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2015.02.23 (Mon)

泉光院の足跡 049 津和野

十三日 晴天。廿日市出立、朝辰の上刻。石州へ赴く、廿日市より山中へ入る、舎人二里計り同行す、來須村と云ふに赴き庄屋付新三郎と云ふに宿す。…
…此來須村より二里下に佐伯郡津田村と云ふ所あり皆々紙漉百姓也。或家に御免と云ひ立寄り茶一服と望む、外に商人も立寄る、主人と見へて寝ながら云ふ様、狼藉者茶は澤山くらい不届きなるやつと云ふ、三人とも耳に入らぬ體にて出る。是れ却て彼にもの云ふは此の方が道知らずと云ふもの也とて、一禮述べて立つ所へ娘立出て、茶代御遣しと云ふて銘々より三文宛取る、在方にて茶呑む事今迄三年の間に一軒も茶代取りたる事なし。先達て藝州の人は人柄宜しからずと回國六部の者より聞きしが相違なき事也。百姓も斯の如し、まして町人においてをや、備前法華に安藝門徒と云ふは尤もなる哉。…

茶店でお茶を飲むのならお茶代を払うのは当然の事なのだが、普通の民家でお茶を飲ませて貰って茶代を取られたのは、佐土原を出てから三年(正確には1年半、足かけ3年です)の間初めての経験だった。とても勘定高い社会があった。
今迄は、回國行者だから、といって茶代はおろか、食事代、宿泊料まで施行してくれる人があったりしたのだから吃驚したのです。淺野・廣島藩の気風、というよりも、経済政策が社会の隅々まで浸透していたのでしょう。
サービスにも対価はあるのです。今なら当たり前の事です。
津和野牓示杭
十四日 晴天。朝辰の刻來須村出立。當村より二里の大峠を越へ、又一里の峠を越し大原村と云ふに下る、又山へ上れば此所に石州津和野領境杭あり、下に番所あり、手形出すに及ばず、津和野領田原村源治と云ふ宅へ宿す。…

來須村は、廿日市から西の方、「津和野街道」を行った所にある栗須のことです。
大原村は山口県玖珂郡錦町大原、広島と山口の県境、市野峠の西にある村。田原村は島根県鹿足郡六日市町大字田野原。
泉光院の歩いた時代の村の名前がかろうじて今でも残っております。
右に津和野領の牓示杭を出しておきました。「従是西津和野」と彫ってあるのが読めます。ここに関所があったのだが手形を見せなくても通行できた。

…昨夜來須村にて米調へたる所、相場は八十二文の所八十九文取る、藝州人の心惡しきこと國境迄如斯也。

來須村でお米を買ったら相場では一升82文の筈なのだが89文も取った。一割近く高値で買わされたのです。腹を立てているようです。
ワタクシは藝州人のために弁護しておきます。泉光院の記憶にある米相場は廿日市なのか、廣島なのか、或いはずっと遠い所で聞いた値段なのか分かりません。米相場は地域と時間とで変動するものなのです。だから米の仲買人は日本中に飛脚をとばして安い所の米を買い占めて、船で運搬して、倉庫に保管して、米の端境期に高い値段で売って利益を上げる。來須村の百姓でもそれくらいの事は判っているのです。一回こっきりの旅人がほんの僅かの米を買うだけの事ですから言い値で買うしかありませんよね。この一事だけで藝州人すべてが「心惡しき」人であるなどといってはいけませんよ、泉光院サン。

泉光院が今通っている道はとてもややこしい道です。廿日市から出ている津和野街道は、国道2号線宮内の信号から県道30号線へ入って來須村(現在の栗須)から峠を二つ程越えて山口県に入り、今の岩国市錦町大原からはすぐ島根県の六日市となって、泉光院のいう田原村、今の田野原を通る国道187号線が津和野街道となっています。

十五日 晴天。田の原村出立、朝辰の刻。道々托鉢六日市と云ふ町あり投宿。津和野龜井侯御參勤の時御通行の道也、御本陣あり。此道藝州の方一切道普請なし、又當町配札の宅あらず因て過ぎ行く、廣石村萬助と云ふ宅へ宿す。此邊は谷合なれども廣きは五丁、狭きは三丁計平地同様の所あり、百姓多し。

