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2016.02.29 (Mon)

泉光院の足跡 130 諏訪の宿

横山サンと諏訪大社下社秋宮へ来た時、横山サンは秋宮の鳥居のちょっと右にある小さい屋台のようなお店で、…ここのおやきがいちばん美味しいんだゾ…というのです。年老いたおばあさんが一人で作って焼いているお店でした。で、たくさん買ってお腹いっぱい食べたのです。おやきのいろいろ
右はおやきのいろいろ。
おやきを作る

そして左はおやきを作っているところ。
小麦粉で皮を作ってその中に野菜餡を入れて焼いただけのものです。野菜餡はカボチャやナス、野沢菜の漬物、つまりおかずになるものなら何でもいいのです。なるべく皮を薄く作るのが上手、とされています。

それから数年ののちに再びここへ来て、同行の人に、美味しいおやきがあるから…と言ってお店を探したらおばあさんのお店がないのです。鳥居の前の茶店で聞いたら、…あのおばあさんはもうお店をやめて…、というのです。おばあさんはどうしたのでしょうか。心配でした。仕方なくその茶店でおやきを焼いて貰いました。
諏訪湖の夕日

夕暮れの諏訪湖。
何度来てもそのたびに思い出が積み重なって、とても懐かしい場所です。

もう少し諏訪大社のことを続けます。

次の絵図は甲州道中分間延繪圖のうち、下諏訪宿です。甲州道中というのは江戸・内藤新宿を第一の宿場として、八王子・大月・甲府を経て下諏訪宿で中山道に接続する44宿の道路です。下諏訪分間延繪圖
この繪圖の右端から来る道が甲州道中で、道路がハートの形のようになっている所が下諏訪宿。そしてそのハート形の右上あたりが諏訪大社下社秋宮の場所です。

秋宮付近の拡大図。
中山道下諏訪宿秋宮繪圖

この繪圖は中山道の下諏訪宿繪圖で、上の繪圖は甲州道中の繪圖ですからちょっと形は違いますが、宿場と、諏訪大社秋宮はこちらの方がわかりやすいのでこちらを取りました。

右下に鳥居が二つ見えますが上の大きい方が秋宮の鳥居です。
中山道、上の方が江戸から碓氷峠を越えて小諸、和田峠を越えて来た道で、そこからグルッと回ったところに春宮があって、真ん中の道へ入って秋宮となり、また回って塩尻峠を上って木曽福島・中津川・岐阜へと行きます。
秋宮付近だけを拡大しました。諏訪大社下社秋宮繪圖
鳥居をくぐって右上の方へ進むと舞殿があり、その奥に弊拝殿となります。
そしてこの繪圖にはちゃんと御柱が4本描き込んでありますね。

左の方に温泉のマークを入れておきましたが、これが綿の湯です。そしてその奥に本陣の岩波家があります。

ここの辺りが下諏訪宿の中心部分で、江戸から甲府・茅野・上諏訪と通ってきた「甲州道中」と、「中山道」の分岐点です。
この繪圖は、江戸幕府、道中奉行所(国土交通省に当たるでしょうか)が、ちょうど泉光院の歩いていた文化三年頃に作成した五街道分間延繪圖で、実に精密に作られている地図です。
綿の湯は諏訪明神の神湯とされています。
先号(No.129 塩尻峠)で書いたことですが、諏訪大社上社で一緒に暮らしていた諏訪明神夫婦が喧嘩をしたあげく別居することになって、ヤサカトメがこの下社へ来ることになったのでしたが、そのときヤサカトメは、…私の化粧のお湯だから、…と言って上社のお湯を綿にひたして持って下社へ来て、その綿を置いたところから温泉が湧き出て、それが「綿の湯」になったのです。そしてそのために上社のお湯はすっかりぬるくなってしまったのだと言います。ヤサカトメが下社へ来る途中で雫のこぼれた所からもそれぞれお湯が湧き出て上諏訪温泉となりました。そんなわけで、上諏訪・下諏訪にはいい温泉がありますが、諏訪大社上社のある茅野にはいい温泉がないようです。
綿の湯は江戸時代の共同湯でしたから、泉光院もここで…入湯…しました。
諏訪大社下社遷座祭
ヤサカトメは正月元日から六月晦日まで春宮にいて、七月朔日に秋宮に引越しするだそうです。今は月遅れでそれぞれ2月1日と8月1日に「遷座祭」というのを行います。ヤサカトメの御霊代(みたましろ)を遷すのです(左の写真のように)。
2月の遷座祭は厳しい寒さの中、大変です。8月の遷座祭は「御船祭」とも言って柴船も曳航されます。
中山道を軽井沢から出て追分・八幡・芦田・和田と山中の宿場を通っている間は、…宿あしし(惡し)…という宿屋ばかりですが、下諏訪宿は諏訪大社下社があり、綿の湯があり、大きな旅籠があり、たいそうな賑わいでした。下諏訪宿旅籠廣重

