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2015.06.30 (Tue)

泉光院の足跡 074 鱧料理

伏見の佐土原藩邸に泉光院主従は落ち着きました。
佐土原島津家は大名とはいっても禄高二万七千石、大名の中では小さい方です。それでも大坂に蔵屋敷を持ち、伏見に事務所を置いていた。政治の中心は江戸徳川幕府。だから佐土原藩でも今の港区三田2丁目にかなり大きな上屋敷を持っていた。

ここではどんな生活をしていたでしょうか。

十二日 朝霧天。辰の下刻晴る。屋敷滯在、洗濯す。且又此節は回國何かと不自由ならんとて屋敷中より香の物、茶、雜品煮物の類様々贈らる。大坂御藏元西村良助へ書狀一通遣はす。無錢也。…

大坂蔵屋敷の管理者宛にメール便を書きました。無事伏見の御屋敷に入った事、今後の予定、近いうちにそちらへ行くから宜しく、など。伏見の御屋敷と大坂蔵屋敷の間には定期便の船があるからメールは無料で配達されました。

…夜に入り天武天皇御祭禮を拝す。御出輿初夜。行列一番に一丈八尺廻り長さ二間計りの茅にて拵へたる松明二挺、人足五六十人計りにて持ち燈し行く、御輿のあと御共の高張六七百計り、御式市中御廻りあり。又善光寺如來出開帳あり、詣で四時に歸り臥す。御香宮門
御香宮祭禮
天武天皇御祭禮云々というのはちょっと怪しくて、
御香宮(ごこうのみや)の祭禮です。
貞観四年(862)九月、境内に鉱泉が湧き出して、薬用にもなったので御香宮と名付けたといいます。
神功皇后・仲哀天皇・應神天皇を祭神にしているので、秀吉が九州出兵の時ここに戦勝祈願をした。
右の門は取り壊された旧伏見城の門。
祭禮は新暦になった今は10月に行われて大きな御神輿が出ます。泉光院の頃は旧暦ですから九月に御神輿が出ました。今は町なかで大松明を燃やす事は危険だから御神輿だけなんでしょう。
御香宮香水
左は境内に出ている「御香水」。
伏見は酒どころでもあるのでいい水が出るようですね。
十三日 晴天。滯在。洗濯物出來す。
十四日 晴天。滯在。無事。    と、のんびりしています。
十五日 晴天。上京す。…
伏見と言えば今は京都のうちだと思っていましたが、江戸時代はそうではなかった。伏見から京都へ行くのは「上京」でした。今なら電車で10分程ですが。

…念數屋カキ又にて飯出る。六角堂西國札處へ詣納經す。筑前屋毎(いつ)もの旅宿へ立寄る。革堂へ詣納經す。是れも西國札處也。夫より信濃屋清兵衛と云ふ呉服屋へ布子の色仕上げ仕立直し頼みに行く、是亦晝食出づ。西田立慶と云ふ佛師屋へ行き佛笈細工頼み置く。本能寺、誓願寺、、佛光寺、東本願寺等平四郎始めて故連れ參り初夜頃伏見へ歸る。貞祥院大坂よりの書状請取る。

この日一日でたくさん仕事をしました。また、平四郎が京都へ来たのは初めてですから、…連れ廻る…のです。(これから先殆どワタクシの空想で書きます。)

