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2015.05.29 (Fri)

泉光院の足跡 067 天橋立

泉光院は浦島太郎の社に参詣してから丹後一の宮の方へ向かいます。途中イネ浦という所を通ります、ここは舟屋の並んでいる風景がちょっと有名になったりして、NHK朝ドラにも登場しました。
伊根舟屋・春伊根舟屋・冬
同じ場所の春(左)と冬(右)の風景です。

伊根湾は三方を山に囲まれ、日本海の波浪が直接湾内に入り込まないようになっているので、年中穏やかで、潮の干満も少ない天然の良港です。
舟屋というのは舟を収納するために、切妻作り二階建ての、一階部分が海面すれすれに建てて建ててあるのです。
二階が住居部分と、網を干したりする作業部分になります。
世界遺産研究の会でこんな所にまで見学に行ったのでしたが、道路は狭くて観光バスがトラックとすれ違う時など随分苦労をしていたのと、伊根湾を観光船で廻る時、たくさんのカモメが寄ってきて、船内でパン屑などエサを売っているのでそれを投げると巧みに咥えて飛びます。手に持っているエサまで持っていきます。よく覚えているのはそんな事ばかりでした。
伊根・舟屋一階

右が舟屋の一階部分で、二間間口の建物ですから、舟を入れるともう一杯です。建物は傷まない様に、シイやマツの材をを使って極めて頑丈に作ってあります。
享保(将軍吉宗の頃)の時代でも280隻以上の漁船を持っていた伊根の港は、ブリ漁やクジラ漁で栄えました。
ここからもう少し北東に行くと新井(にい)の千枚田という棚田風景を見る事が出來、断崖コースの途中には新井崎神社があって、そこは秦の徐福が渡来したという伝承で、徐福が祭神になっているとの事です。
秦の徐福の事はもっとよく知りたいと思いながら果たせないでおります。

伊根浦の事を先に書いてしまいましたが、ここへ行き着くまでにちょっとした事件が起こりました。平四郎が病気になるのです。

八月朔日 雨天。朝當村文四郎と云ふ宅へ兩人振舞に呼ばれ行く、加持人多し、夕方休息、一句
   八朔や故郷忘れぬ小短冊
二日 晴天。平四郎大病發る、據なく滯在藥等調へ飲ます。予は近村少々托鉢に出る、早々歸り看病す。隣家より本尊に花米上る、今晩は庚申待ちに付作法相勤める、仁王經も一部。
三日 晴天。平四郎今日も同様、據なく滯在。虫多く鳴くを聞きて一句、
   虫鳴きて有爲の浮世を知らせけり
四日 曇天。平四郎病氣少し平癒。疱瘡流行に付守札拵へ仁王經一部讀誦す。

平四郎の病気が治ったのは六日で、…平四郎病氣全く平癒す。然れども今日迄滯在。…したのだが、出発したのは結局十日だった。どんな病気だったか判りませんが、その間泉光院は看病したり、炊事洗濯、大変でした。
あらためてこの世の中、いつ何時どんな事が起こるか解らない。有為転変、儘ならぬものだと感じました。
普段は、昨日のように今日があり、明日もまた同じように暮れてゆく、と思ってぼんやり生きているのですが、たいていの場合突然に異変が起ります。心を引き締めていましょうね。

九日 晴天。滯在。平四郎月代行水等する。隣家より平四郎病中丁寧に致し呉れ候方へ九峰修行札遣はす。
十日 晴天。泊り村出立、朝辰の上刻。昨日迄十日の間滯在。東イネ浦と云ふに行く、此間二里、此浦は宮津城下より五里東北に當りたる獵場、浦双方三百軒計りの在所、至て賑々しき所也。日も夕陽に成る故一宿を求むれども差閊(さしつかえ)多く宿なし、一丁程行けば静かなる家あり一宿を求む、…

町はずれに静かな家を見つけて宿を借り、笈を下ろして、平四郎が先に行ったので呼びに行ったら、
…彼も宿借り出したる由にて荷物卸し居たり、…
ちょっとこの主従の間に気持の相違があるようです。
…故に如何様にもなすべしとて…
つまり、勝手にしやがれ!という気持で泉光院は自分の借りた宿へ戻ったのです。

