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2015.07.29 (Wed)

泉光院の足跡 080 洛中

廿四日 晴天。東寺、西本願寺、本國寺、二条御城、北野天満宮、御所へ詣で、東寺にて納經す。信濃屋へ仕立布子外に二つ頼み置きたる故請取に行く、未だ出來居らざる故直ちに伏見へ歸る。東寺の塔

京都で高いものといえば東寺の塔だった。五重塔などと呼ばずに、「トウジノトウ」と頭韻を踏んで呼ぶ慣わしがあった。最近は外にも背の高いものがあるようだからあまり目立たなくなった。高さ56m。現存する五重塔の中ではいちばん高い。

まず東寺からスタートしました。伏見から北の方にすぐ見えます。金光明四天王教王護國寺秘密傳寶院というのが正式名称。
羅城門跡碑
延暦十三年(794)、平安遷都の前後に羅城門(羅生門とも言います)の東に東寺、西に西寺を建てました。
左はかって朱雀大路の南端にあった羅城門遺跡の碑。
西寺はここから西に500mほど行った所にあったのだが何度かの火災で燒滅した。

東寺境内
東寺の境内です。
広くて大きいお寺です。

空海は30歳の時遣唐使の秘書兼通訳として入唐し、最澄に一年遅れて膨大な文化財を携えて帰国しました。彼は最初高野山に寺地の下賜を願い出て許され、金剛峯寺を造りましたが、後にこの東寺の土地ももらったのです。そしてここに眞言密教の理想の境地を作り上げたのでした。

講堂内部には、諸佛が仁王護國經曼荼羅の形式で配置されています。仁王護國經と言えば泉光院がいつも唱えているお経ですね。
東寺不動明王
お堂の中央に、大日如來を中心とし、阿閦(あしゅく)・宝生・阿彌陀・不空成就の五菩薩が、東寺軍荼利明王
右には金剛般若波羅密菩薩を中尊として、金剛薩埵・金剛宝・金剛法・金剛業の五菩薩が、そして左には不動明王を中尊として、金剛夜叉・降三世・軍荼利・大威徳の五明王が配置されていて、全体の四隅に多聞天・持国天・増長天・広目天の四天王、両端東西に梵天と帝釈天、全部で21体の佛像が並んでいます。
例としてのせたのは右が不動明王、その左に軍荼利(ぐんだり)明王をのせておきました。ワタクシの好みの2体です。
東寺では弘法大師の忌日である4月21日を祈念して毎月21日に縁日があります。
広い境内が露店でいっぱいになる。特に1月の初弘法、12月の終(しまい)弘法は有名。骨董品の掘出物があるらしいですよ。

東寺の前の道、大宮通りを北へ真っ直ぐに上がって七条通(京都の人はヒッチョと言いました。京都駅は七条にあるのだがヒッチョ
の駅と呼ぶのです)を横断すれば西本願寺はすぐです。
西本願寺唐門
国宝の唐門とその細部。
西本願寺唐門細部

唐門はお寺の南側の堀に面しています。桃山時代の建築です。檜皮葺四脚門、前後唐破風・側面入母屋の造り、極彩色の彫刻が美しい。
秀吉がここに寺領を寄進したのは天正十九年(1591)で、まず御影堂が完成したのだが、慶長元年(1596)の地震で倒壊、すぐに再建したのだが今度は元和三年(1617)の失火で御影堂・阿彌陀堂なをを焼失、そして現在もなお大修理をしています。
西本願寺飛雲閣
唐門の東に滴翠園という庭園に続いて飛雲閣(国宝)があります。
一階の屋根は入母屋造、二階が寄せ棟造、三階は宝形造、と異なった三層の楼閣で出来ている珍しい建物。秀吉が造った聚楽第(じゅらくだい)の遺構の一部を移築した、と言われているのだが確かなことはわからない。多分元和三年の火災の後に建てたものでしょう。

二階の窓の所に三十六歌仙の絵が描いてあるのだが、これではわからないので絵の部分だけ拡大してみましょう。
これでようやく三十六歌仙の一部らしいことがわかりますね。
西本願寺飛雲閣の絵


西本願寺の次が日記では本國寺と書いているのだがこれがよく判らない。
京都に本國寺というお寺を捜してみたのだが、ちょっと見当たらなくて、山科に本圀寺というお寺があり、これが古くは本國寺と言っていたのだが、水戸光圀が援助をしたことがあって、それで本圀寺と改めた【國=圀】と言う所まで調べたのでしたが、泉光院は西本願寺の次に本國寺でその次に二条御城、と書いているので、まさか山科まで行くわけはないだろうと、ワタクシはここを不明のまま二条城へ行くことにします。
京都地図洛中南部

