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2014.10.07 (Tue)

泉光院の足跡 027 太宰府

泉光院は宗像大社まで来ました。もうあと30kmほど歩けば九州の出口小倉ですし、そこから船で下関に渡るには便利なところです。それなのに彼の足跡は変わっています。後戻りして佐賀県や大分県の山中を4ヶ月程かけてウロウロ歩くのです。

津屋崎というところへ戻って、大工和助という人の家に泊まっていたのだが、
(七月)三日 晴天。當浦立、辰の下刻。主人より首途とて麥飯の馳走、弟和作と云ふより辨當に茶多く入れ道中用にせよとて送らる。元の名島と云ふに出で辨天に詣づ、大社也。
此宮より廿間計にして海也。下に花表立つ、此所皇后着きの所と云ふ、帆柱石
少し北に當り皇后御殿の帆柱石とてあり、此石、帆柱化して石となれりと云ふ、海東より西に横はれり、長さ八間、本の方六尺廻り末五尺計、今八つに折れて二尺、三尺、六尺計となれり、所々に鐵のせめ込みあり木の肌杉に似たり切り口木の目あざやかに見ゆ、實に杉の柱の朽ち木と見ゆる也。…

名島という所に檣石(ほばしらいし・國天然記念物)というのがあります。右の写真がそれなんですが、第三紀層の珪化木で、9個の円柱状の石が並んでいます。伝説ではこれが神功皇后朝鮮出兵の時の帆柱が化石になったと伝えられているのです。泉光院が見物に行った時にはもう写真のように化石が並んで掘り出してあったようですね。
神功皇后という人は架空の存在だったようですが、あまりにたくさん,彼女のことがらが述べられているので、つい実在の人物だと思ってしまいます。古代日本史を叙述する上で、何でもかんでも彼女の業績にしてしまった方が便利、ということがあったのでしょうか。

もと来た道を戻って箱崎へ帰り、そこから太宰府へと進みますが、途中に宇美八幡宮があるので立ち寄ります(右の写真)。宇美八幡宮
…産八幡と云ふに詣納經。御殿西向、社中に楠の大木あり廻り五丈。此處應神天皇御誕生の地、因て産八幡と稱す。戌亥に當り産湯池とて清水湧出る井戸あり、此上に楠の大木あり、半枯れたり、乳房の楠とて根より乳の味の様なる水出る、是を取り乳なき女護符に戴く。又同處に圓樹大木一本あり、今俗稱へて平産木と云ふ、皇后御産の時此木に御取りすがり玉ひ御平産遊ばされたりと云ふ。社務檢校方にて當社の由來又神木等申請ふ。…

ここが神功皇后が應神天皇を産んだ場所だから「産八幡」です。
圓樹は槐(えんじゅ)、マメ科の落葉高木で街路樹にも使われる木です。初夏、黄白色の花が咲きます。この花の黄色の色素は高血圧の薬、果実は痔の薬。
境内には今も子安の木・子安の石・産湯の井などがあります。皇后御安産の地という伝説から、昔から安産信仰が盛んでした。
…又胞衣納めの地は此宮より午の方(南方)十丁計に山あり、此所と云ふ、箱崎より此地迄三里。…
No.026 金印 の筥崎宮の所でちょっと触れておいたのですが、應神天皇を産んだ時、その胞衣(えな)を収めた箱がここから流れて、三里程離れた筥崎宮まで流れ着いて筥崎宮が建てられた、という事もあったのでした。伝説というのは凄いものです。
…是より寶満山と云ふに登る、麓より五十丁登る、寺中二十五ヶ院、本山修驗妻帶也。寶満山
上宮權現の宮西向、大石の上に建てり、五間に六間の鎖を取り登る。…
寶満山大石

右が寶満山。
左が鎖を取り付けてあった大石らしい。
この石の上に、昔は権現の社が建っていたのでしょう。
今はこの山はハイキングコースになっていて、フリークライミング、つまり鎖とかザイルといったものに頼らずに楽しく登ります。この写真では黄色い服の2人が登っていますね。
泉光院の時代は鎖が取り付けられていて、それにすがって登ったのでした。頂上からの眺望は絶佳、だそうです。

九州の山伏はこの宝満山と、あとに出てくる英彦山(ひこさん)、求菩提山(くぼてさん)を交互に登って修行しました。

…當所納經相濟み、當山より宰府(=太宰府)迄下る筈の處半途にて夜に入り、山中ようよう村を見付け人家に立寄り一宿を求むる處、さすが田舎正直、子供松明を燈し一丁計り連れ行き、此家へ御泊まりと教ふ、主人折節留守、埒明かず先ず一服と云ふ處へ近所に人聲す、彼の方へ行き見れば、庭前に涼みがてら豐後の五郎次を三四人して食し居る所也、暗がりなれば面體も知れず、吾々共は豐満山より下り宰府へ參る者、先程より夜に入り甚だ難澁せり、何卒一宿をと云へば、見苦しくとも苦しからずば御泊りあれと申すに付落着き一宿す。直ちに其五郎次を馳走になる、内山藤五郎と云ふ宅。…

ちょっと長く引用しました。ここに出てくる「五郎次」という食べ物を調べてみたのですが判らないのです。豐後というのは大分県。郷土料理の本を見たのですが判りませんでした。知っていたら教えて下さい。
藤五郎宅で3泊していて、その間の見聞を書いております。
…此村より八丁東の谷に瀧石と云ふ處あり、大石の間に長さ二尺計の黄金の蛇居る也。…
…滯留して洗濯する、近所に宜き谷川の流れ瀧あり。此瀧壺に衣類皆入れ置けば自然と瀧に打たれ清淨潔白と成る、其處に河原ありて干す也。…
たいしたことを書いているわけではありませんが、ちょっと面白いじゃありませんか。特に洗濯の方法は笑えます。

