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2015.12.31 (Thu)

泉光院の足跡 117 金城靈澤

金澤神社から金城靈澤金澤神社鳥居
山﨑山を降りれば小立野方面出口、石引町へ出て、真っ直ぐ前が天徳院への道となります。少し戻れば成巽閣の赤門近くに出ます。赤門前の塀に沿って行くと金澤神社(左の写真)で、天神様、菅原道真を祀った神社で、その前を通り過ぎて下の方へ降りた所(右の写真)に、金澤という名前の発祥である「金城靈澤」
という泉の湧いている場所です。
昔々、王朝時代といわれる頃、正直な百姓、藤五郎という男がいました。
金城靈澤建物
正直者が幸運に恵まれるというお話は聞いていても気持ちがいいものです。
芋を掘って暮らしている貧しい男で、人呼んで芋掘り藤五郎。
掘った芋を洗っていたら泉の中から砂金が出てきたのでこの地を金(かね)洗いの澤、金澤と呼ぶようになった。

文政二年(1819)、第十二代藩主齊廣の時でしょうか、泉の周りを石で畳んで左のような小堂を建てました。
この水はどんな旱天続きでも涸れることはないといいます。水清く地の底までスッキリ見える湧水です。
金城靈澤泉
金城靈澤天井龍

金城靈澤扁額
天井には龍の絵。手を叩くとこの龍が鳴くと言います。京都の禅宗寺院の法堂などによくある鳴き龍の仕掛と同じです。
ワタクシの祖父が大工をしていたと書きましたが、この建物も祖父の仕事だと聞いています。文政二年に建てたのが老朽化して、昭和の初め、たぶんワタクシが生まれる前の頃に改築することになってその工事を請負ったのでしょう。
今頃になって祖父の仕事の跡を懐かしく捜しているなんてワタクシもずいぶん年をとったものだなぁと思うこの頃です。
金城靈澤の扁額も入れておきました。

この建物の向かい側に加賀藩の家老の一人、津田玄蕃の邸。
津田玄蕃邸

五木寛之の初期の作品、『朱鷺の墓』という長編の中に、日露戦争の時のロシア軍の捕虜の話がエピソードとして出てきます。捕虜のうちの高級将校らしいのがここに収容されていたと思います。
五木寛之はロシア・ソヴィエトの旅行から帰ってからこの小説を書いたのだろうか。
大乗寺山(前田家の墓地のある山、ワタクシの家の墓地もここにある)の頂上近くにある大きな共同墓地にはこの時のロシア兵捕虜でここで死んだ人の墓もあったと思います。
そろそろ兼六園ともお別れしましょう。ここを出た所に、石川県立美術館、石川県立歴史博物館、本多蔵品館、また近くには石川県立伝統産業工芸館、石川県立能楽堂、といった金澤の伝統、文化を見せてくれる場所もあります。だが少々疲れました。
お茶にしましょう。近くに陸軍第九師団司令部長官の官舎だった建物が休憩室として整備されています。千歳2個
千歳というお菓子。甘いお菓子で疲れを癒やしましょう。
外へ出ると広い道路。広いはずです。広坂という名前の道です。
下って行った先がNo.114 兼六園の項で、新保千代子さんが、…兼六園を訪れるには其処から入るのが一番よいと、…心に決めていた真弓坂の入口になります。兼六園をちょうど一回りしたのです。
21世紀美術館石浦神社前

真弓坂の入口の所には石浦神社も鎮座していましたね。
その前にあるのが21世紀美術館。
今までずっと江戸時代の空間ににいましたが、今度は21世紀です。
石浦神社の前からこんな風に見えました。
21世紀美術館円形

高い所から見ると円形です。
いいですねぇ。

そして無料で楽しめる空間がいっぱいあるのです。
覗いて見ましょう。

21世紀美術館スイミングプールp
スイミングプール(左)。
中に入っていると頭の上にはさざ波がゆらめいていて水の中にいるようです。21世紀美術館スイミングプール上から

外から見ている人は本当に水の中に人がいるように見えるのです。
            
21世紀美術館BluePlanetSky青空

Blue Planet Sky.(右)    
                        
青い空。それだけの空間。21世紀美術館BluePlanetSky雲
雲も見えたり、
雨が降ればやはり雨天。


21世紀美術館世界の起源p


世界の起源(左)

暗い楕円形のものが浮かんでいるようにも見えるのです。
凹んでいるようにも見えるのです。
不思議な空間。


兼六園では江戸時代。
ここでは異次元空間にいるようです。

旧石川県庁

外へ出ると昔は石川県庁だった建物。
両側に生えているのが大きなシイの木。
有名でした。天然記念物の指定になっていると思いました。

だが現在、石川県庁は日本海沿岸に近いような辺鄙な田舎に引っ越してしまって、ここは観光客用の案内所のような変な施設になってしまったようだ。まだ一度も入ったことがないので説明は省略。

この建物のずっと左隣にあるのが旧第四高等学校。戦後学制改革で金沢大学理学部の校舎に転用され、その後前にも書いたように大学全部が山の方の田舎に引っ越してしまって跡地が石川近代文学館に変身。
第四高等学校と学生像
手前に見える像は、かっての第四高等学校の生徒。弊衣破帽、放歌高吟、マントに高足駄、というのが彼等四高生のスタイルだった。
新保千代子文学館前
新保千代子さん(もう一度写真を入れさせていただきます)はこの場所を石川近代文学館として利用するためにずいぶん力を尽くされたようで、伊藤整にも来て貰って歓待するなど苦労をなさったようでした。
石川近代文学館犀星の部屋
中には室生犀星の書斎を再現した部屋(右)とか、石川県ゆかりの文士たちの資料を展示してあります。
犀星は燒物も好きで、『陶古の女人』、『李朝夫人』など燒物と女人を題材にした短編をたくさん書いております。
こういうお部屋を作るについても新保さんの努力があって出来たのでしょう。新保さんは『犀星ききがき抄』という室生犀星の研究書を書いていて、室生犀星のことについては本人よりもよく知っているのではないかと思う程。

ここまで書いてしまったのでついでにここに納められている廣津里香さんの事も書いておきたくなりました。工学部に勤めていた頃、機械工学科教授であった廣津萬里氏のお嬢さんであった里香さんを朝の通勤の折りに時々見かけて顔見知りでした。工学部の裏に教官の官舎があって、教官の子女たちはそこから通学していてすれ違うのです。ずいぶん頭のいい人だったようで、その頃は金沢大学附属高校に通学していて、その後東大、早大大学院、とすすみ、フルブライトを受験したのだが書類の不備で失敗、30歳の時、油絵を描いていて急に死んでしまった。この館の中には遺した油絵と詩稿の数編が収められています。彼女の日記『死が美しいなんてだれが言った』(潮新書版)が売っていたので買いました。
廣津教授の業績は、東京上野の科学博物館に戦前の飛行機の設計についての業績が紹介されていたのを見て始めて知った次第でした。
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