伊根浦を出て丹後半島の東海岸を托鉢しながら南下して丹後一の宮へ行きます。

十三日 曇天。日置村出立、朝辰の上刻。直ちに一の宮へ詣づ。本體豐受大明神也。納經す。…
籠神社
丹後一の宮は籠神社です。
天橋立のつけ根の方にあります。
豐受大神は今は伊勢神宮外宮にありますが、そこへ納まるまではあちらこちらをウロウロしていた事は先にも書いたとおりです。アマテラスも一時はここに同居していた事もあるようです。
ですからここも元伊勢といいます。
籠(この)神社と読みます。

本当はここの國ツ神であった豊宇賀能賣命(とようがのめのみこと)を祀ってあったのだろうが、タンゴ王国をヤマト王国が吸収合併する時に、融和策としてここの國ツ神を豐受大明神としてアマテラスと一緒に伊勢へ祀る事にしたのかも知れない。この神社も30年ごとに造営していたのだが、現在建っている(左の写真)のは江戸末期弘化二年(1845)の再建のままです。籠神社・狛犬
右の狛犬は、桃山時代に作られた國重文の狛犬です。
恐いような可愛いような、面白い顔をしている。
本殿階段手前の両側に一対、おとなしく座っています。

籠神社の次は成相寺(なりあいじ)へ行きましょう。
籠神社の参拝を終えて左へ歩みを進めると、水琴窟の音色も美しい庭や亀に乗った武内宿禰像を見ながら境内を出て土産物屋の並ぶ細道を行くと「天橋立股のぞき」で有名な笠松公園になります。
天橋立・股覗き1

展望台上に、海に背を向けて立って、前屈して股の間からの景色を見ると、海中に浮かぶ天橋立がさかさまになり、天に伸びる架橋のように見える。天橋立股覗き2


場所を変えてみると右のように見える所もある。
ここから成相寺までは約1.2km。往復バスも出てはいるのだがここは歩きましょう。
右は成相寺の本堂。成相寺・本堂

平安時代には修験の靈地として知られていて、觀音信仰の流行とともに、成相道という参詣ルートも幾つもできた。
ここの本尊は聖観音で、觀音靈場にふさわしい霊験談があります。
今昔物語にも載っているお話だそうで、ここに籠もって修行をしていた僧が雪に閉ざされて下山できず、餓死寸前の時に觀音に祈った所、狼の殺したイノシシの腿肉が見つかり、これで餓死を免れた。ところが觀音の腿肉が失われているので、吃驚して觀音に祈ったら元通りに成り合ったので成合寺、そして成相寺となった。西国三十三観音の28番目にあたり、巡礼の人々も多く集まります。
雪舟・天橋立圖部分
雪舟の天橋立圖。
国宝です。
ちょっと判りにくいのだが籠神社は天橋立の付け根の所からほんのちょっと左に行った所にあって、成相寺はそこから上の方に登ってゆく道の殆ど頂上あたりにあるのです。
2000年春、東京国立博物館の日本国宝展で上の図の実物を見てきました。かなり大きな画で、堂塔なども実物そっくりに描いてあるのです。当時の人はこの絵を見て感嘆したことでしょう。
國分寺は海岸沿いに左へ行ったあたり、この絵のほぼ中央程の所です。
國分寺跡と天橋立
右が丹後國分寺のあった場所。礎石が並んでいて、海を隔てて一直線に天橋立が見える。ここには國府も置かれていた。いい場所を選んでいるのです。
近くには江戸時代に再建した國分寺があって、泉光院はそこにお詣りをしています。

…又本堂より山を下りて國分寺へ詣で納經す。…
泉光院は江戸時代に再建した方へ詣納經しました。写真の礎石は、8世紀に完成した國分寺が一旦衰微し、その後建武元年(1334)に再建したのが永正年間の一色氏・若狭武田氏の戦乱で焼かれたほうの金堂の礎石です。
さらに
…夫より十八丁、八旗八幡へ詣づ。麓より三丁山へ登る。又元の一の宮へ歸り天の橋立へ出る。橋立明神は並木の中程に鎮座、西向、脇に清水の池とて深さ五尺計りの井戸あり、。此橋立は一里の間便船あるに付舟に乘る。一人前賃八錢宛、佐渡の國智足院と云ふ山伏乘合す。久世戸の文殊へ着、本堂八間四面、納經す、樓門あり、門前茶屋多し、和泉式部三角五輪石塔あり、大寺也。…
天橋立・磯清水

