2014-10- / 09-<< 12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>11-

2014.10.27 (Mon)

泉光院の足跡 030 英彦山

泉光院は、好奇心旺盛というのか物見高いというのか、いろんな事に興味を持ちます。
嘉作サンのお宅に滞在中のことですが、

…當村より西の方半道計りに安武村と云ふあり、百姓にて名は忠八と云ふの妻文化五年辰の閏六月廿日の朝卯の刻男子を三人同時刻に産む。忠八年齢四十五歳女房は三十三、其子名を付け一を鶴太郎、二を龜次郎、三を松三郎と云ふ。右平産の時世に珍しき事故殺さんとす、姥の曰く、是は惡事にあらず國の寶、家の寶也.、決して殺すべからずと云ひ即時洗揚げ、村の長、大庄屋方へも早速右の旨申し出たり。次第を以て久留米侯へ上聞に達し、早速見届役遣はされたる由、相違なき旨申上有之、龜、松の兩人へは一任扶持宛下され、大庄屋よりは紅色の産着三つ同様に遣はされたる由、…

西鉄大牟田線の久留米から3つめくらいの所に安武(やすたけ)という駅があります。その近くで三つ子が生まれた。それでその子を見に行くのです。だがその日は留守だったので8日後にまた見に行きます。

…先日見殘したる三つ子見に安武村に行く。木戸口にて三人の子供二人して太鼓を担ひ一人は夫れを打つ、彼の子供にては有る間敷やと思ひ、忠八宅へ上り見舞の趣を述ぶ、母親即時に太鼓打つ三人の子供を呼び、衣類等三人同様着替へさせ、三人次第に座らせたり。持參の菓子など遣し後に抱き試みれば次第に少し宛て輕し、面も少々ちがへり、即時歸る。…

好奇心でいっぱいですね。順番に抱いてみて、少しずつ軽くなる、など泉光院の面目躍如。それにしても久留米侯もなかなか粋な計らいをします。一人目は当然育てなくちゃならないのだが、二人目、三人目の分の食料費を公費負担にしたのです。
一人扶持というのはお米五合。この割で勘定すれば一人一年に一石八斗のお米が支給される事になるのです。

三日 晴天。 …扨主人何と思ひしや今日御神酒上げとて吾々共へ無理に勸めけり。思ひ出せば今日は去年國元を出立の日也。其一周年也。…

嘉作サンは、泉光院が佐土原を出てからこの日が丁度一年目に当たることを知っていて、祝いのお酒を勧めるのです。なかなか洒落たことをしますね。人とつきあう上手なやり方。気働き、というのでしょうか。夜話にでも佐土原出発の日を喋ったのを嘉作サンは記憶していたのです。
いろいろありましたが津福村嘉作サンと別れる日が来ます。

十一日 曇天。今日迄なりとて當村へ托鉢に出で晝時歸る。
十二日 曇天。今日出立の用意したる處家内擧つて今日迄は滯留せよと分けて餘波(なごり)惜しむに付休息。
十三日 晴天。津福村立、辰の上刻。家内の者は勿論近所の者迄も別れを惜しみ途中迄見送りに出る、嘉作と云ふは八間家と云迄見送りたり、此所にて別れ吾々共は福島と云ふに赴く。…

八月の九日から九月の十三日まで嘉作サンのお宅に逗留し、お別れとなるとご近所の人達まで別れを惜しんで見送りに出る。これはやはり泉光院の人柄なんですね。
福島は八女市の中心部。ここで配札托鉢をやっていると、地元の山伏とちょっとしたいざこざがあった。山伏風の姿かたちをした男が来て、…おめぇらは何者だ、わし等に挨拶もなくてこの土地で托鉢をするのはけしからん!… というようなことを言うのです。いろいろ問答をして相手をへこますのですが、いつの世でもこのようなヤクザに近い連中もいるのです。

8月の初めに、人形ヶ原の近くへ来て、…當所より東二里に人形ヶ原と云古跡あり、…何卒行きたしと思ふ…と言っていた人形ヶ原に行きます。
人形ヶ原の石人
…又此山に石にて人形の如く高さ五尺計、幅三尺計りの甲冑を着けたる形ち、又は烏帽子着たる形もあり、刀を持つもあり、馬の形もあり、甚だ不調法の細工にて、今は山中にこけたるもあり、此石何様の事なるぞと尋ぬれば、古へ神功皇后三韓征伐の時此山に登り、大神宮に祈誓し、斯くして軍勢の多く居る體を見せ玉へるとぞ、此所を人形ヶ原と云ふ、先達て久留米にて聞きし人形が原は此處也、去来の句よくよく聞へたり、思いよらず此所を一見し予も一句、
   人形の石も動くや秋の風
高良山の麓府中の宿へ歸る。
嵯峨落柿舎・入口
No.29、柳川の項でのせておいた人形ヶ原の写真はカラーでしたが、あれだと人形の姿がよく判らないので上の写真を見て下さい。少しは人形の様に見えるでしょう。泉光院の言っている様に…不細工な姿…ですけれども何しろ6世紀初頭の作品ですからね。
…何卒行きたしと思ふ…と書いてから約一ヶ月半、ようやく来ました。