例によって江戸時代の京都地図。
東寺が一番下の左の方にあって、その上に西本願寺です。
そこから堀川通りを上がって二条通にぶつかった所の西側に二条城があります。
(字が小さいのでわかりにくいとは思いますが目を凝らして見て下さい。赤線は後で説明しますが洛中・洛外を分ける御土居です。)

二条城東南隅櫓

左の写真は外堀に面した東南隅櫓。
堀川通を上がるとまずここが目につきます。
徳川家康が天下を取ってから、関西方面の大名たちに造営費を出させ、平安京の禁苑、神泉苑を削って堀に転用し、町屋を1000軒も立ち退かせて造った御屋敷です。
敷地面積は270,000㎡もあって、内部は徳川家の威を示すために実に豪華。

二条城二の丸唐門
東大手門から入って右の写真の唐門をくぐると向こうに二の丸御殿が見えます。
ずいぶん豪華に見えますね。
今まで見てきたお寺や神社などとは全く違った建築物です。
徳川将軍家京都支店といった趣です。


二条城二の丸御殿
二の丸御殿。
右側の唐破風のあるのが車寄。
ここを入って大きな屋根の下にあるのが「遠侍」といって大名たちの控えの間。そこから左の方へ進むと式台の間で、ここで威儀を正してお隣の大広間へと進みます。
大広間の奥には渡り廊下で区切られた黒書院、白書院と続くのですが、ここまではいわば公式の会議場の様なもので、この奥には別棟で本丸御殿と天守閣があったのです。
本丸御殿はお公家さんであった桂宮家の御殿を移築したものといわれていまして、将軍御上洛の時の居館でした。慶長八年(1603)、徳川家康は征夷大将軍としてここに入城したのです。五層の天守閣は大坂冬の陣・夏の陣の時には作戦本部としての役割を果たしました。天守閣はその後落雷で焼失しましたが、その頃には徳川幕府による安定した政治が行われるようになってきたのでもう二度と天守閣は造られませんでした。二条城二の丸大広間
二条城が再び脚光を浴びたのは幕末の慶応三年(1867)十月十四日のことでした。
第十五代将軍徳川慶喜が入城し、この二の丸御殿大広間で大政奉還を宣言したのです。
徳川幕府三百年の歴史はこの時終わりました。
右はこの大広間における将軍の謁見を再現しております。居並ぶ人物はみんなお人形サンです。
二条城二の丸庭園櫻

城内二の丸庭園の北にある清流園です。
4月9日には満開の枝垂れ櫻の下で観桜茶会が開かれます。いったいどんな人たちが招かれるのでしょうか。

豊臣秀吉が関白太政大臣になったのは天正十四年(1586)で、彼は京都の改造に並々ならぬ意欲を示しました。まず京都市内の周囲に「御土居」という、総延長23kmにも及ぶ土塁を張り巡らせて、その内側を「洛中」、外側を「洛外」と決めました。
京都地図洛中北部

先の地図と合わせて、赤線が御土居の場所で、この内側が洛中、と言うわけです。

北の方、一番上にあるのが今宮神社で、そこから時計回りに賀茂川に沿って鞍馬口・大原、ここから鴨川に沿ってずっと南へ下り、粟田口・伏見・東寺の南、そこから北へ上がって壬生寺の外側から北野天満宮の外側を経て元の今宮神社の所まで、グルッと京都を取り巻いているのです。
御土居北野天満宮
左は北野天満宮のあたりにわずかに残っている「御土居」。
高い所は5mほどにもなるのです。
話だけ聞いていた時にはさほどのものとも思わなかったのですが、実際に行って、この上を歩いてみて、その大きさに魂消たのでした。
本当に15世紀のパリ市内を取り巻く城壁と全く遜色がない(ゴメンナサイ。15世紀のパリへは一度も行ったことはないのです。本で読んだだけです。)巨大な城壁です。
秀吉はこの城壁の内側を本気になって城下町にするつもりだったようです。
戦国時代の京都は、二条以北の上京と、三条以南の下京に分断され、一都市としての機能を失いかけていたのだが、秀吉の都市改造計画で始めて今日見るような京都の姿に生まれ変わったのでした。
西陣織

