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2017.04.05 (Wed)

泉光院の足跡 221 品川宿

四日 晴天。晝時より山口氏に呼ばれ行く。種々馳走あり、夕方歸る。新右衛門殿並に伴次等へ暇乞として酒等出す。伴次より一角借用、浪速より爲替にて返す筈。
五日 晴天。節句。一句、
   菖蒲ふく軒からのきの幾何里
前田氏方へ暇乞に行く、蕎麥切出る。夫より諸々暇乞し、伊勢屋茂兵衛と云ふ知音方へ暇乞に行く。唐人製墨一挺贈る。夫より神明前町權西と云ふ宅へ行く。去春上州伊香保温泉場にて知合ひになりたる也、種々馳走あり、色紙、短冊、浮世繪等呉れらる。菅笠一つ調へる。又丸合羽調へ夕方歸る。夜に入り醫師隆迪子を以て奥様御姫様より御初尾上る、御局方よりも初尾上がる、又瀧枝どのと云ふ宅へ加持に行く。

いよいよ江戸を離れるときが来ました。永年つきあってきたお友達は料理屋などへ呼んでくれて別れの宴をしてくれる。世話になった人(おそらく自分より身分の低い方の人たち)にはお酒や餞別を渡す。御屋敷にお勤めの皆さんのところへは挨拶に廻る、というようにキチンと始末をつけておきました。泉光院はもう二度と江戸へ来ることはありません。そのことは本人が一番よく知っているはずです。
伴次という男から…一角借用…と書いてあります。一角という貨幣単位は、丁六銀という庶民の間でよく使われていた銀貨のことらしいのだが、金一分ほど、銅銭だと1500文ほどか。たったこれだけ借りて、大坂へ着いたら為替で送るつもりをしている。借りたものは返すのが当然なのだが、たった金一分のために大坂から為替で送る方がよっぽど手数もかかるだろうに。何か深いわけがあるようだ。写楽四代目松本幸四郎

奥様と御姫様からお餞別(御初尾)が下される。おつぼね様たちからもお餞別が届く。
瀧枝どのという人もお局さまの一人だろうか。

江戸土産で人気のあったのは浮世絵。
写楽の「四代目松本幸四郎」です。遊女の浮世絵も人気があったのだが、隠居をした老齢の泉光院ですから、歌舞伎役者で絶大な人気のあった繪にしました。

六日 晴天。今日出立の筈の處四つ時、殿様御用に付父子共々御殿へ罷り出る、予に琥珀御帶一筋、御菓子被下、倅長泉院へ唐扇一本、御菓子一包被下、御暇申上げ下る。御側衆を以て御禮申上げる。屋敷中暇乞に廻る。常中帶小倉地一筋調へる。

出発しようとしたらお殿様から呼び出しがかかってお餞別を下さる。琥珀織りの帯なんて畏れ多くて普段使いには出来ないから、普段用にに小倉の帯を一本買った。
琥珀織りは縦糸に細い絹糸を密に、横糸に太いのを粗く配して独特の輝きを作り出した織物で、西陣では今でも作っている。夏用の帯地として珍重されるというのだが、よそ行き用の極上等の品物。
小倉織は厚手木綿の堅牢な織物で、この帯地だと侍が大小二本を腰に差しても緩まなかった。夏目漱石の「坊ちゃん」ではいたずら生徒共がみんな小倉織の制服(といっても和服に袴だが)を着て登場する。質実剛健、普段着に最適のようです。

七日 晴天。御屋敷立、辰の半刻。品川宿外れ鮫津村明石家と云ふ迄新右衛門殿、岩之丞殿、和助殿、與力俊平及び倅長泉院上下九人見送らる。數盃傾け別れる。別れに付一句、
   なごり猶ならす扇に知らせけり
新右衛門殿一句、
   武藏鐙さすが名殘は惜しめどもとめ得ぬものは泪なりけり
岩之丞一句、
   旅衣ひとへに涼し鈴掛の錦の袖のかへるをぞ待つ
伊勢屋茂兵衛暇乞に遅れたりと此所迄追いかけて來り別れを惜しみ、風呂敷一つ餞別とて贈らる。又六七丁見送り掛茶屋にて別れる。合力平四郎と主従になる。長泉院は日光の方へ赴く故明日出立の筈、…

