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2014.12.22 (Mon)

泉光院の足跡 038 萩の町

先号037の最後にのせた写真で、夕日を受けて輝く指月山が見えました。
指月山この山が菊が浜から見た指月山143m。そしてこの山の南麓、写真では左端のところに萩城がありました。この山の名にちなんで御城も指月城と呼ばれていました。

慶長五年(1600)、関ヶ原の戦で敗れた毛利輝元は、中国8ヶ国の領地を持っていたのだが、周防・長門(山口県)の2ヶ国に封地を削減されてしまったので、築城の場所を、防府の桑山、山口の鳳ノ峰、萩の指月山の3ヶ所について幕府にお伺いをたてた所、桑山と鴻ノ峰の2ヶ所について「当時の御分際にては成らざる山に候、ただ指月然るべき所に候」、
萩城天守閣

毛利サンの御城は指月で作るしかないのだよ、とあっさり萩(という不便な場所)にするように幕府から指示されてしまったようでした。仕方なしに慶長九年(1604)に縄張りの式、つまり起工式を行い、4年の歳月をかけて慶長十三年に完成しました。当時この場所は沼地や葦原に覆われて大変な所でした。しかも八ヶ国あった領地を取り上げられて二ヶ国だけになり、部下であるお侍サンたちを全部食べさせなくちゃならないのだから大変な財政難だったのです。
当時は沼の城と笑われたお城でしたが、享保年間(1716~36)にはほぼ城下町を完成して、現在、小京都といわれるような雅な萩市の基礎を作りました。だが明治維新のあと、全国の城に先駆けて明治7年、右上の写真のような立派なお城が完全に破却されてしまったのでした。
江戸屋横町
江戸屋横町・菊屋横町・伊勢屋横町と呼ばれる一体は中級武士と商人の町でした。
左は江戸屋横町の一画。

鍵曲がりという所は道が土塀に囲まれて折れ曲がっていて、先の見通しがききません。城下町には防備のためにこういう道が作られています。金澤でもこういう道は沢山あって、初めて金沢へ来た人は分かりにくいし、車で走ろうと思うと大変です。
萩市街・鍵曲り

右が萩市内の鍵曲り道の例です。
このままずっと曲がりながら進んでいけば萩城跡へと辿り着きます。

三日 曇天。城下配札、……

こういう道を泉光院は托鉢をして歩いていたのだろうか。
萩の市内には今でもこのように静かで気持ちの良い散歩道があります。
しばらく空想旅行を楽しみましょう。
用水桶

町の中を散策していると江戸時代にタイムスリップしてしまうような光景に出逢います。辻にはこういう消火用設備も置いてありました。だが実はあまり役に立つとは思えません。泉光院が萩を出立した翌日、かなりの大火があったのですから。
ちょっとそこの所だけ引用しておきましょう。
日記七日の項です。

…後刻商人來り云ふ様、前夜は松元町大火にて大騒動したらんと云ふ、其松元と云ふは萩城下より東十四五丁にて千軒計の町なり、萩燒と云ふ陶器を作る處也。此町へ配札に行かざりし事平四郎殘念がり今朝まで折々申出せしに、今聞けば大火なり、彼の所へ行き候へば一宿也、左すれば何様のことありしやもしれずよくこそ彼の地へ行かざりし、これ神佛の加護ありしならんと思ふ。…

松元は今は松本と表記しています。江戸時代末期にはここの所に吉田松陰が松下村塾を開いて門人の指導に当たり、松下村塾
門人の中からは伊藤博文・山県有朋・前原一誠・品川弥二郎といった幕末の激動期に活躍し、明治政府を樹立した人や、高杉晋作・久坂玄瑞といった明治維新を目前にして他界した人など多くの優秀な人材を輩出した事で知られています。
吉田松陰は安政二年(1855)、伊豆下田港からアメリカ渡航を企てて失敗し、捕らえられて、野山獄へ入牢、その後、江戸へ送られ小塚原の刑場で斬首の刑に処せられた。30歳。

松元町は萩焼きなどを作っている家があるからきっと裕福な町だったのでしょう。平四郎はここへ托鉢に行けばきっと沢山貰えるだろうに、行かなかった事を残念がっていたのだが、もしここへ配札をしにいっていればここで一泊する事になるだろうし、そうしたら火事に遭う事になるのだから、そこへ行かなかったのは「神佛の加護」が
あったらこそ!

