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2015.09.26 (Sat)

泉光院の足跡 094 葵祭

洛北の桟敷ヶ嶽、貴船の山中に発した流れは賀茂川となって京都盆地を下り、糾の森空撮
大原から流れ出た高野川と、糺の森の所で合流します。右の写真の三角州にある森が、糺(ただす)の森。向かって左の川が賀茂川、右の川が高野川です。
ここで合流してから鴨川になります。

この糾の森の奥に下鴨神社、正式には加茂御祖(かもみおや)神社があります。
下鴨神社本殿
左の写真です。
この神社は、上流にある上賀茂神社とあわせて一社とされて、平安時代の始めには山城國一の宮として都びとの崇敬を集めました。
上賀茂神社楼門

下鴨神社から賀茂川を3kmほど遡ると上賀茂神社、これも正式には加茂別雷(かもわけいかづち)神社です。右がその神社の楼門。

上下両神社とも樓門や本殿の構造は殆ど同じようですから、それぞれ代表として写真をのせておきました。
京都のお祭りといえばまず加茂祭です。葵祭ともいいます。
下鴨・上賀茂両神社が一緒になって、陰暦四月の中の酉の日(現在は5月15日)に行う非常に古くからのお祭りです。
葵祭双葉葵

右が双葉葵。これは賀茂社の神紋です。
お祭りの間いろんな所に飾りとしてつけられます。
男性は烏帽子や冠に、女性は胸につけるのです。
葵祭下鴨神社御御簾葵

左は下鴨神社の御簾につけられた双葉葵。
葵祭というのはここからついた名前です。

このお祭りは日本のお祭りの中でも特別なものだと思いますので、ちょっと詳しく書いておきたいと思います。
よく京都の三大祭りとして、この葵祭と、祇園祭と、平安神宮の時代祭とを挙げますが、時代祭は単なる観光用行事で、お祭りとしての意味はありません。祇園祭は、No.077 祇園 の項でやや詳しく書いておきました。

賀茂社は平安京遷都以前からここに住みついた賀茂氏(かもうじ)一族の本拠地で、賀茂氏はその昔、大和國葛木(葛城)山にいた建角身命(たけつぬみのみこと)というのが、賀茂川を遡って山背(やましろ)の現在地へ移ってきたのです。
だから桓武天皇が延暦十三年(794)にここへ遷都をする時、先住の賀茂氏に敬意を表して從二位を贈って融和を図ったのでした。そして山背を山城國と改名し、都を平安京と名付けました。
賀茂社の祭は、古来、五穀豊穣を祈る賀茂氏の素朴な祭で、平安遷都以前から近隣諸国に聞こえた有名な祭でしたが、大同元年(806)、天皇が執り行う祭となり、翌年には賀茂社に正一位を贈って伊勢神宮に次ぐ地位を与えたのせした。それ以来、祭といえば加茂祭をさす迄になりました。
葵祭路頭の儀堺町御門
葵祭は現在は5月15日(雨天の場合は翌日)に行い、宮中の儀、路頭の儀、社頭の儀、の3儀式があります。

15日早朝、勅使以下が京都御所に集まって、奉行から御祭文と御幣物を受取って(宮中の儀)、10時半過ぎ、総勢350人、牛馬30頭余りの行列が建禮門を出発する所から始まります。
左は建禮門から南へ下がった堺町御門を出る御所車(右はその車の部分)です。

葵祭御所車の車



これから丸太町を東に進み、鴨川沿いに北上して、昼ごろ下鴨神社、午後3時半ころには上賀茂神社に到着します。これが「路頭の儀」です。

御所車は藤の花などで飾られ、水干を着た8人の牛童が引綱をとります。牛車(ぎっしゃ)は網代の杏葉車(こうようしゃ)で、牛も美々しく飾られます。
だが何といっても葵祭の中心人物は斎王代でしょう。
葵祭斎王代宮中の儀葵祭斎王代拡大


