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2016.01.29 (Fri)

泉光院の足跡 122 石動山

能登半島も東側、富山湾に面した方に入ると、波静かな内浦湾になります。恋路海岸とか九十九湾、軍艦島というあだ名のついた島などいろいろ名所がありますがそれはお預けにして、泉光院について行きましょう。

七日 晴天。大井坂村立、辰の上刻。穴水と云ふ湊に出る、此所より船にて五里、桑の浦と云ふに行き、夫より石動山と云ふに赴き下村と云ふに宿す。此邊極めて邊鄙(へんぴ)也。

右の写真は穴水湾の風景です。いったい何をしていると思いますか?ぼら待ち櫓
「ぼら待ちやぐら」という漁法で、ボラを捕っているところです。江戸時代から行われている漁法です。春には海豚、秋には鱶・鮫に追われてボラは大群をなしてやってきます。ギラギラ光る鯔の群れを見つけて仕掛けてある網の入口をふさぐのです。
こうして捕ったボラで「ぼらちゃず」を食べるととても美味しい。
焼きたてのボラをご飯にのせて、煎茶か番茶でお茶漬けにして食べます。
ぼらちゃず
鯔は鱸(すずき)や鰤(ぶり)と同じように、成長するにつれて呼び名が変わる「出世魚」です。
南方の海で孵化し、流れ藻にくっついて海岸にたどり着いた3~6㌢程度のものを「はく」、川をのぼりはじめる6~15㌢程度のものを「おぼこ」、秋頃には20㌢ほどになって海に下り、翌年は30㌢以上になって川に再び戻ってきます。それが「ぼら」、これ以上大きくなったものは「とど」といって、とどのつまり最後にトドでお終いになるのです。

「ぼらちゃず」の作り方をお教えしましょう。
1. 濃口醤油とみりんを同量鍋に入れて、砂糖・水飴などを入れて煮詰めて「たれ」を作ります。決して焦がさないように。
2. 鯔の切身は素焼きにして薄く焦色がついたら「たれ」にくぐらせて、2~3回焼いて、照りを上手につけるようにします。
3. 焼きたての鯔を熱いご飯の上にのせて、刻みゴマを振りかけて、熱い煎茶をかけます。
4. 熱々のを食べます。
  (わざわざ書くまでもないですね。こんな事、誰でも知っている。)
桑の浦は今の呼び名では七尾市。すぐ近くにある和倉温泉はとてもいい温泉です。和倉温泉露天風呂
目の前の七尾湾の景色を見ながら露天風呂に入りましょう。
1200年の歴史を誇る能登半島最大の温泉地。古くは「涌浦湯 わくうらゆ」といいました。
和倉温泉白鷺
左は「涌浦乃湯壺」という源泉と、この温泉で傷を癒やしたという伝説の白鷺の彫刻。
どこにでもある伝説です。動物が狐であったり狸や馬や鹿であったりするだけのこと。
泉光院は温泉には入らないですぐ石動山へ登ってから越中國に入るので、七尾のお祭、青柏(せいはく)祭に出る山車の写真を載せておきましょう。
七尾青柏祭デカ山
5月3~5日、デカ山という山車が繰り出します。高さが15m、重さ20t、車輪の直径が2m、…といってもなかなか実感が伴わないでしょう。
左の山車の車輪の所に人が二人立っています。人間の背と山車の大きさを比べてみて下さい。
山車の上では歌舞伎の名場面の舞台と、人形を飾りつけてあって、こんなデカイ曳山を鉦と太鼓に合わせて動かすと地響きをたてるそうです。
能登半島各地のお祭は、どれもこれも風変わりなので、その一端を紹介しておきました。

八日 晴天 下村立、卯の刻。石動山に登ること五十丁、坊中五十ヶ寺、絶頂本堂南向、諸堂多し、能州第一の高山也。泰澄の開基也。御黒印百五十石、納經相濟み越中の方へ二里下り、又海邊に出で宇治村と云ふに宿す。
石動山
この山が石動山(せきどうさん 565m)です。
石動と書いてそれが地名を表す場合は「いするぎ」と読みます。難読地名です。
この「いするぎ」と読む場合の地は、従来の北陸本線の富山・石川県境の富山県側にあった町で、今は小矢部市と名前を変えました。JR北陸本線も、北陸新幹線が金澤まで開通したら第3セクター(というのかな)の、「あいの風とやま鉄道」と名前を変えてしまい、石動駅(鉄道の駅名はやはり昔通り いするぎ です)から西の方、金澤寄りは「IRいしかわ鉄道」と名前を変えてしまったようです。
北陸新幹線が出来てからは今までの北陸本線というのがバラバラになってしまったのでした。

