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2016.10.28 (Fri)

泉光院の足跡 188 出羽街道

廿二日 晴天。金津浦立、辰の刻。道々托鉢、修験宅あり立寄る。大乘院と云ふ、相應に心掛あり、出羽中申合せ醍醐山吉祥院を申請け度由今評定あると云ふ、因て予に吉祥院の趣き共聞かれたり、夫故段々隙入り出堂と云ふ町へ宿す。
廿三日 晴天。出堂立、辰の刻。是より砂道を行くこと凡三里にして本庄城下へ着き、袈裟頭玉泉寺へ尋ね行き、吉祥院より御用の状届ける。折柄院主留守也、受取印形貰ひ直ちに出立、矢島と云ふ旗本の領地瀧澤と云ふ町に宿す。

いまの金浦(このうら)から本荘の城下へ来て、山伏の家を訪ねています。
吉祥院というのは京都醍醐寺の一番大きな塔頭である三寶院の住職で、真言宗系(當山派)の山伏の総元締のような立場の人らしくて、泉光院の直属の上司にあたる人です。今度の泉光院の回國の目的の一つは、吉祥院から日本中の山伏の実態調査のようなことを依頼されているようです。ここ出羽国の山伏たちが、吉祥院から誰か一名この地域に派遣して貰いたい、というような会議をしているのでその相談に乗っているようだ。
泉光院がここへ来る前に吉祥院と会っているのは文化十二年五月二十三日で、今は文化十三年七月二十三日。吉祥院から手紙をあずかってきているのでそれを渡して受取のハンコを貰っているようです。一年以上経っています。そのことを京都へ戻って吉祥院に報告するのは文化十五年六月十五日になります。まあ何と気の長いことでしょう。もっとも江戸に滞在している時、飛脚便を出しているから概要の報告はしているでしょうけれども。(今だったらメールで瞬時!)

廿四日 晴天。瀧澤立、辰の上刻。道々托鉢、八島町へ夕方着。立町長治郎と云ふに宿す。此邊にては婦人老若とも作方へ出るに襦袢に股引にて出る。歸りの時は股引はぬぎ襦袢計りにて歸る、尻迄ある衣物なれば立居に淫(陰)門出れど何の耻かしきとも思はず、田舎者の東夷共思ひやらる。

24日の項は民俗学の領域なので、例によって宮本先生に解説して貰いましょう。

 …これなんか、やはり南の方の人から見ると非常に変わっておったことだろうと思われます。つまり股引を脱いでしまえば下の方は丸出しになるわけですね。それで別に恥ずかしいとは思わなかった。これは女の方の場合なんですけれども、男の方は褌をしておっただろうかどうだろうかということなんです。その褌をするかしないかということは、われわれの持っている大きな習俗であると思っているんです。
 褌地帯というのがあるんです。たとえば日本の南半分は、褌地帯なんです。それからさらにインドネシアあたりまでずっと褌があるんです。ところが全然褌をはかないちたいというのがあるんです。たとえばヨーロッパの場合、褌系のものは、殆どないわけです。そのように褌のある地帯とない地帯とがある。これは文化の上でたいへん大事なことだと思っておって、もう少し地域を明らかにしたいと今思っているんです。北の方へ行くと、どうも褌地帯ではなくなるんじゃないか。男女の混浴ともからめて、その問題があるように思うんです。
 御承知でしょうけれど、江戸時代の西鶴のものなんかの風呂へ入っている挿絵ではみな褌をはいて風呂へ入っている。風呂へ入るんでも褌は取らなかった。それが東の方へ来ると、そういうことがなくなっているんじゃないか。どのあたりが境になっているのか。…

と宮本先生は問題にしている。そして昭和30年代の東北地方の聞き書きを少し書いている。

 …泉光院は、こんな事や混浴のことなど、異常なことと考えていて、この日記の他の地方では出てこないので、やはり東北地方だけのことではないかと思います。泉光院はこんな習俗をアズマエビスと書いて苦い顔をしている。平四郎も、芭蕉の場合の曾良のように克明な随行日記を書いていてくれたらずいぶん面白かっただろうに、と思いますが、殘念ながら平四郎はそんな器用な男ではなかった。…

