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2015.11.30 (Mon)

泉光院の足跡 109 美濃馬場

泉光院は白山登山を越前側のルートで往復しているので、加賀馬場と美濃馬場を見ていないのですが、ワタクシは2005年に美濃馬場である白山中宮長瀧寺とその社家である若宮家を訪ね、美濃側登山口である石徹白(いとしろ)口の白山中居神社、永らくそこにあり、神佛分離令以後に大師堂に遷された銅造虚空蔵菩薩坐像を拝観してきたので、泉光院に代わってしっかり見てきました。
長瀧白山神社参道太鼓橋
美濃馬場は今の地図でいいますと、東海北陸自動車道を白鳥(しろとり)ICで降りて国道156を少しばかり北上した所、長良川鉄道の白山長瀧寺という駅の近くにあります。表参道を入って行きますと、石で出来た太鼓橋の向こうに長瀧白山神社の拝殿が見えます。(左の写真)
白山曼荼羅若宮集古館

右の絵、「白山曼荼羅」は近くにある白山博物館に展示してある物です。この軸の本物は長瀧白山神社の社家をしている若宮家、若宮集古館の奥座敷床の間に飾ってあって、後でそのお宅へ行ったとき写真を撮って宜しいか聞いてみましたところやっぱり断れました。
上の方の白い山三座は、左から別山、御前峰、大汝峰で、その下の3人の人物はその山に対応する、いわば垂迹である日本の神です。先号で書いておいたように、別山大行司は大山祇命、御前峰は白山妙理大権現であり菊里媛、大汝峰は大己貴命、の三柱の神様を描いているのでしょう。
白い山の上部に、右には赤い太陽、左に白い月が描かれています。これは曼荼羅には必要な記号であって、この太陽と月があることでこの絵は神佛を描いてあるのだということが判ります。
長瀧白山神社拝殿内部

左、白山長瀧神社の拝殿。扁額に「白山神社」とあります。この場所で「六日祭」、1月6日に行われる國重要文化財である「長瀧の延年」というのが奉納されます。
延年というのは文字通り、年齢(よわい)を延(のば)す、つまり寿命を延ばすというお目出度い言葉です。平安時代以降、貴族社会では歌舞管弦、遊宴芸能の催しのことを言いました。
拝殿の後ろに本殿。右の写真。
本殿の建物上部の鰹木は8本、千木は平削ぎですから、祭神は女性、菊里媛であることを示しています。長瀧白山神社本殿

なかなか大きくて立派な神社でした。

延年という行事が今でも残っているのはここの他には岩手県平泉の毛越寺(もうつうじ)と、中尊寺、栃木県日光市の輪王寺。古い形のを今に伝えているのはここと毛越寺の二ヶ所だけだそうです。猿楽、(能の古い形、猿楽能)が流行し発展したらこのような延年は廃れてしまったらしいのです。

ここに伝わる「延年」の行事、概略です。
白山長瀧神社延年舞とうべん

神事のあと、酌取り、とうべん(左の写真)、露払い、乱拍子、田歌(おた・右の写真)
白山長瀧神社延年田歌


しろすり、大衆舞、などいくつかの舞が続いて、最後に拝殿土間の天井から吊した櫻・菊・牡丹・椿・芥子の五つの大きな花笠を若者たちが三つぎ半の人梯子を組んで奪い合う「花奪い」(左の写真)
白山長瀧神社延年花奪い
というのが行われるのです。

参詣者は奪い取った花を縁起物として家へ持ち帰ります。


お隣の白山中宮長瀧寺に残っている佛像はなかなか素晴らしいものでした。
木造釋迦三尊像と、それを囲む四天王です。
長瀧寺釋迦三尊

長瀧寺四天王

こんな立派な佛像が須弥壇の上に乗っております。
中央に釋迦如來坐像、右に六牙の象に乗った普賢菩薩、左に獅子の背に乗った文殊菩薩。その周囲には(この写真では右から順に)北方を守る多聞天、東方の持国天、南方の増長天、西方の廣目天、と配置されています。何れも13世紀末から14世紀初め、、鎌倉時代の洗練された佛像です。
若宮集古館門

佛像を見てから若宮集古館へ行きました。写真はその門。
ここの先祖は1200年ほど前に奈良朝に仕えた家系で、当主は四十代目にあたり、今も長瀧白山神社の宮司を奉職しています。
はじめの方に載せておいた白山曼荼羅圖をはじめ、永年にわたって使われてきた道具類を見ることが出来ます。

