2017-08- / 07-<< 12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>09-

2014.10.21 (Tue)

泉光院の足跡 029 柳川

廿七日 晴天。長瀬町立、辰の刻。佐賀城下へ着。町入口に鑄物師あり、御用の鐵砲の鑄筒あり一見す、長さ二間半、廻り三尺五寸、火持穴三貫目筒より太し、地金は鐵の如く見へたり。御城は平城、追手北向、廻りに大川あり、此邊旅人は見物を禁ず。…

反射炉と大砲(模型)
長瀬町は鍛冶屋の町で、名刀肥前忠吉(ただよし)などを作った刀鍛冶もいたのだが、下の写真、佐賀城鯱の門の鯱(シャチ)を鋳造した谷口家がその代表でした。
右は大砲鋳造用の鉄を溶かす反射炉の模型です。
前の方に大砲の模型もあります。
これは模型ですから泉光院の見たものとは違うでしょうが、佐賀藩では幕府から江戸品川の砲台に据え付けるための大砲の注文も受けたのでした。

佐賀城・鯱の門佐賀城下へ着きました。
左は佐賀城鯱の門。
佐賀城の構造物で残っているのはこの鯱の門と左手に少しだけ写っている続櫓だけです。

佐賀城は初代藩主鍋島勝茂が慶長七年(1602)から9年かけて改築した。天守閣は5層だった。
享保十一年(1726)、天守、本丸、二の丸、三の丸が火災に遭った。

鯱の門は、棟の両端に高さ1.7m、重さ約20kgの青銅製の鯱が乗っている。この門は二重、二階の樓門で、本瓦葺き入母屋造りの堂々とした門です。
写真では棟の右端に乗っているのが見えるでしょう。鯱をもっと大きく綺麗に写す事が出来たらいいのだが。

泉光院は何故か佐賀の住民とも気心が合わなかったようでした。お城へ見物に行っても…此邊旅人は見物を禁ず、…ということになっているし、前日には昼飯を食い損ねて、饅頭を3個たべて、あわれ秋風よ~ではないけれども腹の空いた一句を書いているし、兎に角泉光院にとっては…當城下皆々氣質面白からず、…で、托鉢もしないでサッサとここを離れます。

ワタクシもたった一度だけだけれども仕事で佐賀市を訪れた事があります。
佐賀エレクトロと言ったかな、小規模な半導体を作る小さな会社へ納品・据付に行ったのでした。ある晴れた日、タクシに乗ってその会社へ行き、サッサと仕事を済ませてサッサと帰り、その足で博多の町へ行って、メンタイコ
もう夜に入りかけた町中をウロウロしながらようやく福屋を捜し当て、メンタイコ、一番辛いのを買った。そのメンタイコの辛かったのを強烈に記憶している。福屋の本店というのは(もう40年近くも昔の事ですが)随分小さな店で、何故かお店のおばあさんに叱られながら一箱だけ買ったのです。何で叱られたかは忘れた。

…因て筑後柳川城下へ赴く、榎木津と云ふ渡船あり、此川肥後、筑後の堺川也、肥前よりの番所あり、往來手形改む、夕方柳川城下へ着。…
水郷柳川

水郷柳川です。
こんな風な旅をしたいものですね。どんこ舟に乗って堀割から城下町を見ましょう。
ヴェニスのゴンドラとはまた違った風情。
二人っきりで、といっても船頭さんがいるからしょうがないけれども、二人っきりになった様な気持ちでこんな歌を歌ってみましょう。

Belle nuit, O nuit d'amour , souris a nos ivresses !  うるわしき宵 恋の今宵
Nuit plus douce que le jour, O belle nuit d'amour ! 波も黄金にきらめく今宵
Le temps fuit et sans retour enporte nos tendresses; うつろうものは若き日の幸
 Loin de cet heureux sejour, le temps fuit sans rejour, みじかきものは花の命

これはオッフェンバック作曲の歌劇「ホフマン物語」の中の「ホフマンの舟歌」としてよく知られている歌です。旋律さえちょっと覚えておれば日本語なら直ぐ歌えるでしょう。(訳詞は堀内敬三のを戴きました)

柳川と言えば北原白秋。白秋といえば南蛮とキリシタン。
ワタクシも若かった時、白秋の詩は好きでした。
「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法、黒船の加比丹を、紅毛の不可思議國を……」
そうして朱や緑の酒を飲み、べれぇ帽をかぶって、ぱいぷをふかして、気取ったりしたものでした。(今でもあんまり変わっていないヨ、という声も聞こえます(^0^)

