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2016.03.29 (Tue)

泉光院の足跡  136  猿橋

二月一日 晴天。辰の下刻立ちて國分寺に詣で納經す。近村托鉢。夕方忠兵衛宅へ歸る。忠兵衛娘年柄惡きとて年取りの祝ひ雜煮等あり。親類近所より祝言の句等あり、予も一句、
   若餅や去年(こぞ)の鏡に又重ね
甲斐国分寺跡甲斐国分尼寺跡

左が甲斐國分寺跡。右が國分尼寺跡。國分尼寺跡はブドウ畑になっているらしくて、ブドウの木の根元に礎石が埋まっているらしい。泉光院がここへ来た時はどうなっていたのかしら。

忠兵衛さんの娘さんが今年は厄年なので、年取りの祝いというのをする。きっとこの娘さん、数え年の十九歳なんです。だから二十歳になったことにしてそのお祝いをして、十九歳をお終いにしてしまえばもう厄払いが出来た事になるのです。これは「年重ね」とも言ってたいへん便宜的な風習です。自分の家でお餅を搗いて、お鏡餅を作ってお供えをして、みんなでお雑煮を祝って、それで厄年はお終いになるのです。
これでいい縁談でもあればこんなにお目出度い事はありません。そして来年はまた二十歳を続けるのだから、若返ったような気になります。

泉光院はこれから甲州道中を江戸に向かいます。

…柏尾山と云ふ藥師へ詣で納經す。本堂八間四面、樓門仁王東向、…
大善寺本堂

勝沼にある柏尾山大善寺です。行基の作という本尊薬師如来は、普通なら薬壺お持つはずの手にブドウを持っているのが土地柄にふさわしい。寄棟造り檜皮葺の大屋根が覆っている本堂は国宝です。
勝沼名産ブドウ。ぶどうの房
「勝沼や馬子は葡萄を喰ひながら」と句にも詠まれたブドウは平安時代にはすでに栽培されていて、江戸時代になると江戸の町民がブドウの到来を心待ちにしていました。
ブドウは、モモ・ナシ・カキ・クリ・リンゴ・ザクロ・クルミの「甲斐八珍菓」の代表。
…夫より郡内と云へる方大谷に入り、鶺瀬と云ふに甲州の番所あり。谷を行くこと一里にして水の田村と云ふがあり、日も西山に落つる故、七郎衛門と云ふ在家に宿す。

甲斐國は、国内を南北に縦断する大菩薩嶺・御坂山地によって東と西に分断され、山地の東側、大月市や都留市のある都留郡は「郡内・ぐんない」と呼ばれ、西側の甲府市や韮崎市のある甲府盆地を「国中・くになか」と、また、鰍沢以南の富士川流域を「河内・かわうち」と呼ばれていました。それぞれ独自の歴史を持ち、別の経済圏・文化圏に属しています。「国中」では切妻造りだった民家が、「郡内」に入ると兜造りにかわり、そのことが実感できます。
鶺瀬(つるぜ)という難しい字を書いていますが、鶴瀬という所に関所があって、『宿村大概帳』に、「鶴瀬宿、御關所有レ之、鶴瀬御關所と云ふ」、『五驛便覧』に、「女出入は御代官幷甲府勤番支配、駿河町奉行證文を以て通し、或神佛參詣等出入は所之名主手形を以て相通す」というお関所でした。
無事通り抜けてから北の方の谷筋へ入ります。

五日 霞天。水の田村立、辰の刻。天目山へ晝過ぎに詣で納經す。天目山本堂
山中一里にあり、本堂南向、本尊麻利支天、武田信滿の守り本尊と云ふ。天目池とて山の絶頂に十間廻り計りの池あり、其外大石に名のある石所々にあり、門前人家六七軒、元來し道歸り、田野村と云ふに宿す。

六日 同天。天童山と云ふに詣づ。武田勝頼生害の地、又奥方の靈屋も一所にあり、寺一ヶ寺、夫より大いなる峠に掛かる、大木の山中上下二里あり、雪未だ解けず、郡内の内シラノ原と云ふへ越へ、市左衛門と云ふに宿す。相州街道也。
景徳院山門景徳院武田勝頼墓

