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2016.04.30 (Sat)

泉光院の足跡 142 さらに江戸見物

廿五日 廿六日 兩日無事。御婚禮御祝儀御屋敷中御祝ひ下され候。

No.139の項で書きましたが21日に、…御奥様婚禮首尾克相濟まされ…たのでそのお祝いでお屋敷に勤務している人たち全員にお祝いを下された。きっと盛大なお料理が出たのでしょう。そして翌日は今度は隅田川の東、江東区、墨田区の方へ出かけます。

廿七日 晴天。郡司俊平と云へるを同道にて深川八幡宮、三十三間堂、須崎の辨天、五百羅漢、龜井戸天神へ詣づ。梅屋敷と云ふも一見す。一句、(省略)、夫より本所島之内御屋敷に參る、種々御馳走あり夜に入り歸る。
永代橋全図広重
深川界隈へ行くには永代橋を渡ります。右は廣重『東都名所 永代橋全図(部分)』。この橋は江戸時代だと隅田川の最下流にあった最長の橋でした。
永代橋現在

右はいまの永代橋。夜になるとライトアップして美しい。
明暦の大火(1657)の後、江戸の都市改造が進んで永代橋が架けられてからは、武家地・寺社地・町人地が混在するようになり、新たに大がかりな埋立も進みました。
江戸地図深川
左の地図、隅田川に架かっている橋が永代橋。


真ん中の方に寺社地が固まっていますが、左から、永代寺、富岡八幡宮、そしてその右に三十三間堂が見えます。

江戸は火事が多発するので木材の需要も多く、建築資材の運搬のために運河も縦横に作られ、木場(建築用材木置場)もいっぱいあります。
富岡八幡宮の參詣がてら、付近の海浜での汐干狩や船遊びなど行楽の地となり、料理茶屋も出来たり、酒を飲んだり芸者を揚げて楽しむ場所になりました。
江戸城から見てここは辰巳(巽=東南)に当たるので、「粋と気風(きっぷ)の良さ」で辰巳芸者は評判でした。
文化四年(1807)の富岡八幡宮の祭禮では見物の群衆で永代橋が落ちて多くの死者が出るという不幸な事件も起きています。

泉光院もこの絵に描いてある橋を渡って富岡八幡宮へ行きました。
橋を渡って真っ直ぐに(手前側に)行けば富岡八幡宮。江戸で一番大きかった八幡様です。この八幡様は、開運・厄除け・商売繁盛、何にでも効く八幡様ですから参詣する人も多かった。右は葛飾北斎『東都勝景一覧 深川八幡祭禮』。富岡八幡宮祭礼北斎
No.139に現代の富岡八幡宮の祭禮風景(水かけ祭)を入れておきましたので、右は江戸時代の祭禮風景です。芸者たちが御神輿に向かって投げているのは「おひねり」。
家々では左に立ててあるような大幟を立てるので「幟祭」。


富岡八幡宮明治

左は明治時代の富岡八幡宮です。


そしてこの裏手に、京都の三十三間堂を模して建てたのが江戸の「三十三間堂」。最初はいまの銀座あたりにあったのだが、元禄十一年に焼けて、二年後に深川へ持ってきて新築した。三十三間堂富岡



上の地図で右下のほう、海に面した堤防の上にあるのが辨天様。泉光院は…須崎の辨天…と書いていますが、正しくは州崎。砂で埋め立てた州の突端にある崎に作ったから州崎です。
須崎弁天社広重境内之図
左は廣重の『東都名所 州崎辨財天境内之圖』。
ここからは西に富士、東に房総、北に筑波山を見る風光明媚な観光スポットとして好まれたのです。中でも初日の出を拝むのにいいというので大勢の人が行き、従って「枡屋」その他料亭が軒を連ねました。
現在ははるか南まで埋立が進み、夢の島の上を高速湾岸線やJR京葉線が走り、海岸線は遙かに遠くなりました。
州崎辨財天の版画、右下に描かれている橋を渡ると材木商人たちの貯木場で、近頃の朝ドラ「とと姉ちゃん」に登場する材木商の屋敷などがあります。
江戸地図亀戸

隅田川と荒川の間に掘られた運河に沿って進むといまのJR亀戸駅の近くにあった五百羅漢寺まで行きます。

右の地図で右上の川が荒川。
下の方に赤字で「五百羅漢」と入れた場所が羅漢寺で、JR総武線亀戸の南500m程の所にありました。
五百羅漢寺さざえ堂

畠の中に左のようなお堂が出来ていました。
これは重政「浮絵五百羅漢寺さざい堂之圖」のに描かれている三匝堂(さんそうどう)というお堂で、ぐるぐる回って階上に達するので「さざえ堂」と呼ばれていました。五百羅漢寺明治