伏見主人の館、を出て竹田街道、今の国道24をずっと上がると竹田口で、鴨川を渡る勧進橋というのがあって、渡れば九条烏丸がすぐなんです。泉光院が歩いていた頃には京都駅という邪魔なものはなかったので、七条烏丸、東本願寺が左手にあるあの大通りへ出ると、東本願寺の真向かいに上・中・下数珠屋丁という細い通りが三本あって、そこでは佛具が殆ど買えます。いつも行く佛具屋のカキ又もそこにあったと思います。そこでご飯を食べて、四条烏丸からもう少し行って御池通りへ出る手前に頂法寺があります。頂法寺六角堂
本堂が六角形をしているので六角堂といいます。(土台の所を見ると6角形であることがわかるでしょう。)西国三十三番觀音札所第18番。このあたりは下京の中心だったために、古くから京都町衆の信仰を集めた古刹です。境内にある要石(かなめいし)は「へそ石」と呼ばれ、京都の、そして世界の中心地だと信じられてきました。
またこの寺は池坊生け花の祖、池坊専慶のお寺です。池坊立花
佛さまにお花を供える「供花・くげ」は、僧侶の勤めですが、室町時代になると、茶会や連歌の席にも観賞用の花を飾るようになりました。その名手が池坊専慶です。それまで「たてはな」と呼ばれていた挿花の様式を「立花・りっか」と変え、新しい作風を確立しました。彼が花を生けると洛中の數寄者が競って見物に来たといいます。左の花は池坊に伝わる「花伝書」をもとに再現した「祝儀の花」。
何と美しい!

六角堂に詣納經を済ませて、六角堂の裏から三条通りを東に入って河原町通まで出るとそのあたりに上京の折にいつも泊まっていた筑前屋という旅籠屋へ立ち寄ります。ここは今でも京都ホテル、京都ロイヤルホテル、ホテルフジタなど旅館のある所です。
泉光院は、安宮寺の住職を息子の長泉院に譲って、自分は隠居して日本九峰修行という事で回國修行をしているが、もう年老いたし、これで京都へ来ることもないだろう、長い間お世話になって有難う、…などと挨拶をした。
京都地図1864

参考のために元治元年(1864)、泉光院がここへ来る50年程あとの京都下京の地図を載せておきましょう。
泉光院の歩いた頃と殆ど変わっておりません。
赤矢印はワタクシが勝手に泉光院の足跡を描き込んだのです。
右上から左下にかけての青い線はすぐわかるように鴨川です。
左下の赤矢印は竹田口で、ここで鴨川を渡ると東本願寺⑥ですが、ここは最後にして、東本願寺前の3本の道が数珠屋丁ですから、カキ又に立ち寄って用事を済ませ、昼飯を御馳走になってから東洞院通を上がると左手に六角堂①が見えてきます。
六角堂の裏は三条ですから一旦北に上がって二条の通り迄出てから東へ入って河原町通り迄行くと革堂②(行願寺)です。
革堂と本能寺の間に先に名前を挙げておいたホテルが並んでいるので、お昼ご飯をご馳走になった筑前屋という旅籠もやはりこのあたりにあったのでしょうし、信濃屋清兵衛という呉服屋、西田立慶という佛師屋も日記の書き方で考えると河原町通りだと思ってもいいでしょう。
河原町通りは今でもいろんなお店が軒を連ねている買物便利な町だと思いますから。
河原町の通りを下ると本能寺③、誓願寺④、と続いていて、もう少し下がると河原町四条に出ますからここで西へ入って高倉通りを下がると佛光寺⑤になります。
ここまで来ればもう夕方ですけれども東本願寺は大きいお寺だしよく知っている場所ですからゆっくりお詣りも出来ました。
革堂

革堂(こうどう)、本名は行願寺。西國三十三觀音札所の第十九番。
開山の行圓上人はもと猟師で、山中で射止めた雌鹿の腹中から子鹿の生まれるのを見て、殺生を生業としている身を恥じて、佛道修行に励み、寒暑にかかわらず鹿皮を着ていたので、皮聖(かわのひじり)と呼ばれていたのが寺名の起こりです。上人の着ていたという鹿皮の衣が保存されていて、境内の会館3階に展示してあると案内書には書いてありました。