九日 晴天。内山村立、辰の刻。宰府天滿宮へ詣納經。御殿南向、廻廟一丁廻り、仁王門の前に橋二つ掛かれり、大鳥居、安樂寺、圓滿寺、大凡普請京都北野に同じ、繪馬堂に獨吟連歌奉納す、                           太宰府天満宮
奉納の大なる鰐口あり、只今片面あり、差渡し七尺餘あり、鳥居の外に寺もあり、

左は太宰府天満宮。
菅原道真の霊を祀っています。
…匂いおこせよ梅の花…ほ歌で知られた梅の名所。

其を出て町もあり、町より四五丁に觀音寺と云ふがあり、是れ天神の御建立、近所に戒壇院あり、日本三戒壇の其の一也。
観世音寺講堂

觀音寺は觀世音寺です。右はその講堂。
このお寺は百済救援のために九州へ下った斉明天皇が死んだので、皇太子であった中大兄皇子(後の天智天皇)が母の冥福を祈るために建立を始めたお寺です。
觀世音寺の伽藍配置は、南大門・中門を経て東に五重塔、西に金堂を備え、その後方正面に講堂を配置したもので、天智天皇が奈良で創建した川原寺を簡略化したタイプだそうです。(塔を西に、金堂を東にすると法隆寺式になります)
觀世音寺の庫裏の横門を通ると天平宝字五年(761)に設置された戒壇院に出ます。
奈良時代に、奈良東大寺、下野薬師寺とならんで天下三戒壇の一つとしてここに置かれ、西国の僧、尼に戒を授けた道場でした。
観世音寺・戒壇院
左が戒壇院です。
もとは觀世音寺に属していたのだが、今は独立したらしい。

鑑真が日本に来て、それから日本で受戒が行われるようになった経緯はいずれ泉光院が奈良へ行った時にでも書きましょう。
観世音寺・十一面觀世音菩薩立像

右の佛像は觀世音寺所蔵の十一面觀音菩薩立像。
これは延久元年(1069)銘のある像高498cm、檜寄木造りです。
収蔵庫の中には平安時代のものを中心とする佛像群15体(いずれも國重文)が並んでいます。

太宰府天満宮・梅









左は満開の梅の天満宮。
菅原道真は今は学問の神様として尊敬されています。
京都でも東京でも天満宮は受験生の合格祈願絵馬でいっぱいですね。



…夫より都府樓、夫より國分寺へ詣納經す。住持は俳人也。一句貰ふ。
 動くにも延ひる風情や今年竹

都府楼は太宰府の正庁。
「遠の朝廷・とおのみかど」と称された太宰府が、現在の都府楼跡の地に建設されたのは、天智天皇二年(663)、白村江(はくすきのえ)で日本の水軍が唐の水軍と戦って負けたあとのことです。7世紀後半、掘っ建て柱の建物が建てられ、太宰府都府楼跡
8世紀初頭の頃に礎石を持つ建物に建て替えられ、それが海賊藤原純友によって焼き討ちされ、その後再建された建物の礎石が現在地表に頭を出している礎石(右の写真)です。
太宰府には帥(そつ)以下の役人が赴任していて、大伴旅人が帥であった天平二年(730)に、彼の自宅で梅花の宴が催され、山上憶良も出席していた、といいますから、万葉集の時代には太宰府はそんなに悪い場所ではなかったのだろう。

所が延喜元年(901)に、右大臣であった菅原道真が太宰權帥に左遷させられて、恨み骨髄に徹して2年後ここで憤死した。それ以後道真の怨霊は雷神となり、京都でさまざまな怪異が起こりました。
太宰府・正庁跡
朝廷では道真の霊を慰めるために正一位太政大臣の位を贈り、どうやらそれで道真の心も納まったのであろうか、京都に平安が戻ったのでした。
左の写真も都府楼跡地です。
書いてある文字は「都督府古址」

続いて國分寺へ行って詣納經です。泉光院は俳人である住持から一句貰いました。
筑前國分寺跡・塔礎石
右は筑前國分寺跡の塔の心礎です。礎石の大きさから推定すると50mを超える塔が聳え立っていたと考えられています。向こうに見えるお寺が後から建てた國分寺(現在は真言宗)で、泉光院はここへ詣納經したのでしょう。

…夫より天拝山に赴く、麓に湯治場あり、一宿を乞へども、五六日も入湯なくては一夜の宿はならぬと云ふ掟也、五丁あとへかへし二日市と云ふ宿に泊まる。
十日 晴天。朝早く天拝山に登る。湯の町より十八丁、絶頂に二間四面の宮あり、天神の木像を安置せり、東向、麓に觀音堂あり、庭前に瀧あり、天満宮御行の瀧と云ふ、、御休息石なるもあり、此所にも天神宮あり、薬師堂あり、天拝山奉納一句、
   霧晴れて空を拝めば何もなし
申の刻大夕立あり、大雷所々に落つ、古へ(いにしえ)天滿宮此峯に登り天を拝し玉へる折、京都には時平公雷の爲に落命とあり、此山に登り讀經し觀念すれば其印しありと聞けり、此所より二里春田と云驛へ出で宿す。

菅原道真は、天拝山258mに登って遙か東を拝したのだといいます。
その時京都では道真の政敵である藤原時平が雷に打たれて死んだ。こんな事があったので道真の怨霊説が信じられたのです。彼の心の内はどうだったのでしょうか。

泉光院がこの山から下山した夕刻、夕立になって雷があちこちに落ちた。
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