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2016.07.30 (Sat)

泉光院の足跡 171 塩の道

廿五日 晴天。善光寺立、辰の刻。戸隠山へ赴く。此間五里、半分は山中也。戸隠山手力雄の明神へ詣納經。本社南向、寺中多し、本坊へ笈頼み置き奥の院九頭龍權現へ詣づ。山中三十丁也、大石の大山也。下に宮二つ、九頭龍宮と一つは蛇の口の御殿也。穴の奥に見へざる様に御殿あり、戸隠奉納一句、
   世の惡を戸隠し山や夏木立
戸隠村へ歸り半兵衛と云ふに宿す。戸隠山遠望

右は戸隠山遠望。
ここは修験の霊場で、山麓から山頂にかけていろんなものを見ることができます。
一の鳥居から先は神領となり、奥社まで一丁ごとに丁石が立っています。
戸隠大久保茶屋
七丁目に大久保の茶屋というのがあって、これは文化二年(1805)にはもう営業をしていたといいますから、泉光院が来た頃にはここで名物の蕎麦を食べることが出来たはずです。


戸隠蕎麦を作っています。
戸隠蕎麦を作る戸隠蕎麦戸隠蕎麦盛付け

ざるの中に盛りつけてあるのを見て下さい。戸隠蕎麦は茹でた蕎麦を真ん中で折り曲げた「ぼっち」という盛りつけが特徴です。
横山サンも蕎麦作りの修業時代には越前ばかりでなく、この戸隠や更級などあちこちで蕎麦作りを見習って、「ワシの作る蕎麦は日本一旨い」というようになってしまった。金澤へ行って横山サン宅へ行くと、「ちょっと待っとれや、」と言って蕎麦を食わしてくれました。蕎麦畑
   「信濃では月と佛とおらが蕎麦」
と言ったのは小林一茶。江戸時代中期には戸隠の宿坊で戸隠講などの参拝客に蕎麦を振る舞うようになって、これが口コミで全国に伝わって信州蕎麦全体の名が広まった。蕎麦の花満開です。
  
戸隠神社というようになったのは勿論明治以降のことで、神佛混淆の社でした。
戸隠中社
お蕎麦を食べてから先に進むと、まず寶光社。そこから狭い道を辿ると中社(左の写真)。
この辺には宿坊・旅館・土産物店などがあって、そこから左に旧参道を行くと女人堂。江戸時代の女性はここから奥社を遙拝した。奥社のある所はもう山の中で、深い森の中を歩くことになります。
戸隠奥社随神門
右が奥社随神門。樹齢500年をこえる杉木立の中です。
この門の奥2kmほど先に奥社と、その隣に九頭龍社があるのです。さらに険しい山道を登って山頂(1804m)まで行って戸隠山登山は完了します。

この戸隠山は、アマテラスが岩戸に隠れたとき、アメノウズメが舞を舞って、たくさんの神様たちがワアワア騒いだので、アマテラスは、私がいないのに何で皆さん楽しそうなの?と岩戸をちょっと開いたとき、タヂカラオが岩戸を押し開いて、その岩を力まかせに投げたのがはるばるここまで飛んで来て戸隠山になったのだ、という伝説です。だから祭神は手力雄命。

泉光院はここから糸魚川を目指します。戸隠山から糸魚川へ出るのは近いようでなかなか厄介なルートです。二つのコースが考えられます。いったん元の中社のあたりまで戻って、一つはそこから南の方、鬼無里(きなさ)の里から裾花川を遡って柳沢峠を越えて姫川沿いの白馬山麓へ出るコースと、もう一つは北の方へ行って妙高山の麓、笹ヶ峰から乙見山(おとみやま)峠を越えて小谷(おたり)温泉経由で姫川沿いの平岩へ出るコース。どっちも一長一短があります。泉光院の通った道は遠回りではありますが裾花川を遡るコースのようです。

廿六日 晴天。戸隠村立、辰の刻。下京村と云ふまで山中五里、此村惣次と云ふ宅へ宿す。越後糸魚川城下へ近道なれど山中道甚惡し。

鬼無里から裾花川沿いの道、今でこそ国道406で車も通る道だが昔はきっと大変な道だっただろう。裾花川紅葉
この道の付近に東京とか西京という村の名前が見えるから、下京という村もあったのかも知れない。
裾花川沿いの秋景。
そこからもっと奥、奥裾花という所にはミズバショウの群落もあって、花の咲く季節にはバスツアーも出る観光地になってしまった。裾花川ミズバショウ
奥裾花のミズバショウ群落の写真を入れておきます。