石動山は能登と越中の國境にある信仰の山で、平安時代の神佛習合の時代には、石動寺(いするぎでら)と、伊須流岐比古(いするぎひこ)神社が山の頂上にありました。
中世には天平寺と号して山岳信仰の拠点となりました。最盛時には堂舎・僧坊360余、衆徒3000人を擁した大勢力になりました。南北朝時代には南朝側にくみし、安土桃山時代には反信長の旗印を掲げたので再三の兵火に逢い、多くの伽藍を焼失しました。
江戸時代になってから加賀藩の手で再興されて150石の寄進を受けると同時に、朝廷から能登・加賀・越中・越後・飛騨・信濃・佐渡の七ヶ國に対して一戸あたり3升の知識米と称する米の収穫権を認められます。伊須流岐比古神社
それでそのお米を徴収するのに石動山衆徒が9~11月に「勧進廻り」と称して廻ってくるので、「いするぎの秋雀」、つまり石動からお米をついばみにやってくる連中、として嫌われましたが、一面、祈祷と売薬で農民の心もつかんでいて(泉光院と似たような山伏ですね)、当時の文化伝搬を担っていたのでした。
石動寺多宝塔跡
この信仰の山も、明治の神佛分離でお寺の方は廃止されて、右の写真のように神社は残っていまして、お寺の方は左の写真のようにわずかに礎石が残るだけです。

神佛習合の様子。一番最初は白山を開いた泰澄伝説も加わって白山系の天台寺院だっがのですが、鎌倉時代になると、主神は伊須流岐比古神で、大宮(伊弉諾命・本地佛は虚空蔵菩薩)、客(まろうど)宮(伊弉冉命・十一面観音)、火宮(大物主命・聖観音)、梅宮(天目一筒命 あめのまひとつのみこと・勝軍地蔵菩薩)、剣(つるぎ)宮(市杵島媛命・倶利伽羅不動明王)の五社大権現となりました。

石動寺のお詣りを済ませて越中國、今の富山県側へ降りてきました。氷見(ひみ)市、射水市、高岡市、というあたりです。

九日 晴天 宇治村立、辰の上刻。ヒミと云ふ驛へ出づ、此邊も海邊也。道惡し、夫より伏木村と云ふの越中一宮へ詣納經。當國も一向宗計りにて國分寺は退轉せり。慶高寺と云ふより兼帶也。當村は無信心にて回國の者共へ善根の宿無き所と慶高寺住持申さるゝに付、當寺へ宿貰ひ宿す。

天平十八年(746)から5年間、大伴家持が國主としてここに赴任してきて住んでいた一帯を「奈呉の浦」といいます。右の石碑にそれが読み取れます。奈呉之浦碑

東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉の海人(あま)の
     釣する小舟こぎかくる見ゆ

物部(もののべ)の八十(やそ)乙女らが汲みまがふ
     寺井の上の堅香子(かたかこ)の花
カタクリの花
堅香子はカタクリの花。
左に咲いています。
この歌のおかげで高岡市の花に選定されました。
在任5年の間に家持は220余の歌を詠みました。

万葉まつりというのが毎年10月、伏木で開かれます。
伏木という町は今は高岡市に編入されてしまっていますが、小矢部川河口左岸に開けた町で、国分港には万葉埠頭が出来ていて、近くには万葉歴史館も建ててあります。
そのメインイベントが「万葉集全二十巻朗詠の会」。万葉集朗詠伏木

三昼夜、連続60時間にわたって万葉集全20巻4516首を2000人以上の人がリレー形式で歌い継ぎます。
参加する皆さん、熱唱・絶唱・詩吟調・演歌調、…
それぞれ自分の思い描く万葉の世界をご披露するのです。

家持が國主として住んだ國府の跡地には勝興寺が建っています。浄土真宗本願寺派、お西さんです。泉光院が慶高寺と書いたのはこの勝興寺。
勝興寺


泉光院はヒミの海岸から越中國一の宮である氣多神社、國分寺跡、などを通って、勝興寺の住職が國分寺跡を管理しているのでそこの所へよって納經をしました。

この勝興寺と、井波町の瑞泉寺が中心になって越中國の一向宗が大きな勢力となり、戦国時代の戦争史に大きな影響を与えたのです。
上杉・武田の対立の時には反上杉。所が信玄が死んでからは上杉と組んで反織田信長。上杉謙信が病死したら結局は信長の部下によって滅ぼされてしまった。
どうやら一向宗というのは反権力の志が強いようです。
この後泉光院はこの地の修験寺へ立ち寄っていて、

