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2015.01.30 (Fri)

泉光院の足跡 044 看板

そろそろ秋穂での年宿もお終いにする時が来ました。

十日 晴天。 …折から嘉一郎宅へ暇乞に立寄る、首途とて馳走あり、夕方歸る。占に來る者多し、錢一文にもならざる故今日は草臥れたりとて占ひやめにする。
十一日 雪天。晝より晴る。蔾杖より餞別とて半紙一包、扇子二本、發句一章送らる、句は別書にあり、予も一句、
   梅ヶ香に引止められつ頭陀の袖
又一聲子よりも半紙一包、發句右同じく別書にあり。予も一句、
   麥喰ひしばかりしるしよ歸る雁

嘉一郎さんは泉光院がこの秋穂に年宿をとるきっかけを作ってくれた人です。お別れにご馳走してくれた。
俳諧の事をおしえたり、古今伝授をしてあげた人達もお餞別を持ってきた。

十二日 曇天。昨夜の雪今朝まで殘る。今日は出立の筈の處主人今一日帶留せよと申すに付今日は出立止む。紺屋喜久治と云ふより餅一重初穂等上る。
十三日 晴天。西方少々配札す。晝時歸り直ちに秋穂天田村年宿八郎左衛門宅出立、家内門ド送りするd。夕方あうみ村着。傳兵衛と云ふ宅かかの待ち兼ねて居られたと謂はれて種々饗應あり一宿す。

相…変わらず出立しようと思うと引き止められたり、大海村では傳兵衛さんの奥さんが、待ち兼ねていたと言ってご馳走を並べてくれる。泉光院の人徳でしょうね。
裏山に天狗の多く居るという泰雲寺へ詣ってから大海村を離れて、禪昌寺へ詣ると一汁一菜の食事が出た。晝時だったのだろうか。このお寺の門前、庄吉という宅で宿泊。

十五日 晴天。庄吉宅出立、朝辰の刻。晝過一の宮へ詣で納經す。雨天故門前久左衛門と云ふに宿す。
玉祖神社

右が周防國一の宮の玉祖(たまのおや)神社。
この神社の祭神を見たら、玉祖命がこの地で死んだので社殿を造営して祀った、というのです。
この神様は日本神話ではアマテラスが岩戸隠れをした時に登場し、天孫降臨の時に一緒に天下った神様だというのです。勾玉を作った神様だというので、レンズ、眼鏡やカメラの業界から崇敬されているそうです。

秋穂を出てから半月程の間防府のあたりを托鉢しています。
…西浦と云ふに赴き托鉢す。晝過ぎ或る家にて茶御振舞申すと云ふ者あり立寄る。種々話の上、今晩は當處に善根宿はある間敷きやと尋ねたるに私宅へ一宿進ずべしと申すに付宿す。五兵衛と云ふ人也。日向の方の燒物行商に行く由にて付け書貰いひたしと申すに付、船問屋油屋平吉方並に油屋伊太郎方へ書状遣はす。平四郎は脇方へ托鉢に行きたる故に合圖の法螺を吹き寄せる。

五兵衛さんは商人らしい。日向国へ陶磁器の行商に行きたいので紹介状を書いて欲しいと言います。三田尻あたりでは昔土管を焼いていた所があったのですが、さらに昔は甕を焼いていた。それを日向あたりまで船で行商に行くつもりなんです。ここは中の関で、港があって、甕やその他の工業製品が出来るのですから、有能な商人は、卸売り、さらには流通業へと次第に手を広げるのが頭のいいやり方。そういえば油屋も甕を使いますね。ここを手始めに商売の幅を広げる事が出来る。
平四郎がどこか遠くへ托鉢に行って行方不明になった。そこで…合図の法螺を吹き寄せる… 携帯電話がなくてもほら貝を吹いて連絡をつけたようだ。