本荘から秋田・青森を通って下北半島の恐山まで行くつもりをしていたのだが、いろんな事情が重なって諦めたらしい。今泊まっているのは本荘の東南、国道108の矢島町という所。そのまま進めば宮城県石巻へ出る道です。

廿五日 晴天。當所に龍源寺と云ふ曹洞禪寺あり、常住覺秀和尚とて此邊の知識と云へり。同宿越中の大社巡拝の裳の予が合力平四郎と血脉(脈)申請度として參れり。予も詣る、馳走あり。…
廿六日 晴天。朝當町托鉢。當地は米至て下値にて白米一升二十六文宛也。今日迄滯留せよと家内中申すに付休息す。…
…當所より羽州秋田城下へ赴く筈の所、殘暑強く又砂道也、今年は凶年にて難儀に及ぶ旨皆々申すに付延引す。津軽、南部勿論也と云ふ、因てオソレ山計りに詣る筈に定む。

この辺はお米がうんと安かった。これが事実だとすると、一石で二貫と六百。江戸の金貨で買えば一両で二石(四斗俵で五俵)買える。大体半額です。一方で、この年は青森あたりは凶作で難儀しているという。
お米が安いと言うことはお米を常食に出来るのです。お米が高いと農民は作ったお米を売って、自分たちの食用には屑米とか、麦、稗、その他雑穀を主食にする。
簡単な年表を見ると、文化十三年の項では、8月、近畿・東海地方で大洪水、11月、掛川・田中藩80ヶ村の農民が凶作による年貢の減免を求めて強訴・打壊し、などと書いてあるから、津軽・南部でも凶作で不穏な動きがあったのかも知れない。そっちの方へ行くのは止しなさいよ、とみなさん言うので、それで秋田から津軽の方へ行くのを止めて、それでも恐山の方へは行きたいなと思っていたようです。
だが結局は山形県、宮城県の方へ出てしまって、恐山へは行けなかった。
泉光院が行くのを諦めた恐山まで行ってみましょう。
恐山遠望陸奥湾
青森県の下北半島、陸奥湾に沿った道を北へ向かうのが田名部道。
右は陸奥湾を隔てて望む恐山。
ここは本州最北端の霊場。

田名部の町(今は むつ市 )から田名部川の支流、小川(こがわ)を遡って長坂、湯坂を経て恐山の入口、三途川(さんずのかわ)へと来ました。
恐山三途の川の橋
三途川は俗界と霊界の分かれ目とされていて、ここから先は不浄の者が入る事を許さなかった。
左が宇曽利山湖から流れ出る三途川にかかる太鼓橋。
ここを渡ると白茶けた岩塊や小石が累々ところがる荒涼とした原。
ところどころに硫黄の臭気が立ちのぼり、おびただしい数のケルンや卒塔婆が重なって見えます。

恐山賽の河原恐山風車

下北や津軽の人々にとって、ここは死者の集まる霊山であり、地獄の救済者である地蔵菩薩の住む山です。人々は、人の死んだことを「田名部へ行った」、「恐山へ行った」、というのです。
そして死者の霊が鎮まるように石を積み、花を供え、酒や菓子を供えて石の間を歩くのです。
そして恐山菩提寺が見えてきます。恐山菩提寺

7月20日~24日に行われる恐山大祭で、イタコの口寄せによって、死者の声を聞く、という行事で知られています。

イタコは津軽と南部地方でのみ見られる巫女さんで、多くは目の不自由な女性です。
恐山イタコ
少女期に師匠に弟子入りして「イタコ業」の訓練を受け、六根清浄祓や般若心経、錫杖經、オシラ祭文などの唱え事や占いを習って一人前になります。
亡くなった人への想いを胸にこの山へ登り、イタコの口から、亡くなった人の霊の声を聞く、という、一種の心理的なカウンセラーの様なものですね。恐山オシラ様

その他にもイタコはいろいろな神様を呼び寄せて神託を告げたり、新築の家を祓ったり、といったこともします。

東北地方には古くから伝わる家の神、「オシラサマ」を祀るのもイタコの役目です。春秋の祭の日には、旧家に祀られているオシラサマを両手に持って、オシラ祭文を唱えながら舞わせるのです。右がオシラサマを舞わさせているイタコ。

