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2014.09.28 (Sun)

泉光院の足跡 026 金印

櫛田明神、住吉大明神とお詣りを済ませてから、

…夫より千代の松原と云ふに出づ、崇福寺と云ふ御菩提寺禪寺に詣で箱崎町幸助と云ふに宿す。

博多崇福寺・山門福岡県庁、九州大学のあるあたりが千代という地名ですが、泉光院がここへ来た時は海岸の松原だった。今は福岡県庁のすぐ向かいに崇福寺という臨済宗のお寺があって、お寺の裏に黒田家の墓地があるのでお詣りをしてからその先の箱崎町幸助さん宅で宿泊です。博多崇福寺



左が崇福寺の山門で、右が佛殿。

いま建っている崇福寺(写真)は明治になってから福岡城を廃城にした時に御城の表門と月見櫓を移築したものなので、泉光院がお詣りしたお寺はもっと古い建物だったと思います。

翌日もそのまま幸助さん宅に滞在しています。

廿七日 晴天。箱崎八幡宮と云ふに詣納經。當宮西向、樓門、拝殿、御殿皆々檜皮葺也、門の金物徑一尺計り、向ふ猿の細工也、餘も皆千疋猿の彫り物後藤幽情(裕乘)の細工と云ふ。周圍三丁計り練塀、境内大木生茂り土地砂にて清淨の地也。門より海邊迄三丁計松原也、景色浪花住吉前に似たり、九州第一の靈地也。…
筥崎宮鳥居

JR箱崎駅の西、5分くらいの所に日本三大八幡宮のの一つ、筥崎宮があります。 地名は箱崎で、宮の名前は筥崎。

左の鳥居は、藩主黒田長政が慶長十四年(1609)に建立した鳥居です。
筥崎宮樓門
右の樓門は小早川隆景が文禄三年(1594)に建立したもので、樓門の奥にかすかに見える拝殿・本殿は大内義隆が天文十五年(1546)に建てたものです。
以上全部國重文指定です。
泉光院の書いているとおりすべて檜皮葺です。いまでも泉光院の時代と一緒ですね。

…當所を箱崎と稱するは古へ皇后御歸朝の砌、今、産八幡と稱する處にて、應神天皇を御安産の時、胞衣を納められし箱洪水の爲山崩れ、流れ出で、此處に留り玉ひしを直ちに納め勸請したる故に箱崎と號す、産八幡の事後に記す。箱崎社内にヲガ玉の木とて大木あり、葉は椨(タブノキ)に似たり、箱崎奉納一句、  箱崎やあくれば直ぐに薫る風

廿八日 晴天。箱崎立、辰の刻。香椎の宮と云ふに詣納經す。此宮は皇后御歸朝の時御船より始めて上り玉ひし地也。仲哀天皇の宮もあり。此處より西十丁に御船着の港あり、名島と云ふ、委細は後に記す。…

今度は香椎の宮へ行きました。香椎宮

熊襲討伐という名目で西暦199年に九州へ来ていた仲哀天皇が翌年ここで突然死んだ。妻である神功皇后は身重の身でありながら神託に従って男装して何故か新羅に出兵した、という記録が日本書紀にあるらしい。

古代のヤマト政権にとって九州はとても重要な土地だった。クマソという、ヤマト政権に従わない勢力がいて、朝鮮のどこかの國と連携をしている。ヤマト政権としては放ってはおけない。いろんな事情が4世紀から6世紀にかけて、日本の各地と日朝両国の間にあったようです。
神功皇后という人が実在したかどうか、それすら怪しいのですが、何しろ遠い遠い昔の話。ボロが出るからここらで止めておきまして、香椎の宮の写真だけ載せておきます。このお宮は享和元年(1801)、黒田齊清が再興した建物。泉光院もこの建物で詣納經したのでしょう。

香椎の宮の近くに志賀島(しかのしま)があります。
志賀島・空撮
左は志賀島の空撮写真。

『後漢書』東夷傳に書いてある金印が 天明四年(1784)、志賀島叶崎で、百姓甚兵衛(実際の発掘者は喜平と秀治2人だといわれている)によって偶然に掘り出されました。
後漢書の記事は、
「建武中元二年(AD57)、倭の奴國、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭國の極南界なり、光武、賜ふに印綬を以てす。」という内容で、光武帝が倭の奴国王の使者に賜うた
のがこの金印だというのです。
金印印面金印外観


