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2015.08.29 (Sat)

泉光院の足跡 085 年内立春

これから年末まで一ヶ月程ありますが、その間のちょっとしたエピソードだけ拾って書きます。

岩王寺で硯を買ってから、
…黑谷と云ふ田邊街道の方へ行く。此所は紙漉計りの住宅にて家數二百軒計りあり、托鉢に紙を出す、五左衛門と云ふに宿す。…
国道27を北へ上がると「和紙の里黒谷」という観光スポットがあります。
黒谷紙漉の里
かなり山深いところですから、田畑の地も少なく、江戸時代には男は出稼ぎ、黒谷紙漉
女は黒谷川の水で紙を漉いた。元禄の頃、山家藩家老戸倉十右衛門が奨励して資金援助をしたので和紙製造が主産業になり、托鉢をしてもお米や銭の代わりに紙をくれるような土地柄になった。
紙漉きは今でも続いていて、「黒谷和紙会館」という所に観光バスが着いて、展示や即売があるのでお買い求め可能です。

今の綾部市周辺の村一つ一つをくまなく托鉢して歩き、どの村でも托鉢先で、
…今晩は一宿せよ、…
と声を掛けられ、
…朝暮馳走に逢ひ、…
みなさんの親切でたいした苦労もせずに生きております。

廿九日 朝晴天。辰の下刻出立、峠を越しヤヅ谷と云ふに下る、人家少々あり、此谷へ入込むと大雪風になり、平四郎は跡になり予は先に行く、餘り大雪故人家に立寄り休息、晝食出る、豆腐の油揚等也。平四郎は宿貰ひ置き予を尋ねて廻り同道にて吉次郎と云ふ宅に宿す。大雪故に主人種々いたはり呉れる。一句、
   情けなく降り積む雪にふりかえて 深き情けの積る此宿

矢津村(ヤヅ谷)は、No.068安寿と厨子王 の項で出てきた由良川上流、山椒大夫の首塚や大川大明神のあった所よりももうちょっと上流の場所です。

…大川あり、此川は由良へ出る川上也、山家下より流れ來る。此川へ鮭の魚居る由、所の者申す事誠の鮭か知らず。…
大川大明神
右の神社、大川神社の女体神は昔サケに乗ってここへ現れた、という伝説があるのは前に書いた(No.068)通りで、泉光院は…本当の鮭かどうかはわからないけれども、…と書いています。
川を渡ると、元伊勢神宮があります。
ここには三重県の今の伊勢神宮にある名称そのまま、元伊勢内宮・元伊勢外宮・五十鈴川・宇治橋などがあるのです。

…又、渡しを上り川守(こうもり)と云ふ町あり、此所は宮津領也。此町より外宮は東十丁に大いなる森あり、宮柱太敷立ちてあり、宮西向納經す。花表前に町あり。此道筋福知山への往還筋也。因て此町には旅人宿あり。夫より東に十四五丁行けば内宮の森あり、階段三丁、御殿南向、下に町あり、納經す、…
元伊勢神宮元伊勢外宮







左が元伊勢内宮・皇大神宮で、右が元伊勢外宮・豐受大神宮です。いつ頃、何でこの地に出来たのか?というのはわからないのですが、一説によると(といって受け売りをします)、
内宮の方は、崇神天皇の頃、BC1世紀! というから曖昧模糊とした時代、ヨーロッパだとシーザーとクレオパトラの時代ですからこれはある程度はっきりしていますね。外宮の方は、雄略天皇の時代、というから5世紀。神話の時代です。日本書紀だと、倭姫命に天照大神の夢告げがあって、BC478にここから伊勢の方へ御神体を遷した、というのです。
元伊勢内宮から山道を西の方へ登れば(No.085 丹後)に写真を入れておいた大江山八合目にある鬼嶽稲荷神社になります。だが今は真冬。
…此邊雪至て深し、往來は雪二三尺計り、恐ろしき事なり、…
で、二俣村仁右衛門という陰宅へ泊めてもらって、…閑居故豆腐等調へる。…
福知山城

ここから少しずつ南下して福知山の方へ出ました。写真は福知山城です。

…福知山城下へ赴く。渡船あり、直ちに城下町廣小路と云ふに出る、番所あり托鉢宜しからず、故に修行せず、…というわけで福知山城を見物に行きました。

…御城少し山あり、東西深田、南北家中、追手東向、高樓二つ見ゆる。…
だいたい泉光院の書いているとおりです。このお城も明治5年の廃城令で取り壊され、いま写っている天守閣のようなものは昭和61年の再建です。世界遺産研究の会で天守閣完成直後に見物に行きました。
もうそろそろ年宿へ行ってお世話になることに致しましょう。
年末までの数日、所々抜き書きします。