時代が変わって厳しい修行を受けるイタコは少なくなって、今は殆ど老人ばかりになってしまった。

泉光院がもしこの恐山に行ってこのような風習を見たら、日記にどんなことを書くのかちょっと興味があります。泉光院は、イタコと同じように占いをしたり祈祷をしたり、というのも商売ですから、商売敵だと思うのか、彼女らのやり方について批判的な目で見て文句をつけるのか、それとも無視するのか。

廿七日、廿八日とどうやら泊めてくれる人が現れて、

廿九日 晴天。笹子村立、辰の刻。覗きと云ふ上下四里の峠を越し、越田中と云ふに宿す。
八月一日 晴天。越田中村立、辰の刻。出羽の眞庄と云ふ城下へ行く、峠やら茅原やら六里計り、山中大寺と云ふに出で宿す。
二日 晴天。大寺村立、辰の刻。眞庄城下へ出る。平城、追手西向外に町多し、内町とて見附の中に町あり、旅人出入を禁ぜり。城の圍ひ至て惡し、故に旅人徘徊を禁ぜり。當所より奥州街道へ赴く、蟬峠と云ふを越へ蟬村と云ふに温泉あり、入湯一宿。

秋田県の矢島町から国道108を南下して由利郡鳥海村大字笹子(じねこ)という村を出てから、秋田県と山形県の境、今は国道13が通っていて、峠はトンネルで越えてしまいますが、昔は「ノゾキ」という峠で、「及位」という文字をあてました。難読地名です。
この国道13は羽州街道で、ほぼJR奥羽本線と平行です。新庄城跡

「眞庄」と書いているのは今は「新庄」で、その頃の城主は戸沢正産、68,200石でした。御城は周囲を堀と土塁で囲われ、三隅に櫓のある近世的平城だったが戊辰戦争で焼失してしまった。日記では…城の圍ひ至て惡し…と書いているけれども、そんなことはないですよね。
今は公園になっている(右)。

詳しくは書いてないけれども、新庄から亀割山(593m)の近くの瀬見(泉光院は蟬と書いているけれども)峠を越えて、最上川の支流、小国川の方へ入った所が瀬見村で、ここに温泉(瀬見温泉)があったので入湯したのでした。
このルートは義経伝説に彩られたところですし、芭蕉も平泉の中尊寺金色堂から山形県の尾花沢へ入る時、藤原三代の栄華と義経の悲劇的最後を偲んで、道々に残された義経伝説の跡を通りながら追懐したのでしょうか。
文治三年(1187)、義経主従は最上川を船で遡って新庄から人目を避けて休場(やすんば・義経主従が休んだ所)から亀割峠を越えますが、この峠で義経夫人が急に産気づき、山中のこととて危篤に陥ります。弁慶は谷に下りて末期の水を探してきて飲ませると無事男子を出産。義経は生まれてきた子供を谷底に捨てようとするのだが、弁慶の計らいで龜鶴御前と名付けて助ける。水を汲んだ所から温泉が湧き出したので、「瀬の湯」と名付けたのが「瀬見温泉」。そこから少し行くと尿前(しとまえ)の關所ですが、「義経の若君の初めて尿(しと)をし給へる處なるべし」。さらに行くと鳴子(なるご)温泉ですが、「亀割御前の初めて産声を上げた處」。そして藤原秀衡に迎えられてホッと胸をなで下ろして平泉に入るのでした。

三日 半天。瀬見村立、辰の上刻。道々托鉢、富澤村松林と云ふ禪寺へ宿す。此邊山中にて先日も途中の茶屋にて回國の者厄き事に逢ひし由、其指圖によりて此寺へ宿せり。住持鉢植好物にて段々に作りたる松等あり、因て一句、
   一盆に千代の光や松の露
住持脇あり、
   霧や煙にむせぶ古寺
隣家に庄屋隠居富山と云ふ俳人あり、話しに見へ一句あり別書に記せり、予も一句前あり略す、
   旅ながら餘所に聞くなり秋の風

山形県・宮城県の県境近くの富沢村です。近くには馬頭観世音を祀ったお寺もあるようだからこんな所に泊めてもらったのかも知れない。このお寺の住持は盆栽を作るのが趣味だったようだ。
芭蕉が通った跡には俳諧を作る人が出ているようです。俳句をよんで交換したり、歌仙を巻いたりすることで連帯感が生まれ、信頼関係が出来るのです。

