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2016.05.29 (Sun)

泉光院の足跡 152 下野國分寺

十七日 晴天。千波村立、辰の刻。直ちに坂東札所出流と云ふへ詣納經。門前町少々あり、本堂東向八間四面、奥の院は三峯とて岩屋三ヶ所にあり、大師・大日・觀音とあり、大師の岩屋は深き事三町計り、奥に大師の形石あり、大日の岩屋は十間計り、觀音の岩屋は淺し、共に自然石蓮花の上に立てり、高さ七尺計りと覺ゆ、穴の中行場多し。…
満願寺山門
坂東17番觀音札所出流山満願寺へ来ました。右が山門。
出流山(いずるさん)は360mほど、高い山ではないのだが、鍾乳洞があってそれが奥の院になっているのです。
満願寺奥の院拝殿
左が奥の院の拝殿。
掛造りになっていますね。この後に鍾乳洞があって、獅子の窟(大師窟)、奥の院窟(觀音窟)、大日窟の3つに分かれていて、鍾乳石で出来た自然の十一面観音などがあるのは泉光院の書いているとおり。
今でも厄除けの三山巡りと言って、まず瀧に打たれて身を清めてから3つの鍾乳洞を巡拝します。満願寺滝行

このお寺は日光を開いた勝道上人の開基といい、弘法大師が刻んだ千手観音を安置したと伝えています。日光山と関係が深かったので幕府の保護が厚く、日光の修験者は必ずここで入峰の修行をすることが定められていて、その費用は諸大名が寄付をすることになっていた。
境内には薬師堂もあって、この中の藥師如來座像に向かって熱心に祈願すると佛体が汗をかき、それで大願成就するというので満願寺の名がついた。

…行場相濟み寺へ下り、納經判受取の時一人の僧云ふ様、各々方は日向の佐土原と帳面上書にあり城下に候やと云ふ、然りと答ふ。然らば黒貫寺は御存知やと云ふ。能く知れり、名は戒光法印とて和州豐山在山の時よりの知音なり、然る處當時病身にて隠居し、諏訪坊住、浄觀坊と云ふが黒貫寺へ住職の由江戸にて承りたり、御僧には御存知なりやと云へば、予は薩州の産大乘院弟子豐山と云ふ者也、先達て行脚に出たる折、黒貫寺へは五六日滯留し、頃日當山に來れりとて、晝食出さる。又門前似ても志しある日とて赤飯等出せし家あり。…

行場をまわってお寺へ戻ったら、納經印帳に書いてある名前(これには日向國佐土原安宮寺住野田泉光院と書いてあるはずです)を見た僧が、この人は薩摩國生まれの豐山という人で、佐土原の黒貫寺で五六日を過ごしたこともある人なので、上のような会話が成立して、昼飯をご馳走になったのでした。会話の中で出てくる「和州豐山」というお寺は、奈良の長谷寺、牡丹の花で有名なあのお寺のことです。

十八日 晴天。宮村出立、辰の上刻。大平權現と云へるに詣づ。石段十三丁上がる、御殿南向天台寺一ヶ寺、納經す。門前茶屋多し、…
大平山神社

ここも今は大平山神社と言っていますが、虚空蔵菩薩が祀られていて神佛混淆だった。約1000段の石段を上がった所に(今は神社だから)随神門があって、さらに石段を上がると右の社殿です。

…夫より岩船地蔵へ詣で納經。石山を上がること十丁、上に天台寺一ヶ寺、本堂八間四面、彩色あり、門前茶屋あり、奥の院三十三所の觀音を建てたり。其奥に石地蔵一體大石の上に安置、此の石船の如し。幅五間、長さ廿間。高さ一丈計りの大石也、故に岩船と呼ぶ。夫より元の道に返り、下野の國一の宮へ赴く、日も入山故に津連村常誓庵と云ふに宿す。
岩船地蔵三重塔

岩船山173mはJR両毛線岩舟駅のすぐ前に岩肌をむき出しにした無残な姿の山で、600段の石段を上がると右の三重塔のある高勝寺、岩船地蔵です。
厄除け地蔵として両毛地方ではよく知られたお地蔵さん。
この三重塔の右手奥に賽の河原があって、死者の霊魂が集まる場所、とか、間引きされた子供をここに居るお地蔵さんが救って下さる、という伝説もあります。
『賽の河原地蔵和讃』は、地獄の鬼に苦しめられている子供を救って下さるお地蔵さんのお話。いずれどこかで詳しく入れておきたいですね。

