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2014.06.28 (Sat)

泉光院の足跡 021 長崎拾遺

十九ヶ条の未だ少し残っている分や、小旅行の続きなどを拾って泉光院の長崎滞在の項を終わりにするつもりです。

一つ疱瘡の時醫師に掛る事を厭ふ、故に醫者の見得たい因りて惡瘡ならんと云立つる故、死すとも醫師には見せぬ也、山伏社家の祓清めも同斷也。

この時代は疱瘡はとても怖ろしい病気だった。泉光院の長崎滞在中にも安祥坊という山伏が疱瘡で死んでいます。
一月の下旬、…中町に祓に行き安祥坊へ花手拭一包遣はす…とあって、この頃すでに安祥坊は病気の様子だったらしいのだが、二月の下旬になると、…安祥坊疱瘡見舞に行く。…とあり、その三日後には、…安祥坊疱瘡六ヶ敷故に祈念す。…とあり、祈っている最中にも、…祈祷気遣しきに因り平四郎を見舞に遣したるに晝過死去したりと云ふ、…で、その翌日、多分お葬式だったのでしょう、…中町へ平四郎を悔みに遣はす。…と日記に書いています。
長崎では、疱瘡にかかっても医者には決して診せない、というのです。医者が来ると悪い病気だという噂が立つので、死んでも医者にはかからない。山伏や神主のお祓いも同様、悪い病気にかかっているからお祓いをするのだろう、と言うような噂が怖いのです。

一つ唐人船七艘十二月より正月、又六月七月の間一ヶ年に兩度宛來る、阿蘭陀船七月より八月迄一ヶ年に一度來る。バッチの仕立て様袴の如くまちを縫ひつめたる物也、二便(大小便)の時甚だ不自由、是は唐人着用の仕立也。

当時の船は帆船ですから季節風に頼っての航海です。ヨーロッパからだと南アフリカ南端の喜望峰経由で来るわけですから年に一度しか来ません。
日本にヨーロッパの船が来たのは1541年、将軍足利義晴のころにポルトガルの船が漂着し、その後1543年にはポルトガル船が種子島にきて鉄砲を伝えております。
フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのは1549年。この頃になるとヨーロッパの船が日本近海にいっぱいやってきているようです。

一つ正月初杯とて親類寄合ひて終日酒宴の事。

お正月に親類一同集まって杯を交わすことは長崎に限ったことはないだろうと思うのだが、終日、ということにこだわっているのだろうか。

泉光院が長崎滞在中に感じた…珍しき事…の概要でした。
もう少し長崎近辺での出来事を書いてから長崎出立、と言う順序にしましょう。

No.19 で長崎半島の先端、野母崎へ行って、からすみの写真などを載せておいたのでしたが、そこから戻る途中、…此所より髙野木(香焼島、今は陸継島になってしまった。)と云ふ島へ渡る、香焼島風景
此島に弘法大師安置あり詣づ、… 

右は香焼島海岸風景。綺麗なところですね。

さらに …又此島より鬼界ヶ島へ渡る、海上二里、海邊獵家軒を並べたり、禪寺一ヶ寺、眞言寺一ヶ寺長福寺と云、此寺の境内本堂の脇に俊寬僧都の墓所あり、…

俊寬僧都は平家物語、鹿ヶ谷(ししがやつ)の謀略の首謀者として鬼界ヶ島に流刑となります。鬼界ヶ島は薩南の硫黄島に当てられていますが、説はいくつもあって、長崎、香焼島の北の伊王島もその一つ。泉光院はこちらの伝説を信じているのです。
そこには高さ七尺・幅一尺の石碑があって、…僧都左遷文治二丙午年(1186)四月二十二日とあり、寶暦六丙子年建立の石也。墓東向、俊寬の装束、太刀等の寶物は深堀鍋島氏預りとなり居る故に當時開帳出來ず、古跡此島に三十六箇所あり、…

