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2016.12.29 (Thu)

泉光院の足跡 201 金丸村

白川を出た泉光院は那須野ヶ原へ向かいました。白川関境明神
白坂の宿を出て、旧陸羽街道、今の国道294を南へ下ると福島県と栃木県の県境、ここに「峠の明神」(右の写真)があります。
多分ここを通過してから…西に行き…那須野の方へ行ったのだと思います。
白川の關というのは峠の明神の場所からずっと東の方…半道計り(約2km程)にあるので通ってはいません。

白河神社関所跡
左は白川關址にある白河神社です。





…此所より西に行き那須野の原へ掛る、四方十二三里と云ふ大原也。今松柏等の林少々あり。那須明神を尋ね行く。此原小村も無き所なれば草刈りの者もなく、狐道は縦横にあり、何れに尋ね行くすべも無く、道踏み迷ひ夜に入る頃ようようトノヲと云ふ七八軒ある在へ行き、一宿貰ひ出し宿せり。朝暮稗の飯馳走あり。
那須原野

今の那須高原といえば温泉ありホテルありサファリパークあり美術館あり別荘地あり御用邸あり…、で賑やかな所のようですが、明治の初期までは人も通らぬ原野だった。右がその頃を偲ばせる写真。

こんな原野で、けもの道、泉光院の言う「狐道」に踏み込んだが最後同じ所をグルグル歩いて下手をすると遭難しかねない。
どうやら人家を発見して泊めてもらった。ヨカッタヨカッタ。囲炉裏にあたって…稗飯の馳走…にあずかってようやく人心地がついた。

地図を探していたらトノヲ(戸能)という村がありました(下の地図)。右下、東北自動車道の那須高原S.A.の少し南の場所。赤色で囲っておきました。
那須岳戸能地図

茶臼岳はこの地図の左一番上、わずかに茶臼岳の字が読めるでしょうか。
峠の明神あたりからこの戸能まで、どのように歩いたのだろうか。
現代の道路地図を見れば道はたくさんあるように見えるのだが、それは明治になってから、政府高官・大企業主が開拓を名目として広大な土地を手に入れて農場を経営したことに始まるのです。

癪に障るから有名人の名前を少しばかり書いておきます。
三島通庸警視総監、松方正義総理大臣、大久保利和(利通の長男)侯爵、大山巌陸軍大臣、西郷従道海軍大臣、青木周蔵外務大臣、大島髙任日本鉱業会長、伊藤弥太郎(日銀)、その他侯公伯子男(爵)といった面々が顔を並べているのです。
この人たちは広大な土地を農場として開拓するという名目で払い下げを受けました。その金額は、10アール(=1反歩=約1000㎡)あたり10錢だった。この金額は当時としてもきわめて安く、当時交通の不便であった北海道ですら10アールあたり30錢だったのです。

四日 雨天。トノヲ村立、辰の刻。野原を行くこと三里計り、雨は降る、人通り絶へし所なれば淋しさ限りなし、因て一句、
   淋しさや虫も枯れ行く那須野原
湯本と云ふ所へ暮方に着く、旅宿を求め直ちに入湯す。湯壺所々にあり。硫黄湯也。谷かしらに硫黄を採る。
那須露天風呂

湯本温泉は那須温泉郷の中心部。茶臼岳を望む坂道の途中に軒をつらねてたくさんの温泉宿があります。どこに泊まったのか判らないけれども早速入湯した。
泉質はいろいろあるようだが…硫黄湯也…と書いているので硫化水素泉だったのでしょう。雨の中、道なき道を探し歩いてようやく入湯できました。那須茶臼岳

右は紅葉に包まれた茶臼岳1898mの姿。




ここの温泉は奈良時代に発見されて、さっそく温泉神社というのも建てられたのでした。
五日 雨天。滯留して那須明神へ詣で納經す。湯本より山の手三丁に鎮座。奥の院は當所より三里登る。當分雪なれば登り得ず。那須與市扇の的を射る時祈念せし那須明神は此神社也。…
那須温泉神社

右の神社が那須明神と言っている那須温泉(ゆぜん)神社。

平家物語、源平屋島の戦いで、海上に浮かんだ平家の船に、立ち上がった姫の掲げる扇の的を那須与一が鏑矢をつがえてヒョウと放てば見事扇は空に舞い、源氏・平家の軍勢はともにヤンヤの喝采、というのが平安時代の戦争風景(寿永四年(1185) 平家物語巻十一)。

…此宮の下谷合に殺生石あり。八九間四方に垣を結び一見の者近づかざる様にす。今も石の毒氣に當り蝶、蠅の類多く死せりと云ふ。予案ずるに、此石に當り死する是慥かに祕相石ならん。…
那須殺生石
左が殺生石。地下から有毒ガス(亜硫酸ガス・硫化水素ガス・炭酸ガスなど)が噴出しているのです。火山の近くにはこんなガスの出ているところはあるものですが、単に殺生石といえば那須のこの石をさす程有名です。
那須無間地獄
右は無間地獄。茶臼山の頂上から西へ少し下りた所。出ている煙は有毒ガスかも知れないので長居は無用。