津和野から広島市へ出る道は津和野街道という名前はあるのだが、今でもあまり整備されていないようです。ワタクシが今見ている道路地図には国道187号線に「交通量少ない快走路」と注記がしてある程です。津和野という所は昔も今も交通の不便な過疎地の様に思われます。
廣石村から七日市、柿木村福川、そこから杉ヶ峠というのを越せば津和野の町は眼下に見えます。
津和野川に沿って町は広がっています。
津和野町全景津和野は石蕗(つわぶき)の花咲く野で、秋から初冬にかけてすらりと茎を伸ばして黄色の花を咲かせます。
つわぶきの花


安野光雅という画家はここの出身です。画集・津和野は水彩でとてもいい絵を描いています。
右はそのうちの一つ。津和野風景・安野光雅
こんな絵もいいのですが、ワタクシは、子供のために描いた絵がとても好きなんです。
もう50年程も昔の事になるのですが、福音館で出版した「こどものとも」という絵本にいくつか安野光雅の絵本があります。亡息はそれらの絵本が好きで、ワタクシは何度も何度も読み聞かせをやりました。
安野光雅・さかさま・部分
左は安野光雅「さかさま」の部分です。
エッシャー風のとても機知に富んだ面白い繪。階段を境にして上下さかさまになっています。
たくさんある安野光雅の子供のための絵本はを御覧になった方もいらっしゃるでしょう。

津和野に最初に城を築いたのは能登國から移ってきた吉見氏で、鎌倉時代から安土桃山時代まで300年以上もここを支配した。
吉見氏は後に関ヶ原の戦いで西軍に加わって敗れ、替わって津和野藩主となったのは坂崎出羽守直盛です。彼は大坂夏の陣で、徳川家康の孫娘千姫を救い出しました。そうして千姫に恋をしたらしいのです。だから千姫が家康の家来である本多忠刻と再婚する話が出た時、彼女を強奪しようとして失敗、自刃した。そして坂崎家はお家断絶となりました。
津和野城・石垣

これは津和野城址です。
御城は三本松城、蕗城、とも言います。
標高367mの山上に作られた典型的な山城です。登るのがとても大変な山城でした。
御城は地震や暴風雨や火災などいろいろな災害に見舞われながらも、明治7年に取壊されるまで威容を保ちました。石垣は完全な形で残されていて、鉄筋コンクリート製の変なお城などは建ててありません。そこの所がとても良いと思いました。
石垣の上からは町が展望できます。津和野城跡・頂上石碑
右は城山の上に残る津和野城の石碑。遠くに見える山は青野山907.6m。先程越えてきた杉ヶ峠は青野山の右側(丁度画面では切られて見えない部分)の所でした。

泉光院に戻りましょう。

二十日 雨天。福川村出立、晝過津和野龜井侯御城下へ着す、此間二里の峠あり、直ちに文殊院と云ふ山伏袈裟頭へ見舞ふ、此仁隠居し居たるに付直ちに去る、當城下は谷合にて至て狭し、南北半道東西十六七丁計、川一筋流る、御城は西に高山あり、上に御城、下に屋形、家中は廣し、町三筋計、四方高山にて気鬱の地、長州萩へ山中十三里、藝州廣島へは二十餘里又當國濱田城下へ十八里、山中峠ばかりにて大名往來の道とは云はれず、至て惡しき城下の地也。雨天故山形屋正藏と云ふ宅へ宿す。石見と名を付けしも尤也。當國に入れば山野は勿論、田畠、道筋皆々石計り也。昨夜舍りし福川にて珍しきことあり、荘子は夢に胡蝶となりし由、吾々共は現に蝶と見られたるにや朝飯の汁に菜の花を煮て喰はせたり、何と思ひしやら知らず一句、
   菜の花や小蝶ばかりの食ならず
島根の食事
菜の花は今では春の食材の一つとしてスーパーにでも出回りますが、泉光院は菜の花を食べたのは初めてだったようで、びっくりしています。菜の花は大体は大阪を中心としたあたりの食べ物で、おひたし、いろいろにして食べます。島根あたりが西の境だったらしいです。
写真は田植えの頃の島根のちょっとした祝膳です。田植えの時に手伝って頂いた親戚やご近所の人を招いて、お礼の気持ちで酒・肴でもてなします。お汁の中身はフナのあら汁です。上に乗っている青物は菜の花かどうか迄は判りません。煮染めは筍・牛蒡に椎茸・竹輪と昆布。刺身もフナです。焼き魚はコノシロ。

荘子という本には、蝶々になった夢を見て、「はて、人間の俺が本物なのか、蝶々が本物で人間の姿をしているのが夢なのか」と書いているあの話です。蝶々になって菜の花を食べている姿がちょっと頭に閃いてしまった。
泉光院も荘子のエピソードを思い出して一句ひねり出しているのはちょっとばかり風流ですね。

