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2017.02.25 (Sat)

泉光院の足跡 214 砂漠

廿七日 晴天。一の宮立、辰の上刻。センダ村齒吹の如來と云ふに詣納經す。此間四里、本堂東向、八間四面、二王又四つ柱門二間四面、彫物彩色美盡せり。當如來は海中より上り玉ふと云ヘリ、只今大坂阿彌陀ヶ池に出開帳御留守也。當町門前町へ宿す。
長福寿寺龍欄間
一ノ宮である玉前神社から東の方へ行った長生郡長南町千田に称念寺というお寺があります。本堂正面の欄間には波の彫刻にすぐれていて、波の伊八といわれた武志伊八郎信由が龍を彫った欄間があります。尻尾を天井まで巻き上げ、荒波の中に躍動する龍は名品と言われています。本尊の阿彌陀如來は口を開けて白い歯を見せているので齒吹の如來というのだが、たまたま大阪まで出開帳でお留守だった。

廿八日 晴天。千田村立、辰の刻。直ちに三途の臺(うてな)とて浄土寺あり、元三大師也詣づ。本堂七間四面、二王門あり。…
長福寿寺

左が長福壽寺です。延暦十七年(798)に桓武天皇の勅願により伝教大師最澄による創建、という古いお寺で、正式には「三途河頭極樂東門太平埜山蓮華臺上本實成院阿彌陀坊長福壽寺・さんずかとうごくらくとうもんたいへいやさんれんげだいじょうほんじつじょういんあみだぼうちょうふくじゅじ」という日本一長い名前のお寺です。あまりに長いのでみなさん「三途臺 さんずのうてな」と極端に短縮した名前で言っている。泉光院は浄土寺と書いているが天台宗のお寺で創建から現在まで変わっていません。元三大師護符称念寺
良源という天台宗の18代座主を務めたえらい坊さんがいて、慈恵(じえ)大師という諡名を天皇からもらったほどの人ですが、この人の坐像のあるお寺なんです。この人は正月三日に死んだので「元三大師・がんざんだいし」という名前で知られているのと、鬼の姿に化けて疫病神を追っ払ったということで、民間信仰では「厄除け大師」として親しまれていて、玄関に右の護符を貼っておくと疫病神が入ってこないのです。この護符は「角(つの)大師」と言っているようです。疫病神を調伏するために苦労をし、骨と皮ばかりのガリガリに痩せたのだとも言います。またこの人は「おみくじ」の創始者であるとも言われています。「元三大師」でネット検索をかけるといろいろたくさん出てきますがその中に、「おみくじ」を無料で!出してくれるwebがいくつかあります。お暇な方はどうぞ。

…夫より長南と云ふ宿へ出る。此所より笠森とて坂東札所へ一里なれども、又此長南へ戻る故此所へ笈頼み置き、笠森へ詣で納經。本堂大石の上に四方作り掛、七間四面西向、廻廊を上る事二十間計り、二王門、雷風神門もあり、茶屋二軒、夫より長南の宿へ歸り坂東札所清水と云ふ方へ赴く、芝原村杢衛門と云ふに宿す。
笠森寺四方懸造り

坂東三十三觀音札所の第31番が笠森(りつしん)寺。大きな岩の上に四面を掛け作り(京都清水寺の様な舞台造り)にした珍しい「四方懸崖寄棟造・しほうけんがいよせむねつくり」という觀音堂が有名で、笠森觀音の名で通っている。全部で61本の柱で支えられて、その脚の長さは岩の凹凸に合わせてみんな長さが違う。
このお堂の舞台にでるには階段を61段上がりますが、この上からの眺望は素晴らしくて、房総半島の山々がよく見える。お堂をとりまく森林は「笠森寺自然林」といって国天然記念物指定です。
笠森寺自然林
左のような、スダジイ・ネズミモチ・ヒサカキといった木が繁茂した森になっていて、参道の途中の男人坂、女人坂の交わる所にある大きな楠の幹にあいた穴をくぐり抜けると子宝に恵まれるという「子授けのクスノキ」や、根元が結合した「二本杉」など、名木もたくさんあります。