二十日 晴天。滯在。配札。當所天滿宮は中國一の天神也納經す。…

No.041防府 の項でこの天満宮の綺麗な写真を載せて置いたのでしたが、この日は「初天神」だったようですからきっと賑やかだったでしょう。
江戸時代、ここの祭禮はたいそう面白いお祭りでした。その様子を簡単に書きます。
右の写真は今かろうじて同じ様な祭禮の残っている柳井天満宮の様子。
柳井天満宮祭禮

…當所天滿宮祭禮十月廿八日也。祭禮に珍しき式あり、大行司、小行司と云ふ家筋藤井家、清水家とて兩家あり、…

原文は長いので要点だけを省略して書きます。
藤井家、清水家という両家が昔からこの天満宮の祭禮を一年交替で仕切っていて、それぞれ大行司・小行司と言っている。
祭禮の日には大名行列が出るのですが、クジ引きで役を決めるのです。近在十里四方から百姓町人が集まってきて、クジを引いて、大名の役を引いた人は大名になり、家老役やお姫様役、槍持ち役などいろんな役をクジ引きで決めます。
幕府や大名など、武家の権力が非常に強大なこの時代、この日ばかりは百姓町民がみんなで大名行列をやるのです。行列に必要な衣装や道具は誰も持ち合わせてはいませんから、岩国領・徳山領内の武士の家から借用するのです。その時、「実は痛んでいるのでお貸し出来ません。」などと偽って断ったりすると、いつの間にかその衣装や道具が本当に傷んでしまう、という言い伝えがあるので、そのおかげで大切にしている物でも貸してくれる。こんな言い伝えなんて、この祭礼を円滑にする為に頭のいい人が考え出したことでしょうが、大っぴらに本物の道具が使えるのです。
その行列は、甲冑組・鉄砲組・弓組・火消組など、普通の大名行列なみで、その他にも練り物などずいぶん賑やかな行列になります。鎧・兜・鉄砲や槍刀、みんな本物だから参加する方だって楽しくて仕方がない。普通の大名行列は大きい方でも500人どまり、薩摩で700人、百万石前田家で1000人くらいになる。それを百姓町民が1000人も集まって、たった一日だけだけれどもすごく豪華なお祭りになった。

…祭禮の時分は、宮市町筋、御用の者にても往來人止め也。見物は町座敷を借り一見す。賃畳一畳錢一貫宛也と云ふ。…
防府天満宮・正面
防府天満宮正面です。きっとここから賑々しく大名行列が出発したのでしょうか。
宮市町というのは天満宮の大鳥居の前に発達した町で、山陽道の宿場町であり、本陣・脇本陣の他大店が軒を連ねていました。こんなお店の2階の部屋を借りて大名行列を見物するのです。

防府の商店
右の写真はそんな大店の一つ、毛利家御用達を勤めたお菓子屋さんです。
このお店の看板はそんな大名行列を見下ろした事もあるでしょう。二階の窓からは見物人がいっぱい顔を出していた事でしょう。畳一枚分を見物のために借りる時は、一貫文(=1000文)の借賃。
二八蕎麦というのは16文だと言いますから、今のお金で蕎麦一杯が\400だとして勘定すると、1000文だと蕎麦60杯分、約\24,000です。
六畳間一部屋だと金一両になります!

普通の大名行列なら、~下に居ろう、下に居ろう~と言う声の聞こえる間だけちょっと避けているか、頭を下げていればいいのだが、この祭禮は一日中通行止で、たとえ「御用」の筋の者でも町を通れなかった。
だが明治維新で、大名もお侍もみんないなくなってしまったのでこんなお祭りは出来なくなった。現在の防府天満宮の祭禮は、御神幸大祭といって、数千の白装束を着た男たちが神輿とともに拝殿になだれ込むお祭りになってしまった。どこにもある「はだか祭」と変わらない騒々しい祭禮になってしまった。
前の方に載せてある柳井天満宮の祭礼の写真では、時代衣装を着けた大行司、小行司が祭礼を執り行う事で、ほんのちょっただけ昔の面影をのこしています。

