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2017.08.11 (Fri)

泉光院の足跡 246 大井川

泉光院が宇都ノ谷峠を通った頃はもうすでに蔦の細道は使われなくなっていた。
豊臣秀吉が天正十八年(1590)に小田原攻めを行った際、大軍を通すために新しく道を作りました。前号のはじめに載せておいた宇都ノ谷峠略図で、青色、東海道、と書いた道がそれです。
本能寺の変で織田信長が死んだのは天正十年(1582)。まだ信長の部下で羽柴秀吉と名乗っており、備中高松城の水攻めで苦心していた時、信長が殺されたことを知って急遽毛利輝元と和睦して引き返し、山崎の合戦で信長殺しの犯人である明智光秀を滅ぼし、それからというもの、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を、四國の長宗我部元親を降伏させ、九州の島津義久の降伏・・・次々と敵対勢力を滅ぼして、関白太政大臣となり、朝廷からは豊臣の姓を頂戴し、小田原の北条氏政を攻めて、その時奥州の伊達政宗を服属させたのでした。そのあいだ8年間。実に短期間に戦国大名のトップに立ったのでした。それというのも、秀吉の戦争の仕方は従来の戦争とはかなり違っていたのです。先に書いたように、大軍を通すために新しく道路を作る、というような奇想天外な方法を使ったのでした。そしてその道路はそのまま江戸時代になっても東海道として大名の参勤交代に使用できる立派な道路でした。

泉光院は宇都ノ谷峠を下ってから、東海道から離れて大井川の下流、海岸近くへ行って渡し賃を払わずに川越をしようと思っているようです。
一応、正規の東海道を少し見ておきましょう。
岡部柏屋夕刻

左は岡部の宿に今も残る大旅籠、柏屋(かしばや)です。
文政年間、天保年間、と2度の火災に逢いましたが、天保七年(1836)に三代目として建てられたこの建物は当時の旅籠の様子をかなり忠実に残しているようで、現在は資料館として公開されています。


岡部の宿を過ぎると藤枝です。
江戸幕府は「街道」を制定するにあたって、単に人間が通る道筋を決めて整備する、というだけのことではなくて、公共の交通及び貨物運輸・宿泊・休息・通信などに関する設備、法令など一切を整備し管理しました。
担当は道中奉行と言って、大目付と勘定奉行の中から各一名が兼務します。
大目付は諸大名や高家などを監視し、法令の作成・発布・周知をはかるなど内閣官房のような役目で、定員は5人ほどで、通常は高位の旗本から選任されますが、待遇は大名格となります。勘定奉行も旗本から選任されて、定員は4~5人で、幕府の財政を管理します。財務省といったところでしょうか。この中のやはり最高位の人が道中奉行を兼務(正式には兼帶といいました)しました。
宿場には、参勤交代で往復する大名や、宮廷の高位の人の往来、幕府の役人などの宿泊施設として、本陣・脇本陣などがあり、貨物運搬のための馬や人足などの手配をする問屋場というのがあって、問屋場には宿役人として問屋、年寄、帳付などがいて、人足指(さし)、馬指(さし)といった人が指揮をして荷物の取次などをしていた。街道(東海道・中山道・奥州道中など)というのはこういった交通システム全般が円滑にいくように運用されているのでした。
藤枝人馬継立東海道五十三次之内

廣重版画「東海道五十三次之内 藤枝 人馬継立」です。これは宿場の風景と言うよりは、問屋場での荷物の継ぎ立てをしている図。
この画面では、前の宿場から到着した荷物を馬から下ろす人足の様子や、次宿への運搬の指示を出す人が居たり、仕事を終えた馬が奥の方で飼葉桶に首を突っ込んでいたりして、忙しい問屋場の様子を描いています。

藤枝宿の名物は染飯(そめいい)でした。藤枝瀬戸の染飯
藤枝の宿場を出ると、「名物染飯 瀬戸村の茶店に売る也。強飯を山梔子(クチナシ)にて染め、それを擂りつぶし小判形に薄く干し乾して売る也」で、この干したものはその都度蒸し返して出したものと思われる。そのまま携帯食にもなったのかも知れない。今でも右のように折詰のお弁当型のと竹皮包みのおにぎり型のを売っている。おにぎりの包み紙は当時用いられていた版木が残っていたので、「名物・瀬戸御染飯」の印刷がしてある。

♪越すに越されぬ大井川♪といわれた大井川は、なにしろ東海道第一の大河で、「霖雨降止ずして水かさ増しぬれば、川止めとて東西の驛中所せまくまでふさがり、一驛二宿も後へもどりて水の落るを待もあり」、となるのです。
嶋田大井川駿岸東海道五十三次

廣重「東海道五十三次之内 嶋田 大井川駿岸」。
大井川は川幅が十三丁(約1.3km)あって、流れも速く東海道では最も危険な場所の一つだった。幕府はこの川を江戸の防衛線として、架橋や舟渡しをさせなかったので、川越人足が輸送手段となり、旅人は輦台に乗ったり、肩車で川を渡った。
渡し賃は、1.股通し 48文 2.帯下通し 52文 3.脇通し 94文 まであり、これは水深をあらわしたもので、最高の脇通しで四尺五寸(136cm)、それ以上は川止めで、御状箱(幕府などの公式文書を入れた箱)だけを通し、五尺(152cn)以上になるとそれも止めてしまった。大井川川会所
川を渡りたい者は川岸にある川会所(右)という所でお金を払って、「割符」という油紙でできた切符のようなものを買って、渡るときには人足一人に一枚を出した。
泉光院は渡し賃を払うのは嫌だから、川下の浅いところを自分の足で歩いて渡るつもりです。