天童山は景徳院。左が山門で右が武田勝頼とその一族の墓。奥方のお墓もここに一緒に並んでいるのだろうか。勝頼は、信長・家康に追われたあげくここで自害した。
清和源氏の流れをくみ、鎌倉時代以降甲斐の国で勢力を誇った甲斐武田氏は滅亡しました。
笹子峠富士遠望
大いなる峠、は笹子峠です。
笹子峠からの展望。
江戸から甲州へ入る時は真正面にこの風景が見えるのだが泉光院はこの富士山を背中にして歩いているのだからこの素晴らしい風景は見えません。
人生、急ぐばかりが能ではない。たまには立ち止まって過ぎ来し方を振り返りましょう。懐かしい思い出が生き生きとよみがえります。
笹子峠を越えた所から「郡内」という地方になります。白野村は大月市の近く、中央自動車道初狩PAのあたりです。笹子峠を通る道は、昔の甲州道中だった旧国道も、新しく付け替えた国道20号も、中央自動車道も、JR中央線も、みんなトンネルで峠の下を通り抜けてしまいます。この美しい風景は歩いて登る人だけのものです。笹子峠馬頭観音
左は峠頂上付近にある馬頭觀音。背中に文化十二年八月十二日と彫ってあるのがかすかに見えます。泉光院が通った時には真新しいのが立っていたのです。
そしてここにこの馬頭觀音が立てられた日に、泉光院は越中國黒崎村にいて、「No.124 橋 」の所で書いたように…平四郎昨秋の如く大疝氣差起こり、大便に行くこと晝夜三十回計り、難儀至極也、…と平四郎の腹痛で苦労していました。

八日 綱の上村立、辰の刻。街道筋猿橋とて長さ十間計り、幅一間計りの板橋あり、水より上三十尋計りに掛けたり。水中深さ知れず、因て一句、
   猿橋や水は霞の底に見へ猿橋見上げ
板橋と云ふ驛に宿す。
猿橋横


猿橋です。横から見たのと下から見上げた所と。
尋(ひろ)は長さの単位で、両手を広げた長さです。一尋は普通、5尺か6尺。
水深とか縄の長さとか、そんなものを測る時に使う単位です。
この橋は全長33.9m、幅5.4m。桂川が富士山溶岩流を浸食して作り上げた渓谷に架かっています。橋脚を立てることが出来ない深い谷ですから、両岸から刎木(はねぎ)を出して互いに支え、その上に橋桁をのせた特異な構造です。
橋を架けたのは百済の渡来人だという伝承があるのだが、『甲駿道中之記』(文政十二年刊)には、「推古天皇廿年(612)に百済国の帰化人が作ったと書いてある本があるがそれは嘘で、猿の群が藤蔓を伝わって互いの体を絡ませて対岸へ渡ったのを見て、この橋の構造を思いついたのだ。」と書いてあります。ところが、『廻國雜記』だと、「此橋に種々の説あり。むかしは猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや信用し難し、…」と書いています。伝承というものはいい加減なもので、技術系であるワタクシが思うには、日本の建築技術者はずっと昔から大佛殿のような巨大な木造建造物や様々なスタイルの塔などを造ってきていますからこの程度の橋なんて何でもない事です。この橋は現在は人間が渡ってはいけない事になっていて、「記念物」として見せ物になっているそうです。

猿橋を渡ってから、鳥沢という宿場から江戸時代の街道は川筋から離れて山中に入り、犬目宿経由で上野原宿へ出るのが本当の道筋です。恋塚上野原一里塚
途中、恋塚一里塚(右の写真)を見ながら左のような石畳道を歩くのが甲州道中の本街道です。
恋塚石畳道

泉光院はこの道を通らないでずっと桂川沿いの、現在の国道20号(平行してJR中央本線)を歩いていて、宿を借りるのに困っているようです。

…郡内綱の上村と云ふに行き宿求むる處宿なし、據なく庄屋方へ問合せ候處、此村は往來の人の通る道にはあらず、因て泊り宿とてはなし、差宿は出來申さず、一宿は相對に借り玉へとて寄せ付けず、因て次村へ行き宿求むれども出來兼ね、思案に暮れたる折から、呼び返し宿やらんと云ふ者あり、因て忝く一宿貰ひ出す、五兵衛と云ふ宅。