これが「宮中の儀」です。中央に座っているのが斎王代、右に拡大写真を入れました。

斎王、あるいは斎王代が葵祭に登場するようになった背景などをちょっと書いておきましょう。
斎王というのは、伊勢神宮や賀茂社に奉仕する内親王(天皇の娘)のことで、例えば伊勢神宮の場合ですと、天皇が代替わりするとその事を斎王が伊勢神宮に申上げるということをするわけです。垂仁天皇の娘 倭姫命(やまとひめのみこと)に始まるといわれていて、後醍醐天皇の娘、祥子(しょうし)内親王まで約660年続きました。
この制度は鎌倉時代初期にはなくなって、斎王代という、皇室に関係のない未婚の女性の中から選ばれて勤めることになりました。

賀茂社の場合、弘仁元年(810)、嵯峨天皇は兄である平城上皇と対立して、賀茂社に上皇派の鎮圧を祈願したのです。この時代の天皇家とその側近の間にはかなりの内紛があったようで、毒殺等という文字も皇族の間にはちらついている事もあるのです。
賀茂神は内紛に関与して、結果として平城上皇は争いに敗れ、剃髪しました。嵯峨天皇は目的を達成したお礼に、最愛の娘、有智子内親王を賀茂神に仕える斎王として差し出したのでした。それ以来、未婚の皇女が斎王(いつきのひめみこ)として賀茂神に仕えることになったのです。

ここから先、ちょっと面倒くさいことを書きますので、次の綺麗な絵が出てくる所までは読まなくてもいいです。

賀茂伝説によると、建角身命には玉依比賣(たまよりひめ)という娘がいました。ある日彼女が瀬見の小川(賀茂川の支流)で水遊びをしていると上流から丹塗りの矢が流れ着き、それを拾って床に置いたところ、娘は懐妊して、産んだ子供が別雷命(わけいかずちのみこと)です。これは秦氏の祀った氏神である大山咋神(おおやまくいのかみ)が丹塗りの矢に変身して賀茂氏の娘との間に子供を作ったという伝説です。
秦氏は朝鮮半島から移住してきて太秦(うずまさ=京都西北部)の地を拠点としている豪族です。
上賀茂神社には別雷命が、下鴨神社には建角身命と玉依比賣の父娘が、祭神として祀られています。
ヤマト朝廷としては賀茂氏・秦氏という先住の地方豪族と友好関係を結んでおかなければならないので、御幣物、つまり贈物をしたり、娘を差し出したりしたのでした。
葵祭斎王代腰輿

左は腰輿(およよ)に乗った斎王代。
加茂祭の最大の見どころは、今も昔も華やかな装束です。
京の三大祭の中でも美しさは随一。
学術的にも貴重なものですから、雨天の場合は翌日繰越しとなるのです。

数枚の袿(うちぎ)の襲(かさ)ね着姿に、長い裳と唐衣(からぎぬ)を重ねた十二単(じゅうにひとえ)と呼ばれる女房装束に、多くの装飾品をつけます。 頭には金属製の釵子(さいし)、梅をかたどった心葉(こころば)、白糸を編み込んだ8本の日陰糸(ひかげのいと)、という飾りをつけます。髪はまっすぐに下ろした垂髪(おすべらかし)という髪型です。葵祭斎王代衣装