十二月十三日 雪天。今日は丹波國中一統に煤拂ひに付托鉢出來ずと申すに付滯在す。
十六日 晴天。洗濯始める、折節喜兵衛親類の老母來り合せ候故、洗濯手傳ひ呉れられ甚だ仕合せ、夕飯の馳走に合ふ。
十八日 半天。洗濯物少々乾く、股引脚絆等繕ふ。
十九日 半天。洗濯物糊する。隣家より線香一把、粟五合本尊へ上げらる。
二十日 曇天。洗濯物今日迄乾かず。
廿二日 半天。洗濯物乾き成就せり。内の子へ墨、筆二對、又紙代として銀二匁遣はす。
廿三日 晴天。公庄村立、辰の刻。川を渡り室谷と云ふに赴く、此谷は田邊領にて托鉢人一人も入れず、因て托鉢せず。…

室谷という村は舞鶴の田辺領で、当時の領主は牧野惟成。この人は乞食・托鉢などを厳しく禁じたらしい。領主命令で、
…若し内證にても修行の人へ手の内施したるを聞付けたらば、庄屋落度仰付けらる旨御觸れ毎々ありと云ふ、…
施しをしたことがバレると庄屋さんまで連帯責任でお咎めを受けるのです。泉光院はこのような領主の態度を批判して、
…信心と云ふ事も絶ゑ果て我欲計りに相成り氣の毒なる事也。…
ところがこんな領主がいる藩なのに、ここの御役所の人(藩の事務方のお侍サンでしょう)が、普通の民間人から貰ったのでは法令に反するのだが、と言って
…白米一升五合、大豆五合施行を出したり。…
と書いている。こういうのがワタクシにはたまらなくウレシイ。法律は法律として守らなくちゃならないのだろうが、人間が、真っ当に、正しく生きる、と言うことはどんなことか、当時の人の心の内側を支配していた考えがわかるのです。その頃の人の心を支配していたのは基本的には、孔子孟子、儒教の教えなんでしょうけれども。

廿六日 晝時迄大雪。徳右衛門宅立、辰の下刻。道々托鉢し高槻村へ赴く、雪にて道惡く暮時藤兵衛宅へ着く。夕飯出る。風呂へ入り休息す。叔父とて來り居らる、此人申す様、各々方へ年宿進ぜ申す御約束先達て申上げ候へども、藤兵衛儀御存知の通り癪持ちにて此頃別して惡るく、他人に逢ふ事を忌む、又質屋にて節季甚だ取込み候故隣家に平兵衛と云ふ一人住居の者あり。此方へ宿頼み置き候間近頃申し兼ね候事なれども彼の方へお越し給るべくと申すに付、初夜過ぎ平兵衛と云ふ宅へ赴く、尤も此宅先達て藤兵衛宅へ尋ねたる折立寄りし家にて、主人平兵衛も知る人也、甚だ都合宜しく、上座に六畳敷の座あり此間に宿す。

雪の降る中、丹波の山中を歩き回っていましたが、夕暮れになってようやく高槻村質屋藤兵衛さん宅に着きました。先月十七日に年宿をここで取る様に約束していたのです。さっそく夕飯が出て、お風呂も立ててくれました。しかし主人藤兵衛さんは、癪持ち、であることと、年末は質屋業が特に忙しい時期なので、まことに申し訳ないが隣の平兵衛さんの所へ移って貰えないだろうか、と、わざわざ叔父さんを介して頼みますし、泉光院も先日来た時に会っているから知らない人ではないし、平兵衛さんも上座の六畳間を開けて待っている。回國修行者を尊敬して待遇している様子がうかがえて、ここのところ読んでいて甚だ心地よいのです。
癪、というのは癪にさわるとか、癇癪持ちとか、そういうのではなくて、いろいろの病気のために胸部・腹部におこる激痛の総称です。時々発作的に激痛が起こるのです。何故か江戸時代には多かったようです。

廿七日 雪天。今朝藤兵衛宅朝飯並に餅の振舞あり、又彼の方より白米一斗、味噌六七貫目贈らる、先づ受納す。吾々よりコンペイ糖落雁等菓子一折贈る。平兵衛宅にて餅汁出來合の冷飯等食する。隣家より年のもの一重本尊へ上げる。…

翌朝早速等兵衛さん宅から朝食が届き、白米、味噌、とりあえずは充分な量が届けられる。落雁

いったん有難く受取っておいて、返礼に、金平糖・落雁など、これは京都で仕入れてきたものでしょう、そんなものをお返しにしておきます。
金平糖・有平糖といった南蛮菓子は、江戸時代初期だと長崎に輸入されたものとか、京都のお菓子屋さんで作ったのが東海道を旅して将軍さまに献上されたものでした。泉光院の時代になると庶民でも買える程に普及したのでしょう。金平糖の写真は(No.063 出石)の項で載せておいたので、今回は落雁です(金澤・高砂屋)。

…等兵衛宅より贈られたる米は主人平兵衛を頼み返す、今晩は節分にて心經會の作法相勤むる。
   節分や所々に鬼打つ豆の音


泉光院たちは廿三日の項で書いたように田辺の役人から貰った一升五合のお米や、それまでに托鉢で貰ったお米を持っていて、廿五日には…正月飯米は貰ひ出したり、…と書いているのでお米には不自由していなかったらしく、お米は平兵衛さんにわけを話して等兵衛さんに返しました。お米は貴重品です。
この日は節分でしたから般若心経を読む作法を勤めました。どこの家からも豆を撒く音や、福は内鬼は外、の声も聞こえそうです。

