで追い込まれたのです。
寛永十四年(1637)十月、キリシタン二名の捕縛をきっかけに、島原や天草の農民が立ち上がり、代官を殺害し、島原城を攻めたのでした。島原の乱です。天草四郎時貞の指揮するキリシタン軍は、最初のうちは攻勢に出ていたのだったが、次第に幕府連合軍に追いつめられて、原城に80日あまりも籠城して、ついに食料も尽き果てた翌年二月二十八日、幕府連合軍の総攻撃にあって全滅しました。天草四郎の首は長崎で晒されました。
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