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2017.04.14 (Fri)

泉光院の足跡 223 弘明寺

廣重版画「神奈川 臺之景」。神奈川広重保永堂

神奈川県に入ってしばらく行くと神奈川広重部分
、海に面した台地、神奈川台にさしかかります。海側の絶壁には座敷からの眺望を売りにする茶屋が軒をつらねた。

舟の帆柱の向こうに見える遠くの山は本牧のあたりで、近くの急崖は、いまは横浜市西区の野毛山公園、野毛山動物園のあるあたりと考えられています。
左の拡大図、「蔦や」、「たるや」、と読める看板の茶店からは客引き女が出ていて、旅人を引っ張り込もうとしているようです。
弥次サン、喜多サンもここの茶店のどこかで一杯飲んで、…浪うちぎはの景色いたつてよし…と賞めている。
京急の子安駅を過ぎたあたりに浦島太郎の伝承のある一画があります。
浦島太郎の墓亀型
亀住町とか浦島丘という町名が残っていて、伝承では、竜宮から帰った浦島太郎は、両親の墓を捜して東国をさすらい、箱根で玉手箱を開いて老人となり、この地まで来て両親の墓を見つけ、ここで歿したというのです。
左がその浦島太郎の墓と伝える墓石。右側の亀の背中に乗っているのがそれです。
泉光院が丹後半島を廻っているとき(No.066 浦島)、浦島太郎を祀った宇良神社のことを書いていて、ここで玉手箱を見せて貰って、正物か知れず…と疑問視しています。浦島太郎はその後木曽路の寝覚ノ床へ行ってそこで十年間、幸福な老人として過ごしたという伝承もあるのです。浦島太郎の伝承はみな謎につつまれています。
保土ヶ谷広重保永堂

神奈川から次宿保土ケ谷までは一里九丁、ほんの5kmほど。
廣重版画、保永堂版の「保土ケ谷 新町橋」の図。
帷子(かたびら)川にかかる橋を、お供を連れた武士らしいのが駕籠に乗って渡っている。
深編笠をかむり、尺八を小脇に抱えた虚無僧が渡って行く。渡った先の家には「二八そば」の看板も見えて、店の前では二人の女が立ち話をしているようだ。



保土ヶ谷広重新町橋部分


保土ヶ谷広重保永堂部分


金澤道道標4本

この川は戦後流域変更をして、この橋のあったあたりは公園になって、「帷子橋跡」の説明板が残っているだけです。
その先のJR東海道線の踏切ちょっと手前の左角に道標が4つ立っている(左の写真)。

ここの所を泉光院は左へ曲がって金澤・鎌倉街道に入りました。
書いてある文字は、右から「圓海山之道」、「かねさわ・かまくら道」、「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」という句碑、そして「ほうそう神富岡山芋大明神江の道」。

八日 晴天。川崎驛立、辰の上刻。坂東札所稱明寺へ詣納經。本堂東向、七間四面、二王門あり、寺三ヶ寺、門前茶屋三四軒あり。…

ここで稱明寺と書いているのは間違いで、弘明寺(ぐみょうじ)です。坂東札所第14番です。稱明寺というのはなくて、稱名寺というのは金澤文庫の所にあって大きなお寺ですが坂東札所ではありません。
大岡川の櫻裕香

金澤街道を南へと歩いて京急線井土ヶ谷駅の下を進んで行くとやがて大岡川に出て、橋を渡るとそこで突き当たりになって鎌倉街道となります。
「いざ鎌倉」というとき坂東武者たちが馳せ参じたというという道です。

この大岡川のほとりに亡息の住んでいたマンションがありました。左のマンションの3階でした。

マンション大岡川の櫻
ちょうど櫻の枝でかくれているあたりの部屋です。櫻桜の頃はとても美しい所でした。

弘明寺はこの川に沿って1kmほど遡った所にありました。

弘明寺山門



門前町はアーケードになっていて、上がっていくと今は繁華街の片隅に二王門とは思えないような(左の、甘茶進上の看板のある建物)があって、それが二王門。
弘明寺観音堂弘明寺鉈彫十一面観音

こちらが本堂です。

本尊は平安時代の作と伝える「鉈彫り」の典型的な作例であって、国重文指定の十一面観音立像です。
泉光院も書いているように昔は大きなお寺だったおうなのだが、明治の廃佛棄釋のあおりで寺域の大半を没収されたらしくて、のちに横浜市が弘明寺公園としました。さらに京急が本堂の裏手の方に弘明寺駅を開設したので、いま残っているのはかっての寺域の2割ほどしかないそうです。
弘明寺十一面観音部分

