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2015.03.26 (Thu)

泉光院の足跡 054 鰐淵寺

オオクニヌシのことを長々と書きすぎたので、泉光院の日記、十五日の項がもう少し残っているのです。

…兩國造は宮の双方にあり、御殿南向、玉垣二丁四方、八重垣と云ふは素戔嗚命の尊號也と云ふ、納經。社役所より印出る。當所町數多し、旅人宿金次郎と云ふ宅に宿す。あしな槌の事尋ぬるに當所式部と云ふ人此家筋也と云ふ、又天の眞名井を尋ぬれば此より東五丁の山の手にありと云へり。大社奉納一句、
   八重垣も九重になる夏の艸
出雲大社・注連縄
出雲大社神楽殿の注連縄です。
大きいですね。きっと日本一でしょう。長さ13m、廻り9m、重さ5㌧。
下に向かっている藁の所めがけて硬貨を投げ込んでうまく入ると願い事が叶うといいます。
本当でしょうか。

出雲大社は縁結びの神様。
井原西鶴の『好色五人女』、お夏清十郎の中で、一人の下女が室(むろ)の明神に「私にも良い夫を持たせて下さい」と祈ったら、「それは出雲の大社に頼め、こちらは知らぬ事。」と夢でお告げがあった、という話があるらしいから、江戸時代には既に大阪では縁結びの神様になっていたようだ。
稲佐浜の夕景
陰暦十月は「神無月」で、全国ヤオヨロズの神様たちが出雲へ出張なさるから、出雲では「神在月」。
十月の十一日から十七日までの一週間、聖なる「会議」をするために集合するのです。大社に参集した神々は境内にある東西の十九社で宿泊し、稲佐の浜にほど近い摂社の上宮(かみのみや)を会議所として幽事(かみごと)、人間にはあらかじめ知ることの出来ない、神々の世界の取り決めなどが話し合われるのだそうです。右上が引佐浜の夕景です。
五穀豊穣や男女の縁結びなどもこの会議で決められるのです。

出雲大社・縁結大祭
十月十五日と十七日(旧暦)には「縁結大祭」が執り行われ、大國主命をはじめ全国から来ているヤオヨロズの神々に、この世の人々の安寧な暮らしや幸縁の結びつきを祈る祝詞が奏上されます。申し込んだ人には「幸縁むすび祈念絵馬」が渡されます。今年、平成二十七年(2015年)は11月17日と19日が縁結大祭の日となります。右は縁結び絵馬を貰っている若い人達。良い縁に恵まれますように!

土地の人は、神様の会議のある日には、神々の会議や安眠に妨げがあってはならないということで、謹慎して、歌舞音曲をせず、庭も掃かず、物音を立てないようにひっそりと過ごします。

神様を迎える方も心をこめてお迎えしますが、送る方もやはりそれなりに心を込めてお送りするしきたりがあるようです。
神無月の前日には神棚にお赤飯とお賽銭をあげて、どうぞご無事で行ってらっしゃい、と柏手(かしわで)を打ちます。つまりお弁当に旅費を添えて神様を送り出すのです。
遠州地方(ワタクシが今住んでいるあたり)ではそうしていた、とsaegusaサンが教えてくれました。よその地方でもきっとそのような儀礼があったのでしょうね。
出雲大社・夕暮れ
今はすっかりそんなことは忘れ去られてしまったようです。時代は変わるものだし、昔はヨカッタ!というのは老人の繰り言だし、ましてや神話に属する事を懐かしむ気持ちはないのだが、人の心の優しさとか、思いやりとか、そういうことまで忘れ去ってしまうのはどうも宜しくないとワタクシは思います。

國譲りを承知してくれたのでアマテラスは喜んで壮大な御殿を作り、アメノホヒ(天穂日命・アマテラスの次男・國譲りの交渉役として高天原から降りてきた神)をオオクニヌシに仕えさせ、お世話をするために残しておいたので、オオクニヌシは、もう地上世界で私のやることはみんなやってしまった、と出雲の地に隠栖することにして、祭祀に専念することにしたのでした。アメノホヒの子孫は出雲國造となって、代々出雲大社を護っているのです。