泉光院はここで一泊して直ぐ出立してしまいますが、私たちは少し観光をしていきましょう。津和野という所はとても来にくい場所ですからせめて写真だけでも。
殿町通り
ここは殿町通りという藩の重役方のお屋敷が並んでいた一画です。
藩主龜井氏は代々城下町を整備、拡大し、蝋や紙といった産業を育成したので、小藩ながら財政は豊かでした。城下には石州瓦になまこ壁の屋敷が建ち並び、用水には鯉が群れ泳いでいます。

養老館

右は藩校の養老館。藩士の子弟が通う、いわばエリート校です。
多くの英才がここから生まれました。最近では森鴎外もここで学んだのです。
用水には鯉が一匹しか泳いで居ないのが殘念。ほんとうはこの用水には鯉がいっぱいいるのです。



多胡家・門

立派な門は、龜井氏十一代にわたって家老職を勤めた多胡家の門です。まことに堂々とした名門です。



このみちをもう少し北の方に進むと津和野カトリック教会があります。
津和野カトリック教会

石造りゴシック建築です(左の写真)。こんな山あいの小さな町にも切支丹弾圧の歴史があった事を、この教会のステンドグラスが教えてくれます。礼拝堂の床は今も畳敷きです。
静かに見せて頂きましょう。

マリア聖堂

JR山口線津和野駅の西(というより駅裏から少し山の方へ行った所かな)の方、乙女峠という所に、乙女峠マリア聖堂があります(右の写真)。
明治元年、長崎の浦上から153人のかくれキリシタンあこの地に送られてきました。明治になったにもかかわらず、当時の明治政府は、邪宗門は厳罰で、の方針で臨んだのです。
預かった津和野藩では、思想には思想を以て改宗させるべきだ、と主張したのだがいれられず、結局36名が殉教した。
5月3日、乙女峠まつりというのがあって、ここのミサには全国から信者が集まるそうです。
津和野鷺舞

山陰の小京都と称される津和野には、まことに京都らしい伝統が続いています。
津和野川に架かる津和野大橋のたもとにある弥栄(やさか)神社はもと祇園社と呼ばれ、津和野城の北東、鬼門を押さえる神社でした。京都の八坂神社=祇園社で7月16日に奉納される鷺舞が、ここの祇園祭でも奉納されます。
「橋の上に降りた鳥は何鳥……」の唄にあわせて、鉦や太鼓のお囃子の響く中、雌雄二羽の白鷺が羽を広げ、膝を屈伸させながらゆるやかに舞います。最後には雄鷺が羽をすぼめて雌鷺に寄り添い、肩に羽を乗せて終わります。
戦国時代、大内氏が山口の八坂神社で取り入れた神事を、天文十一年(1542)、津和野城主吉見正頼が、大内氏の娘を妻に迎える時にこの神事を伝習したのです。
京都の八坂神社ではしばらく途絶えていたのを、ここの鷺舞を伝習して復活したのでした。
ワタクシは前にも書いた世界遺産研究の会で、この津和野の御城と鷺舞を見に行ったのです。子供の鷺舞もあったり、大人のも大勢で群舞のように舞うのもあったりして、初めて見たのでとても興味深く見たのでした。御城へ登る道はとても急峻な道で、こんな御城を攻めようと思う敵はまずいないだろうと思う程の御城でした。

泉光院に戻りましょう。
…津和野御領内は百姓共皆々半紙又は塵紙を漉き上納す。漉かざる者は田畑家付石高御取揚げに成る由、紙漉皆々女子供の仕事也。…
石州和紙

左、石州和紙です。

和紙は日本中いろんな所で作られていますが、原料や工程は似たようなものでも風土の違いや添加物の違いがあってそれぞれ特徴があります。
2014年11月、ユネスコ無形文化遺産に、石州半紙と、本美濃紙、細川紙の3点が登録されたのでご存じの方も多いでしょう。

石州半紙(ばんし)はたいそう丈夫で墨の乗りが良くて、大阪商人は帳簿の用紙として重宝したそうです。

左の写真は草木染めをしたものです。
柔らかな風合いです。いい感じですね。

津和野藩と隣の益田藩は、年貢米の代わりに紙を納める「紙年貢制」というのを導入しました。そして紙を藩の専売事業とする事で幕末まで財政が豊かだったのでした
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