泉光院の方は、柳川の山伏を訪ねています。これは日本中の山伏の実態調査、というような仕事を、本山である京都醍醐寺三寶院御門跡から命ぜられているらしいので、袈裟頭の明王院、細工町の金剛院、といった山伏に会うのですが、どいつもこいつも、…太平楽にて口利口に言ひ廻す、修験の儀は不案内と見へたり、因て峯中十界修行、奥峯中行場一切不知、世上には口計りのもの多し。… という様ないい加減な山伏ばっかりだった。それで、

…同町林藏と云商人宿へ泊る、因て同宿多し、終夜呑むやら歌ふやら博奕を打つやら言語道斷、亂れ騒ぎ吾々共は夜も寝られず、放埒なる城下也。…

と、さんざんな目に遭っています。仕方なしに翌日、

廿八日 晴天。朝飯食するや食せざるやに早々出立、瀬高町と云ふを行通り清水揚水と云所に一宿。
瀬高町・清水寺三重塔

瀬高町は薩摩街道、久留米から熊本の方へ行く道の途中にある宿場町です。いつの間にか佐賀県を通り抜けて福岡県のかなり南の方へ来てしまった。町の東方の清水山の上に清水(きよみず)寺があります。

大同元年(806)に延暦寺の末寺として最澄によって開山された。
左は清水寺の三重塔。
高さは相輪までが27m。昭和27年に解体修理されているからまだ新しく見えます。

右は千手観音。
瀬高町・清水寺千手観音
廿九日 曇天。清水の觀音と云ふに詣づ。當山京都清水の觀音と同一體にして京都觀音を彫みたる本木にて、土中より生へ貫の躰也。カウ(香)木と云木也。麓より十六丁谷合を登る、寺一ヶ寺納經す。本堂は八丁上る、樓門仁王を安置す、本堂五間四面、南向唐破風造り、舞台あり三間桁行に六間、本堂より此間二間に六間の廊下あり、舞台は西向也。當山開基京都清水より一ヶ年前年也と云ふ。…

京都の清水寺の觀音サマを彫った木と同じで、こっちの方は根っこから生えたままの木に千手觀音を彫刻したのだ、というのです。
またこの觀音の事で不思議な事があった。

…文化七年三月二十一日柳川城下家老日渡恰(ひわた・あたか)と云人參詣あり、此觀音は地より生貫きの木にて作りたる由聞き傳ふ、只今開帳すべしと謂へり、住持の曰く、此觀音は秘佛也、何そ格別の譯なくては御主人も開帳はなり難しと云ふ、家老の身として一國の事を知らずんばあるべからず、我開帳して實否を糺さんと錠を敲き破り開帳候處須弥壇の上に厨子あり、其内には御顔せ(かんばせ)計り見へたり、故に人々謂ふ如く地より生え貫きとも云ふべしとて直ちに歸られたる處、當山より廿丁計城下の方へ歸りかゝりたる時、途中に數十人の取手足輕等待受たり、横目の役人聲を掛け、貴方には今日清水の觀音を我儘に開帳の由上聞に達し、不届の至りに思召され、依之待受け召執り(めしとり)候。上意にて即刻網乘物に入れ、歸宅の上座牢仰せ付けられたる由、此趣役僧より直々に承る。…

日渡という家老職にある男が職務権限で無理矢理秘佛である千手觀音を開帳させてしまった。きっとお寺の方では緊急事態発生!ということで柳川の殿様、立花鑑壽に言上したのでしょう。帰り道にもう早速網乘物、これは犯罪者を乗せる竹で編んだ駕籠に乗せられて、座牢、つまり閉門蟄居となってしまった。このあと家老職を解かれたかどうか迄は判りませんが、泉光院がここへ来るわずか3年程前の出来事でした。

晦日 晴天。艸葉と云ふにて洗濯し貰ふ、因て滯在。
八月朔日 晴天。八朔一句、
   八朔や露の恵みの艸葉村
即時巳の刻立、此邊珍しきものを見る。紙雛を夫婦作り、茄子にて馬の如くし、其雛を乘らせ、梨三つ柿二つ鳳仙花を立て、折敷に請て親類近所に贈ること也。…

八朔雛というのを見た。この種の風習は各地で行われているようです。茄子に割箸などで足を作って馬に見立ててその上にお雛さんをのせる。この風習は関東の一部でも京都でも行われているのですが、多くは瀬戸内海沿岸から福岡県にかけて残っているらしいです。