手には6色の紐飾りが巻かれた豪華な檜扇(ひおうぎ)を持ち、腰につける裳には美しい絵が描かれています。素材は綾織りの、紗のように透ける生地です。

ほんとうに美しい。

平安時代。この時代は藤原氏が同族の間で覇権を競い合っていた時代でしたが、一方で非常に優れた文化が花開いた時代でもありました。
永祚二年(990)、藤原道隆は娘定子(ていし)を一条天皇の中宮とし、自分は関白となって権力を掌握しました。定子の周囲には『枕草子』の作者清少納言や女流歌人など多くの女房たちが集い、華やかな宮廷の後宮生活が営まれました。その洗練されている様子は、それから600年以上も後のフランス・ルイ14世の宮廷、ヴェルサイユをもしのぐのではないかと思う程です。
しかし、長徳元年(995)、藤原道隆の死で状況は一変しました。道隆の弟、藤原道長は、対立する定子の兄、伊周(これちか)を九州に左遷して、自分は左大臣に昇進します。そして娘の彰子(しょうし)を一条天皇の女御として入内させ、権勢を振るいはじめるのです。定子も24歳の若さで死んでしまい、宮仕えを辞した清少納言は洛外に隠栖しました。
紫式部は、一条天皇の中宮となった彰子の所に出仕します。豊かな文才と教養は道長からも愛されて、紫式部は誰をモデルにしたか知りませんが、『源氏物語』を書きました。
葵祭源氏物語若紫
賀茂の祭はこの時代にはすっかり定着しています。左の絵は、若紫(のちの紫の上)を葵祭見物に連れ出そうとして、光源氏(右端の人)が自ら鋏を持って髪を整えている図です。(伝俵屋宗達筆・源氏物語図屏風部分)
「葵の巻」ではこのお祭りを見るため葵の上と六条御息所の車が衝突する、という車争いの場面が書かれているし、光源氏自身も勅使の役を引き受けているようです。


葵祭斎王代御所出発

葵祭路頭の儀賀茂街道



左は腰輿に乗って御所を出る斎王代。右が賀茂街道を行く「路頭の儀」です。

平安時代の行列のコースは、大内裏が現在の京都御所の場所よりも西の方にあったので、大極殿の東の待賢門から出て、東京極通を上がって行きました。比叡山を右手に見て、緑濃い賀茂街道を進む行列を見るのも素晴らしい光景です。
現在の葵祭の行列、「路頭の儀」は、10:30に堺町御門を出てから、丸太町通を東へ進んで、丸太町河原町の交差点が11:00頃。河原町通を北進し、賀茂川を出町橋で渡って糾の森へ入り、11:40頃下鴨神社へ到着、そこで「社頭の儀」をして、14:20下鴨神社出発、糾の森を抜けて14:55ころ北大路橋で賀茂川を渡って賀茂街道を北に上がり、御薗橋でまた賀茂川を渡って15:30ころ上賀茂神社へ到着、そこで再び「社頭の儀」をして、葵祭・加茂祭を終るのです。

行列はいちばん最初が検非違使で、続いて山城使、御幣櫃、馬寮使、舞人、近衛使、陪従、内藏使、の順で、斎王列と続きます。腰輿に乗った斎王代に、女人45人が付き従います。京都御苑内では観覧席が用意されます(有料)ので、ここでゆっくり見ることが出来ます。

葵祭の前儀として、3日には流鏑馬(やぶさめ)神事、5日には競馬會(くらべうまえ)神事と鳴弦蟇目神事、
葵祭斎王代禊
10日には斎王代と女人列の女性たちの「御禊(ぎょけい)の儀」、12日には御陰祭(おかげまつり・神霊を迎える)と、その深夜に御阿禮(みあれ)神事がひそやかに行われる(らしい)のです。御陰祭の時、下鴨神社から別雷命の出現所だという比叡山麓の御陰神社へ神馬が往復します。

右は御禊の儀で禊(みそぎ)をしている場面。

「社頭の儀」は、下鴨神社に到着した勅使が社殿に上がって、御幣物を神前に供え、御祭文を奏上する儀式です。
葵祭下鴨神社社頭の儀
御幣物が到着し(左)、神前に奉納されて勅使が御祭文を奏上します(右)。
葵祭御祭文奏上

この時、舞殿では「東遊・あずまあそび」が舞人達によって舞われます。

下鴨神社で「社頭の儀」を終えて、再び行列は上賀茂神社へ行って同じように「社頭の儀」を行い、これで葵祭が終わりました。
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