もう一つの笹ヶ峰から乙見山峠、小谷温泉のコースも簡単に紹介しましょう。
笹ヶ峰牧場京大ヒュッテ

妙高山の南麓に笹ヶ峰牧場があり、ここは国民休暇村にもなっている場所ですが、ここから乙見山峠を越えると小谷温泉になって、そこから姫川沿い、JR大糸線の平岩へ出る事が出来ます。
高谷池から火打山
右の素敵なヒュッテは笹ヶ峰牧場にある京都大学のヒュッテで、しばらく滞在して火打山・焼山あたりを登ったことが思い出されます。写真は高谷池から望んだ火打山(2462m)。これは楽しい登山です。
ここはヒマラヤ・カラコルムのチョゴリザ峰(7654m)に初登頂をした平井サンに紹介して貰って1泊\100で泊まったのでした。
ミズバショウを見るのもいいし、小谷温泉でのんびりするのもいいし、このあたり、北信濃はいいところですねぇ。
チョゴリザs
これが平井サンの登ったチョゴリザで、隊列を作っているのは京都大学学士山岳会(AACK=Academic Alpin Club of Kyoto )。隊長は桑原武夫で、桑原先生はこの時は京都大学の人文科学研究所の所長を務めておられた頃だと思います。
ワタクシが金沢大学工学部電気工学科に勤務していたとき、ちょうど平井サンが助手として赴任してきて、横山サンの下宿のすぐ近くに下宿したので、山へ行ったりして遊んでいたのでした。スキー平井横山富子戸室山
先頭を行くのが平井サンで、続いて横山サン、富子サン、行く先は石川・富山県境の醫王山で、そこから一気に金沢市内までスキーで滑って来るという計画。向こうに見える山は戸室山。醫王山はその奥にあります。

廿七日 晝より大雨。下京村立、辰の刻。峰方と云ふに一里の峠を越し、町田と云ふ村へ下り、夫より一里にして宿求むる處、名主云ふ様、此雨にては此下の橋落ることあり、さすれば何日の滯留となるやも知れず、早々此橋を越し次村へ行くこと可ならんと云ふに付、暮方に急ぎ丸木橋を二つ渡り、川原を行くこと十六七丁にして澁島新田と云ふに着き、名主に斷り彦四郎と云ふに宿す。此所は平原の地也。戸隠より此所迄山中十七里あり。此間山中にて三時の食物に珍しきものを食せり。大根の干葉を細かに切り、鹽にまぶし、稗の粉の團子にいれ、あんの如くにし、燒て食する也。味ひ何とも云ひがたし。

裾花川の流域から1000mほどの高さの峠を越えるとそこはもう姫川の流域です。
大雨が降って、…この雨じゃぁ橋が落ちるかも知れないし、そうなると当分どこへも行けないよ、さっさと次へ行った方がいいよ。…と言われて、もう夕方だというのに慌てて丸木橋を二つ渡って下へ降りた。澁島新田と書いてあるけれども鹽島新田ではないかと思います。今でいう白馬村。
白馬村唐松五竜
遠くに見える山は、左が五竜岳、中が唐松岳、そこから「帰らずの嶮(不帰嶮)」という難所を経て白馬岳へと続く尾根です。
塩の道千国街道標柱

姫川沿いの道は「塩の道」といわれるようになった千国街道です。

ここでおやきを食べたのだが、No.130 諏訪の宿 の所で写真を入れておいた美味しそうなおやきではなくて、…味わい何とも言い難し、…
とても食えてたものじゃぁなかった。

塩の道地図白馬村
塩の道、というと普通には太平洋岸の塩を信濃に運んだ中馬街道(三河から飯田経由塩尻)や、秋葉路、身延道(富士川沿いに甲府から諏訪方面)というのが知られていますが、日本海岸の塩は、糸魚川から大町を通って松本へ入りました。
赤色の線は国道148で、ほぼ同じ所を鉄道の線路(JR大糸線)も通っていて、ほとんど姫川に沿っておりますが、江戸時代はずっと山の方を通っていて、一例を地図で入れました。
黄色の線が昔の塩の道で、2kmほど山寄りです。
泉光院は塩の道を歩きます。

