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2014.11.29 (Sat)

泉光院の足跡 036 長府 

七日 晴天。滯在。早々に仕舞ひて配札に出る筈にて衣體したる所、平四郎蒲團打かぶり臥したり、今日は配札に出ずやと相尋ねたれども返答もなき故に予は宮崎と言ふ辨天に參り、燒物竈を見物し、夫より金毘羅に詣づ。御殿東向、大いなる繪馬堂あり、別當大勇寺と言ひ曹洞宗。奉納一句、
     拍手も仕方ばかりの寒さかな
當山より西海を望めば對州雲中に見ゆ、…

この日、平四郎はなぜかふてくさっている様子。格別体調を崩しているわけでもないらしいのだが、托鉢にも出ないで不貞寝をしている。今度のこの旅行で平四郎は泉光院とどのような契約をしていたのか詳しい事を書いてないので判らないのだが、平四郎は自分が托鉢で得たものは自分の所得としている様だし、有料の宿泊費や船賃その他の諸経費は泉光院持ちの様なんです。だったら平四郎は不貞寝などする必要はない、と表面的には思います。
だが、(とワタクシは思うのです)毎日毎日同じ顔を合わせて暮らしていればこういう感情もたまには出るでしょう。日記の中には時々こういう妙に人間らしい感情の発散が出てくるのが可笑しい。後の方になると泉光院と平四郎が別行動を取っています。それが平和に暮らす条件でしょうね。
男と女が一つ屋根の下で一緒に暮らさなくちゃならないとき、場合によってはしばらく顔を見ないで済ませるとかしゃべらないで日を送るという事が必要になるのと同じようですね。

泉光院は赤名關を出発する前にここの名物「赤間硯」のことを書いています。だが買わなかったらしい。殿様など身分の高い方へ献上するにはいい土産物だと思うのですが、やはりお値段が張るのでしょう。
赤間硯
…又赤間關硯とて名硯出つ、是は當所より出るに非ず、是より東五里に朝市と云ふ處あり、此山中より出て、關にて仕上げする事也。…

右はその赤間硯です。
中国・朝鮮・日本では、硯・墨・筆・紙を「文房四寶」といって珍重し、名物を大切にします。中でも硯は実用を兼ねた美術工芸品として大切にします。
山口県西部厚狭(あさ)郡のあたりで採石される赤色頁岩で作られるのがいいのです。
採石から彫刻、仕上げの漆塗りまで全部を一人の職人が作り上げる。江戸時代、参勤交代で江戸へ上る大名は、将軍家への献上品としてこの赤間硯を持って行きました。
やはり泉光院の托鉢の上がりでは買えなかったのでしょうね。

赤間ヶ関を離れて長府の城下町へ行きます。
古代には長門國の國府が置かれ、國分寺もありました。國分寺跡近くからは古い鋳造貨幣「和同開珎・わどうかいちん」の鋳型が発見されました。唐の開元通宝に倣って円形の中心に四角の穴をあけた銅銭です。
長府・古江小路
左は長府五万石の城下、古江小路です。練塀の続く武家屋敷街です。

長府城下へ晝過着き二の宮へ詣づ。國分寺と兩所納經す。
夫より一の宮住吉明神へ詣納經。御殿南向、神前に大いなる池あり、中州に社あり、圓窓橋掛れり、…

長府の町のほぼ中心に二の宮、忌宮(いみのみや)神社があります。忌宮神社

右が忌宮神社。
社伝によると、仲哀天皇がクマソ退治にここへ来て、7年間住んだ場所だと言います。だからここの神社の祭神は仲哀天皇と妻の神功皇后、息子の應神天皇の3者です。
仲哀天皇はこのシリーズNo.026金印のところで書いた様に福岡の香椎の宮の場所で死んでいます。