…今日は節分、舊年は今迄とて煮物冷飯の類殘し置きて宜しからずとて、六七日以前に拵へたる雜炊の殘りに今朝の冷飯、汁野菜の類種々入りたるを一所に仕入れ、又餅も入れ、ういろうのからなども入れたり、七種のこながきとこそ言ふにこれは十四品もあり、味噌もあり、醤油もあり、其味ひ甚だ宜し、近所の衆兩三輩見へたる故寄合食す。甚だ賞味あり、珍しき雜炊と賞せられたり。…

節分なので残り物は全部食べてしまいましょう、とばかり、鍋にいろんなもの全部放り込んだ(まるで闇鍋!)。七種(ななくさ)粥どころか十四種粥になってしまった。近所の人たちも来ていてみんなで食べてウマイ!と言ってくれた。金澤にいた頃ワタクシもやりましたよ。横山サン・平井サンといった人と下宿で鍋の中に何でも放り込んでゴタゴタにしてにて食べる。…其味ひ何とも言へず!…

京都吉田神社の節分祭風景をのせておきましょう。
2月2日の追儺式。俗に「鬼ヤライ」という悪神祓いの儀式には大勢の人がつめかけます。吉田神社節分祭

黄金四つ目の仮面をつけて鬼を追いやる「方相氏 ほうそうし」がまず現れてきます。やがて、赤・青・黄の3匹の鬼が登場し、集まった観客の前で気勢を上げます。そこへ方相氏が大声を出して矛と盾を振りかざすと、鬼たちは慌てふためいて逃げまどい、観客たちはその姿に笑い転げます。最後は、境内の隅に追いつめられた鬼を、勅使役の上卿(しょうけい)が、桃の弓、葦の矢で射て祓い、豆撒きを行います。両手を挙げているのが方相氏、横にいる従者と一緒に鬼を追い回します。
京都の節分祭は他には、鞍馬山、八坂神社などのが有名。
鞍馬山のは古来宮中で行われていたのを再現したもの。八坂神社では舞妓サンが豆を撒いてくれます。

旧暦は太陰太陽暦なので、立春の日と元旦が一致するのが望ましいのだが、太陽の位置が赤経0度の春分点に来た時と月の朔が一致することはなかなかないので、元旦を出来るだけ立春に近い日になるように、時々閏月を置いたりして調整するのです。それでも年内立春という年が発生します。この年は12月28日が立春でした。

廿八日 半天。主人平兵衛、平四郎、梅迫(うめさこ)と云ふ町へ調え物に行く、予は留守番す。主人平兵衛へもんぱの足袋一足他に柿等歳暮に進ず。又藤兵衛方より米七升五合、茶一斤、薪四束贈りあり、又々來る故今度は受納す。

もんぱ(紋羽)というのは綿ネルの様な生地。冬だから暖かい足袋を贈ったのです。藤兵衛さん宅からまたお米が届いた。今度返したら失礼に当たる。有難く戴くことにしました。

廿九日 終日曇天。藤兵衛方より餅一重ね、黒大豆一重、玉吟贈りあり、左に記す。此方より煮豆一重砂糖入、他にういろう一重、砂糖一斤贈る、右に付一句、
   心計りまめなを祝ふ歳の暮 丹波黒豆
      
彼の方よりも一句、前略、
   ういろうや甘みをまめに歳の暮
   うかうかと大方暮らし御年玉
とあり。又近所の老翁より多葉粉一包贈らる。此邊も門松飾り縄はなし、神佛前に餅上げる計り。

晦日 半天。屏風上塗仕立相濟み額を書く、敬の一字大字甚だ出來たりと自慢す。夜に入り爐一杯炭くべる。暖かなる事暑中の如し、主人の心太山の如し。扨何方も金銀の出入事やかましく、東西へ走る人櫛の齒を引く如し、因て歳暮一句、
   金銀の出入りは餘所に年の暮
これにて文化十一戌年の筆をとどむ。

                        日本九峰修行日記 第二巻 畢

大晦日です。一年、あるいは半年のツケをこの日までに支払わなきゃならない。藤兵衛さん宅には現金の要る人が質草を持って訪れる人もいたでしょう。井原西鶴には年末支払いの事を書いたものがありましたね。
囲炉裏一杯真っ赤に炭が燃えている。薪に比べて炭火は実に暖かい。
ここでは人の心も実に温かい。好い年の暮です。

丹波・丹後の国へ来て、泉光院の歩きぶりを書いていると、この地方の人は温かく人を迎えているようです。今と比べてそんなに物が潤沢にあったとは思えないのだが、人の心は今よりもよっぽど豊かだったように思えます。

質屋といえばワタクシもよくお世話になりました。カメラ(立派なものではないのだが)は普段質屋に入っていて、山やお寺へ行く時、旅費と同時にカメラも請け出さなくてはならない。だから旅から帰るとカメラがすぐ質屋へ走るのです。こんな事を5、6年はやっただろうか。そのうちカメラが古くなって質草の役には立たなくなった。
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