泉光院は籠神社の所へ戻ってそこから天橋立を先端の方に向かって歩いているようです。
天橋立の中程の所(どちらかというと先端に近い方)に橋立明神、今の呼び名では天橋立神社(祭神は伊弉諾命、泉光院のいう橋立明神)があって、その脇に磯清水、左の写真、があります。
海上に出来た砂州なのに清水が湧き出しているので昔から不思議がられていて、延宝六年(1678)、当時の宮津藩主永井尚長が林春斎の撰文を得て磯清水碑を建てました。(今ここに立っているのは複製のようです)

この砂州は一里(約4km)も延びていて南端の所で切れて水路になっている。
ここを久世戸というのですが、久世戸の橋
今は左の写真のように廻旋橋が出来ていて、電動で動くのでしょうが、与謝野晶子がここへ来た時には、
   人押して廻旋橋の開く時
       くろ雲動く天の橋立
という歌をうたったそうだから、彼女がここへ来た時には人力で回していたのだろう。
泉光院は、…一人前八錢…出して舟に乗りました。
智恩寺・樓門

切戸の文殊という智恩寺の樓門です。

山形県の亀岡文殊・奈良県の安倍文殊と、この切戸の文殊で日本三文殊です。

文殊菩薩は知恵を、普賢菩薩は理性を司る菩薩で、釋迦如來の脇侍として両側に居ることが多いのですが、単独で、知恵の担当者として尊敬されていて、このように本尊として祀られることもあります。
文殊菩薩は、お釋迦さまが死んでからインドで生まれ、菩薩の域に達した智者といわれて、觀音と共に広く慕われております。安部の文殊

像を造る時は右のように獅子の上に乗っているのが特徴ですが、必ずしも一定ではありません。右は参考のために奈良・文殊院の文殊菩薩騎獅像で、有名な阿倍の文殊です。右手に降魔の利剣、左手に蓮華の枝を持ち獅子の背の蓮華座上に半跏する標準的な文殊像です。右下に小さく写っているのは善財童子で、合掌して斜め右を振り返る姿です。各地を尋ね歩きようやく文殊の知恵を得た時の喜びの瞬間を表しております。
ここの切戸の文殊も脇侍に善財童子があるので、ほぼこれと似たような像だろうと思います。
善財童子像は、ワタクシも金澤・西福寺の先代住職が発願して作ったものを頂いておりまして、寝ている時に頭の上でワタクシを見守っているという場所に祀ってあるのです。
智恩寺・多宝塔
左は智恩寺・多宝塔(國重文)です。
樓門を入った左手にあります。

右が雪舟の天橋立圖の智恩寺の部分。よく見ると多宝塔も描き込まれています。
雪舟・智恩寺

ワタクシがここへ行った時は旅館が智恩寺のすぐそばだったので、晩飯を食べてから天橋立を歩きました。寝る前の腹ごなしにしてはちょっと長い距離でしたがしっかり往復してきました。だが和泉式部の三角五輪石塔というのはどこにあるのか判りませんでしたねぇ。境内のどこかにあるのでしょうが見当たりませんでした。

この辺の現在の状況は、雪舟の描いたものとは随分変わりました。タンゴ鉄道の天橋立駅がすぐ近くに出来ていたり駐車場のためにお寺の近くが埋め立てられたりしている。
天橋立・西側夕景

…日も西山に落ちたる故當村に宿求む、十四五軒の處、留守やら閊えやら宿求め難し、暮れて後五左衛門と云ふ宅に宿す。一句詠める、
   名にしあふ秋も最中の夜もすがら
     月も渡るや天の橋立

横一文字に伸びる天橋立。
なかなか見事な風景です・古くから日本三景の一に数えられていました。

八月十四日 橋立一面に霧覆へり。朝辰の上刻出立、宮津城下巳の上刻着。山王へ詣づ。…

この日は新暦に直すと9月29日でした。
もう秋もそろそろ最中。天橋立とお別れです。綺麗な写真を一枚入れておきました。
天橋立・雪景


雪が降った次の朝、お天気がいいとこんなに美しい天橋立を観ることが出来ます。
でもこんな日は滅多にありませんよ。
たいていはどんより曇っているか雪が降っているか、どっちか。
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