泉光院は、…兩國造は宮の双方にあり…と書いているのは、境内の一番外側の東に「北島國造家」、西に「千家國造家」があるのを見ているからです。アメノホヒの55代目の子孫、出雲國造の清孝に子がなかったので、弟の孝宗に家を譲ってこれを千家國造の祖とし、孝宗の弟貞孝も奏聞を経て北島國造家の祖としました。(國造は、古くはクニノミヤツコと呼んだのですが、今はコクソウと清音で発音しているようです。)両方とも結婚式場を持ち、両家とも戦前は男爵だったし、それぞれが出雲大社教・出雲教と別々の神道の宗派を立てて張り合っております。
近頃話題になったのは、高円宮家の典子女王殿下と千家國造家の禰宜・國麿氏の婚約。
天皇家と出雲大國主家が親戚になる!といういわばトンデモナイ(というと叱られるでしょうか)事態なんです。ワタクシには関係のない出来事ですからここまでで後は控えさせて頂きましょう。
次へ行きます。

十六日 晴天。朝早々より日の御碕へ詣づ。杵築より三里西に出張りたる山の岬也。峠多し、御崎の手前に在町あり、船着にて賑はし、布(め)を刈る事を職とす。夫より峠を越へ御崎明神兩社へ詣で納經す。…
日御碕神社
日御碕神社です。

泉光院が兩社といっているのは、上の社と下の社に分かれているからで、上宮(写真右端のちょっと高い場所)にはスサノオを祀り、一番左は下宮でアマテラスを祀っています。

真ん中よりちょっと右、朱塗りがまだ新しいのは樓門です。これをくぐってから上の宮、下宮へと行くようになっています。
…此所社家多く絶景の地也。御殿南向、此處も雲州松江公よりの御修理場、眞言宗一ヶ寺あり、上に五重塔半分破損す、…

今写っているこの社殿は泉光院の書いているとおり、正保元年(1644)幕命を受けた松江藩が建築したものです。新しい樓門は戦後に再建したもののようです。
桃山建築の美と、狩野派、土佐派の画匠の絵で飾られているそうですが非公開。
写真には五重塔は写っていませんね。半分壊れたのを全部壊してしまって再建しなかったのだろうか。
ワタクシは日御碕神社を見てから日御碕灯台まで歩いて、近くのお店で牡蠣を焼いて貰ってそれを食べてからバスでまた出雲大社まで戻って、一畑電鉄というのに乗って松江へ行ったのでしたが、泉光院はちゃんと鰐淵寺へもお詣りをしました。

十七日 晴天。杵築出立、朝辰の刻。町少々托鉢赤塚村へ行く、晝時より鰐淵寺と云ふに赴く、山中上下三十六丁、寺十二ヶ院あり。觀音堂東向、奥の院へ五丁谷合、本宮の上に高さ十五間の岩窟あり、上より瀧落つ、其瀧の裏に山王の宮あり、滝壺廻り三間四面深さ知るべからず、鰐淵とて辨慶修行の場所也と云ふ。京都叡山より以前の開基也と云ふ、天台宗、夫より廿五丁谷へ下り川下村宇右衛門と云ふ宅へ宿す。
鰐淵寺

出雲大社の近くから450mほどの峠を越えると鰐淵寺(左の写真)


有名人になるといろんな場所へ引っ張り出される。
弁慶がこんな所まで来て修行したとは思えないのだが、このお寺は創建が比叡山より古いらしいのでそういう伝説が生まれたのだろうか。深い山の中、紅葉の名所です。

後白河法皇撰の歌謡集『梁塵秘抄』に、「聖の住所(ひじりのすみか)は何処何処ぞ、
箕面(みのも)よ勝尾よ播磨なる書寫の山、出雲の鰐淵や日の御碕、南は熊野の那智とかや」として登場しているから、西日本では古くから有名でした。
ここの本尊は千手觀音で、眼病に効くのです。寺伝では推古天皇二年(594)、智春上人が天皇の眼病平癒を祈願したから、というのです。
千手觀音というのは文字通り手が千本あって、その掌の一つ一つに目がついているのでそれで眼病と結びついたのだろうか。
寺宝はずいぶんたくさんあるのだが、その中の一つ、國重文の銅鐘は「寿永二年(1183)伯耆州櫻山大日寺上院之鐘」という銘がある。櫻山大日寺は鳥取県の大山の近くのお寺ですから、これはきっと弁慶が一夜のうちに両方の鐘を取り替えたのだ、そんなことが出来るのは弁慶を措いて他にある筈がない!という伝説が生まれて、それで弁慶がここで修行をしたということになっているのでしょう。伝説というものは大体その程度のものです。真に受けることはありません。

