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2015.10.31 (Sat)

泉光院の足跡 102 朝鮮人街道

十一日 晴天。草津驛立、辰の上刻。薩州公御上りに付拝駕す。夫より八旗八幡へ詣納經す。御殿南向大社、樓門あり、八旗村とて千軒計りの町あり。夫より山を廻り五十丁にて西國札所長命寺へ詣納經す、八旗町へ歸り一宿の所、旅人宿にて大勢取込む故に夜中半道計り行き、淨樂寺村政八と云ふに宿す。

草津を出た所で薩摩藩の藩主島津齊興(なりおき)殿が京都の方へ向かうのに出会った。大名行列が通るのです。ほかの藩だったら脇道にでも入ってやり過ごすのだが、薩摩藩島津家は泉光院にとっては主家筋ですから「拝駕」しました。殿様の方では佐土原島津家の山伏がこんな所で土下座しているなどとは思っても見なかったことでしょう。

参勤交代という制度は、原則として大名は一年を江戸で過ごし、一年を領国で過ごす、と言う制度です。大名の奥方はずっと江戸にいて、いわば幕府の人質になっている。それ故に奥方が勝手に江戸を離れるのは人質に逃げられる様なものだから、関所では「出女」を厳しく監視したし、鉄砲が入ってくるのは幕府に敵対する勢力だから「入鉄砲」も監視した。
大名行列之図

左は大名行列の様子を描いた版画です。
全国には260程の藩があって、交代に江戸に駐在することになっているのだがそれは一旦緩急ある時、江戸城の警備に当る、という名目もあるので、藩の家格や石高によって動員する武士や足軽の数が定められています。102.2万石の加賀藩は2500人、77万石の島津藩は1200人、といった具合に。
泉光院が出会った行列はこの1200人規模の大きな行列です。まず通行人を追っ払ったり土下座させたりする先払い、毛槍など飾りのついた槍、鉄砲、立傘、といったのが続き、殿様の御駕籠も来て、文箱や長持も続く。そして一日に八里か九里進みますから、意外に早く通り過ぎるでしょう。現代のお祭りで見世物用の大名行列などはずいぶんのんびり歩いていますが、本物はセッセセッセと通り過ぎる筈です。
野洲川三上山

草津を出て中山道六十九次の宿場守山宿を過ぎると近江國では一番大きな川、野洲川。向こうに見える山が三上山(432m)。近江富士とも呼ばれている美しい山。御上神社の御神体で、頂上には神様の依代となる岩もあるようです。(極秘情報ですが三上山一帯ではマツタケが今でも採れます。10月の吉日を選びましょう。)

泉光院は …八旗八幡へ詣納經す。… ですから、今で言うと近江八幡市の日牟禮(ひむれ)八幡宮へ参詣したのです。

近江八幡市へ行くには中山道よりも野洲川を渡ってから「朝鮮人街道」というのを辿った方が便利です。この街道は中山道よりも湖岸に近い方を通ることから、浜街道、あるいは中山道に対して下街道と呼ばれる道で、野洲町で中山道で分かれて湖岸の近江八幡の方へ行き、安土城跡、五個荘町、などを通って彦根城下へ入ってからもとの中山道の鳥居本宿で合流する約41kmの道です。
朝鮮人街道地図

左の地図、赤線が中山道で、その上の青線が朝鮮人街道。
左下が野洲町あたりで、北へ上がって右上で両方の道が一緒になるちょっと手前が彦根城下。

徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利した慶長五年(1600)の上洛の際に朝鮮人街道を通り、以降、この街道は縁起のいい道、「吉例の道」とされて、三代将軍家光の上洛に使われるなど、主に将軍の道として利用されたのですが、慶長十二年に朝鮮と国交が回復すると、朝鮮通信使が定期的に来日するようになり、その往來に使われるようになりました。北九州から瀬戸内海を航行し、大坂から淀川を使って上洛した朝鮮通信使は、野洲町からこの道を通って鳥居本宿で中山道に入り、米原から磨針峠を越えて大垣、名古屋、そこから東海道経由で江戸へ行きました。
朝鮮人使節行列図
左の絵が「朝鮮使節行列図」。
前の輿に乗っている緑色の着物がその使節。一行は約400人ほどで、銅鑼やラッパで賑やかに通行し、幕府は手厚くもてなしました。それからこの道を朝鮮人街道というようになったのでした。
朝鮮通信使にこの道を通るようにした理由は、近江八幡と彦根という大都市があり、経済力もあるために大行列を手厚くもてなすことが出来たからだろうと言われています。
近江八幡街道
左、大商人の住居が残る近江八幡市の新町通、朝鮮人街道です。
正面に見える山は八幡山で、この麓に日牟禮八幡宮、泉光院が詣納經した神社があるのです。
ここの町並はよく保存されていて江戸時代初期からの様子を見ることが出来る町です。

近江八幡市ではこの朝鮮通信使行列を復元して下の写真のようなこんな行事をやっています。
朝鮮人街道復元行列

江戸時代、朝鮮通信使は約10回程来朝しています。行列が通る沿道は多くの見物人であふれ、異国の文化に目を見張ったのでした。

ワタクシは横山サンと何度かここへ来てかなりウロウロと、終いには葦の茂る中に出来ている広くて真っ直ぐな道路を車でぶっ飛ばす、というようなことにウツツを抜かして楽しんだものでした。古社寺だの古民家だの、そんな面倒くさいことはすっかり忘れてひたすら人も車もいない広い道を車で走り回ることに熱中しました。ここにも国民宿舎があって、いつも空いていたので自由に泊まれました。
近江八幡日牟礼八幡宮