十九日 曇天。ツレ村出立、辰の刻。下野壬生領一の宮へ詣納經す。本社東向、夫より奥の細道にある室の八島と云へるに詣づ、只名所と云ふ計り也。…

下野國の一の宮は日光市の二荒山神社神社だから多分室の六社などと混同したのかも知れない。

…直ちに國分寺へ詣で納經す。本堂六間四面南向、寺一ヶ寺、夕方になりたる故に當村名主忠次と云ふに宿貰ひ宿す、朝暮馳走あり。…
下野國府跡空撮

岩船山から今の栃木市を通り過ぎると下野國府跡(左の空撮写真)があって、古墳時代から奈良時代・平安時代にかけての史跡がたくさん残されています。中程の所を思川が流れていて、その下(西側)に國府跡が、川向こう(東側)に國分寺跡・國分尼寺跡があります。


國分寺跡。
下野國分寺跡
今は雑木林の中にあって、ご覧のように石碑が一本立っているだけ。歴史資料を見ると、「主要建物跡には南大門跡・金堂跡・塔跡・講堂跡・塔跡などがあり、金堂跡は東西約31m・南北34.5mの長方形、塔跡は七重塔であったと思われ、基壇が残っており、心礎・四天柱礎が露呈している。…伽藍配置は東大寺式である。」
近くには國分尼寺跡もあって、右が國分尼寺跡。
下野国分尼寺跡
ここも同じように南から、南大門・中門・金堂・講堂と並んでいて東大寺式なのだが塔跡が確認されていないので、塔のない東大寺式と考えられている。

ところで、泉光院は…直ちに國分寺へ詣で納經す。本堂六間四面南向、寺一ヶ寺、…と書いているのだが、本物の國分寺ははるか昔には既に廃墟になってしまっているので、一体何というお寺に…詣で納經…したのか判らない。国分寺町の中には六間四面の大きさのお寺はついに発見出来なかったのでした。
泉光院はこの村の名主忠次さん宅で泊めてもらうのですが、

…扨此の忠次の親は回國したる仁にて、國分寺境内に供養の石碑を立て辭世の句などあり。夜話に忠次予に尋ねて云ふ様、今日無學の者の學問に成るべき工夫はなきかと、予も無學の者なれば別によき思ひ寄りとてもなし、乍然回國については一つの工夫あり、其心得と云ふは人を馬鹿とし、吾れ馬鹿となり、賢不肖を見て己が徳とす、是れ一生の學問也と云へば、忠次殿も感心して聞かれたり。…

この忠次さんは名主ですから大勢の人の頭に立ってきっと人間関係で悩むこともあったのでしょう。リーダーになると周りにいる人たち、実につまらない人間が大勢いるものなので、,立腹することもたくさんあったと思います。
…こんなときどうしたらいいのだろう、…
…泉光院云ふ様…
私も学問はないからいい考えもありませんが、思い切って自分も馬鹿になりきって、相手が立派な人なのかつまらない人間なのか,、つきあうに足る人なのかどうか、じっくり考えて、自分を高めていきましょう。それが一生をかけて自分を磨く術なのです。

泉光院はときどきこういう「いいこと」を言うのです。ワタクシはこういう泉光院の言葉にひかれるのです。
それにしても、忠次殿の親も回國をしていて、その供養のために國分寺境内に石碑を立てたとあります。いまは全く廃墟としか見えない國分寺跡も泉光院の来た頃には何かお寺らしいものがあったのだろうか。

二十日 晴天。國分寺村立、辰の刻。宇都宮城下の方へ赴く、迷ひ道ある故に道尋ねに一家に立ち寄る、一老翁居合せ昨夜は何れに宿し玉へるやと尋ぬ、昨夜は國分寺村名主忠次の宅へ宿せりと云へば、名主殿は俳人也、一句ありつらんなど云ふ、發句等はなく話し計りにて休みたりと云へば、此翁異人にて予に一句せよと云ふに付、即時一句、前あり略す。
   一聲もなまり耻かし時鳥  (ひとこえもなまりはずかしほととぎす)
夫より橋本と云ふ村托鉢の處伊左衛門と云ふ宅にて今晩一宿せよと申さるゝに付宿貰ひ置き壬生城下一見に行く、御城東向平城、廓狭し、樓門五十間計り丸き圍ひ高塀あり、町少々あり、貧家也。…
壬生宿入口一里塚
左、壬生城下入口にある一里塚。
泉光院は栃木から國分寺村へ行ったので、ここから日光へ行くには日光道中の脇道の一つ、壬生道へ入ります。
壬生城址土塁



壬生道は日光東照宮造営の際の資材運搬道路として利用された道です。
右は壬生城本丸跡に残された土塁。
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