廿一日 昨夜大雪餘寒強し、宮市の宿立巳の下刻。宮市より五丁計行けば松並木あり。
攝待あり赤飯出る、富海(とのみ)の宿福田屋善太郎と云ふ善根宿あり、晝過ぎ着、當所は徳山毛利大和守三萬五千石の領内也。
  ここでしばらく滯在して…
泉光院筆跡
廿四日 曇天。世上を徘徊すれば珍しき事もある者哉、予に宿の看板書き呉れ候様頼まる。日本第一の惡筆なるに文字を頼む者もある也、世上數萬の者の見るものなれば是は斷り申すと段々申せど聞かず、因て是非なく墨たつぷりと躍らせ大文字に書く、不思議なる哉あつ晴れに出來たり、是文殊菩薩の御助けにもあらんと笑ふ。…

福田屋で泊まった時、宿の主人から看板を書いて欲しいと頼まれたのです。
残念な事に泉光院の書いたであろうその「福田屋」の看板は見つかりませんでしたので、泉光院の筆跡で残っているものをのせておきます。
力強く、躍動しています。
まるで不動明王が乗り移ったような文字です。
日本第一の惡筆なんてもんじゃない、立派な字です。

福田屋善太郎さんもきっと満足した事でしょう。

日吉館・看板
ワタクシがまだ若かった頃、奈良の日吉館という宿屋によく通っていました。ここの屋根に歌人、會津八一氏の書いた看板が上がっていたのですが、それを見ながら、好い看板だな、と思っていました。
大きな檜の一枚板に、
 【 旅舎 日吉館 庚午春日 秋艸道人 顯 】
という文字が書いてありました。
日吉館 はうんと大きな文字です。
會津八一氏もきっと我ながらあっぱれに出来たり、と思ったでしょう。
写真は昭和20年冬、奈良市登大路の日吉館前に立つ秋艸道人、會津八一氏です。
看板の字を書いたのは昭和四年の暮。ずいぶん気むずかしい人だったから、高さ67cm、
幅151cm、厚さ5cmの板に文字を彫るについては随分こまごまとした注意を書いた手紙を添えています。何しろ原稿通り、正しく彫師に彫らせるよう、特に強く指示しています。

この看板も、日吉館のおばちゃん、田村キヨノさんが、1998年11月10日に亡くなったので、どうなったでしょうか。旅館はおばちゃんの健康上の理由で1982年には閉じたのですが、それまでの間何度も泊まって、そのたびにおばちゃんには親切にして貰ったことを思い出します。
日吉館・キヨノさん
ありし日のキヨノさん。
看板の前に座っている写真です。
1993年、お店を止めてしまって、最後の記念に写した写真でしょうか。
入口を入ってすぐ左の店の間です。いつもこの場所にこのように座って客を迎えていました。

日吉館のことについては何れ泉光院が奈良へ行った時に書く事にしましょう。
この宿屋ではいろんな人と夜を徹して喋ったり、奈良の佛寺佛像の事で多くの事を教わったりして、それが今でもワタクシの体の中にしみこんでいるのです。
右は日吉館前で写した相澤さん(左)。
日吉館前・Azwサン
(背景の建物は奈良国立博物館)
「一太郎」というパソコンのソフトが出来て、ワタクシがその便利さに惹かれて、パソコンを使ってみませんか?とこの人に言ってみた事があったのでしたが、「日本語は縦書きですよ」と一言のもとに断られてしまったのです。
ブログでは横書きでしか記事を書けないのですが、最近縦書きで日本語の文章を書く機会があったので縦書きで書いてみると、やはり、
  日本語は縦書きだ!
と改めて感じました。
この人は東京の出版社で編集のお仕事をしていたのでしたが、惜しい事に早く亡くなりました。

看板のことで、私は日吉館の大きな看板と、秋艸道人の書と、お世話になったキヨノさんの風貌と、相澤嬢のことを思い出すのです。
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