滑りやすい谷間の小径を下って行くと浮浪の瀧というのがあって、推古天皇眼病平癒祈願の時、この瀧壺に佛器を落としたらワニがそれをくわえて浮かび上がってきた。それほど深い瀧壺なのだ。浮浪山鰐淵寺の名はここから起こったのです。
瀧の裏には岩窟があって、、そこに蔵王権現の堂がはめ込まれたように入っている。このお堂へ上がってゆくのは容易なことではないから、下から眺めるだけにしておきましょう。
泉光院の日記、十七日の項を解説すると上のようになります。江戸時代も現在も、このお寺の様子は殆ど変わっていないようです。

次は一畑藥師。
十八日 晴天。川下村出立、朝辰の上刻。道々托鉢、平田町と云ふに出る。夫より一畑藥師と云ふに詣づ。其間三里の處二里にして日も西山に落る故薗村の宇右衛門と云ふ大家の百姓宅へ宿す。一畑藥師

一畑藥師です。この藥師も眼病平癒の信仰を集めたお寺です。
醫王山の山腹八万坪の境内に。禅宗寺院らしく本堂・法堂・講堂・觀音堂など諸堂が建ち並んでいます。


右は4月末~5月はじめに行われる二歳児祭に奉納される舞。綺麗な舞姫たちが舞います。
一畑藥師・二歳児祭

これから先、泉光院は宿を取るのにずいぶん苦労をしています。一畑藥師でお詣りをしてから道々托鉢しながら昨日休息した鍛冶屋の新三郎宅でまた休んでいたら、
…主人云ふ様、今晩はムサクとも拙宅へ一宿せられよ。まだ日も申の上刻(3時か4時頃)なれば近所托鉢して暮方に来られよ。晝は、當處の役方村々旅人吟味し廻る、又當家は往還ばたなれば彌々惡し、夜に入れば何の構ひなき故夕方參られよと云ふに付近邊托鉢し暮時に來り一宿す。又明朝晝食迄新三郎の馳走あり、行者なればこそと有がたく思ふ。

文化十年の頃の松江藩藩主は松平齊恒18.6万石でした。松江藩の殿様で有名なのは七代目の治郷(はるさと)で、明和四年(1767)、17歳で藩主になると(どこの藩でも同じく財政難だったのだが)赤字だった藩財政を思い切った政治改革・財政改革を行って黒字に転換し、一息ついた治郷は不昧公という名前にして、好きだった茶の湯と茶道具の収集に没頭し、松江の各所に庭園や茶室を作りました。
「茶道は知足(たるをしる)の道也」と唱えて、茶とわび・さびを融合させた「不昧流茶道」というのを始めて松江を風流な町にしました。不昧公のおかげで松江のお菓子は金澤のお菓子と同じように良いお菓子が出来ました。
食べる物も、日本海と、宍道湖・中海という汽水湖でとれる繊細な味のお魚と、多湿の裏日本のお野菜とでとても美味しい料理があります。次項あたりで書きます。

泉光院がここへ来た時は、何故か他国者の入国を取り締まっているようです。その部分だけを日記から拾ってみましょう。

イカヤ村…… 日も西山に傾きたる故當村へ一宿求む、山中田舎故御上の掟を堅く守り、旅人は一宿も御停止と云ふに付、善根宿一軒もなし、…
三刀屋驛…… 川下へ下り在あり、一宿を求む、此邊も昨夜一宿の在所と同じく宿一軒もなし、因て又大川を越し四日市と云ふ驛へ宿す、…
菅原村…… 當村に一宿したき段申入れ指圖を受け松右衛門と云ふ宅へ宿す。
大庭町…… 此村へ舎りを求むれ共宿なし、廿丁行き段原と云ふ村義兵衛と云ふに宿す。
國分寺村…… 當處も旅人宿一軒もなし、雲州一國の者他國へ出る事甚禁じてあり、因て旅と云ふ事を知らざる者多き故、人の情けも慈悲も知らざる者多し、且つ又雲州は神國と他國よりは稱すれども、雲州の人は神意も知らず、神國にして神國に非ず、人氣宜しからざる國也。
松江城下…… 當處は木賃宿とては一軒もなし、皆旅籠屋也。一宿賃三百文宛の由。

行く先々でこの調子です。段々腹が立ってきているようです。
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