本街道でない道を通ったので、庄屋さんに宿泊先を紹介してもらおうと思ったのだが相手にしてくれない。それでもどうやら神佛の加護もあって五兵衛さんが泊めてくれた。

九日 晴天。晝より大雪。一句、
   匂ひあらば花と欺く春の雪
小原と云ふ處に番所あり、此所甲州相州の國境也。小佛峠と云ふに掛かりたる處、雪にて越し得ず、因て板橋と云ふ驛に歸り宿す。
十日 晴天。昨日の大雪に峠往來六ヶ敷由、さすれば滯在もならず、據なく辰の下刻立ちにて越す。小佛峠に相州武州の堺杭あり、駒木と云ふ驛に江戸寄りの番所あり、手形出すに及ばず、日野と云ふ驛に宿す。

時ならぬ大雪。新暦では3月です。この時期、太平洋沿岸に低気圧があって、シベリア寒気団が日本上空に張り出すと東海道には雪が降ります。小佛峠が積雪で通行不能。それでも出発を遅らせてどうやら小佛峠を越えました。
高尾山から富士山

またまた富士山です。今度は小佛峠の近く、高尾山から見たところ。

私事にわたって恐縮ですがワタクシは富士山が大好きです。金澤から東海道筋に引っ越して間借りをしていたのだが、そこが隣家からの火災で少し燃えて、やむなく会社近くのオンボロ社宅に住んでいたのでしたが、会社が鉄筋コンクリの社宅を建てるということで申し込みをする時、ワタクシは躊躇する事なく3階を志望しました。3階の窓からは浜名湖越しに富士山が見えるのです。2階からは見えないのです。家族の者から大顰蹙を買いましたが、そこに住んでいた5年程の間は富士山が見えてご機嫌だったのでした。

小佛峠が相模國(神奈川県)と武蔵國(東京都)の国境です。峠を越えると駒木野という宿場に関所がありました。
甲州道中絵図小仏峠
左の繪圖、安政二年(1855)発行の『五海道中細見獨案内』の中の甲州道中、小原から小佛峠を越えて駒木野までの部分です。

一番左が小原宿で、それから画面中央にかけての山が小佛峠、中央から右にかけての小さい山の裾を通って駒木野の関所の絵が描いてあって、一番右が駒木野の宿場。

江戸から来ると繪圖の右から関所に入る事になります。
現在は、「東より御番所入口に谷川の板橋あり」の駒木野橋を渡ると、右側の空き地に「史跡・小佛關跡」の石柱が立っていて、、その前に左の写真のような丸石と平石が置いてあります。
駒木野関所手形石
関所を通る者は向こうの少し高い平石に関所手形を出して置き、手前の丸石に手をついて頭を下げるのです。
平石を手形石、丸石を手付き石と呼びました。

だが泉光院は…手形出すに及ばず…で、すんなり通れたようです。
もっとも関所の通行は僧侶(山伏も含む)に対してはかなり緩やかで、女性に対しては厳しかった事が伝えられています。
何事もなく関所を通り抜けて、日野までその日のうちに着いてしまいました。でもどうして泉光院は高尾山に登らなかったのだろう。それが不思議でならない。
高尾山薬王院本堂高尾山薬王院火渡祭


高尾山といえば山伏の本場です。左が本堂。高尾山薬王院です。
3月の第2日曜日には「火渡り」が行われ、4月には「瀧開き」が行われます。
高尾山滝開き修行高尾山薬王院飯縄権現堂

右は飯縄権現堂。日光東照宮よりもきらびやかな彫刻。中には本尊の飯縄権現が安置され、堂前の両脇には随身の天狗がいるのです。
本尊である飯縄権現の持つ衆生救済の御利益を人々に分け与え、息災延命、災厄消除を祈願するのです。
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