織田信長が室町幕府十五代将軍足利義昭を擁して入京したのは永禄十一年(1568)のことです。
近江の安土城を拠点に、天下統一を図る信長が上京の際の止宿先としたのが、六角堂よりもちょっと南西にあった本能寺です。
西洞院通・小川通・油小路通と四条の北あたりの場所に30もの塔頭を持った大きなお寺でした。御所からもさほど遠くはないし、政治的には好都合の場所だったのです。
だが天正十年(1582)、明智光秀の奇襲に遭って、天下統一の夢半ばで死んでしまいました。この本能寺の乱で、大伽藍だった本能寺も一緒に焼けてしまった。今その場所には本能寺小学校が名残を留めております。本能寺門
それで五年後、豊臣秀吉が天下統一の夢を受け継いで河原町(正しくは寺町通御池下ル)の現在地に本能寺を再興しました。
右は昭和になってから再建された門。
江戸初期にはずいぶん大きなお寺に成長したのだが、江戸後期に、2度の火災に遭って、明治の初期にはうんと小さくされてしまった。
だから昔の面影、テレビドラマで見るように、光秀の軍に攻められて炎に包まれながらも、
♪人間五十年、化天のうちを比ぶれば 夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり、…♪と唱いながら腹かっさばいて死ぬ、という場面を現在地の本能寺で考えてはなりません。

いまの本能寺からさほど遠くない所に鳩居堂があります。鳩居堂
筆墨とお香の専門店です。寛文三年(1663)に近江の国から初代の人が来て、薬種商を始め、次第に中國からきた漢方薬、それと抱き合わせで輸入した筆墨、さらにはお香も販売するようになった。
京都には15世紀、16世紀から延々といまも商売をしているお店、いわゆる老舗というのがあります。北野天神の境内の中で売っている長五郎餅というのも16世紀末頃から販売しているらしいし、粟田口の料理屋美濃吉は享保元年(1716)の創業。
泉光院はあちこちでお昼ご飯をご馳走になっているのでワタクシたちもここらで鱧(ハモ)料理を食べる事にしましょう。
鱧料理

本能寺のある御池通を西に入って烏丸通から2本目が室町通で、先程の六角堂からもさほど遠くない所に文久三年(1863)創業の鱧料理専門店があるので、そこへ入りましょう。
鱧汁


鱧というお魚は昔は雑魚の扱いだった。それというのも、鱧には無数の骨があって、脊椎だけでも約150本、しかも肉に食い込む松葉状の骨で、皮にまでついているので骨抜きが出来ない。肉は美味しいのだが調理が困難だから肥料同然の魚だった。だが瀬戸内海であがった鱧を京都まで運んでも鮮度が落ちない。特に祇園祭の暑いさなかに一番脂がのって美味しい。何とかして美味しく食べよう、と開発された調理法が骨切りです。三枚におろした身の、皮のほうをしたにして俎の上に置き、鱧切り用の長くて重い(長さ40cm、重さ800g)包丁で、皮一枚残してシャーッシャーッとリズミカルに、一寸(約3cm)の間に24回包丁を入れる(のが理想)。これをサッと湯に通すと牡丹の花びらのように身が開くのです。
上の写真、向こうが「鱧鮨」、右が「源平焼」(塩味と醤油味とで源平の白旗赤旗になぞらえた)。そして左下が「鱧落し」(骨切りした鱧を2~3cmに切って熱湯にくぐらせ、氷水ですぐに冷やして梅肉醤油で食べる)。これが美味しい。
右のお椀は「鱧吸い」。

いかがでしたか? ………  百見は一食に如かず。
やっぱり見るだけではなくて本当に食べたいものですね。これからも折々に美味しいものをのせておきましょう。お出かけの時には思い出して賞味して下さい。