ようやく御屋敷を出発しました。
高輪付近地図
右上のほうに「佐土原屋敷」と入れたのが佐土原藩上屋敷のあった場所。現在は三井倶楽部である事は、No.218, 江戸着の項で書いたとおりです。
御屋敷の前の通りは「綱の手引坂」という名前の道で、平安時代の頃に「渡辺の綱」という武将がこのあたりで生まれたという伝説があって、綱が産湯を使った井戸というのがあったり、御屋敷とそのお隣のイタリア大使館の間の坂は綱坂というのがあります。
渡辺綱は、ある夜京都の一条戻り橋で美女に出会い、送って欲しいと頼まれて馬に乗せたら美女は鬼女と化したので、名刀髭切りの刀で片腕を切り落としたら鬼女は光を発して愛宕山の方に飛び去った。…という伝説の持主です。
綱の手引坂を下ると慶応義塾大学の図書館の所へ出ますが、道を渡って向かい側へ入ると「NEC」本社で、ここは薩摩藩の上屋敷だった所です。そこから東海道になるのでJR田町駅の前から高輪の木戸へと向かいます。
三井倶楽部庭園入口
左の写真は三井倶楽部の横から庭園の一部を覗いて見た所と、右が庭園の一部。少しは江戸時代の面影が残っているだろうか。
三井倶楽部庭園入口




左の写真、大きい木の向こうが三井倶楽部、佐土原島津家の上屋敷で、綱の手引坂を上がりきった場所。右が綱の手引坂の一番下です。
三井倶楽部綱の手引坂上三井倶楽部綱の手引坂下


ここからすぐ近くに慶応義塾大学の図書館が見えて、その道を向かい側にはNEC本社ビルがあるのです。
NEC本社田町
左がNEC本社ビルで、その下には右の「薩摩屋敷跡」の標石が置いてありました。
薩摩藩上屋敷跡NEC本社下

ワタクシの勤めていた会社はこの会社の系列だったので、ここの重役が社長になってくる事もありましたし、最後にここから来た来た社長は、TQC(全社的品質管理、総合的品質管理)などというものにすっかり凝ってしまって、新製品の開発努力、顧客との融和親善、社員との信頼関係構築、などといった新来社長としてやらなくちゃならない業務を何一つする事もなくて、組織を紙の上で、つまり、働く人間の事を何一つ知らないままに自分の頭の中で配置換え、つまり人事異動などをやったので、新製品開発からは遅れ、顧客からは見捨てられ、従業員はやる気を失い、結局は前の社長が築き上げた100億円余の資産を雲霧消散させてしまって、あげくの果てには会社を倒産させてしまったのでした。(会社が倒産してしまう前にワタクシは定年で退職金を頂き、さらには子会社への出向を二つもやりまして充分に頂けるものは頂きましたので文句を言う筋合いは何もありませんでした(笑)。)これは余分な事ではありますが、組織の長というものは、組織の内部の人間との信頼関係が大切です。社長であろうと総理大臣であろうと同じ事です。

泉光院は綱の手引坂を下り、薩摩藩上屋敷の前から東海道へ出て、西の方へ向かって歩き出しました。
江戸市中には町ごとに木戸が設けられ、それぞれに自身番を置いて防犯にあたっていました。高輪大木戸跡
都営地下鉄泉岳寺駅の真上に高輪大木戸が置かれていましたが、ここは東海道の玄関口として特にしっかり作られていたようです。右が高輪大木戸跡。