俊寬僧都の話は、能、人形浄瑠璃、歌舞伎などに脚色されたので、当時の人々の間には広く知られていたのでしょう。泉光院は俊寬の墓の付近から貝殻などを見つけて、…又塚の普請の折柄、墓の下を見れば何れの處迄となく辛螺蠣の貝殻あり、左遷の時は人家なく、食物もなく、海邊へ出て右の貝を拾ひ食物とし居られしと見ゆ、其時の貝の殻ならん、さすれば俊寬流罪は此島ならん、折柄時鳥(ホトトギス)の鳴くを聞きて、   時鳥まで左すらへか鬼ヶ島   … と一句かいています。
泉光院がこの時見た石碑はすでに倒壊して現在は見ることは出来ません。後に建てた墓碑には北原白秋が何か書いたようですが、それはワタクシは見ておりません。

…夫れより長崎へ渡船出ると水主告げ來れり、夜中刻限は何時ぞと云へば、未だ子の下刻と云ふ、即時船に乗る。…

どうやら長崎に帰着したのでした。

江戸時代から長崎には正月の適当な日を選んで、長崎を囲む七つの山を草鞋履きで一日かけて巡拝する慣わしがありました。これを「七高山巡り」といって、神様詣りを兼ねてハイキングをするのです。どの山も全部頂上に寺社があるのです。

四月十一日 晴天。當所長崎内に七高山とて七ヶ所に高山あり。熊次郎八郎次同道にて卯の刻より出立愛宕山へ詣づ。

七つの山は金毘羅山・七面山・烽火山・秋葉山・豊前坊・彦山・愛宕山です。この七高山巡りを土地の人は訛って「しちごさんめぐり」と言っています。日記はやたらに長いので省略します。私の書いた順番は北の方からから南に向かって並んでいる順番ですが、泉光院は一番南の愛宕山から登り始めました。思案橋の所から国道342を南に行くと愛宕という地名がありますが、そこから登り始めました。

烽火山
烽火山426mはこれらの中で一番高い山です。この山頂からはるか野母崎まで見通せるので、不審な外国船が野母崎の遠見番所から望見できたとき、烽火(のろし)を上げてリレー式に変事の連絡をしました。
右は烽火山の烽火台。
寛永十五年(1638)、島原の乱平定後、長崎に来た老中松平伊豆守信綱が長崎奉行に命じて作らせたものです。真ん中の穴(直径4.8m)の中に薪を入れて火をつけ、昼は煙、夜は火をあげて急を知らせました。
泉光院はこれを見てこんな風に書いています。

…放火山とて廻り八枚敷き計りにて竈の如く脇へ三ヶ所の穴あり、此穴より火をさす所也、上の竈の如き處に薪を山の如く積立あり、此は異国より蠻船等の來りし時、何か變あれば此薪に火を付け合圖をなす、さすれば肥前、筑前、豐前、周防、安藝と國々の高山にて右の火の手を見て追々に火を放てば江戸表十二時が間に知るゝこと也。此の所は旅人上る事を禁せり。…

つまりここに火を付けて烽火を上げ、今の佐賀県・福岡県・山口県・岡山県とそれぞれの地域の高山で烽火をリレーで繋いでいけば江戸まで一日で連絡がつく、というのです。前もって火や煙の上げ方で、何種類かの内容を伝える事が出来るのです。
この信号を一番最初に使ったのは正保四年(1647)、ポルトガル軍艦2隻が長崎に来航した時で、2度目は文化五年(1808)、イギリス軍艦フェートン号入港の時といわれています。近くには薪小屋や消火用の用水池の跡もあります。
泉光院は金毘羅山の奥の院まで行ってそれから浦上、原爆の落ちたあの浦上へ下山して、夕方立山村の熊次郎宅へ戻りました。

そろそろ泉光院は長崎出立を考えるようです。

十三日 大風雨 方々知る人になりたる宅家内安全の祈祷して守札等遣はす。
十四日 同天 林田不治太郎と云ふより木香並に雲片香贈らる。
十五日 晴天 …遠眼鏡繕ひ頼み置きたる故今日受取りに行く、酒屋町吉左衛門と云ふ店。
十六日 晴天。浦上町と云ふに托鉢に行く、伊太郎と云ふより唐製墨十挺入り一箱、砂糖漬等餞別、仙良院より茶、香箱、針一箱、指金等贈らる。
十七日 晴天。…川内屋隠栖へ茶に行く。

