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2017.10.30 (Mon)

泉光院の足跡 263 金華山

津島神社に詣納経した泉光院は次に、

…夫より國分寺の方へ赴く。津島より國分寺の方永々敷(ながながしき)櫨並木あり。日夕陽に及び淋しきに百舌鳥の鳴くを聞きて、
   百舌鳥鳴いて夕陽淋しき櫨並木
國分寺村新衛門と云ふに宿す。

津島牛頭天王社でたくさんの蝋燭が必要であったことは前回書いておきましたので、蝋燭の原材料である櫨(はぜ)の実をとるためにこのあたりに櫨の木がたくさんあったことは理解できます。
尾張國の國府や國分寺は今の稲沢市あたりにあったらしいですから、そこへ行く道中が櫨並木だった。今の県道212号線という少し曲がりくねった道がおそらく泉光院の通った道のような気がしていますから、いまでも少しは櫨の木が残っているかも知れない。
櫨の木紅葉櫨の実
ハゼはウルシ科の落葉樹で、秋になるとウルシと同じように赤く紅葉して、そしてすっかり葉を落としてしまうと実が取りやすくなります。
左が紅葉したハゼとハゼの実。
ハゼはウルシ科ではあってもウルシほどひどくかぶれることはありません。
ワタクシは体質的にウルシにはかぶれないらしくて、合唱團の人たちとハイキングに行ったとき、赤く色づいた美しいウルシの枝を発見して、一枝折って肩に担いで歩いていたところ、ワタクシはかぶれないのだが風下にいた人はかぶれてひどく恨まれたことがありました。しかし君子危うきに近寄らず、ハゼだから大丈夫などと言ってわざわざ枝を取りに行くほどのこともありません。
泉光院がそこを通っているのは今の暦に直すと11月10日頃ですから、ちょうど上の写真の程度に色づいていたかも知れない。

泉光院はこのあたりの村でまた長逗留します。新衛門宅へ来たのが九月廿九日で、途中から曾衛門という人の家へ引越して、次に甚衛門宅へと替りますが、ここを出発するのが十一月十一日ですから都合40日以上を稲沢市周辺で世話になっています。ほとんど大したことをしていないので、要点だけにしておきましょう。
尾張国分寺旧址碑稲沢市

十月三日 晴天 新衛門宅立、辰の上刻。國分寺へ詣納經。

尾張國分寺は稲沢市のあたりに在ったようで右のような「尾張國分寺舊址」という石碑が一本立っていて、塔・金堂跡が残っているそうです。近くには國分尼寺や國府の址もあるようです。

法華村曾衛門さん宅では、 …名物大根の風呂吹馳走あり、… とか、
…藥師講あるに付滯留せよと申すに付滯留。終日馳走あり。… などと平和に暮らしています。
甚衛門さん宅に宿替えすると、甚衛門倅棒の手形願うに付面の手形教へる。… で、泉光院は「天流」という棒術の免許皆伝ですから主人に頼まれて息子に棒術の手ほどきをしている。間には洗濯をしたり仕立物をしたり、と平和に暮らしています。

十八日より十一月十日迄滯在、其内大雨多し、洗濯衣類仕立方等萬事諸用あり。大根引を見て一句
   二人もて引かれぬ尾張大こ哉
所々大根振舞に呼ばれ行く。

…永々滯留故に別れとて今日料理等拵へる、…と書きながら、翌日は大雨だったので出発を止めてご近所から呼ばれて行ってご馳走になったりしている。

十一月十一日 晴天。大塚村立、辰の刻。わらんじ二足、米一升、其外御初尾上る、高井村豐八と云ふに宿す。

ようやく出発です。甚衛門サンから餞別として草鞋や米、それに若干のお布施も頂いた。

十二日 晴天。高井村立、辰の刻。妙興寺と云ふ曹洞宗寺へ詣づ、尾州第一の檀林也、納經す。境内廣し、四丁四方、寺中六ヶ寺計り、禪堂八間四面、一宇あり、…
妙興寺勅使門
妙興寺は室町時代に栄えたお寺で、信長の頃には一時衰退したけれども、秀吉が援助して復活した。広い境内(56,000㎡)は十四世紀中頃の禅宗寺院の伽藍建築の様子をしのばせるもので、右の勅使門(国重文)は創建当時(1348)のものだそうです。