…又當所に不思議あり、常には入湯人多く來る故烏多く居る由、八月過ぐれば入湯の者一人も來らず、居付の者も餘所へ稼ぎに出る也。雪の爲め家居埋れて淋しき故、烏何れかへ皆々飛去れど、只二羽何れの年も殘り居ると云ふ。巳の下刻より湯本を立ち、黒羽城下の方へ赴く。大原を行くこと六里にして大川あり、此上に人家六七軒あり。夜に入る、酒屋の出店あるに付無理に一宿を貰ひ宿す、黒磯と云ふ村也。

大川は那珂川です。那須湯本を発って南へ下りる県道17号、那須高原線という道路を歩いているのでしょう。この道は那須湯本温泉から東北自動車道那須ICの取付き、を通り、那珂川を渡ったらその上にJR東日本東北本線黒磯駅があるのです。

六日 晴天。黒磯立、辰の上刻。今日も大原を行くこと六里計り、晝過ぐる頃江戸よりの奥州街道へ出で、夫を横切り八幡へ詣で納經す。此八幡は與市八島射術の時祈誓を掛けし八幡にて與市の産土神(うぶすながみ)也。宮南向、樓門あり、扇の的の時用いし弓矢此宮の寶蔵に今猶納り居る也。予も奉納一句、
   今も猶扇ならねど散る木の葉
當村市右衛門と云ふに宿す。
那須神社旧金丸八幡

與一が與市になったり、屋島が八島になったり、文字の間違いは大目に見ることにしましょう。
黒磯を出て奥州道中、今の国道4号を通らずに横切って、南へ下って大田原市のほうへ出ました。
右は大田原市南金丸という所にある金丸八幡の樓門です。
大田原市から東の方、黒羽の方へ行く道の途中にあって、那須與一が屋島の合戦から帰って、太刀や弓矢などを奉納し、以後那須氏一族の氏神様として崇敬されるようになった八幡様ですが、那須氏の氏神様ということで今は那須神社と言うようになりました。
黒羽(くろばね)藩主大関氏(18,000石)の破格の崇敬を受け、寛永十八年(1641)に本堂が造営され、翌年には拝殿とこの写真の樓門が作られたので、泉光院はこの樓門を通っているのです。

七日 晴天。市右衛門宅立、辰の刻。黒羽の方金丸村と云ふに托鉢の所、洗濯したく思ひて宜しき宅見合せ居たるによき庵地あり、是幸也とて隣家に聞き合せたる處、當時無住也と云ふ。右に付吾々共暫時借用し洗濯致し度、借寺は出來間敷やと申入れたる處、主人次郎衛門と云ふが聞付け、然らば暫時待ち玉へ、近所の者又名主へも申聞かせ相談すべしとて、近所へ相談に行きたる處、皆々農業に出で留守也、夜に入り相談すべし、先づ今夜は此方へ宿し玉へと云ふに付一宿す。夜に入り相談に出られたる處、借寺相談出來滯留に極む。

金丸村とはどんな所でしょうか。大田原市の東、那珂川に沿った小さな村です。黒羽町と隣り合っています。泉光院たちはここの小さな地蔵堂を借りて、九月の七日から十月二十一日まで、実に44日間ここに居座ってしまうのです。ほとんど何もしないで、近所の人たちがさまざまなもの、薪炭・米麦・調味料・お茶やタバコ、その他いろいろの食べ物などを持ち込んでくるのを有難く受け取って食べている。無為徒食という言葉がありますが、実に素晴らしい生活!をしているのです。
江戸時代にこのように旅人を受け入れて親切にする社会があったのですねぇ。

八日 晴天。世話人宅、名主方、助衛門と云ふへ禮に行く。此宅より鍋釜諸事入用の品渡されたり。寺號地藏寺と云ひ眞言地也、本尊地藏也、此寺へ宿す。
九日 曇天。與次衛門、助衛門、金五左衛門と云ふ三軒よりコワ飯一重贈らる、晝時より黒羽城下へ調へ物に行き夕方歸る。與次衛門と云ふ宅より大根贈らる。

金丸村の人たちのお世話で地蔵寺を借りることが出来た。このお寺は泉光院と同じ真言宗のお寺のようだ。隣近所の人の助けでここで自炊をする準備も整い、足りない物は隣町の黒羽まで買い出しに出かけました。
泉光院がここで長逗留をするのには何かわけがありそうです。
芭蕉の、160日にわたる奥の細道の旅のうち、14日をこの黒羽で過ごしているのです。最長の滞在期間です。黒羽藩家老の浄法寺桃雪、その弟の翠桃の兄弟が江戸にいたとき芭蕉の門人となっていた縁もあって芭蕉をずいぶん歓待しているのです。
黒羽浄法寺邸跡

