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2017.04.18 (Tue)

泉光院の足跡 224 三行半

朝比奈切通し
泉光院は弘明寺で詣納経をしてから、朝比奈切通し(右の道)を通って、
…鎌倉入り口町圓覺寺と云ふの門前に宿す。…
と、鎌倉へ入りました。
そして一日で精力的に鎌倉のお寺を廻ったのです。


円覚寺三門




まず始めに、圓覺寺の三門。夏目漱石の小説『門』に書かれた門(左の写真)です。


円覚寺舎利殿円覚寺舎利殿内部


上左は国宝の圓覺寺舎利殿。宋の能仁寺から招来したという佛舎利(お釈迦様のお骨だというもの)を納めてあるといいます。右は舎利殿の内部。
創建当初のこのお寺は禅宗様式の配列になっていて、法堂(はっとう)・佛殿・三門・総門が一直線上に並んで、頭・心臓・腹・脚の位置を表し、そしてその両側に僧堂と東司(とうす=便所)、庫裏と浴室、が腕にあたるように配列してあります。
これらの建物すべてが禪の修行に大切な場所であり、禅宗のお寺の基本配列はこのようになっているのだといいます。
江戸幕府はここを鎌倉五山の第二位として保護をしてきたのだが、幕末・維新の混乱で寺領を失い、関東大震災で伽藍のほとんどが倒壊し、昭和になって再建した佛殿は鉄筋コンクリート造だが、元亀四年(1573)の佛殿指圖(設計図)をもとにしているので古式を保っている、とのことです。頭に当たる法堂はまだ建っていません。

泉光院は次に建長寺へ行きますが、その前に見落としてはいけないのが東慶寺。圓覺寺のすぐ向かい側です。
東慶寺
ここは鎌倉尼寺五山の第二位だったのだが、他の4寺はすべて廃寺となり、いまはここも僧寺となりましたが、江戸時代は尼寺であって、しかも駆込寺として知られていました。

結婚という制度が定着した江戸時代、町民の夫婦が離婚をする場合には、夫の書いた「去状 さりじょう、暇状 いとまじょう」が必要で、妻の側からの離縁の自由はあまりなかったのでしたが、このお寺は不幸な結婚から女性を救うお寺でした。
お寺に駆け込んで、足かけ3年奉公すれば自動的に離縁が成立するという「縁切寺法」が認められていたのは、上州の滿徳寺とここ東慶寺だけでした。
現代の離婚は夫婦連名で確認的届出書を作ってハンコを捺して提出することで成立しますが、江戸時代の離婚制度は、夫にだけ離縁状を書く権利(あるいは義務)があったのです。
もちろん妻が離縁を望んでいるにもかかわらず離縁状を書かないのは夫の恥とされましたし、親戚や媒酌人、家主、お寺の住持その他の人たちが仲介に入って円満に納めるか、あるいは離縁をさせるかしたのでしょうが、どうしても離縁状を書かない場合の救済処置が駆込寺なんです。
離縁状のことをちょっと書いておきます。
もし夫が離縁状を妻に交付しないで再婚した夫は、所払(ところばらい=追放)の刑罰に処せられましたし、離縁状を受領せずに再婚した妻は髪を剃って親元へ帰されるという刑罰がありました。東慶寺三行半

右の書面は標準的な去状で、三行半(みくだりはん)というものです。一例を挙げておきます。
     一札の事
 一、今般双方勝手合ヲ以及離縁
   然ル上者其元儀 何方縁組
   致シ候共 私方ニ二心無
   依之離別一札如件
    年月日      何兵衛
       まるどの

この本文を三行半に書くので、離縁状のことを「みくだりはん」というのでした。
意訳するとこんな具合です。
 この度、双方協議の上、離縁いたします。
 したがって、今後あなたが誰と縁組みしようとも
 私に異議はなく、翻意することもありません。
 以上本状を以て離別状と致します。

この去状があれば、女の側は次に誰と結婚しても文句は言わせないのです。
江戸時代の江戸は、前にも書いたように発展途上の都市なので、あちらこちらから働き手の男たちが集まってきますし、長屋というワンルームマンションもたくさん建ったし、一膳飯屋や煮売屋や料理屋もたくさんあって、喰うに事欠きませんし、古着屋で着るものを調達すればすぐにでも働けてお金になった。そんなわけで、男2に対して女1という、圧倒的に男が多かったのでした。だから夫の側にだけ離縁状を書く権利(というよりもむしろ義務)があったとしても、あながちそれで妻の側が不利であったわけでもないのです。女は少なかったので、女房の方が亭主よりも強い場合が多かったのです。だから去状を書いて貰わなくっても駆込寺に丸一年とちょっと(この1年とちょっとという期間は妊娠などの成り行きの確認のために必要だったのかも知れない)、足かけ3年お寺に入って居れば別の男と一緒にもなれたし、夫が反省すれば復縁も容易だった。東慶寺水月観音

右は東慶寺の水月観音半跏像。
東慶寺水月堂に安置されております。見せて戴くためには事前に電話予約などが必要だそうです。

磯田道史という人は「武士の家計簿」という本を書いてずいぶん有名になりましたが、「江戸の家計簿」という本も最近書いて、それには江戸時代の収入・支出が詳細に書かれているのです。それによると、建設業の盛んだった江戸では、大工、左官、鳶職は江戸の三職と呼ばれて花形職業で、日当は一日銀五匁四分、いまのお金に直すと、約¥27,000ほどになるそうです。一ヶ月に25日働くとすれば800万円を超える収入となります。それに対して、家賃は一ヶ月5万円程、お米が1kg\430、大根1本¥110、卵が1個\200ほど、とかなりお安いようですし、外食をしても、蕎麦一杯16文=¥250、鰻丼になるとかなりお高くて、一杯200文=\3200。
泉光院のことを書きながらいつも思うのは、江戸時代は今よりいい時代だったという思いです。

次に、…夫より建長寺へ詣納經す。寺格伽藍右に(圓覺寺のことです)同じ。…
建長寺三門

建長寺は鎌倉五山の第一位の寺格を持っていました。創建は、建長元年(1249)に場所が定まって、1251年に伽藍の建立が始まり、建長五年(1253)に落慶供養が行われたので年号をそのまま寺号とした。
右が建長寺三門。
禅宗寺院建築様式





左は禪宗寺院の標準的な配置。
建長寺も、先の圓覺寺も、宋から招いた僧が開山となっていて、左の図のような宋朝の禪宗寺院様式をとりいれたのです。その流れをくむ越前の永平寺や、金澤の大乘寺も同じように建っているのです。
一番南(図では下)に総門があって、入ると心字池が広がっている場合がよくあります。普通は太鼓橋の形をした石橋があったりしますが、建長寺の心字池はずっと奥の方、方丈、龍王殿の裏にあって、池の中に島を配した名園になっている。。
総門・三門・佛殿・法堂が一直線に並んでいて、両側に庫裏や禪堂、風呂やトイレ、というのが先に書いたとおりです。境内の廻りには塔頭や子院が建っている場合があります。ここでは三門を入って右側に鐘楼がありました。建長寺梵鐘
「建長七年・巨福山建長禪寺」の銘のある國寶の梵鐘です。

建長寺ビャクシンの巨木

左は佛殿前に立っているおおきなビャクシンの巨木です。
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