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2014.05.27 (Tue)

泉光院の足跡 018 長崎滞在

JR長崎駅から電車通りを渡って急な坂の上が西坂の丘で、「日本二十六聖人殉教の地」です。
長崎・26聖人碑
慶長元年十二月十九日(1597年2月5日)の正午、ここで26人のキリシタンが処刑されました。
その10年前の天正十五年、豊臣秀吉は九州を平定した後、博多でバテレン追放令を発布、それまでキリスト教を容認していた方針を変更したのでした。南蛮貿易はそのまま続けていたのだが、宣教師は領土制服の手先であるという話を聞いてキリシタン、バテレンの追放となったのです。
近畿地方を伝道していたペトロ・バプチスタ神父以下6人のフランシスコ派宣教師とパウロ・三木ら日本人信徒20人が、秀吉の命によって捕えられ、京都市内引き回しの上、堺から船で長崎に送られ、この丘で磔刑に処せられたのです。
当時、この丘は海に突き出た岬で、樹木が鬱蒼と茂っていて、断崖を波が洗っていたような場所でした。ここは今でも景色のよいところです。そのような場所で、4000人の群衆が見守る中で処刑が行われました。検死の役人でさえ顔を背ける程のむごさだったと伝えたれています。
昭和37年(1962)6月、列聖百年祭(この時処刑された2人は、1862年、教皇ピオ9世によって聖者に列せられました)を記念して殉教碑が建てられました。
上右の写真、横17m高さ5.5mの花崗岩の台座に彫刻家舟越保武作の26聖人のブロンズ像がはめ込まれています。

今度は浦上川を少し遡って、爆心地、平和公園まで行きましょう。

大きな男の神像が、右手を天に伸ばして原爆の脅威を、左手を水平に伸ばして平和を象徴しています。
毎年8月9日にこの平和祈念像の前で平和祈念式が行われます。長崎平和祈念像

原爆はこの平和公園の、原爆中心碑の上空500mの所で炸裂し、浦上全部が焦土となりました。

この近くに浦上天主堂があります。
明治28年(1895)、フランス人宣教師フレノ神父の設計によって起工し、大正3年(1914)ベルギー人ラゲ神父のとき設計を変更して赤煉瓦造りロマネスク様式大聖堂として完成し、さらにその11年後、両側に塔が作られてアンゼラスの鐘が吊された。浦上の信徒たちは献金や材料運搬など労働奉仕につとめたのでした。
浦上天主堂遺壁
原爆は浦上地区の信徒12,000人のうち8500人を死に至らしめ、天主堂も倒壊焼失しました。

浦上天主堂














左はわずかに倒れずに残った壁の一部。
右が昭和34年(1959) に再建され、昭和55年(1980)には赤煉瓦で綺麗にお化粧をして原爆被災前の面影に復し、その翌年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世をお迎えしてミサが行われました。
双塔の上にあったアンゼラスの鐘も2個のうち1個は無事だったので、今も祈りの時を告げています。長崎の鐘、というのはこの鐘のことです。
前庭には被爆した「悲しみの聖母像」があります。
これからも平和の大切さを語り続け、守り続けていかなくてはなりません。

泉光院は配札(御札を配って謝礼を頂く。門前でお経を読むだけよりも収入は多いだろう)をしたり、頼まれれば加持祈祷などをして日を送っています。

十三日 晴天。佐土原より當所奉行方へ年頭見舞の飛脚來り、予が旅宿へも見舞に見へたり。夕方國元への書状認め唯助方へ頼みに行く、正壽院より易本義借用す。

佐土原の殿様から長崎奉行所への年頭挨拶を持って飛脚が届き、泉光院が泊まっている熊次郎宅へも殿様からの年始挨拶の飛脚が来たようだ。
…諸事調へ物あり平四郎は町へ出る… とか、…國元へ送る土産物等見合せ平四郎は出づ。… ということを書いているので、年始には殿様からの連絡があることを知っていて、そのためのお礼の品物や、国元の家族、知友などへのお土産などを買い求めているのでしょうか。手紙を書いて、佐土原藩長崎出張所である川越唯助方へ届けた。
長崎には日向國にはない珍しい品物がたくさんあります。送ってあげれば喜ばれます。

しばらく住みついている間に占いを頼みに来たり、祈祷や加持を頼まれたりしている。

十七日 晴天。四ッ時旅人改役所へ出る。正壽院方より役院一人付添ひ、金剛院より客僧滯在の帳面添書一通役所へ出す、左の如し、
   一、眞言修驗日向佐土原安宮寺住
                   長 泉 院 醍醐 五十八歳
   一、同   同國同處  
                下人 平 四 郎    三十六歳
   右者當十六日着に付旅人改合進せ候已上
      酉ノ正月十七日         如 意 輪 寺 判
右帳面三通、添書一通、往來添へ古川町年行事方へ役僧同道にて出る、滯在中切手渡る、口上にて歸國の時分は又々此方へ案内これ有るべく申渡しあり、寶輪寺、如意輪寺へ禮に行く。

十日に正壽院、金剛院その他へ年禮に行った時、往來手形の件で頼んでおいた事が今日やっとうまくいったようです。泉光院の名前が長泉院となっているのは隠居する前の名前で、16日に佐土原の安宮寺の住職が金剛院へ来て滞在することになったので宜しく、と言う内容の文章に、如意輪寺がハンコをついて証明しているのです。それがいわば滯在許可証となるのです。そして長崎を出て本国へ帰国する時にはまたここへ出頭して挨拶するように、と口頭で申し渡された。