…夫より一の宮へ詣納經、本社南向、御師宅六七軒、在町長々とあり。…


尾張國一の宮は真清田神社。
真清田神社境内と拝殿
一宮市の中心部にあって、JRと名鉄(どちらからでも)の尾張一宮駅のところから駅前のアーケードを通って北へ曲がった所にある。
左が境内と拝殿。

平安時代に、各國に一の宮、二の宮、三の宮の制度ができたときに、ここが一の宮になって、犬山、明治村の近くの大縣(おおあがた)神社が二の宮に、そして熱田神宮が三の宮になった、という由緒ある神社です。



夫より目喰村棒屋と云ふに泊まれり、子供多く居る家にて喧しかりけり。

目喰村という変な名前の村は今の地図には見当たりませんが、翌日は木曽川を船で渡っていますから、木曽川べりの村だったんでしょう。棒屋というのは車などを作る家のことです。

十三日 晝より大雨天。目喰村立、辰の刻。八旗八幡へ詣納經。本社南向、四方田の中也。夫より笠松と云ふ所大川あり渡る、木曽川筋也。…
木曽川笠松渡船場
右が今に残る木曽川笠松渡船場跡。ここは江戸時代、木曽川流域の物資の集散場として栄えました。大八車の車輪が地面に潜り込まないように、川岸に丸石を敷きつめた石畳がいまも残っています。
向こう側に見える鉄橋は木曽川橋。そしてこの川が尾張国と美濃国の境になります。

…此川尾州濃州の境也、濃州加納と云ふ城下へ出づ。此所は美濃路と云ふ街道也。…
加納城跡石垣

中山道へ出ました。加納宿は江戸から数えて53番目の宿場です。右は加納城の石垣。
慶長五年(1600)の関ヶ原のあとで、勝利者である徳川家康は、山城だった岐阜城を廃して、交通の要所であるこの地に城を築いて奥平延昌を入城させ、城下町を作って中山道の宿場としたのでした。いまのJR岐阜駅より少し南の方が宿場の中心地で、中山道はJRや名鉄の線路の少し南に道筋だけはいまも残っているのだが、細かく屈曲していて、新しく出来た広い道路と交差しているのでとてもわかりにくい。
中山道伊勢道の追分地蔵堂
左の写真は中山道と伊勢道の追分で、直進するのが中山道。左に分かれるのが伊勢道。
目印に地藏堂がいまも昔通り真ん中に建っている。


…夫より岐阜へ出づ、濃州第一の町也と云ふ。古へ信長の居城の地也。今に城跡あり。權の島村仙衛門と云ふに宿す。六部三人同宿。主人一句望むに付書付ける。尤も主人三十三所の觀音を今建立中に付右によりて、
   雪と共に幸も積るや大悲力

岐阜城ライトアップ

岐阜城のある金華山338mは岐阜のシンボルです。長良川のほとりの山です。山頂の岐阜城はライトアップされていて美しい。
ここに城を造ったのは斎藤道三でした。
道三の娘婿であった織田信長は、道三の死後ここで覇権を握っていた孫の斎藤龍興を滅ぼして、永禄十年(1567)、ここを「天下布武」の根拠地としたのです。天下布武印

右がそのハンコ。
武士の力によって天下を統一する、という宣言です。
岐阜城から俯瞰岐阜市内

そして今のJR岐阜駅のすぐ近くにあった円徳寺の門前で市場を設定して、「楽市・楽座」という自由交易を奨励し、城下町の形成を進めたのでした。
1569年にここを訪れたポルトガル人の宣教師スイス・フロイスはこの町の賑わいを「出入りの激しいことはバビロンの混雑に等しく、各國の商人が塩、布、その他の商品を馬につけて来集し、…」と本国に報告をしているのです。ですが信長の天下布武の夢は本能寺で儚くなってしまいました。

右が岐阜城から眺める岐阜市内。濃尾平野と長良川が一望のもとに見下ろせて、戦国時代の山城として実にいい位置にありました。
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