廿九日 晴天。芝原村立、辰の刻。坂東札所清水山に詣納經。麓の河に渡船あり。夫より上ること三丁、去る子の十一月燒失、今假り堂にて、仁王門のみ殘れり、門前へ下りず直ちに引返し飯縄へ參る、半道山道を下り松山村與五兵衛と云ふに宿す。
清水寺仁王門

笠森觀音の所からずっと南下して、夷隅川を渡船で渡って坂東札所32番の清水寺へ来ました。
ここは坂上田村麻呂が京都の清水寺を模して作ったということで、山号も京都のと同じく「音羽山」を名乗っております。
泉光院がここへ来たのは丁丑(ひのとうし)年ですから、…去る子の十一月…というのは去年のことだとばっかり思っていた。だが寺伝によると火災に遭ったのは文明年間だというから、その時の子の年だと文明十一年(1480)、再建したのは元禄時代だそうだから、泉光院が来たときには本堂は出来ていたのではなかったろうか。
泉光院は…仁王門しかなかった…といっているので、その朱塗りの仁王門をのせておきます。
本尊の千手觀音のほかに、奥の院にある十一面観音は鎌倉時代の作なので、こっちの方が優れているかも知れない。

三月一日 晴天。今日大西風故休息せよと申すに付滯留。仁王一部。
二日 晴天。松山村立、辰の刻。軍荼利へ詣るに方向違ひなれども參る、一ノ宮近所也。虎見村と云ふに笈頼み置き軍タリへ詣納經。本堂東向、五間四面、二王門、寺一ヶ寺、東海一望絶景の地也。…

ところでこのあたりへ来てからの泉光院の歩き方というのが今ひとつ腑に落ちない。
何だか当てもなく歩いているように思えて仕方がない。清水觀音を出た泉光院は、飯縄寺へ行くつもりなのに、翌日(二日)になると…軍荼利(明王を祀ってあるお寺、東浪見寺・とらみじ)へ詣るに方向違ひなれども參る…と書いて、先月末に行った上總一ノ宮の玉前神社近くの一宮町東浪見村まで戻って軍荼利のお寺へ行っているのです。
東浪見寺の軍荼利明王はどんな姿だかわからないので、右に京都・教王護国寺(東寺)講堂の軍荼利明王を載せておきます。
右奥に見えるのが不動明王で、左側手前がグンダリ明王。軍荼利明王東寺

この明王は五大明王の南方におかれていて、腕、脚など体中に蛇を絡みつかせている。一面三目八臂で、左右の第一手は胸前で交叉させて指を三本立てる(大瞋印)という軍荼利明王特有の印を結んでいて、残りの六手はそれぞれ武器を持っているようです。
軍荼利明王が本尊になっているお寺は非常に珍しいのだが、海の守護神ということで海岸近くの東浪見寺に祀られているらしい。

…虎見村へ歸り笈頼み置きたる宅へ一宿貰へども差閊へたり。又平四郎は吾宿は借り置きたりと云ふ。段々聞合すれども留守多く、一軒借り出したる處、此家主人は三年以前より江戸表へ奉公に出て、内には四十歳計りの女房と十歳計りの子一人住居す、一升炊の鍋一つあり、外には八升炊きの羽釜一つ、右二つより外茶釜等も無し、予が飯を炊き置き、夫より家内の者の飯を炊き、又夫より汁を煮、其後にて茶を煎ずる也。鍋一つにて段々用を叶へる、甚だ不自由の事、是も修行の一つ也。

泊めてもらった家では亭主が江戸へ出稼ぎに出ているので、残された奥さんと子供の生活は楽ではないようだ。一つの鍋で泉光院が飯を炊き、そのあとで奥さんが飯を炊き、次にその鍋で泉光院が汁を煮て奥さんが汁を煮て、その後でお茶を沸かす。
…是も修行の一つ也。…
ここまで達観すればいいのです。