消火用の桶が置いてあったのは菊屋横町の一隅です。
菊屋横町

左の写真、白壁の美しい家が菊屋家です。
藩の御用商人を務めていた家で、母屋・金蔵・米藏・本藏・釜場の5棟が國重要文化財に指定されています。母屋は17世紀中頃の建築、部屋には美術品や民具・古書籍などが常時展示、公開されています。
菊屋横町をもう少し南に下ると石井茶碗美術館があって、初期古萩を中心に、高麗や樂、黃瀬戸、薩摩など、茶碗だけの美術館です。

松本川沿いにのびる道、ふと心をとめて眺めましょう。何となく心が和むといいのですが。
萩市内・小径

最近の世相、少しギスギスしていると思いませんか?そんなとき、もう30年か40年程前にはこんな道を歩いていた事を思いだしてみましょう。
江戸時代でなくても、昭和になってからでも、戦後かなりの時間が経ってからでも、そして今でも捜せばこんな道がどこかに残っている事でしょう。

萩城下では、…當所は旅人一人一宿宛の由、右に付出立、鶴井と云ふ處に旅宿あり彼の方へ行く、在の様なる處にて庄屋付也、庄助と云ふに宿す。…
と、旅人は一ヶ所に一泊しか出来ない掟だった。仕方がないから城下を離れて、松本川の東側、鶴江(鶴井は誤記)の宿屋へ行きました。
ところが旅人の中にはこんなのも居るのです。

…當時は六部を一向宗六部と云ふ。故は女房を尼と云ひて連れ廻り、魚肉を笈の中に仕込み置き、五辛酒肉勝手次第に用ひ、又所々にて人の女房、娘を盗み連れ出す等惡事を聞く事數を知らず、破戒無懺の仕方、左様の事ども段々ありたる故に當城下にては六部の托鉢一切御停止也。…

六部というのは正式には六十六部といって巡礼僧の一種です。法華経などを66部書写して、夫れを全国66ヶ所の靈場に一部ずつ納めるために諸國を行脚している僧なんです。江戸時代になると俗人の男女にもそういうことをして歩くものも出てきました。スタイルは男女とも鼠木綿の着物に手甲脚絆も同色のものを用いて、死後の冥福を祈るために鉦を叩き鈴を鳴らし、あるいは厨子を背負って家ごとに托鉢をして歩きました。一向宗は浄土真宗で、宗祖である親鸞聖人は率先して妻帯し、信者のお布施ならば生臭物も食べました。
だから回国修行者と言っても、六部の姿をしていても、いろんな人がいました。それこそ、食いつめて生まれ故郷を逃げ出して、坊主になりすましてやっと生きているのも居るわけです。

鶴江に滞在して、御城下まで配札に行っていると、寶藏院という天台宗系の山伏から呼び出しがあって、……あんたはどこの山伏か?儂は萩藩の寺社奉行から山伏の管理を命ぜられている者である、云々… と言うような事で詰問されるのです。それで泉光院は、 ……吾々は日向佐土原、嶋津淡路守領内、三寶院直末安宮寺住長泉院と申す。今般日本九峰修行に罷り出乍當所一見の爲罷り越したるなり、序に荒々配札致し度、右に付昨日は寶性院方へ御問合せ申置き只今配札致し來り候、貴院御締方の儀一切存じ居らず失禮仕りたりと申述ぶ、…

といった具合に正式に回答をして、それならいいだろう、と一応の和解をしてから、山伏の修行についていろいろ話をしてみると、寶藏院という山伏もたいした人間でない。それでまた配札を続けてから、

…周易句解一部、武鑑一冊調へる。夕方鶴井へ歸る。又六部二人同宿、今晩のやつも魚肉を調へ賞翫す。…

泉光院としては憤懣やるかたない気持ちです。
萩の御城下はさすがに学問の盛んな所だから書店もあったらしい。周易句解は易經の解説書でしょうし、武鑑というのは、大名・旗本の氏名・系譜・居城・官位・知行高・邸宅・家紋・旗指物などを一目で分かるように書いた書物です。大名百科全書、といったようなもの。毎年改訂版が出版されていたようです。この時代の本屋といえば黄表紙や読み本しか売っていないのかと思っていたらこのような専門書も買えるのだ。
萩の町を沢山歩きました。ご飯にしましょう。ウニご飯

北浦と呼ばれる山口県の日本海沿岸では美味しいウニがとれます。いつでもとれるのだが特に3月から10月の間はふっくらと粒が大きく甘みがあります。ウニご飯です。
ウニとお米を一緒にお釜に入れて炊きあげ、さらにその上に生ウニをのせてあって、とても美味しい。
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