若宮集古館蘇民将来符
ここで右の蘇民将来護符を手に入れることが出来ました。右の「蘇民将来子孫門也」で、これを門、あるいは家の玄関先にに打ちつけておけば惡鬼・惡疫は入ってこないのです。
若宮集古館の奥の母屋の玄関には数十年前からのがたくさん打ちつけてありました。
ここで蘇民将来符が買えるとは思っていなかったので、なんだか拾いものをしたような気分になりました。蘇民将来護符上田国分寺

蘇民将来のことはNo.078「哲学の道」の項の、祇園祭の所でふれておきましたし、いずれ信濃國分寺へ行ったときには八日堂で一月八日の早朝に売りだされる蘇民将来符のことは描きますけれども、ここでも載せておきます。六角柱の形をしていて「蘇民将来子孫人也大福長者」と書いてあります。
これから先もこのようなものを見つけたら買ってくるつもりです。

次に石徹白の白山中居神社へ行きました。白山禪定をする修行者たちは、美濃馬場の白山長瀧寺で山役、つまり入山料を納めたり、登山の準備をしてから、峠を越えて九頭竜川の支流石徹白川を遡って、白山の銚子ヶ峰・一の峰・二の峰・三の峰・別山、そして白山本峰へとたどるのです。白山中居神社は銚子ヶ峰1810mにとりつく手前にあって、ここで禊(みそぎ)をして気持ちを引き締めて登山をするのです。阿弥陀ヶ瀧

バスで行ってもかなりの急傾斜の道を走りました。途中、阿弥陀ヶ滝(という右の写真の瀧、日本の瀧100選の内)の落ちるさまを横目で見ながら峠を越えました。

石徹白川は九頭竜川の上流ですから当然福井県に所属しなくちゃならないのだが、明治の廃藩置県の時、白山中居神社のあたりは天領(江戸幕府の管轄)で、しかも貧村のために税金を取らない村でしたから、岐阜県でも福井県でもキチンとした引き取り手がなくて、無理矢理行政の判断で岐阜県に押しつけた場所なんです。
白山中居神社石標

行った先はまだこんなに雪がありました。
白山中居神社銅鳥居
この鳥居の先にはまだ踏み跡もありません。うっかり歩くと膝まで雪に潜り込みます。雪国生まれのワタクシでもちょっとばかり怖い思いをしました。


白山中居神社本殿覆堂

雪を踏みしめて本殿の下までたどり着きました。
本殿の覆堂にはさらに雪から守るためにビニル製の網シートが掛けてありました。
白山中居神社本殿

シートをかき分けて中へ入ってみた本殿が右。
10人も入れば身動きも出来ないような状態でした。


こんな所まで行ったのは、昔この中に藤原秀衡が寄進した銅造虚空蔵菩薩坐像が納められていたからなんです。そしてこんな言い伝えも残されているのです。
石徹白大師堂虚空蔵菩薩坐像

藤原秀衡がここに虚空蔵菩薩の見事な像(左の写真)を寄進したのは、実は、源義経の奥州下りを助けるためのものであった。義経の奥州下りは、いま通説となっている北陸道下りではなくて、伊勢・美濃を経由して北陸道へ入ったのであり、この石徹白から九頭竜川を下って越前馬場・平泉寺を通り、永平寺から北陸道、加賀へ出て、安宅の關へ入ったのだと主張する人もあるのです。
藤原秀衡が佛像とともに秀衡の家来上杉宗庸(むなつね)が上村十二人衆という武士団をつけて、義経警護の任にあたった。だから今でもここの里人はその子孫であると信じているのです。

とても素晴らしい虚空蔵菩薩です。この佛像を見るために雪の中をここまでやってきたのでした。

明治維新の際に出された神佛分離令はこの石徹白に大きな混乱をもたらしました。

石徹白大師堂
上の写真の白山中居神社からこの佛像を排除しなくちゃいけない、というお上(おかみ=日本国政府)の命令です。
村人たちは力をあわせて神社の少し下に大師堂左の写真)を建設してそこに納めました。

石徹白大師堂虚空蔵菩薩坐像
右の写真はその大師堂に入っている虚空蔵菩薩。
(色がちょっと青みがかっているのは銅製の佛像に蛍光灯だけで照明されているからだと思います。

村人たちはこの佛像をとても大切に守ってきました。だからこれを見るためにはそれなりの礼をつくして見なくちゃいけないのです。
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