左は嵯峨落柿舎の入口。向井去来の庵です。
60年程も昔の写真ですが、昨年(2013)立ち寄った時も同じように蓑笠は下がっていました。だが以前の時と違うのは人がむらがっていることでした。八女茶と千歳
八女を離れる前に八女の銘茶、八女茶を飲んでおきましょう。
八女茶の特徴は味が濃厚で、甘みが強く、苦み・渋みが少ないと言います。

北九州の古墳は5~6世紀初頭に造られたのが多いのですが、装飾古墳が多いのです。今迄に発見された装飾古墳の9割くらいが北九州に集中しています。装飾古墳の石室のいくつかを並べておきます。
岩戸山古墳も、石室がキチンと保存されていたならきっとこのような装飾古墳だったでしょう。
チブサン古墳石室竹原古墳石室


上左、チブサン古墳、       上右、竹原古墳
下左、萩ノ尾古墳、      下右、日岡古墳
萩ノ尾古墳日岡古墳


7世紀末、8世紀に奈良で作られた古墳だと、例えば高松塚古墳の官女のように立派な絵に描かれていますが、100~200年前だとちょっと稚拙な絵になりますね。

泉光院はこれから大分県の方に入ります。英彦山、求菩提山、といった山伏の修行道場や、宇佐八幡宮などを廻ってから小倉に出ます。
折角だから少し観光旅行をしましょう。

九月十七日に北野天神に参詣してから、その翌日、筑後領から筑前秋月領へ入ります。
新暦では10月11日。そろそろ秋の気配ですね。

十八日 曇天。北野立、辰半刻。茶屋町と云ふ所に筑後と筑前秋月領との堺杭あり。
阿萬木町と云ふに晝時出づ、一向宗計りにて托鉢もなき處と云ふ、故に一里行き秋月城下へ一宿す。

秋月城下

阿萬木町はいま甘木市(合併して朝倉市となった)と書きます。久留米の少し北。国道322を進めばそのまま秋月城下へ入ります。

左は高い山から見下ろした秋月城下の風景。
山の形も変わっていないだろうし、まだ田園もあるし、過疎化もさほど進んでいないだろうし、泉光院の見た風景とさほど違わないでしょう。
最近は都会に人口が集中して、山村はむしろ江戸時代よりも人口が減ってしまった所もある様だ。

右の写真は秋月城大手門(黒門)の秋たけなわの風景です。
秋月城・黒門

紅葉が綺麗。

ついでですから散歩をしましょうか。

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの後、秋月城には熱心なキリスト教信者の黒田直之が入城しました。
彼は司祭館を置き、司祭と修道士を常駐させて、後には私財を投じて天主堂も建てました。
そして筑前・筑後のキリスト教布教の拠点となります。だが直之が死んでから4年後、幕府は全国にキリスト教の禁教令を発布し、ここ秋月でもキリスト教は衰えてゆくのでした。

ほかの所でも出てきますが、阿萬木の町は…一向宗ばかりで托鉢が出来ない…と言っています。それで秋月城下へ急いだのでした。
実はワタクシの生家も浄土真宗大谷派(お東さん=東本願寺)、つまり一向宗なんですが、寒の時期になると大乗寺(曹洞宗=禅宗)の坊さんが寒修行で門付けをしに来ます。その時祖母はちゃんとおひねりを作ってワタクシに持たせ、玄関先でお経を唱えている坊さんの鉢の中に入れました。
加賀國は一向一揆などをやったりして一向宗の勢力の強い國ではあるのですが、他宗のお坊さんの托鉢には必ず応じていました。(ついでながら、浄土真宗のお坊さんは托鉢は絶対にやりません。必ず檀家の家の佛壇にお詣りをして、必ずお布施を貰って帰ります)
秋月コスモス

左は秋月の町を流れる野鳥川。
白壁を背景にコスモスが咲き乱れています。
いまでも落ち着いた風情のただよう町のようです。

…當所谷合、町一筋あり、島屋與兵衛と云ふに一宿す。…

ここで秋月城下で托鉢をして、今でいえば国道500を東に向かいます。
二十日 晴天。矢の竹村出立、辰の上刻。小石原と云ふ町へ出づ、是迄の間谷川十六遍渡る、筑前豐前の堺あり、杉山を廿丁下り彦山の麓みどり川と云村に暮時出で、仁右衛門と云に宿す。
英彦山と鷹ノ巣山