お世話になった家に家内安全の御札を作って祈祷をして配ったり、お土産や餞別を貰ったりしていますね。お茶とか、針や指貫のような必需品でありながらつい忘れがちになる品物や、お香とか墨とか、泉光院にとっての必需品も戴いている。
南蛮船入港図屏風

長崎を離れる前に長崎らしい景色を載せておきましょう。南蛮船入港の屏風絵です。

泉光院は港へ行った時に唐船の中まで入って、
…舟のともの方見送りの下にホサノ佛壇あり、天后母と云ふ額あり、船の中至て不掃除也、處々に棚の様なる處あり、是は船頭を始め水主等の部屋也、船の中に風呂場等あり、帆柱三本樫の木也、…
などと観察しています。

江戸時代、幕府は船のマストを一本だけに制限していました。これだと追い風の時だけしか走れないので外洋へ出るのは殆ど不可能です。3本マストだと向かい風でもジグザグに走る事は出来るのです。
唐船には入ってみたのだが、南蛮船には入っていません。泉光院の滞在中、1月から4月という時期には南蛮船の入港はなかったのでしょう。もし南蛮船も入港していたら
きっと何とかして入っていたかも知れません。何しろ好奇心旺盛ですから。

長崎を離れるにあたって、暇乞いに廻っています。知り合った人たちと別れを惜しんでいるのです。餞別もいろいろ戴きます。

十九日 晴天。  …夫より鞍風方へ行き長々高談、一句貰ふ、  
    暮毎の寒き雨降る四月哉   鞍風
夫より庄吉、善藏其外町に知音の宅暇乞に行く、熊次郎、八郎次より首途として唐人流しつぽく料理出せり。…
二十日 曇天。仙良院再傳に見ゆる、辰次郎と云ふの母より唐扇等贈らる、休右衛門方より包み物等贈らる、熊次郎家内、八郎次家内殘らず別れの寄合終日也。
廿一日 晴天。明二十二日當所發足の届金剛院方へ行く、帳面相請取り正壽院方へ行く、役僧同道にて旅人改所古川町役所に出る、即時相濟歸宿、所々より餞別品々來る、旅中持參ならざる故に近所の衆へ菓子の類は皆々遣はす、主じとせし熊次郎並に八郎次方長々の滯在世話に成りたる故見合はせ相應に謝禮遣はし置く。
長崎市内

21日には長崎滞在中の身元保証人である金剛院へ行って長崎出発の届けをして、旅券の類を貰って、その足で役所へ行って手続きを済ませた。
宿へ戻ると方々から餞別の品が届いていて、お菓子などは近所へ配り、熊次郎と隣家の八郎次には相応の謝礼を置いたのです。

左は今の長崎。長崎は坂の町。山に囲まれた擂鉢のような町。
山の上までびっしりと家が建っている。市電も走っている。中国やヨーロッパの風物を沢山取り込んだ町のようです。

廿二日 雨天。長崎出立、今日は雨天也、快晴の日出立可然と家内中申し候へども、當地着の日も雨天也吉例として立つ、卯の半刻也。兩家殘らず櫻馬場と云ふ迄半道送らる、熊次郎八郎次父子は日見の宿まで二里餘峠を越し送らる、先達て宿せし利七と云ふにて持參の辨當重の内種々開きたり、晝過右三人は歸宅。

22日は雨が降っています。みんなは今日の出発は止めてお天気が良くなってからにしなさい、というのです。別れたくないのです。だが長崎へ来た日も雨だったし、ここでは雨が吉日だから、といって出発しました。来た時と同じ国道34号で、日見峠を越えて利七サンの家で、ここまで見送りに来た人たちとお弁当を食べて、そうして別れたのです。131日の間長崎に住んでいたのでした。
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