廿八日 半天。新田立、辰の上刻。谷へ下り、峠三つ越へ、東村と云ふに出で、名主付にて彌惣次と云ふに宿す。今日も山中六里。
廿九日 雨天。東村立、辰の下刻。峠を越へ山之坊と云ふに一里下る、峠の絶頂に小村あり、雨故に此村忠三郎と云ふに宿す。今日も山中七里、少し後に信州越後の堺ありたり。
晦日 晴天。忠三郎宅立、辰の刻。又峠を越し越中村と云ふに出づ、此所は平原の地にて北海に一里の所也。糸魚川領分、當所好三郎と云ふに宿す。此村に糸魚川よりの番所あり。扨此好三郎と云ふは善根の内故此家に笈頼み置き、越中立山に登らんと相談にかゝりたる處、随分可なる事なれども、本街道迄は一里損道也、街道筋州澤村と云ふに傳吉と云ふ善人あり、彼の方へ御頼み置き可然、私方よりも傳言致したりと仰せ候へば、屹度(きっと)御宿借し申すべしと云ふに付州澤村へ行き頼む積もりにす。
塩の道地図山之坊糸魚川
右の地図は先ほどの地図の続きの様な所です。同様に黄色の道が塩の道。中程の所で黄色の道が途切れている様に見えますが、途切れている下の所が「山之坊」という所で、そこから上の黄色の道へ峠を越すと糸魚川の領域になるようです。

塩は人間(および動物のすべて)に欠かす事の出来ないものです。塩は人間の歴史とともにあり、チグリス・ユーフラテス川の流域、黄河流域など、文明発祥の地は岩塩や地塩の豊富な地です。「給料」を意味するサラリーは、古代ローマで軍人や官吏に塩代として支給する銀貨のラテン語「サラリウム」を語源とする言葉です。
日本では永禄十二年(1569)正月、上杉謙信が”塩止め”で苦境に陥っていた武田信玄に塩を贈った、ということが美談として伝えられています。
塩分が欠乏すると人間はさまざまな病気にかかりますが、何よりもまず筋力が弱り、元気がなくなります。(最近日本の食卓では、減塩がいい、などと言っているようですがちょっと疑問です。)
縄文時代、食物を採集・狩猟で得ていた頃は、日常食であったサケやマスの骨、野獣の内臓などに含まれている塩化ナトリウムが自ずと補給されていましたが、弥生時代、米を栽培して主食にすると、体内に取り込んだカリウムとバランスを取るためにナトリウム分である塩が必要とされて、日本人は塩の確保に懸命となります。塩の道全国ルート

右は塩の道全国ルート(赤線が塩の道)。日本人のライフラインです。

明治になっても塩は重要品でした。明治38年、日露戦争が起こると、政府は塩を専売にして税収の増加を図りました。しかし昭和40年代になって、「イオン交換膜法」という技術が開発されると海水から簡単に「純・塩化ナトリウム」が生産されるようになりました。このような塩は果たして人間の食物として優れているのかどうかワタクシには判りません。
食塩は塩化ナトリウムだけじゃなくて、いろんな夾雑物の混合、塩化マグネシウムだとか塩化カルシウムだとか…、と思うのです。
現在、日本が消費する塩の80%は工業用を含め外国の乾燥地帯で作られた、値段の安い輸入品です。その後塩とタバコは日本専売公社に移され、さらに民営化されて、塩の専売法は消えてしまった。

鹽島新田を出た泉光院は塩の道を糸魚川へ向かいました。
信州と越後の国境に近い千国の宿には「一日百駄」と言われる荷が出入りし、松本藩の番所が置かれていました。重要な交通路ですから、藩役人が荷物の入・出荷や女の通行手形を厳しく改め、越後から輸入される鉄を除くすべての荷物に「運上(=税金)を取立てました。運上は、塩の場合は一駄(三斗入りの俵が二俵分)につき大桝で二升分が徴収されました。(税率は3.3%ほどですね。今の消費税にくらべて随分少ない。)
大網峠街道石佛
街道は姫川沿いの深い峡谷を右に見て進みます。山裾の途中を歩くので、尾根に登り谷に下り、という難所の連続です。牛方や歩荷(ボッカ)は転落や雪崩の危険がつきまとう険阻な山道を歩くのでしばしば死傷者を出しました。
右は難所といわれた大網峠にたくさん残されている石佛です。

小谷村牛方宿

左は小谷村に残る牛方宿。
一人で牛六頭を追って一人前、という牛方はこんな宿で一日の疲れを癒やしたのでした。
千国番所
大網峠を下ると一部石畳の残る山中を下って越後國の番所「大谷番所」となります。泉光院が…糸魚川寄りの番所あり…と書いています。厳しい取締で知られた番所でした。
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