廿一日 曇天。餘寒強く歩行出來がたし、…  とか、
廿三日 小雪天。配札、…  などとのんびり過ごしておりますが、
山風蠱
廿九日 晴天。庄屋休右衛門頼むに付占ふ、山風蠱(さんぷうこ)の卦
發(おこ)れり、右の趣一々斷り相違なき由右に付祈禱し呉れ候様頼み
に有之候得共、吾々は衆生濟度の行とは云ひながら、祈禱の儀は供物等
も多く入用、又世上に聞へて祈禱山伏を、をふげ者とさみする者なれば、
祈禱の儀は御斷り申す、外に眞言宗の修驗も多く有之候得ば、彼の方御頼可然と斷り申入る。夜に入り休右衛門直々に見へ、是非共頼みたしと申す、主人熊次郎も共々頼むに付、予は御覧の通り、旅中祈念致す用意無く、修法の次第も無之、修法取行へば伴僧も兩人無くては出來不申、是も他國にては伴僧努めくれ候仁もこれあるまじ、旁々出來兼候と申せば主人熊次郎も同様頼みて曰く、正壽院方へ御出で御相談あらば然るべきこともあらん、先づ御出御頼被成、祈祷出來る様御頼み申すと云に付、明日正壽院方へ相談に參るべしと諾す。
泉光院の行う占いは筮(ぜい)を立てて卦を得る、本格的な占いです。竹筒に入れた50本の棒、これを策(さく)といいますが、策を両手に持っていろいろ操作して、奇・偶をしらべて、その「變」を占するのが「易」です。山風蠱という卦は、うえに形をのせておきましたが、意味は(なかなか大変なんで)ごく簡単に言いますと、体の中に悪い虫がいて、それが人の行いを惑わす、ということでしょうか。泉光院はどんな説明をしたのか判りませんが、休右衛門さんには思い当たるふしがあったらしい。
それを除くには法力のある修験行者に祈祷してもらうのがいい、というわけで祈祷を頼まれます。
 …旅行中なので用意もしてないし、伴僧も二人は必要だし、…と断るのだが、是非に、と頼まれるので、正壽院に相談すると、…いいでしょう、やってあげなさいよ、こちらの本尊や道具もお貸しするし、伴僧二人も出してあげるから、…と言われるので、吉日を選んで二月五日、一日がかりで祈祷をしました。
 …休右衛門方終日修法、伴僧仙良院、源昌坊兩人早々に見ゆる、作障消除の秘法抽丹誠。…
丹誠をこめて祈祷をしてあげたようです。

他にも、…恵比須町正吉と云ふが加持頼みに付行く、…、 …筑後町に缼落の者あり、方角占い頼むに付占ふ、方角住所等後に話を聞きたる所占の如しと云ふ。… …中町と云ふに疱瘡加持に行き夕歸る、… …占い頼む者數を知らず來れり、錢を取りたれば大分あらんも施行なれば大儀々々。… …疱瘡守、安産守、段々頼むに付祈念し遣はす。… etc.多忙です。

二月二日 晴天。長崎中の山伏宅見舞に廻る、當山派山伏(當山派は泉光院の属する京都醍醐寺三寶院がトップです。もう一つの派は本山派で、京都東寺聖護院がトップです。)宅十二軒、正壽院方へ昨日見舞の禮に行く。如意輪寺にも行く、種々饗應あり。夫より唐人屋敷へ唐人の踊りあり一見に行く、館内は役目の者の外は出入りを禁ず、故に十善寺村と長崎春節
云ふ所より垣根越しに一見す、日本の芝居の様なるもの也、一切チンプンカン何とも分からず、京都壬生踊の如く見る計り也。鳴物は鐘、太鼓、鼓弓(=胡弓)也、面白くも可笑しくもなし、右踊の次第通詞に相尋ぬる所、彼の仕組みは、姫君の不義に付隠し文を落とされて他人に見つけられ、夫より大亂になりたる仕組みの處也と云ふ。

左の写真は中国の旧正月に行われる「春節祭」にちなんで長崎で行われる長崎ランタンフェスティバル風景。泉光院の時代にはこんなけばけばしいお祭りではなかっただろうけれども、唐人屋敷ではオペレッタのような芝居があった。

芝居の筋はさっぱりチンプンカンなので通訳に聞いたところ、…お姫様が浮気をして、落としたラブレターを他の人に見つけられて大騒ぎになった、…という筋。
よくあるお話ですね。江戸時代、日向に住んでいた山伏もチンプンカンなんて言葉を使っているのが可笑しい。
京都壬生寺の壬生狂言は「壬生さんのカンデンデン」と言っていますね。やはり鐘と太鼓をカーンデーンデーンと鳴らして踊るパントマイム。毎年春と秋に一般公開をしています。

十八日 晴天。阿蘭陀人カピタンを始めヘトリ、下官、黒ん坊迄〆八人外に當所の役人十四五人同道にて金毘羅へ參るを見る、且又カピタン長崎にて設けし男子、當年十歳位、此子も連れ參れり、其子の母親は當所の娼婦也、此女は少し先に參りたり、女連三四人也。
長崎のオランダ人

長崎に滞在していると外国人にも出会います。
左の絵は江戸時代の版画に描かれているオランダ人。
カピタンはオランダ商館長。背の高い男がカピタン。
傘をさしかけている子供のようなのが説明によると”くろぼう”と書かれているので召使いの黒人らしい。もう一人のオランダ人は下官か何かかもしれない。
ヘトリは商館長次席。本当はヘトルと言ったらしい。
泉光院が出逢ったカピタンは、Henrik Doeff ヘンドリック・ッドゥーフという人で、1803年に長崎商館長として着任していますから、泉光院が出逢った1813年には十歳くらいの子供がいてもおかしくはない。
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