…此所より久留米の方へ赴き羽犬塚と云ふに宿す。…

いま居るのは八女市のあたりです。むかし、山が重なり合ったこの美しい場所に女神がいてその名を八女津媛(やめつひめ)といいました。
ここは古代、九州随一の豪族「磐井」の本拠地でした。6世紀前半ヤマト朝廷は百済と組んで新羅に滅ぼされた任那(みまな)救援のために出兵するのですが、筑紫国造である磐井は新羅と親交があるためヤマト朝廷と争うのです。古代九州における最大の戦争でした。磐井の軍はヤマトの軍に負けて、磐井の死体は彼が生前に作っておいた巨大な前方後円墳「岩戸山古墳」に葬られました。

…當所より東二里に人形ヶ原と云古跡あり、…去来の發句どもありと云。其句に、
   稲妻や人形ヶ原の魂よばい
珍しき句を聞けり、何卒行きたしと思ふ。…
人形原・石人石馬

八女市の近くに東西にのびる丘陵地があり、石人・石馬を持つ古墳が点在することから人形原(にんぎょうばる)と呼ばれています。
8つ程古墳が並んでいまして一番有名なのが先に書いた岩戸山古墳。

泉光院も、向井去来の珍しい句を知って…是非行きたし…と思ったのでしたが実際に行ったのは20日ほども経ってからでした。去来は肥前の生まれで後に京都嵯峨野に庵を作り、落柿舎と名付けた。芭蕉第一の弟子。

左が人形原で手前に馬、その向こうに何体かの人の様なものがあります。ここに並んでいるのはみな模造品で、本物は岩戸山古墳に隣接した岩戸山歴史資料館に保存されているそうです。

八日 雨天。津福村立、巳の刻。福聚寺と云に詣づ、當寺は佐土原の産古月和尚と云ふの開山也。…

案内を乞います。 …吾々は佐土原城下何々と申す者、此度日本九峰修行に罷出たり、序で乍ら古月和尚の廟拝したし、因て參りたる也と申し候へと言へば、其聲を聞き付け、僧一人出で、只今の口上を聞くに、大光寺の隣寺安宮寺とあれば安宮馬場の長泉院にてはなきやと云ふ、左言ふ貴僧は何れぞと尋ぬれば、愚僧は瓜生野金剛寺弟子祖卯也、御宅へも折々參りたり、早々洗足し上り玉へと云。早速和尚へも通じられたる由にて客座へ案内あり、休息し、牌前に燒香し廟所も同斷、長崎より持参せし菓子の雲片香、唐の線香一包佛前へ呈上す。早速晝食出る。…

佐土原出身の古月和尚という人が寛延二年(1749)にここで福聚寺というお寺を創建した。この和尚は、「いろはくどき」というのを作った人です。
西日本の盆踊唄の中に、この「いろはくどき」というのがあって、い=いとけなきをば愛して通せ、 ろ=老を敬い無礼をするな、 という風に順番にいろは四十八文字で口説き終わるのです。九州全般、中国、四国の瀬戸内側は殆ど盆踊りにこの口説きが歌われたそうです。口説きで他に有名なのは、鈴木主水とか、心中もの、合戦もの、というのがあるらしいのですが、私は知りませんので、ご存じの方は教えて下さい。

長崎でお土産用に買っておいた珍しいお菓子や中国製の線香などを佛前にお供えしました。泉光院は行先々で文房具や茶器などもお土産用に買っていて、お世話になった先にお礼として渡しているのです。江戸時代ではこういう礼儀は欠かす事は出来ませんでした。よく時代小説などで贈り物をする風習をワイロ扱いにして書いている作家も居るのですが、それは現代人の心情で以て江戸時代のつきあいの仕方を批判しているのです。

福聚寺で一宿を勧められ、祈祷も頼まれたりして、こんな詩を作りました。
    登福聚寺雨夜聞晩鐘即興
 登臨福聚海 滿目絶風塵 雨濯旅客夕 鐘聲転片身

福聚寺には結局3泊して、津福村の嘉作サンという人の家でこれから32日間世話になります。嘉作サンは佛師屋休右衛門の弟で、泉光院はこの人に頼まれて何かの書類のコピーを作ってあげるのです。はっきりは判りませんが、占いに関する本のようです。 …頼みの書寫物始める。… …今日より十八日迄毎日書寫物にて日を送れり、… …今日又書寫物あり、… …書寫物出來表紙す、… …今日より廿六日迄又書寫物あり。此間に袴仕立、一枚起請の表具、病者の加持等あり。… というように、毎日書類をコピーしている。

九月一日 晴天。嘉作へ周易筮の傳、他に九字神道祓傳受する、嘉作未だ實名なき由、右に付成の一字を許し成良と改め「シゲヨシ」と唱ふ。今日より牛嶋嘉作成良と呼ぶ。

六日には、…主人へ傳文等悉皆相濟たり。… と書いて、占いの方法などをすべて伝授し、泉光院の名前「成亮 シゲスケ」の成の一字を与えて、これで嘉作サンは牛嶋嘉作成良という一人前の占師になったのでした。