日牟禮(ひむれ)八幡宮。
この神社は今でも古い行事をしっかり守っているように思います。3月中旬の左義長祭、4月中旬の松明祭・太鼓祭、それが済むと境内に茅の輪を巻いて夏越祭。

ワタクシは茅の輪をこの神社で始めて見たのですが、その時は蘇民将来のことも夏越(なごし)の祓の事なども何も知らなて、横山サンは多少のことは知っていてそれでも、「左・右・左と、3回くぐってお詣りするといいんやそうな」という程度だった。蘇民将来のことはその後京都や、伊勢の松下社、信濃國分寺、白山の石徹白登山口近くの長滝神社など、各所ですこしずつお勉強をしたので判ってきたのでした。
近江八幡日牟礼八幡宮茅の輪
こちらが日牟禮八幡宮の茅の輪。
ワタクシが始めて見た茅の輪がこれ。

京の都から東国へ延びる街道と琵琶湖の水運は近江の国で交わっています。古くからこの地方の人は商業活動が盛んで、行商を主にした「近江商人」、天秤棒1本で全国を股にかけて商売をして富の蓄積をしました。
琵琶湖から水路を引いたのが八幡堀(右)。近江八幡堀4

水路に面して藏が並んでいるのですが、その藏の表側は商人の御屋敷になっている。

近江八幡西川邸


近江八幡町並y2


近江八幡の町並はとても美しいです。
横山サンとワタクシはこのような町並をあてもなく歩いてみたり、蕎麦屋があると入って、お酒を飲んでみたり、つまりたいしたことはしなかったのですが、何故か印象深い町として心に残っています。
横山サンはこの頃蕎麦打ちの修行をしていたので、蕎麦屋があると入って食べる、という具合だったし、ワタクシもつきあって蕎麦をよく食べた。
横山サンもワタクシも、何事でも始めるに当たっては、まず文献を読み、道具を買い込み、体験をする、という方法で身につけていきます。リコーダーを吹くのもパソコンを叩くのもそうでした。基本的には《人に習わない》で学習するのです。
この町で食べた蕎麦の味とお酒の味は、…それは言わぬが花。

琵琶湖畔に突き出たように長命寺山(332m)があって、その中腹に西國三十三觀音札所第31番の長命寺があります。この山は昔は島だったのだが、泉光院がお詣りに行った頃はもう埋め立てられて近江八幡の町から地続きになっていた。
車で行くとどうしても心が怠けてしまって、本当は880段ある石段を麓から歩いて上がらなくてはならないのだが、つい車で上がってしまった。ずいぶん細くて九十九折の道は免許を取って間もないワタクシの腕にはあまる様な坂道だった。もし上から降りてくる車があったらどうしよう!そんなことを考えながらおっかなびっくりで運転してどうやら車を止めることが出来ました。それでもまだかなり石段があって、白衣の巡禮たちが大勢下から石段を登ってきました。
長命寺石段
左は石段の一番上あたり。つまりこの下の800段分ほどをサボってしまったのでした。
長命寺本堂


そして右が長命寺の伽藍群。
一番遠くに見えるのが三重塔(桃山)。
次に護摩堂があるのだがそれは本堂の影に隠れて見えない。
大きな屋根が本堂(室町)で、その前が三佛堂(室町)、手前が護法権現社(桃山)、
そして鐘楼(桃山)があるのだがそこはこの写真を写している場所だから当然写らない。こんな具合にほぼ一列に並んでいて、すべて重文指定です。全部檜皮葺です。
納められている佛像も、本尊が木造千手觀音立像、その右に木造十一面觀音立像、左に木造聖觀音立像・木造毘沙門天立像・木造地蔵菩薩立像など、みな重文指定です。

ここを見に行った頃はようやく野田泉光院という山伏の存在を知ったばかりの時で、こんな続き物を書くなんてその時は考えても見なかった。だからここよりさらに高い所に妙な小さいお堂がいくつもあって、たぶん九頭竜だとか天狗だとか、そんなものも写真に写しておいたのだが、今となっては記憶が遠くに霞んでしまっていけません。
横山サンが居てくれれば少しは判るかも知れないのだが。

泉光院はここから多賀大社へお詣りをし、彦根城下を見物し、船で竹生島まで渡ります。だがこの近江の国というのは簡単に素通りできないほどのものがあるので少し道草をします。
蒲生野風景
左の風景は、かって蒲生野(がもうの)と呼ばれたあたり。
緑豊かな平野が広がっていました。大津に都が作られた天智天皇の時代、大宮人たちは蒲生野に出かけ、男は弓矢で鹿や猪などを捕り、女は紫草(むらさき)などの薬草を摘む「藥猟、くすりがり」を楽しんだのです。
額田王

そんな大宮人の一行の中に、天智天皇の実弟とされる大海人皇子と、天智天皇の妃であり、大海人皇子の昔の恋人であった額田王がいました。
大海人皇子と額田王の間には十市王女(といちのひめみこ)が生まれているので、もともと深い関係です。萬葉時代の恋愛はとてもおおらかでした。右は前にものせた安田幹彦画伯「額田王}。

お二人の相聞歌をのせておきます。

 天皇遊獵蒲生野時額田王作歌
茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流   

 皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇諡曰天武天皇
紫草能爾保敞類妹乎爾苦久有者人妻故爾吾戀目八方
蒲生野万葉歌碑

これじゃ読めませんね。下のように読みます。

あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 
  野守は見ずや 君が袖振る     「額田王」

紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば
  人妻ゆゑに われ恋ひめやも    「大海人皇子」

右は阿賀神社の裏手、船岡山の頂上にある万葉歌碑。自然の巨石に『元暦校本万葉集』の原本の文字をそのまま刻んだ板がはめ込んであります。
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