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2017.01.31 (Tue)

泉光院の足跡 209 滑河観音

廿二日 晴天。明日出立の用意す。
廿三日 晴天。出立の筈の處今日は主人の正忌日也、故に今日は滯留し回向し呉れ候様申すに付、據なく滯留し回向す。土佐の國出家とて回向に見へたり。
廿四日 晴天。今日迄は是非に滯留せよと隣り迄も申すに付休息す。先達て祈禱し遣したる小間物屋彌兵衛と云ふより晝時振舞あり行く。長壽院に暇乞いに行く、餞別として鼻紙、多葉粉等贈られ、田美子よりも手拭、鼻紙、金次郎と云ふの母よりも手拭、諸々より餞別贈り物あり。

出発しようと思うのだが、年宿の主人も、ご近所の皆さんも、なんだかんだと言って引き留める。次の日ようやく出発しました。

廿五日 晴天。長沼村年宿出立、巳の刻。別れに一句、
   行く雁をちからに今朝の別れ哉
田美一句、
   行く空や雁には秋の頼みあり
隣家の者皆村端れ迄見送れり。夫より滑川と云ふ坂東札所へ詣納經。本堂西向、七間四面、赤銅瓦葺、仁王門は茅葺、諸堂多し、門前町多し、…
龍正院仁王門
 
滑川(なめがわ)観音は龍正院。坂東三十三觀音札所第28番です。右は茅葺きの仁王門。
龍正院仁王門注連縄

二王門の前に立つと目を引くのが大きな注連縄。

ここの仁王サンは享保年間(1716~36)、門前一帯が大火となり、火が迫ってきた時大ウチワであおぎ返して寺と一帯を火災から守った。以来、村人は一月八日に龍神をかたどったこの大注連縄を奉納する事になった。

龍正院本堂




龍は水を司る事の象徴なので、仁王サンに龍神を奉ったのだろうか。

右は龍正院本堂。本堂欄間には天女の彫刻が見えます。龍正院天女の欄間


…夫より三里行き、郡村と云ふ所に圓光寺と云ふ濟家禪寺あり、此寺へ國元大光寺弟子恵林と云ふ僧行脚に來り居る由、去春江戸表にて聞きしにより尋ね行く、未だ滯寺故に一宿す。當隠居は豐後の國の出身の人にて、先達て恵林行脚の時分豐後にての知音なる故に當寺へ滯在との事也。因て豐後よりの客僧段々あり。上下十二三人の常住詰あり。
廿六日 曇天。大風故滯留す。方丈へも相見す。晝時より恵林子同道にて隠居の方へ見舞す。折節俳人兩三輩居合はせ歌仙の場に行く。生花の會もあり。よき折とて歌仙の座へ通され付け句等する。別に一句呈す。
   雪折れもあと頼みあり竹の秋
夜に入り圓光寺へ歸る。列座俳人隠居より句あり、別書に記せり。
廿七日 晴天。今日も大風、據なく滯寺。終日休息す。

今も多くの人が「旅行」をしておりますが、江戸時代も多くの人びとが「旅」をしていました。泉光院に遅れること8年程だろうか、渡邊崋山という三河國田原藩に仕えていた武士(この頃は父が死んで相続をしたから家老となっていたかも知れない)が、鹿島・香取から銚子まで旅をしております。渡辺崋山肖像画
右は門弟であった椿椿山(つばきちんざん)の描いた崋山45歳の時の肖像(椿山は、崋山が自刃したのち、三回忌、七回忌、十三回忌の時に肖像画の草稿を描いていて、これは十三回忌の時に仕上げた有名な肖像画です)。
崋山は文政八年(1825)、数え年33歳の時に、日本橋から貸切の船に乗って江戸川を遡り、行徳で降りて犬吠埼まで歩いているのですが、その時『四州眞景』(全四巻)というスケッチブックを残していまして、それがとても素晴らしい。これも食べたものや使ったお金もいっしょに書き残しているのだが、泉光院と重なる所だけ少しばかり。
左は滑川観音(部分)。
四州真景滑河観音部分
江戸時代にはこの絵のように利根川右岸の丘の上に、森に囲まれていたらしいのだが、その後の河川改修で流れはお寺からかなり離れてしまった。
描かれている丘はお寺の裏山、菊水山です。このあたりは利根川の本流で、ここも船に乗って下っているようだ。
このお寺の本尊は、この川の左の方300mほど下流の朝日ヶ淵からすくい上げられたという、身の丈約3.6cmほどの小さな觀音さまで、それが大佛師定朝の作と伝えられる十一面観音の胎内に納められている。崋山は泉光院と違って仕事としては藩財政の立て直しとか、幕府の外交政策の拙劣さの批判、洋学者としての勉強や、高野長英など蘭学者への精神的・経済的支援など多忙な日々を送っているので、お寺に詣納經んどはしない代わりに風景画家として実に美しいスケッチを残してくれたのでした

四州真景河崎明神山
もう少し船で下ると神崎(こうざき)明神というのがあって、崋山は河崎と書いていますがそこで船を下りて、…河崎川口屋に飯謁。…
川口屋という店で24文の食事をしてから参詣したようだ。
右が「河崎明神山」の圖。