三日 晴天。朝托鉢に出で晝前に歸る。平四郎宿せし婦の母今晩は私方へ宿參らす間滯留し玉へと云ふに付、宿替して吉次郎と云ふに宿す。平四郎は前夜右の吉次郎宅へ内裏雛を飾れり、因て一句、
   龍顔を拝むも畏れ雛の棚
Pao内裏雛s
泉光院は平四郎と別れ別れになっているのだが、前夜平四郎が泊まった家の母が、泉光院に、今夜はうちに泊まって下さいね、言ってくれた。
この年の三月三日は今の暦に直すと4月18日。桃の花も咲いてお雛祭りにはちょうどいい季節。平四郎が昨日お雛サンを飾っておいた。右は近頃ワタクシがよく行くようになったPao というお店のお雛サン。
この時代のお雛祭は子供のためであるよりも季節の行事。
吉次郎の奥さんの体調が悪いので、…婦不快に付祈念頼みあり、… でいつものように、…仁王護国經…を読んでお祈りをしてあげた。

四日 雨天。據なく今日も滯在。婦不快に付祈念頼みあり。仁王一部。
五日 晴天。虎見立、辰の刻。和泉村飯縄へ詣納經。本堂西向、三間四面、瓦葺、二王門、寺一ヶ寺、門前茶屋在町少々あり、四方は田地なり、夫より大川船渡り房州の方濱通りへ出でヒヤリ村と云ふに宿す。
飯縄寺本堂

右が飯縄寺の本堂です。

夷隅川の河口を船で渡って海岸通を南へ下って、夷隅郡大原町日在(いすみ市ひあり)で泊まった。

六日 晴天。日遣り村立、辰の上刻。小濱と云ふ浦へ行き掛かりたる處滿潮にて川を渡り得ず本街道へ廻る。山中に在村あらあらあり、此村にて托鉢の所平四郎行方知れず、本街道大原と云ふ宿へ出で三時計り待合せたれども來らず、日も西山に傾く、因て據なく小池村與兵衛と云ふに宿す。
七日 雨天。平四郎何れ此街道筋を通る所なればとて待ち合せ、雨天に付滯在す。
八日 晴天。晝前迄待てども來らず、因て小池村立ち、濱手に出で岩和田と云ふに托鉢して待合すれども來らず、故に御軸と云ふ村へ行き待ち合す、内に老母あり今日滯留して同行を待ち申されよと云ふに付滯留す。木綿一反調へる。

また平四郎と別れ別れになった。きっと平四郎は泉光院について歩くのが嫌になったのだ。一緒に居るのが「ウルサイ」のです。長い間一緒にいるといろいろ気詰まりな事が多いのです(夫婦間でも勿論そうでしょう)。
泉光院の方は、自分が主人だと思っているだろうし、人間的にも自分の方が「立派だ」(もちろん意識していなくても)という態度がいつも外に現れている(だろう)。
そんなウルサイのと一緒に歩くよりも、一人で托鉢している方がよっぽど実入りが良いに決まっている。平四郎はのちに商人として大成するようだから、道徳よりもお金!自分で稼いだお金は自分で大切にしまって置くにかぎる。

当て字で御軸と書いているが御宿(おんじゅく)が正しい。
今この海岸へ行くとブロンズのラクダがいます。月の砂漠駱駝

加藤まさおという人が『少女倶楽部』に書いた詩だそうです。
曲を作った人がいたり、像を造った人がいたりします。
作曲 佐々木すぐる

月の砂漠
月の沙漠を はるばると
旅の駱駝が ゆきました
金と銀との 鞍置いて
二つならんでゆきました

金の鞍には銀の甕 銀の鞍には金の甕
二つの鞍はそれぞれに
紐で結んでありました

さきの鞍には王子様 あとの鞍にはお姫様
乗った二人はおそろいの
白い上着を着てました

曠(ひろ)い沙漠をひとすじに
二人はどこへ行くのでしょう

朧にけぶる月の夜を 対の駱駝はとぼとぼと 砂丘を越えて行きました
黙って、越えて行きました ♪

二人はどこへ行くのでしょう。おしまいまで歌っているとついオセンチな気持ちになるのです。どうしてでしょう。
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