ここらで京都中心部の名前の覚え方。京都の町民(というのも変ですが)の頭の中にあった京都の町はとても狭いものだった。丸太町から北は禁裏御所、天子様の御所で、堀川から西は二条陣屋=徳川将軍の御城で、河原町の東は鴨川。東西本願寺の南は九条で京都のはずれ。つまりこの内側の枠の中だけが京都だった。
丸太町から五条までの通りの名前、次のように丸暗記します。
「丸竹夷二押御池・まるたけえびすにおしおいけ、姉三六角蛸錦・あねさんろっかくたこにしき、四綾佛高松萬五条・しあやぶったかまつまんごじょう」
丸太町・竹屋町・夷川・二条・押小路・御池・姉小路・三条・六角・蛸薬師・錦通・四条・綾小路・佛光寺・高倉・松原・万寿通・五条、と続きます。
わらべ歌だと「坊さん頭は丸太町、つるっと滑って竹屋町、水の流れは夷川、二条で買うた生薬を、ただでやるのは押小路(惜しいという意味)、御池で出会うた姉さんに、六銭もろうて蛸買うて、錦で落として四かられて、綾まったけど佛々(ブツブツ)と、高が知れてる松(ま)どしたろ。 注記、まどう、という言葉は、弁償する、という京言葉です。

誓願寺④はもと天智天皇の勅願寺として奈良に建てられたお寺で、平安遷都に伴って伏見深草の地に移転しましたが、のちに上京区の元誓願寺通小川に移転し、さらに秀吉の命令で現在地に移転しました。誓願寺解剖供養碑
ここに移ったとき、秀吉の側室お松の丸殿が造営の費用を出したと言いますから、権力者の側室にもなるとそんな大金も思いのまま、なんですね。
寺地も広く、塔頭十七ヶ寺、三重塔もある大寺だった。
広い境内では興行なども開かれて、娯楽場も兼ねて参詣人が多かった。
天明八年(1786)の大火以来しばしば火災にかかり、幕末の大火の時には、胎内に五臓六腑があったという本尊阿彌陀如來も焼失した。
その後、大正、昭和と二度の火災に遭い、近年鉄筋コンクリート造としたのでもう焼けないでしょう。
いま残るのは宝暦四年(1754)に日本最初の解剖、「刑死觀臓」をして、その供養碑を右上のように造ったのと、重文の絹本著色誓願寺縁起三幅、木造毘沙門天立像、くらいのものです。だが泉光院がここへ来た時はまだ大寺の面影を残していたのでした。

次は一旦四条大通りを西に行って、大丸デパートの向いの高倉通を下って。佛光寺
「四綾佛高…」の佛光寺通にある佛光寺へ行きました。
このお寺は真宗の一派である佛光寺派の総本山ですから、東・西本願寺と同じ建て方のようです。
向かって左側が阿彌陀堂、右が親鸞を祀る大師堂。
このお寺も最初は山科にあったのだが、元徳二年(1330)に東山に移転、応仁の乱で焼けたのだが文明十三年(1481)に再興、その後秀吉が東山に大佛を造るために強制的に現在地に移転した。その後やはり火災のために焼失、明治時代の再建が上の写真。
東本願寺大門
この日の最後は東本願寺。
佛光寺の通りから烏丸(からすま)の大通りまで出て南に下がると、通称「お東さん」の巨大な建物が目に入ります。泉光院も一日にこれだけ歩けばもう夕方になっていたでしょう。左は大門夕景。

ワタクシの生まれた家の宗旨はお東さんの系列で、大体はその宗教行事の雰囲気で育っていましたし、金澤合唱團の指揮者、三輪谷サンは真宗寺院である西福寺の住職だったから、東本願寺には他の宗派のお寺よりも少しは親しみがあります。だが「門徒(=一向宗の信徒)もの知らず」というように、この宗派はただひたすらに(一向に)なまんだぶなまんだぶと唱えておれば極楽往生疑いなし、という教義ですから、ワタクシの宗教心もかなりいい加減な所があります。