鉈彫りの典型、という観音様をもう少しよく見ましょう。像高181.7cm、ケヤキの一木造で、丸ノミのあとを横縞状に残しています。寺伝では行基作といいますが、平安時代中期の作、本堂が建立された寛徳元年(1044)頃に作られたものだそうです。彫り跡が見えるように少しばかり拡大しておきました。顔にも胸にも腕にもよく残っています。
本堂左の聖天堂には空海作と伝える秘佛歓喜天や、奥の院歓喜堂にも「秘佛」というものがたくさんあって、時折展覧に供しているそうです。ワタクシが行ったときには殘念ながら秘佛にはお目にかかれませんでした。

ここで詣納經をした泉光院は、門前町を真っ直ぐに南へ出て右へ曲がって鎌倉街道へ
入り、
…夫より神奈川新町と云ふより南山中に入る。鎌倉入口町圓覺寺と云ふの門前に宿す。…
と脇目もふらずに鎌倉へ行きました。その前に、稱名寺や金澤八景を見ておきましょう。行楽好きの江戸町民たちは、大山や鎌倉、江ノ島といった近郊へ、2~3泊で出かけましたが、中でも人気を呼んだのが東海道の脇街道である金澤街道でした。
「江戸より見物せんと思う人は、保土ケ谷宿より金澤へ来て、鎌倉へ行けば見物の次第よきなり。」と当時のガイドブックには書いてありました。称名寺仁王門

京急の金澤文庫駅で降りて瀬戸の入江の方へ向かうと稱名寺。
鎌倉幕府執権の一族だった金澤(かねさわ)北条氏が館を置き、倉庫として金澤文庫を創立し、稱名寺を菩提寺として建てました。右の仁王門には関東地方最大の仁王像があって、くぐって入ると阿字池の向こう正面に稲荷山を背に金堂が建っています。

左が金堂で、その右に釈迦堂が建っているのが見えます。
称名寺金堂

金澤八景(かねさわはっけい)は、州崎晴嵐・瀬戸秋月・小泉(こずみ)夜雨・乙鞆(おつとも)帰帆・稱名晩鐘・平潟落雁・野島夕照・内川暮雪の八つで、稱名寺の鐘も入っていますし、右の瀬戸神社の前にある琵琶島は秋の月を見るのによいとされました。島の中にある弁天社の辨財天立像は北条政子の勧請と伝えます。金澤八景瀬戸秋月枇杷島神社

この辺は大規模な工場進出と、住宅団地と、八景島シーパラダイスのために昔日の面影はありません。亡息の勤めていた会社も稱名寺のすぐ近くの海岸近くに建っていましたし、八景島シーパラダイスというのは東京湾に浮かぶ人口島で、丸ごと大アミューズメント・アイランド。三角屋根の水族館や、スリルいっぱい遊園地となっていて、それで「入島料」は無料だから上手に遊べば愉しい(但し駐車場料金や、ドルフィンの遊戯や、シーパラタワーなどそういう施設で遊ぼうと思うとかなり高い!)のです。八景島シーパラアクアミュージアム

右は八景島シーパラ・アクアミュージアム。

弘明寺をでて鎌倉街道を南に辿って朝比奈切通しを通り抜ければ鎌倉です。この道は鶴岡八幡宮まで続いています。
鎌倉空撮
空から見た鎌倉。
鎌倉は周囲を山で囲まれているので、鎌倉に入るには「鎌倉七切通し・(鎌倉七口)」といわれた切通しのどれかを通らなくちゃなりません。鎌倉幕府は、尾根を切り山腹を削って道路を造りました。名越(なごえ)・亀ヶ谷(かめがやつ)・化粧坂(けわいざか)・巨福呂(こぶくろ)・朝比奈・大佛坂・極楽寺坂、の七つが鎌倉時代に鎌倉へ入る道路のすべてでした。また鎌倉幕府のあった時代は、「すべての道は鎌倉に通づ」でした。鎌倉街道地図

All roads leaf to Rome. この言葉はカエサルが漏らしたのかアウグストスなのか知らないけれども、当時のヨーロッパ地図を見ると見事にすべての道はローマに集中しているのです。
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