ここから少し山の手に上がると覺苑寺ですが、このあたりが長門國分寺跡で、和同開珎を鋳た鑄錢司もここにありました。
覺苑寺錢鑄所和同開珎和同開珎・鋳型






左、覺苑寺の中で鑄錢司跡の標識のある場所。
中は和同開珎。右が和同開珎を鋳た時に使った鋳型。この鋳型が鑄錢司跡から発見されたのでした。元明天皇の和銅元年(708)に銀・銅2種類の貨幣が造られました。
和同開珎を鋳た場所は、ここの外にも武蔵・近江・河内・播磨・太宰府に設置されていたらしいのですが、場所がはっきりしているのはここだけらしい。
次第に原料の銅が不足してきて、10世紀にはもう鑄錢は途絶えてしまって、中国から錢を輸入して使うようになります。宋の宋元通宝、明からは永楽通宝など。

泉光院は次に一の宮の住吉神社へ行きました。
この神社は神功皇后が朝鮮半島から凱旋した時に建てたと伝えられています。こんな人が実在したかどうかはワタクシは何度も?をつけながら書いているのですが伝承ですから仕方がありません。
正面の鳥居をくぐると参道の真ん中に朱塗りの太鼓橋があって、池が広がっている。
住吉神社
ちょっと急な石段を上がると左の写真の様に拝殿と、檜皮葺の本殿があります。本殿はちょっと変わった建て方ですね。
祭神は、住吉三神(表筒神・中筒神・底筒神3つをまとめて)、應神天皇、武内宿禰、神功皇后、建御名方命の5柱で、それぞれの社殿を合の間でつないだ「九間社流造」で、それぞれの社には千鳥破風が乗っています。本殿は応安三年(1370)、大内弘世による再建で国宝、拝殿は天文八年(1539)に毛利元就による建立で重文、となっています。
住吉三神は、伊弉諾命(イザナギ)が黄泉の國から逃げ帰って日向の海岸で禊をした時に生まれた神で、この神社ではその三神の荒魂(あらみたま=荒ぶる魂)を祀ってあります。荒魂というのは神の荒々しい側面、天変地異を引き起こし、疫病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きで、それに対して和魂(にぎたま)は雨や日光の恵みなど神の優しく平和的な側面です。荒魂はその荒々しさの持つエネルギーで新しい事物を生みだし、供物を捧げれて儀式や祭りを行えば、荒魂は和魂に変わって人々に平安と富とをもたらす、というわけです。

住吉神社は長府から少し離れているので、一旦長府城下へ戻ってここで何人かの山伏に会ってから、…宮司坊と云ふ眞言寺に宿す、…と書いてあって、修験のお寺で5泊しています。毎日雪が降ったり霰が降ったり、師走のお天気です。
日記では、…霰天。宮司坊へ滯留、仁王經讀誦す。… …至て寒し、滯留、湯豆腐にて日を送れり。… …大雪天。今日滯留、仁王經讀誦す。… と言うような調子です。
寒い寒いと言いながら湯豆腐を食ってお経を読んで暮らしているのです。新暦で言えば12月上旬。

長府の城下を離れる前に少し名所を見ておきましょう。

先に書いておいた武家屋敷町である古江小路に面した長屋門。
この家は代々藩医を勤めていた菅家。長府に残る長屋門の中でも建築当時の形をそのまま残しています。
ほかにも内藤家長屋門は200石取りの馬廻り役の家だったから、職業柄、「厩門」もあったりして、藩の定めた「御家中家作之條」を忠実に守った造り方だそうです。
長府・長屋門
左が菅家の長屋門。


十六日 晴天。暖気。長府立、辰の刻。八旗八幡へ詣納經。清末と云ふに毛利末家領屋形あり、吉田村瓦師安太夫と云ふに宿す。
十七日 晴天。滯在。近村托鉢す。
十八日 大雨天。故に無據滯在終日雑話。