二条御城を出て堀川通を北へ上がって今出川通へ出たら西に行きます。このあたり、西陣という所で、西陣織会館というのがあって美しい織物を観ることが出来ます。

北野天満宮へ来ました。
ここは菅原道真を祀った神社。
道真はここでは神様になっているのです。菅原家は奈良時代以降代々學者一家で、道真も頭が良くて、11歳の時に既に周囲の人々を唸らせる漢詩を書いたと言います。
北野天満宮
この時代、政界を支配していたのは藤原氏で、権力保持のためには手段を選ばないのです。藤原基経は天皇の人事にまで口を出して、自分が推挙した宇多天皇から最高執政權をかちとる、というような強引なやり方です。だがあまりの専横に天皇は公明で博識な人材を、と考えて、菅原道真を抜擢して彼の進言を聞くようになりました。
寛平九年(897)、宇多天皇は退位し、出家して法皇と称し、醍醐天皇に譲位しましたが、この年、基経の息子時平が左大臣になり道真は右大臣になりました。そして延喜元年(901)正月、57歳になった道真に突然追放、太宰府に左遷、という命令が下るのです。
左遷の理由は、道真が、醍醐天皇を廃して自分の娘婿の親王を天皇にしようと画策した、という容疑をかけられたのです。左大臣藤原時平の讒言です。
太宰府の荒廃した館に軟禁された道真はやがて病魔の冒すところとなり、失意のうちに死んでしまいました。
北野天神縁起絵巻
               
平安時代中期の延長八年(930)六月二十六日、内裏の清涼殿を烈しい雷雨が見舞いました。会議の席にいた公家や官吏たち数名を死傷させたこの事件を、人々は「菅公の祟り」と怖れたのです。右の絵は「北野天神縁起絵巻(国宝)」で、雷神となった道真が清涼殿を襲う場面です。牙をむきだし太鼓を打ち鳴らしながら迫る鬼は電光を発し、人々は逃げまどいます。
道真が太宰府で死んだ6年後には、道真の左遷にかかわった藤原時平は病死し、時平の妹と醍醐天皇との間に生まれた親王も21歳で急死し、その揚句の落雷です。衝撃を受けた醍醐天皇は病気になって死んでしまいます。
菅原道真は延喜元年二月一日、太宰府へ向けて出発する前に、自分の邸の庭で、好きだった梅の花を前に惜別の歌を詠みました。
   東風(こち)吹かば匂をこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春な忘れそ
北野天満宮梅

道真を偲んで北野天満宮の参道左奥に大きな梅園があります。あまり興味がないのでぼんやり歩いて、お茶券があったのでお茶を飲みました。一緒についてきたお菓子はどんなのだったか忘れた。
長五郎餅
境内に長五郎餅を売っているお店がありました。柔らかな羽二重餅で餡を包んだお菓子です。上品な味わいと洗練された形がいいですね。豊臣秀吉が天正十五年(1587)十月、ここで北野の大茶会を催した時には秀吉にも献上されて、彼はこの餅がとても気にいったので、店主の名をとって「長五郎餅」と命名したのでした。
梅園の外れの坂を登っていたら、それが御土居でした。大きな川の堤防よりもずっと高く広く、立派な城壁でした。こんなのを京都の周囲全体に張り巡らしていたことに驚きを感じます。だが京都が拡大するにつれて御土居の存在は邪魔になり次第に消滅してしまったのでした。

この日の最後は御所。今出川通をもとへ引返して烏丸通迄来ると御所のいちばん北の端です。上の地図で緑色の線で囲った枠が御所。
蛤御門
烏丸通を下ると蛤御門で、薩摩・會津連合軍と長州軍が衝突した場所です。そこを入ると建禮門があります。京都御所南の正面。この門を通ることが出来るのは天皇と、譲位して上皇となった元天皇だけです。
蛤御門(左)と、建禮門(右) 。
京都御所建禮門
建禮門を入りますと承明門と廻廊がずっと続いて、回廊に囲まれた南庭に面して紫宸殿があります。

京都御所承明門紫宸殿

右は承明門の所から見た紫宸殿。
紫宸殿は御所の正殿で、中央には御帳臺(玉座)を置いてあって、即位式の時や朝賀の儀式で使う場所です。


紫宸殿と斎王代

これは斎王代が紫宸殿で伊勢へ出発前の儀式をしている様子。

天皇の住所である御所がこの場所になったのは古い時代ではありません。
平安京の大内裏はここよりずっと西の方、現在の千本通に中心があった。平安遷都後、たびたびの火災と再建をくり返し、安貞元年(1227)の火災以後は造営されず、諸官庁も荒廃して荒野となっていた。南北朝の頃に北朝の天皇が現在の御所のあるここに住むようになって、それ以後この場所に定着するようになった。戦国時代にも御所は荒廃し、信長・秀吉・家康など政権を取った人たちが再建に努め、天明の大火後の寛政二年(1790)に松平定信がほぼ現在の形にしたのだが、これも嘉永七年(1854)四月に全焼、翌安政二年(1855)に再建したのがここに写っている御所風景です。

泉光院の今回の京都見物はこれで一旦お終いとなります。そして先日仕立物を取りに行ったのが未だ出来ていなくて、翌日また平四郎を上京させて請取りに行かせたり、世話になった伏見の御屋敷の人たちに挨拶して京都を出発します。今回見逃した金閣寺、妙心寺、嵯峨や嵐山などは今度また京都へ舞い戻った時に見物しましょう、
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