十日 晴天。慶高寺立、辰の刻。生浦と云ふに海運寺と云ふ修験寺あり、尋ね行く、晝食出る。加州醫王寺配下也。因て冥加金納める議相尋ぬる處、具(つぶさ)に相知れたり、内分の事故不記。…

ここで海運寺というお寺へ行きます。このお寺は泉光院と同じ山伏のお寺で、金澤の醫王寺の下に所属しているのです。
泉光院が金澤へ着いて一番先に尋ねたのは、小立野あたりにあったらしい醫王寺という修験のお寺でした。(No.113 金澤の町 参照) 醫王寺の住職は泉光院が尋ねたときは居留守を使ったり質問に答えなかったりだったので、泉光院は醍醐御殿からの伝達事項を大声で伝えたようでしたが、ここ海運寺の山伏は、金澤の醫王寺へ納める上納金のことなど仔細に説明したようでした。
日本ではどんな分野でも上下の系列がキチンと定められていて、下から上へ上納金を納めるようなシステムが出来上がっているようです。
お茶お花といった習い事はよく知られていますけれども、お弟子さんが先生に月謝を納める、その先生は自分の先生に、その先生はさらに所属する組織のトップに、といった具合にお金を納める。
こんな集金ネットワークは日本の社会の隅々まで行きわたっているようでして、例えば子供にピアノを習わせている親がその子供を音楽大学に入れたいと思うとき、希望する音楽大学出身の先生に習わせるところから始まって、その大学の現役の先生に紹介していただく、とか、その大学の教授陣に強い影響力を持っている演奏家の系列のお弟子さんに習わせるなど、ネットワークの片隅にでも所属して、トップに上納金を納めるというシステムが出来上がっているように思うのです。
佛教寺院でも江戸時代から(あるいはもっと以前から)出来上がっていたことがこの泉光院の日記から窺い知ることが出来るのでした。しかもこの事は…内分の事ゆえ記さず…とうまく隠しているのです。

ここから下は読まなくて結構です。泉光院が冥加金=上納金の事を書いているのでついワタクシも佛教寺院の事を書きたくなってしまったのです。プライベートな事です。

ワタクシは死んだら金澤の【A】というお寺の地下に作ってある納骨堂に入る予定をしておりますが、ワタクシの「家」としての墓地は【B】というお寺の広大な墓地の中にあり、また家の過去帳らしいものは【C】というお寺にあるようです。そして祖父母が健在であった頃には毎月、先祖の命日に当たる日にお経を読みに来るお寺は【C】寺の下寺に当たる【D】というお寺(このお寺は近所にありました)から来ていました。
ワタクシが浜松に住むようになり、息子が死んだときに浜松でお葬式をあげる関係上、浄土真宗のお寺を紹介してもらうために【A】寺に依頼しましたら、【E】寺というワタクシの家に近いお寺を紹介されたのでそこで葬儀以下一切を執り行って貰う事にしました。
【A】寺は浄土真宗大谷派(お東さんです)の直末寺院ですから、東本願寺から本山経費の請求があるので【A】寺の会計報告書を見ますと約\2,500,000を出していることがわかります。これは泉光院の言っている冥加金に当たるものと思います。
そんなわけでワタクシと寺院の関係は現在はこんなふうにしております。
お盆になると金澤へ行って、
【A】寺の「須弥壇収骨法要」に出席。年間経費その他の費用を納入。
【B】寺墓地にあるお墓にお詣り。(墓地入口にある親戚の墓地管理人宅で挨拶)
お盆以外で佛寺に所用があるときは、
【E】寺に行きまして、経費・報恩講等費用納入。
【B】寺、墓地管理費用送金。
そして【C】寺、【D】寺は今のところ御無沙汰しているのだが、いずれ自分史を作るときにはそこで関係文書などを拝見させて頂く、というつもりをしているのです。
ワタクシを取り巻くネットワークの一つとして「yorickと佛教寺院」というネットワークをごく簡単に説明しておきました。
西福寺納骨堂芝木家墓


左【A】寺 納骨堂            右【B】寺の墓地 お墓
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