金澤合唱團では佛教聖歌も歌いました。親鸞聖人七百回大遠忌音楽法要の様子をちょっと書いておきます。カトリック教会での歌ミサとほぼ同じような具合です。

1. 入堂    オルガン奏楽「帰依三宝」        外陣僧出仕
2. 賛歌    合唱「一々の花の」           内陣僧出仕
3. 献燈・散華 オルガン奏楽「礼拝の曲」        中尊前献燈・外陣散華
4. 登高座   合唱「みほとけは」           導師登高座・献香
5. 總禮    合唱「Ti Sarana」三帰依文パーリー語   一同合掌
6. 敬白                        導師
7. 賛歌    合唱「四弘誓願」            導師下高座
8. 正信偈   草四句下                信者一同唱和
9. 賛歌    独唱・合唱「罪障功徳の」        導師散華
10. 念佛   合唱「念佛の合唱」           合唱団
11. 恩徳賛  合唱「如來大悲の」           一同合掌・唱和
12. 回向   願以此功徳               合掌したまま唱和
13. 總禮                       合掌を解く
14. 退堂   合唱「もろびとの」           出仕僧退場

こんなのを東本願寺の大きな御影堂で、御法主さまご臨席のもとで執り行うのです。
これらの音楽は、信時潔、清水脩、小松清、松下眞一、といった昭和初期の大作曲家の手で作曲されました。清水脩作曲「念佛の合唱」は、ヘンデルの「メサイア」第3部の最後、第53曲のアーメンコーラスと同じように、最初から最後まで、ナムアミダナムアミダ だけが158小節も続く壮大な音楽です。
東本願寺御影堂
左の写真、大門から見た御影堂。
ここでワタクシたち金澤合唱團は佛教聖歌を歌ったのでした。
内陣正面佛壇の左側に御法主さまおよび来賓、右側に合唱団で、ちょうど真っ正面に御法主さまがいらっしゃる席でした。

一向宗は15世紀中頃から活躍し始めた蓮如によって民衆の中に広く浸透し、本願寺教団は飛躍的に大きくなりました。そして、「一向一揆」が日本各地に発生します。これは政治権力にとっては恐るべきこと。加賀國で発生した一向一揆は、守護大名であった富樫政親を滅ぼして加賀一國を事実上支配し、加賀は一時「百姓の持ったる國」とまで言われたし、大坂の石山寺に立て籠もった一向宗は、天下統一を目指した新興勢力織田信長と対立し、三河の徳川家康とも争うのです。
天正八年(1580)、柴田勝家が加賀の一向一揆を平定し、石山合戦では信長によって徹底的に撲滅され、豊臣秀吉が政権を取るようになってから本願寺との間にようやく妥協策がとられて、堀川六条に土地を貰って建てたのが現在の西本願寺で、それからどんどん教団が大きくなったので、徳川家康が政権を取ると教団の分離策が取られ、三代家光の時に、烏丸七条に土地を与えてそこに「東本願寺」を造らせました。そして事ごとに東西の本願寺を対立させたので、政治的には骨抜きになってしまいました。
東本願寺全景

東本願寺は、天明の大火以後たびたび火災に見舞われ、建てては灰になる、ということをくり返したので、歴史的な建造物や美術品というものが殆どありません。
右の写真はほぼ東本願寺の全景ですが、殆どは明治28年(1895)に再建されたものです。この建築工事で有名なのは「毛綱」です。巨大な建物を建てるための材木の運搬、棟上げ、に使用する綱を門徒の女性たちが髪を切って編み上げた綱です。総数53本。最大のものは長さ110m、太さ40cm、重さ約1㌧。実物は現在も廊下に一部が展示されています。
御影堂は重層・入母屋造で、高さ38m、南北76m、東西58m、927疊敷きのこの建物は、高さが東大寺大佛殿より低いのですが、それ以外はこっちの方が大きくて、世界最大級の木造建築。こんな中で大きな声を出して歌を歌うのは特別の快感がありました。
この時の合唱曲の中で「Ti Sarana」というのは世界中の佛教徒が共通に歌える歌です。「私は佛に帰依します、私は法に帰依します、私は僧に帰依します」。佛法僧の三つに帰依するという「三帰依文」です。それをパーリー語、お釈迦さまの居た頃の言葉で歌うのです。
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