右の写真が明治期に写されていた羅漢寺で、左のお堂が三匝堂 。この中には西国・坂東・秩父の觀音札所に対応して100体の觀音像が安置されていて、右奥のお堂に五百羅漢が入っていました。


五百羅漢寺目黒木像羅漢

このお寺は明治42年に目黒不動堂の東隣に移転して、羅漢像もそこにあるのでそれをのせておきます。かっては536体あった木像五百羅漢は現在は305体になったということです。

羅漢寺から北へ上がると亀戸天満宮。
亀戸(かめいど)の名の由来は亀に似た島があったというのと、亀ヶ井という井戸があったからというのがありますがどちらもこじつけのような気がします。
福岡県の太宰府にある天満宮を分祀して寛文二年(1662)に創建されました。本社に倣って社殿・樓門・回廊・太鼓橋・心字池など同じように造ったのです。
天神様ですから、梅、そして藤の花の頃は賑わいました。
下の写真、左奥に拝殿があって、右手前に太鼓橋が見えています。
亀戸天神社全景
亀戸天神太鼓橋



右の写真、灯篭の股の間から太鼓橋。
亀戸天神藤

藤の頃は美しくなりました。

ここも昭和20年の東京大空襲で全部焼けました。今ある社殿も太鼓橋も全部コンクリートで再建されたものです。この時の大空襲はずいぶん激しかったもので、前の年の7月、太平洋上のマリアナ諸島の中のサイパン島がアメリカ軍に占領されると、そこを基地にしたB-29爆撃機が無着陸で東京まで往復できるのです。3月10日0時過ぎから約2時間半、150機のB-29が襲来して、深川・本所・浅草・日本橋・神田など下町一帯が、19万本の油脂焼夷弾で焼かれました。4月13日夜には新宿・小石川・四谷・麹町・赤坂・牛込・豊島・荒川・滝野川が空襲を受け、5月24/25日の空襲で、それまで被災していなかった都心と山手一帯も空襲を受け、東京は見渡す限りの焼け野原となりました。東京大空襲罹災地域図

合計120回にも及ぶ東京空襲による被害は、死者・行方不明者115,000人、重軽傷者150,000人、損害家屋850,000戸、罹災者3,100,000人を数えました。
こういう歴史も忘れてはならないことなので、ついでに書き残しておきます。
油脂焼夷弾というのは1本が長さ60cm程の6角柱で、数十本が束になって落ちてきて、落下すると四方にはじけ飛んで広範囲に広がり、その1本ずつが2mほどの火柱を吹き上げます。
ワタクシが小学生だった頃、焼夷弾の消し方、というのを学校で教わりました。
水に浸したムシロで焼夷弾を包んで地面に開けた穴のなかに入れる、という訓練です。だが実際には人の手で消火できるようなものではありません。
原子爆弾も怖いものですが、この油脂焼夷弾の威力は、日本の木造建築に及ぼす威力はすさまじいものです。
高校を卒業して間もなくの頃、一度だけ錦糸町、亀戸のあたりへ行った事がありますが、そのあたりはまだ復興の手が及んでいなくて、所々にコンクリートのビルが焼け残っているだけで、今でもその廃墟の有様が心に残っています。
梅屋敷清香庵
亀戸天神の東北、北十間川の境橋と福神橋との中間に「清香庵」と号した喜右衛門という人の「梅屋敷」がありました。
左の絵は廣重の『江戸名所 亀戸梅屋敷』です。

大きな梅の木の前に立っている立札には「臥龍梅」。命名者は水戸光圀だとか。
もっともこんな名前は臥龍櫻というのもあるし、以前岡山あたりのお寺で大きな臥龍松というのも見たことがあるので、大きな枝が横に張り出していればこんな名前をつけるのでしょう。

泉光院と同行した郡司俊平という人は、例えば総務課長、といった人かも知れない。この人に案内されて隅田川東の名所見物をしたのでした。
お終いは本所にあった佐土原藩の下屋敷で御馳走になります。
本所は当時の江戸では新興住宅地ですから、掘割で整然と区画され、大名の下屋敷や少禄の御家人・旗本の御屋敷、富裕な商人の別宅、というのがありました。料亭もあって、そういうところから仕出しの料理を取ることも出来ます。
…本所島之内御屋敷に參る、種々御馳走あり夜に入り歸る。…
と日記に書いているようにここで接待を受けたのです。
大名は、公式の住居である上屋敷のほかに、中屋敷、下屋敷、といったものを各地に持っていて、幕府の重臣やほかの大名との接待、あるいは家来や使用人の住居、さらには愛妾を隠し置く、といった目的に使い分けているのです。

泉光院はこれから先まだ重要なお仕事があるので、暇なうちに遊んでいてもらうようです。
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