…河崎明神祠神は有、神木ナンシヤモンシヤと云ふ。…

川はここで大きく屈曲していて、この明神山の森は利根川を行き交う船頭たちの目印になっていた。俗謡に、 ♪ここは神崎森の下 舵をよく取れ船頭どのよ 主の心と神崎森は ナンジャモンジャで気が知れぬ♪…と歌われたように、境内には幹廻り8.5mの神崎の大楠(國天然記念物)があって、ナンジャモンジャの樹と呼ばれている。
神崎神社
崋山は続けて、…蓋し水戸義公所號河崎明神岡阜上にあり…と書いて、水戸光圀が参拝の折、この樹はなんじゃ、と聞いたのだが答が得られず、ハテ、もんじゃ、と独り言を言ったのがこの名前のおこりだと伝えられているのを崋山も聞いて書き残しているのでした。 
左が神崎神社。

廿八日 晴天。圓光寺立、辰の下刻。大戸村庄右衛門と云ふ宅へ一宿す。七里也。
廿九日 晴天。大戸村立、辰の上刻。大戸大明神とて此邊の鎮主、大社、御朱印地、御師家多し、大宮司一ヶ寺。…
大戸神社
泉光院は滑川の龍正院から利根川を離れて大戸村の大戸大明神へ行きました。右が大戸神社。

そこから佐原市はすぐ近くです。

…夫よりサワラと云ふ宿へ出で、五智の如來へ詣づ。…

佐原は利根川の南岸に開けた町で、成田や銚子に向かう道が交わり、水陸両方の交通の要衝として栄えました。
しばしば氾濫する利根川の治水工事の必要からここでは算学が発達して、伊能忠敬のような測量技術者も出たのです。
伊能忠敬旧宅樋橋
正面に見えるのが伊能忠敬の生家。
その前の小野川に架かっている橋は樋橋といって、今は一日に何回か時間が来ると橋の下流側の樋にかけてある水管から水がジャァジャァ瀧のように流れ落ちる仕掛けになっていて、「ジャァジャァ橋」と言っています。
何時に水が出るのか忘れたが、町を一回りしてからまたここへ戻ってきたら丁度水がジャァジャァ出ていて面白かった。
佐原の旧家呉服店
ここへ来たのは世界遺産研究の会で土藏造りの建物を見るツアーでした。このお店は創業文化元年(1804)の老舗の呉服屋です。
右の方に貼りつけてある紙に、「佐原観光の記念に、町並み暖簾、忠敬風呂敷、藍染め製品、その他いろいろ」と観光客相手に宣伝してありました。
泉光院がサワラへ来た時にこのお店はもうこのように建っていたのだ、と思ったのでした。
このお店のある通りは土藏造りの建物がたくさん建ち並んでいて、佐原へ来た観光客は必ずこのお店の前を通るようです。
佐原の旧家と魚の山車

お祭には大きな山車に藁で作った大きなお人形などが街を練って大騒ぎになるようですが、ワタクシ達はお祭会館の中に入っているたくさんの山車を見物しました。右の写真、上には藁で作ったお魚が乗っているようです。


伊能忠敬が地図を作るために測量隊を編成して、10回にわたる測量でほぼ日本全土をカバーしたのでした。
伊能忠敬肖像画伊能忠敬象限儀中

左は伊能忠敬の肖像画。
右が緯度を求めるときに使う象限儀という道具。これは半径が約25cmと小さな物です。
実際に天体観測をするときには大がかりな架台が必要です。

第一次が寛政十二年(1800)閏四月十九日にスタートをして、第一次、第二次は東北・蝦夷地。第三次が奥州街道から日本海沿岸で、第四次は東海道から北陸・佐渡、第五次は主に瀬戸内から山陰、第六次で淡路・四国など、第七次は山陽道から九州、第八次で中山道、近畿、山陰、九州など幅広く、第九次と第十次で伊豆及び伊豆七島と関東の各地。トータル3753日かけて日本中を測定したのでした。
文化十三年に測量を終えて、文化十五年四月十三日に江戸で没しました。七十四歳でした。

…夫より香取明神へ詣納經。本社南向、樓門、花表前茶屋旅籠屋等多し、此邊大杉山の内也。夫より津の宮と云ふ利根川筋へ下る。在町あり三百軒計りと見ゆ、鹿島への渡り船場也。今日鹿島へ渡らんと船問屋へ行きたる處、最早や夕陽に及ぶ故、今日は今より出船はなしと云ふ、右に付巡禮の者止宿の庵室あり一宿す。上總の巡禮と同宿。
香取神宮楼門
右は香取大明神の樓門。
下總國一ノ宮です。

利根川を渡った対岸には鹿島大明神があって、そこは常陸國一ノ宮です。


香取神宮森の葉
香取神宮の森(國天然記念物)は、古来信仰の場として保護されてきたので、巨杉が社殿を囲むように生い茂っています。
真上を見上げて写真を写してきました。

右は拝殿。私が行ったときは丁度茅の輪の季節、とても大きな茅の輪でした。香取神宮拝殿と茅の輪


可愛い狛犬。これは國重文です。右の阿形は切手のデザインになったことがあります。
香取神宮狛犬
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