右は浄法寺氏の屋敷跡の風景。
元禄二年(1689)、日光の参詣を済ませた芭蕉は、
   あらたうと青葉若葉の日の光
の句を書いてから、四月三日、ここへ来たのでした。
そして泉光院のお詣りをした金丸八幡宮や、泉光院が次ぎに行く雲巌寺などを見物しているのです。そのあと、浄法寺氏から馬を出してもらって殺生石を見物に行き、…殺生石は温泉の出づる山かげにあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ眞砂の色の見えぬほどかさなり死す。…
などと書いている。泉光院はそれを読んだのだろうか、彼は…蝶・蠅の類多く死せりと云ふ、…と書いた。芭蕉は那須の共同浴場「鹿の湯」に入湯しています。芭蕉と曽良蕪村
右は蕪村の描いた芭蕉と曾良の主従。
泉光院と平四郎の主従もきっと似たような格好で歩いて托鉢をしていたのでしょうか。

十日 曇天。滯寺。昨日より靈供にて飯炊かず。近所の衆段々話に見ゆる。
十一日 雨天。金五左衛門と云ふより小豆一重贈らる。病者ありて加持に來る。金五左衛門より味噌一重贈らる、夫れに俳歌二首添ふ、予も返しに即時書く。衣の玉の光知られじと云ふ下の句にすがりて、
   鈴懸の玉と欺く露の身に光を添ふる軒の月影
として返す。夜に入り客兩人來り深更迄大噺しす。
十二日 雨天。滯寺。洗濯したぢする。客あり、加持人あり、豆煮あり、さまざま。
十三日 同天。近所より牛蒡大根贈らる。金五左衛門、與次兵衛話しに見へたり、豆煮等贈らる。與次兵衛宅より庚申への供物赤飯一重上げる。後の月一句、
   黒羽や其名は見へず後の月
十四日 晴天。滯寺。金五左衛門方よりウドン一重贈らる。洗濯物種々する。
十五日 晴天。先達て頼みし染出來、洗濯物あり。

毎日このようにのんびり暮らしています。人が生活する、というのはこんな事かしら、と思うのです。なにしろ新聞も、テレビラジオもなくて、普通の庶民は世界の出来事や日本国内の政治のことなど、どんなふうにして知らされていたのだろう。
泉光院がこの「日本九峰修行日記」の旅をしている文化・文政期は、日本の周辺にはイギリス、アメリカ、ロシア、オランダなどの船が来て通商を求めていますし、中国周辺でアヘンの輸出入のことで「アヘン戦争」というのが発生しそうな情勢ですし、外国列強が日本周辺をおびやかしている様な時代です。

十六日 晴天。無事。與次衛門弟茂左衛門と云ふは黒羽城下歩行侍(かちざむらい・下級武士)の養子に成り居たる處、身持ち宜しからざる故に離縁して今當所に隠居し居る也。此仁に面白き武術奥義の話しと云ふを聞けり。…

これから先、夜話に聞いた話を長々と書くので面倒くさいから読まなくてもいいです。

…當下野國黒羽城下に先年渡邊左衛門と云ふ劍術者有り、隣國に聞へ、門弟と成る者大かりき。中にも大田原領内より侍二人門弟となり、共に寄宿し、凡そ三ヶ年相勤め、何れも上達せり、然し氣質賢愚あれば一人は勝れ、一人は劣れり、然るに當年暮には兩人共歸宅する事となりたるに、一人には奥儀免許、一人は未熟故に惣傳なかりしを殘念に思ひ、吾れとても三ヶ年同様に稽古したり、彼の者に劣らんや、彼は賄賂にてもてなして惣傳を受けたる者ならん是れ口惜しき事也、今夜先生を一刀に切殺し、吾も切腹せんと一圖に思ひ込み居たる體、面體にも顯はれたらしく、右の面相を先生よく見て、門人中へも斯々の相顯はれ居る故、皆々覺悟し居るべき旨申渡しあり、夜に入り門人中別れの盃とて寄合へり、然る處彼の者盃を先生へ差上げ、先生盃を受取らんとし玉へる時、案の如く脇差を引抜き、一さしにせんとする所を、先生も覺悟なれば打拂い脇よりも打落とす、先生は恙なし、然る處先生より尋ねらるゝには、今其方の吾れを切らんとせし心は何様に有りたりやと有りければ、彼の者云ふ様、何様に有りたるや吾れ知らず、吾身の上も先生様も不相分(あいわからず)、只無念無想にてあなたを一刀と思ふたる計り、前後も辨へ不申(わきまえもうさず)と申上げたり。其時先生の曰く、今はよくも武術の奥儀を見付けたり、然らば褒美として武藝極傳の一巻を授くべしとて惣傳ありたりと云ふ。右の話を聞き予も感心し、此處に書留め置く、無念無想の處武術の奥儀也。

長々と書きましたが、武術の奥義というのは、…無念無想、一瞬の気迫、…というような所を体得することにある、と言いたいのでしょうか。
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