左が印面「漢委奴國王」。読み方は現在は「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と読まれていますが、「漢の委奴(いと)の国王」と読む説もあります。
奴も委奴(伊都)も博多付近の小国でした。
右が金印の外形で、台の一辺が2.347cm、重さ108.729gです。
金印は甚兵衛が博多の米屋才蔵に見せ、さらに郡奉行を通じて黒田藩に提出した。
藩では開校したばかりの2つの藩校の教授たちに判定を依頼したのだが、修猷館の教授たちは光武帝から垂仁天皇に与えられたものとし、甘棠館の亀井南冥は後漢からの到来を主張するなど説が分かれたり、ニセモノ説まで出た。
金印は長い間黒田家の所有だったのだが、昭和35年(1960)に福岡市に寄贈されて、現在は福岡市立美術館で常時展示されているそうです。

泉光院は金印の事は知らないので素通りして宗像大社へ行きました。

…夫より六里北に當り筑前一の宮宗像(むなかた)と云ふに詣納經す。途中に知道院と云ふ山伏あり立ち寄る、田島郷川俣村徳助と云ふに宿す。…
宗像大社は玄界灘の守護神、宗像三女神を祀っています。泉光院は筑前一の宮と書いていますが、筑前の一の宮は初めは住吉神社、後に筥崎宮にかわったので宗像大社ではありません。
宗像大社・位置
宗像大社というのは3ヶ所にあって、はるか玄界灘の沖の方、朝鮮半島との中間あたりの沖の島に沖津宮、祭神は田心姫(たごりひめ)と、宗像市の沖6km程の大島にある中津宮、祭神は湍津姫(たぎつひめ)、そして九州本土の宗像市田島にある辺津宮(へつぐう)、祭神は市杵島姫(いちきしまひめ)。この3つの総合が宗像大社です。

右が沖の島で無人島です。宗像大社・沖の島
だがこの島の全部が御神体で、女人禁制。お祭りの時に上陸を許された男だけしか入る事は出来ません。2014年9月21日の朝日新聞天声人語に書いてあったのですが、島に入るにはまず全裸になって海で禊をしなくちゃならない。左下の写真のように。

宗像大社・沖津宮・禊

そして島内での見聞は一切口外してはならない、一木一草たりとも島外に持ち出してはならない、といった数々のタブーが今も守られております。

実は2014年10月12日まで東京の出光美術館で「宗像大社国宝展」というのをやっていて、朝日新聞天声人語の記事はその展覧会のことを書いているのです。
沖の島は「海の正倉院」と呼ばれるだけのことはあって、新羅からもたらされた純金の指輪、ペルシャから伝わったカットグラス碗の破片、その他祭祀遺跡からの数々の出土品を見る事が出来るそうです。
ビーズ・国宝

純金指輪・国宝
左が純金指輪。
右はビーズ。
何れも国宝。
黄色のビーズはエジプトあたり、紫色ビーズはインドあたりの産だそうです。
そしてこれらの国宝類がいま宗像大社展で見る事が出来るのだそうです。
宗像大社・中津宮
左は中津宮の拝殿(真ん中)と本殿(奥)。

辺津宮・本殿


そして右は辺津宮の本殿。

宗像大社に祀られている三女神が、海上交通、特に北九州と朝鮮を結ぶルートの守護神として国家的信仰を集めました。
この女神達の祭祀を取り仕切っていたのがこの地域の豪族、宗像君でした。つまり宗像君の協力なしには朝鮮への往復は困難だったという事です。
だからヤマト政権は宗像君に接近して、大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)は宗像君徳善の女(むすめ)を娶ってつながりを強め、やがて支配下に組み込むのです。政略結婚です。
宗像大社・浦安の舞
10月初めに宗像大社辺津宮本殿で浦安の舞が奉納されます。
女神たちに捧げる舞でしょうか。
それとも女神たちが舞っているのでしょうか。

この三女神は安藝宮島の厳島神社の祭神としても祀られております。
中でも市杵島姫は厳島神社の主祭神のような扱いで、イツクシマの名前もイチキシマ姫から取ったのであろうと思われます。
サラスヴァティ
また市杵島姫は、ヒンドゥー教の水の女神であるサラスヴァティ(右)と同一視されて、サラスヴァティが佛教とともに伝えられた時には神佛混淆の影響もあって、辨財天という学問・藝術・財宝を司る神様となって、江ノ島や琵琶湖の竹生島にも祀られる事になりました。
辨財天は日本人には特に好まれていて、「弁天サマ」と親しみをこめて呼ばれていますし、ちょっとでも大きい神社やお寺、境内に池のあるような寺社では池のほとりに必ずと言っていい程弁天サマを祀った小さな祠が作ってあります。インドでサラスヴァティという水の神様である彼女は、本国ではヴィーナという楽器を奏でているのですが、日本ではそれによく似た琵琶を演奏してもらっているようです。
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