四日 晴天。今日は是非滯留せよと無理に申さるゝに付休息の爲め滯る。種々清談、種々馳走あり。

このように泊めてくれて食事も出してくれる。
奥州道中と羽州街道を結ぶこの道は中山越出羽街道といって、最上川舟運が発達した江戸時代中期以降、日本海側と仙台を結ぶ重要な経済の要路となりました。

五日 晴天。富澤村立、辰の上刻。一里にして森岡村と云ふに羽州眞庄よりの番所あり。通り手形改める。醍醐御殿よりの往來手形出したる所、此手形にては通行不叶(かなわず)と云ふ、何故にて不通用に候やと相尋れば、手形と云ふ者は其御關所無滯御通し下さる可(べ)く候且又行暮れ候へば御慈悲を以て一宿御頼み申すなど書くものなるに、、此手形は關所に下知する如く爲無滯如斯など通り手形の書様にはあらずんど云へり。…

『奥の細道』では、
…南部道遙にみやりて岩手の里に泊る。小黒崎みづの小嶋を過て、なるごの湯より尿前の関にかかりて、出羽の國に越んとす、此道旅人稀なる所なれば、関守にあやしまれて漸として関をこす、大山をのぼつて日既に暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む、三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
   蚤虱馬の尿する枕もと
 …
尿前の関と芭蕉句碑
この句は有名ですね。
このあたりの山道は「歴史の道・芭蕉ゆかりの路」として整備されているようです。
出羽國新庄と陸奥國仙台の國境である中山峠をはさんで両国の関所があったようです。
右は尿前の関、手前の石は芭蕉の句碑です。

ここの関所では芭蕉も泉光院もすんなりとは通して貰えなかったようです。
まず泉光院ですが、新庄側の関所では、手形の文面が普通ではないから駄目だと言われる。
京都醍醐寺、醍醐御殿の発行する通り手形は権威ある通行許可証です。それなのに、關所役人のいうには、この手形は「滞りなく通すべし」と、いうようにまるで関所に命令をしているような書き方であり、それがケシカラン!というわけです。泉光院は、
…宮方の通り手形の文言など初めて見たる人ならん、邊鄙田舎者何も知らず殘念也、…とぼやいています。そのあとで峠を越えて仙台側に入った。

…夫より一里に羽州奥州の堺杭あり、又一里になげ子村と云ふ仙臺よりの番所あり。手形改めなし。當宿に一宿。…
封人の家有路家住宅

右はさきに芭蕉が、…大山をのぼって日既に暮れければ、封人の家を見かけて舎を求む、…と書いている「封人(ほうじん・国境を守る役人)の家」である有路(ありじ)家の内部です。
芭蕉が泊まった家です。
現在は国の重要文化財。少し詳しい道路地図には記載されています。

泉光院はまたしても「なげ子村」と、いい加減な当て字を書いていますが、鳴子温泉へ来たのです。
ここの所に尿前の関もあったのでした。これは仙台藩伊達家の関所で、泉光院が来た時には手形改めもなくてすんなり通してくれたのでしたが、芭蕉がここへ来た時には、…此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて漸として関を越す、…でちょっと苦労をしたのでした。
鳴子温泉玉の湯
左は鳴子温泉に湧き出している玉ノ湯。
そして右はこけしの一覧です。
こけし一覧






左から順番に、
1. 弥二郎系 2. 作並系 3. 蔵王系
4. 土湯系 5. 鳴子系 6. 木地山系
7. 南部系 8. 山形系 9. 津軽系
10. 遠刈田系 11. 肘折系
です。

会社へ入って初めて北海道へ出張したときのことですが、仙台で途中下車をしてウロウロと市内見物をしたあげく、鳴子と遠刈田のこけしを買い求めました。銘入りのかなりの品物で、大切にしています。昔の出張は余裕があってとても楽しいものでした。7番の南部系のは彩色してありませんが、彩色ありとなしと、2種類あって、ここには彩色なしのが写っています。
鳴子のこけしは首を回すとキイキイ音を鳴らします。
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