…宇津の山と云ふを越へ、岡部の驛迄半道にして左右に道あり、右は本街道、左は在道、大井川の下海際を越す道也、因て托鉢し乍ら此方へ赴く。然るに小川村と云ふに靈佛の地藏を安置す、此方へ詣づ。…
焼津海蔵寺

焼津の湊近く、小川村の海藏寺の延命地藏が靈佛であると聞いてそっちへ行きます。右が海藏寺の本堂。このお寺では紀伊大納言、紀州の殿様が参勤交代で帰る途中こんな事があった。

…此地藏は紀州公先年大井川洪水にて廿日の御滯留あり、其時此地藏霊驗新た也と聞し召され御宿願ありたる所、直ちに水落ち紀州公御越しあると跡は又直ちに洪水となり、又十日留りたり、因て今に御信心あり、御代參毎々と聞けり。因て此方へ赴く。…

紀州の殿様は大井川で20日間も川止めをくらって、ここのお地蔵さんが霊験あらたかと聞いてお詣りしたところ、すぐに水が引いて渡る事が出来た。殿様が渡ったあとですぐにまた洪水になって10日間川止めになった。だからそのお礼に紀伊大納言徳川頼宜がお堂を建てた。本当かどうか分からない話ですが、紀州公奉納の金製の地藏もあるという。そして翌日、

廿三日 晴天。大村新田滯留にて小川地藏へ立場す。納經し夜に入り歸る。

小川地藏は參詣人が多いので、そこで立場をした。立場というのは人通りの多い所で一ヶ所に立っていて托鉢をするのです。ワタクシが泉光院のことでメールなどを書いていた頃のことです。浜松に一つしかない駅前のデパートの前の、この前の空襲の時に焼け残ったというポプラの大きい木の下で、伊予国から来たという青年僧が立場というのをやっていました。で、ワタクシは彼になにがしかの喜捨と、話のついでに泉光院の資料なども渡してしまった。ワタクシの見ていた間にもかなりの人が青年僧の鉢の中にお金を入れていたようだった。泉光院もある程度の喜捨を頂いたことでしょう。

いまの大井川町相川、中禰、小杉といったあたりを歩いているのだが、この辺は漁師町で泊めてくれる家もなく、手持ちの米もなくなって情けない思いで歩いている。

廿四日 晴天。大村立、辰の刻。アイ川通りとて濱往還へ行く、日も西山に落ち、宿求め、又米も調へ度方々尋ぬれども米屋もなく宿もなし。然る處此處に名主の隠居あり、彼の宅にて米無心言ひ玉へと云ふ者あり、因て其方へ行き米無心言ふて調へ、又一宿の宅など尋ねたる處此邊には善根宿一軒もなし、拙宅へ一宿し玉へと云ふ、是れは忝しとて直ちに宿す。朝暮振舞あり、中禰村増平と云ふ宅、一句前あり略す。
   汗臭き身を忘れたる舎り哉

親切な人がいて宿と食事にありつきました。

廿五日 晴天。中禰村立、辰の刻。下小杉村と云ふへ托鉢の處草鞋法施の家あり、休息し、折よしと一宿を無心す。即時出來朝暮振舞に逢ふ、平八と云ふ宅。予が托鉢無精とて平四郎甚だ不機嫌也。
廿六日 晴天。下小杉村立、辰の刻。平八郎は頭痛するとて薬を調へ服す。昨日精出して取り貰ひたる托鉢米よりは藥代に多く取られたり。ハブチ新田と云ふ村より大井川へかゝる。渡り瀬知れざる故に一軒家に尋ね立ち寄りたる處、主人仁者にて、道六丁計り行き大井川の瀬三つありとて、渡り様教えられたり。深き處尺五六寸あり皆浅瀬也。川廣さ十町位、下は直ぐに波打際也。…

草鞋をタダでくれる、という家があって、そこで休息して、この辺、泊めてくれる家が少ない様なので、一宿を申し込んでみたらすぐOKしてくれた。ところがそれが平四郎には気に入らない。泉光院は托鉢に精を出さずに直ぐに泊まることを考える。俺はもっと托鉢で稼ぎたいのに、というのが本音。それで欲求不満が昂じてふて腐ったり逆らったりする。そして泉光院と仲違いをする。
だがこの時、平四郎が「頭痛がする」といって薬を買って飲んだ。昨日托鉢で稼いだよりももっと沢山薬代に取られてしまった。そして実はこれが平四郎大病の前兆なんです。次の日から一ヶ月半ほども平四郎は動けなくなるのです。
大井川河口
左は大井川河口付近。
渡る場所を教えて貰おうと思って立ち寄った家の主人は「仁者」であって、わざわざ河口まで来て教えてくれた。この海際のところを渡ればいいよ、と。そこだと深い所でも40~50cm。膝下くらいです。なぁにわざわざお金を払って肩車や輦台に乗って渡る事はありません。
右の絵の様に、女の人やお殿様の駕籠のような場合ならやむを得ません。高いお金を払って川越人足を雇わなくちゃならないでしょう。大井川川越図部分広重
この水位だと、前の方に書いておいた様に、人足一人の料金がこの場合最高の、脇通し94文で、輦台を担いでいる人足が6人だから564文、これに輦台の借用料が人足二人分だから、全部合計で752文になる。大した出費です。
余分なことだが、参勤交代で大名行列が渡る場合の費用を考えると、さぞ高いものについたでしょうね。
加賀の殿様の一回の参勤交代の費用が、今の貨幣価値で考えた場合、7億円くらいはかかったと言います。これを一年交替で江戸と國元を往復するのだから、藩財政が逼迫するのも無理はない。大井川河口付近地図

泉光院たちは川下の誰も居ないところをジャブジャブと渡って無事「越すに越されぬ大井川」を渡った。
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