右は『木曾海道六十九次之内 下諏訪』。
歌川廣重です。賑わう旅籠屋の内部。
丼を抱え込むようにして食べている男や、お代わりを所望する男もいる。廊下を渡った左にお風呂があって、どっぷり浸かっている男は馬子唄でも唄っているのだろうか。
だが本当は、旅籠屋に内湯を引き入れるようになったのは明治維新の少し前になってからのことで、それまでは旅籠屋に泊まった旅人は、綿の湯をはじめ、兒湯、旦過湯という共同湯に入ったのでして。、今でも下諏訪温泉ではこの3つの共同風呂が盛んに利用されています。
綿の湯の場所が宿場の中心で、その後(というか横というか)に本陣職を勤めていた岩波家がありました。
岩波家は元禄元年(1688)から明治維新まで、本陣と問屋役を勤めていて、下諏訪を総括する名家でした。代々當主は岩波太左衛門を襲名していて、名字・帯刀も許されています。広さは建坪277坪、敷地1865坪で、これは今も変わらないようです。
下諏訪宿岩波家表門左、岩波家の門。
保存されている大名たちの「関札」。
下諏訪宿岩波家関札


下諏訪宿岩波家庭園
そして左、岩波家の庭園。
この庭園は中山道随一の名園だそうで、見学も出来るそうです。
諏訪大社秋宮の森を借景にして深山幽谷の趣に作庭されています。

尾張(徳川)大納言や、越前(松平)、彦根(井伊)、仙台(伊達)、加賀(前田)宰相、などの札も見えています。
ここには皇女和宮も宿泊しました。皇女和宮さま
和宮さまは幼名で、正式には静閑院宮(せいかんいんのみや)親子(ちかこ)内親王です。孝明天皇の妹で、有栖川熾仁(たるひと)親王と婚約していたのだが、幕末の政治的動乱の中で、朝廷と幕府の和解策の一つとして幕府の第十四代将軍家茂と無理矢理結婚させられる羽目となりました。16歳の和宮が京都を出発したのは文久元年(1861)十月二十日のこと。駕籠の数800挺、行列の長さ50kmにおよび、各宿場では通過するのに前後4日間かかる、という空前絶後の大行列でした。
和宮御行列略図

下諏訪宿に宿泊したのは十一月九日で、江戸着が十一月十五日です。ご婚儀は翌年二月十一日でした。
江戸へ行くのは彼女にとっては、
…いやいやのこと… と手紙に書いていますが、結婚してからは幕府存続のために全力をつくしました。

諏訪の街道を歩いてみましょう。中山道五十五里塚跡
春宮を出て東に向かうと、民家の軒先に「中山道・五十五里塚跡」の碑がありました・下之原一里塚です。
その近くの向かい側に「龍の口」という石で彫った龍の口から水が流れていました。
下諏訪街道龍の口写真では見にくいのですが、石塔の左下に龍の頭があって水が出ています。寛政年間の作だそうです。

こんな風にして街道を歩いているといろいろなものが目に入ってきて、そんなものに気を取られているといつの間にか秋宮に着いてしまいました。
途中には温泉のお湯を飲用に出しているところもありました。いつもの癖で飲めそうなものは大抵飲んでしまいます。キョロキョロしながら街道を歩くのは愉しいことです。目的地目指してまっしぐら、という効率第一の歩き方はワタクシの好むところではありません。右は下諏訪の街並。下諏訪宿町並
宿場の雰囲気も出ています。
下諏訪オルゴール館
秋社の前の茶屋でおやきを食べて、お店を出たら左の建物がありました。オルゴール館です。ちょっと一休みして綺麗な音色を楽しみましょう。

諏訪明神の参詣を済ませた泉光院は上諏訪、高島城下の方へ行きます。諏訪大社下社秋宮一之御柱

諏訪大社下社秋宮に別れを告げましょう。一之鳥居もはっきり見えています。



諏訪湖湖岸公園
諏訪湖を離れる前に湖岸公園へ立ち寄っておきましょう。
下諏訪から上諏訪までかなり距離があるので電車に乗ります。
上諏訪にはワタクシの定宿があるのです。

…夫より上の諏訪へ赴く。高島城下を通る、城下は驛の東にあり。城廻りに人家なし、放ち城也。…
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