暖かくなったので長府を出発した。

清末と言う所に毛利家支藩である長府藩の屋形があった。旧毛利邸といっています。近年は庭園などを整備しているようです。
旧毛利邸
右の写真。


旧毛利邸の前を左折してしばらく行くと右手に大きな森に囲まれた石段が見える。この石段を上がると功山寺。

功山寺・山門
左は二重櫓造りの山門。
門を入ると国宝の佛殿です。

このお寺は歴史の節目節目に登場しています。鎌倉時代末期の嘉暦二年(1327)に創建され、建武年間(1334~38)に足利尊氏が寺領を寄付した由緒あるお寺で、戦国時代には毛利軍に追われた大内義長の自刃の場となり、また、江戸時代末期、長州藩が支持する尊王攘夷派の公卿が京都を追われたが、三条実美ら5人の公卿はこの寺に入り、ここで5卿を前に高杉晋作は尊王攘夷を説いて決起を宣言し、奇兵隊を率いて出陣したのでした。そしてそれらの事が江戸幕府の終焉、明治維新となるきっかけとなったのです。

佛殿は入母屋造・檜皮葺で屋根の線が美しく、典型的な鎌倉時代の唐様建築です。
唐様建築と和様建築の違いは簡単に言えば屋根の下の化粧棰(たるき)の組み方の違い、という様な所に現れるのですが、丁度いい写真が手元にないので別の機会にしましょう。
功山寺・佛殿

功山寺・佛殿内部







右上が功山寺佛殿の外側。

左が功山寺の佛殿内部。
禅宗様式の佛殿の内部に本尊、釈迦如来座像が安置してあります。







長府を出発してから、吉田村、朝市(厚狭市)、鴨ノ庄というような地名が出てくるので、ほぼ山陽道に沿って歩いているのではなかろうかと思います。
江戸時代中期から末期、今と違って新聞、ラジオにテレビ、インターネットに携帯・スマホ、というものはありませんから、顔の見える範囲の人と、声の届く範囲の距離で会話をするのがコミュニケーションの基本です。
だから遠い所の出来事は庶民にはあまり関係はありませんが、近くでの出来事はかなり古い事までいつまでも語り継がれておるようです。その一つの例が、

…夜話に、當所に今年四歳になる男子入牢致したり、様子は、右子至て我儘なる氣質故に母親叱りければ、持ち合わせたる小刀にて母に向ひ振り廻したるに、不仕合せや其小刀小柄より抜けて母の胸に當れり、其疵痛み出し、終に母死したり、其子何心なくしたることなれども母殺しの事故只今入牢中なり。文化九年十一月廿五日の事也。…

丁度1年ほど前の出来事です。この付近、そんなに話題の大い場所でもないのだから、きっといつまでも話題になる事でしょう。旅人が来れば夜話に、積もりつもったそんな話を思い起こし、反芻して記憶を新たにするのです。

廿五日 晴天。船木驛配札して西村へ歸り直ちに出立、コトヲノキベと云ふ宿へ赴く、此方は中國上方街道にあらず萩城下往還也。當宿へ泊る、谷合二里餘。
山陽道・船木宿
この地図は寛保年間(1741~44)作成の「御國廻御行程圖」の中の船木村付近です。

東西に黄色で太く描かれている道路は山陽道で、中程のところを川が流れています。そこから右の方が船木村。
泉光院はここから川沿いに上流の方に向かっていきました。この川は厚東川。少し上流の方に吉部という村があるのです。萩往還中道筋に入ったのです。この道路は赤間ヶ関と萩とを結ぶで結ぶルートで、格別の難所もないので商人たちがよく使った道路でした。太田宿付近
右は太田の宿付近の風景。

廿七日 晴天。畑村立、辰の半刻。道々托鉢小田の宿と云ふに夕方着、中屋と云ふに宿す、…

太田は(おおだ)と発音するので、泉光院は聞いたまま「小田」と日記に書いたのでしょうか。きっと泉光院が歩いた時も右の写真と同じような風景ではなかったかな。懐かしい風景です。
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