英彦山の麓に来たようです。当時、英彦山(ひこさん)を彦山と表記していたようです。
写真、一番右の高い山が英彦山(1200m)で、左の方3つのピークのあるのが鷹ノ巣山という岩峰です。泉光院もこの写真の様に見える方向の道から登っていったと思います。

廿一日 晴天。みどり川村出立、辰の上刻。彦山へ登る。金(かね)の花表まで四十丁、鳥居より八丁に町あり、南北流れ一丁餘、二筋あり、金の鳥居より此間双方坊中あり、當町宿取り置き上宮に登ること五十丁、道すがら堂塔多し、神變菩薩堂八合目にあり、本堂戌亥向、前に採燈護摩壇あり、先達の碑多く立てり、如斯形也、又八丁登る、上宮兩社大權現皆銅瓦葺西向也、鍋島公寄進とあり、…
英彦山・銅の鳥居
英彦山は修験の山として、大和の大峰、出羽の羽黒山と並ぶ修行の山でした。登山口の所に右の写真の様な銅製の鳥居が立っています。銅のムク、つまり銅板を巻いたものではなく、中まで全部銅で出来ている、非常に珍しいものなんです。佐賀藩主鍋島勝茂が寛永十四年(1637)に寄進したものです。
英彦山・鳥居の額
鳥居の額は享保十四年(1729)、霊元天皇から下賜されたものです。ここに「英彦山」と書かれていますが、それまでは「彦山」と称していたのだったが、この時から英彦山と表記を変える様になりました。今はこの鳥居の所まで車で行ける様になりました。




英彦山・山伏

毎年4月の第2土曜日と次の日曜日に御覧の様な山伏姿の行列があります。すっかり観光用の行事です。

銅(かね)の鳥居から少し登った所の左側に宿坊としては全景を残している財藏坊というのがあって、内部には山伏の生活を知ることの出来る貴重な資料が展示されているそうです。さらに上の方に登った左側に龜石坊という宿坊の庭園があって、これは旅館の前庭になっているそうです。日記には…坊中は昔三千坊ありしが今は退転して千に不足せり、…と書いていますが、これはちょっとオーバー。白髪三千丈の類。
宿坊で一泊した泉光院は翌日方々を廻ります。
英彦山岩窟大南神社

…鬼神と云ふに詣づ、町より一里山中、山の西を南に廻り參る、岩屋に作掛けの宮あり、南向、…

この宮がそうではないかと思うのですが、このようなのが山の中のあちこちにあるようです。そうだとすればこの宮のもう少し南に鬼杉という樹齢1200年、高さ38m、胸高周囲12.4m、国天然記念物・福岡県第一の巨木があります。この杉一本で住宅20~30戸が建つといいます。
英彦山の北(ずっと上の山の写真で左側の3つの岩峰)、鷹ノ巣山にも登ります。

…夫より法諦の峰と云ふに登り三十丁下り豐前坊と云ふ天狗の宮へ詣づ、東北方御殿、岩窟に作り掛けの宮也。上宮を中諦の峰と云ふ。南の峰を俗諦、北の峰を法諦と云ひ、當山を三諦の峰と云ふ。坊中は昔三千坊ありしが、今退轉して千に不足せり。山の北を通り大宮司と云ふに納經。

写真でもわかるようにこの奇抜な形の山はとても険しくて気をつけて登らないといけません。豊前坊は、今は高住神社といいまして、毎年11月3日、山伏の峰入行事が行われます。この日も見物人でいっぱいになるそうです。ここは展望も良い所で、周防灘まで見える。

日記には、この山での山伏の修行の仕方などをかなり長く、且つ詳しく書いています。
適当に省略して簡単に書けば次のようです。

一年に春夏秋の三回、春は25日、春秋は60日、三年間戒律を守って勤め、昼夜慈救の咒三昧、一日一食一合の米、湯茶も禁じて渇すれば水を飲む、そうして二月、四月はここから寶満山へ、七月はここから求菩提山へ駆け出して、修行を続けて「先達」の位に出世する。…という具合です。

英彦山登山を終えた泉光院は、 …右籠り堂より山中道なき所を下ること凡そ半道にして日田街道と云ふに出る、三里の峠を越へ小竹村中山と云ふに出で義左衛門と云ふに宿す。…
スポンサーサイト
20:32  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
 | BLOGTOP |  NEXT>>