高輪風景
左が高輪付近を通る大名行列。
「お江戸日本橋を七つ(午前4時頃)
に出た旅人は、ちょうどこの高輪大木戸のあたりで明るくなるので提灯を消したといいます。



品川日之出保永堂版

こちらは廣重・「東海道五十三次之内 品川 日之出」の図。保永堂版です。

品川は江戸への出入口にあたるので送迎の者はここで別れを告げるのです。泉光院たちは鮫津村の明石家という料理屋で盃を傾けました。いまの南品川、京急本線の鮫津駅近くに鮫津公園というのがありますが、きっとそのあたりだったのでしょう。品川宿人物東海道

右は廣重の人物東海道シリーズの品川宿です。
品川では旅人の送迎でおおぜいの人が集まり、当然のことながら盃を酌み交わすことになり、酌をする女もはべることになって、吉原の「北国」に対して品川は「南国」と称されるようになりました。

廣重は生涯の間に20種類以上もの東海道シリーズを次々と描きましたが、一番有名なのはやはり初めて出版した「保永堂版」で、他には題字を隷書で書かれている「隷書東海道」、行書で書かれている「行書東海道」、美女を前面に描いて風景はその後に添えてある程度の「美人東海道」、とか、「張交東海道」、「人物東海道」、「竪繪東海道」など色々あります。泉光院はこれからしばらくの間東海道筋を歩きますから、必要に応じて出していきます。品川隷書東海道

右は隷書東海道、品川です。

近くには泉岳寺もありますが、No.141 江戸見物續々 の項で目黒あたりからここまで見物に来ているので先を急いでいます。

知友たちは品川のはずれまで見送りに出ます。最近は長旅に出るといっても誰も見送りには出ませんね。クルマに乗ってドアをバタンと閉めればそれでおしまい。
江戸時代だと江戸四宿、中山道なら板場宿、日光・奥州道中なら千住宿、甲州道中なら内藤新宿まで、みなさんお見送りに出てそこで惜別の宴をはる。東海道の旅客は一番多かったから品川宿はたいそう賑わった。鮫頭八幡弁天池

泉光院たちが宴をはったのは鮫津という村。むかし品川沖で鮫がとれて、その腹中から聖観音が出てきたのでそれを本尊にしたのが海晏寺で、鮫の頭は鮫津八幡に祀られた。右が鮫津八幡の弁天池。まわりには厳島神社や稲荷社、水神社、弁天社などの末社が祀られているのです。

…又六七丁見送り掛茶屋にて別れる。…
品川掛茶屋隷書東海道部分
明石家で別れの宴をはったのだがそれでもまだ別れるのはつらい、800mほども歩いて大森のあたりまで来てようやく別れることになった。こんな掛茶屋は道筋には幾つもあって、団子でも食べて別れる事にした。

…合力平四郎と主従になる。…

いよいよ旅の始まりです。
泉光院が江戸へ着いてから今日までの間、平四郎は別行動をしていたようだ。平四郎は自分勝手に托鉢をして歩いたり名所見物をしていたのかも知れない。
今日からは泉光院は主人であり、ここからの平四郎は帰国するまで泉光院に雇われて荷物を担いでお供をして後を追うのがお仕事。

…本街道を右に外れ池上本門寺へ詣づ。本堂八間四面。二つ共に赤銅瓦葺、五重の塔、鐘口差渡し七尺計り、位牌堂迄も皆赤銅葺、門前茶屋多し、日蓮の廟所も當寺にあり。門前に題目石高さ一丈二尺二本一所に立てり。…
池上本門寺五重塔桜

池上本門寺の五重塔です。
慶長十二年(1607)に二代将軍秀忠の乳母である岡部の局が、秀忠の病氣平癒のお礼として建てたもので、関東地方に現存する五重塔としては最古・最大の五重塔です。
池上本門寺梵鐘
この梵鐘は高さが2.25m、口径1.7m。巨大なものです。



髭題目石
左は髭題目石というものですが、殘念ながらこれは池上本門寺のものではありません。この特徴ある文字のはね方で書いてある「南無妙法蓮華経」を髭題目というのです。
日蓮宗のお寺には必ずといっていい程この髭題目石があります。
本門寺には高さが3.6mの大きなのが二本立っていた。
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