九日 晴天。高良山祭禮に付詣つ、吾々共兩人、嘉作夫婦、妹、卯の刻出立、…
高良山

左は高良山312mです。
高さは低いのですが、古くから宗教的な山として崇められてきました。
主峰の頂上には奥の院があり、中腹には筑後一の宮である高良大社が鎮座し、社の裏手から神籠石(こうごいし)というのが1.6kmほど続いている。
高良大社は仁徳天皇55年(367)または履中天皇元年(400)の創建と伝えられている。
高良大社
右が高良(こうら)大社。國重文の社殿は万治三年(1660)の総こけら葺、権現造で、和様と天竺様の折衷。
祭神は高良玉垂命(たからたまだれのみこと)と八幡大神、住吉大神の三座を祀る。
高良玉垂命はヤマト王権がここに及ぶ前からこの地に祀られていた古来からの神です。



高良山・神籠石
左は神籠石。
神籠石というのは写真に見えている様な切石を山の斜面や丘陵の側面に延々2~3kmにわたって積み上げ並べた列石で、日本では9ヶ所確認されていて、そのうち6ヶ所までが福岡県です。
高良大社のものは、縁起絵にも描かれているので神域説もあったのだが、現在では7世紀頃に造られた山城説が決定的となりました。中国や朝鮮に対しての防備施設として造られたのでしょうが、これだけ大規模な土木工事でありながら全く文献には記載されていないのも不思議な事です。
高良大社本殿内部
左は高良大社本殿内部。
天井は黒漆塗垂木の折り上げ格天井で仕上げられていて、江戸時代の御用絵師、狩野白信による花鳥風月圖が描かれています。
奥の方に天井から黒い旗が下がっているでしょう。あれには木瓜(もっこう)の紋と「高良玉垂宮」の文字が金で書かれています。右は木瓜紋です。木瓜紋


泉光院は九月九日の祭礼に出かけました。
この祭礼は、「おくんち」、つまり九月九日重陽の節句に行われる行事です。現在は新暦になっているから、10月の9~11日に行われます。

嘉作サンのお宅にいた間、書寫ばかりではなくて多少その他の出来事もありました。
(八月)十一日 半天。福聚寺に暇乞して又津福嘉作方へ行く。野道の在に正一位の稻荷の小社あり、其下に狐の穴あり、參詣の者多し。
十九日 晴天。書寫物相濟み休息。夕立、大雷近くに落ちたり。家内皆々恐れ、予は戸口へ出で雷の落つるを見る。今夕は晝飯の馳走とて折角食し、甲乙を爭ふ。嘉作は九杯予は八杯一杯の負けとて笑つて興に入る。
廿一日 晴天。長崎にて調へたるケンチウと云ふ唐絹染る。平四郎少しく病気。
廿七日 曇天。久留米侯直作の花火有り、見物に行く。

佐土原を出発してからほぼ一年経ちました。これから先、お供をしている平四郎は時々病気になるのです。これがその最初の病気。
長崎では先程のお菓子ばかりではなくて、絹織物も買いました何色に染めたのかは判らないがこうしておけばいつでも着物に仕立てる事が出来ます。

久留米の御城は篠山城といいます。丹波福知山から転封してきた有馬氏が元和七年(1621)にここに入城してきた。久留米城・石垣

これはワタクシの想像ですが、有馬氏は九州の果に移封になっても元の丹波が忘れられず、御城に篠山(ささやま)の名前を付けたのではないだろうか。
でも元の丹波の時代の所領は8万石だったから出世したと言えるのです。
右は篠山城。現在は石垣が残っているだけです。
泉光院がここへ来た文化十年の殿様は有馬頼徳二十一万石。
この殿様が自分で花火を作って打ち上げたのだろうか。この時代の花火は、今のと違ってかなり寂しい花火だったと思いますが、それでも当時としては素晴らしい見もの。
スポンサーサイト
20:47  |  街道周遊  |  TB(1)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

*Comment

コメント:を投稿する

URL
COMMENT
PASS  編集・削除するのに必要
SECRET  管理者だけにコメント:を表示  (非公開コメント:投稿可能)
 

▲PageTop

*Trackback

この記事のトラックバック URL

→http://azasosori.blog.fc2.com/tb.php/164-8c907032

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

この記事へのトラックバック:

ケノーベルからリンクのご案内(2014/10/22 08:59)

佐賀市エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。
2014/10/22(水) 08:59:34 | ケノーベル エージェント

▲PageTop

 | BLOGTOP |